第6章 ノーノー・ボーイ

 本田佑子の話を聞いていた山崎先生は、木村さんのほうを向いて思い切ったように言う。

「リチャードの家族は最初、マンザナー収容所に入れられたそうです。」

「お父さんとお母さん、リチャードさんと、それに?」

「お姉さんがいたそうです。」

「全部で四人ね。」

「そうです。南カリフォルニアから送られたのだそうです。」

 木村さんは収容所に送られた家族の背景を、もう少し詳しく知りたいというふうに尋ねる。

「そのとき、お父さん、何してたの?」

「お父さんもお母さんも農場で働いていたようです。南カリフォルニアといえばオレンジとかグレープフルーツとかが作られていたのではないでしょうか。その大農場で働いていたと思います。」

「なるほど。自分の土地ではなかった。」

「単なる労働者で、農場の片隅にたくさんあった小屋に住んでいたのではないかと思います。他にも何人かの日系人が同じように働いていたようです。」

 木村さんは『そうか、なるほど』という表情をする。そういうことはおおいにありうることだった。

「日本との戦争が始まって収容されたとき、リチャードのお父さんはもうじき二十六歳だったようです。」

 そして、一家は多くの日系人のように、最初はマンザナーに送られたようである。

「お父さんは二世でお兄さんがいたと言います。そのとき、きょうだいの父親はもう亡くなっていて、母親がいましたが、きょうだいの家族とともにマンザナーに入れられました。」

 木村さんも佑子も黙って聞いている。

「お父さんはあまり勉強が好きでなく、こちらの義務教育もきちんと受けていないと思います。伯父さんも同じだったようです。だから英語もきちんとしていないという感じです。」

 そう言いながら二人を思い出したのか、山崎先生はちょっと居心地の悪そうな表情をする。

「リチャードは収容所に入れられてから英語が出来るようになりました。子どものときは日本語も出来たはずですが、どういうわけか使わなかったらしく、あまり話せなくなりました。難しくなければ聞くのはなんとかなるようですが。」

 リチャードが三世で祖父母がアメリカに渡航し、両親は英語が苦手だったけれど逆に本人があまり日本語を話せないということは、日本を訪問したときの様子で話したとおりである。

「マンザナー収容所に入って、みんなは『忠誠質問』を受けたのだそうです。日系人収容に関する質問は四十八あったと言います。」

「忠誠質問――初めて聞くね。」

 木村さんは短く言う。佑子もそういう話を聞いたことがなかった。

「そうねえ、日本ではそういったことを普通、あまり話しませんからね。」

 山崎先生はそう言った後、座った机の右の引き出しを引いて、下のほうから引っぱり出してきた一枚の紙を見る。

「質問は四十八あったそうですが、次の二問がとくに問題にされたそうです。」

 そして、その二質問を訳して日本語で言う。それは次のようなものだった。

 問27.どこに行くよう命じられても喜んでアメリカ軍に仕えるか?

 問28.アメリカに忠誠を誓い、日本の天皇への忠誠を否定するか?

「リチャ―ドのお父さんはこの質問にどう答えれば良いのか分からなかったようです。伯父さんも同じということでした。あまり学校へも行ってないわけで、何のために何を質問されているか、あまりよく分からなかったようです。これはリチャードから聞いたのですが――。少なくともここの二番目の質問にはお父さんたちは二世ですし、日本に戻ったこともないので、日本の天皇に忠誠は誓えないはずです。しかし収容所に入れられたこともあり気持ちは揺らいだと言います。結局、お父さんたちはこの質問にノー、ノーと答えたというのです。」

 アメリカ生まれだったけれどあまり余裕なく育ち、生きて行くことに精一杯だったこのきょうだいは、よく分からずにそう答えたのに違いない。周囲の人たちと同じ回答を選んだのである。

「お父さんたちだけでなく、その奥さんたちも同じように答えたようです。」

 みんな合衆国生まれで市民権を持っていたはずだが、家族がバラバラにならないよう答えたのかも知れない。というわけで、二家族は四二年の暮にはそろってマンザナーからトゥルレイク収容所に移されたという。

「マンザナー収容所にいたとき、彼らは陰で『ノーノーズ』、『不忠誠組』と呼ばれるようになったと言います。」

 不忠誠組は一万二千人くらいもいて、彼らはみんなトゥルレイク収容所に送られたという。西海岸の日系人で強制移住させられたのは誰も例外はなく全員で約十二万人いた。だから一割くらいは不忠誠組だったわけである。

「そうかあ、リチャードさんのお父さんは反発して、アメリカ軍に入らなかったのね。」

「そのかわりに刑務所に行ったようです。」

「えっ、刑務所?」

「収容所には刑務所も併設されていたのです。」

 トゥルレイク収容所に刑務所があったとは佑子も知らなかった。そういうことは佑子が受講した合衆国史の授業でも出て来なかったのである。

 戦争当時、二年ほど刑務所に入れられた者も多かったが、裁判所決定では徴兵は「自由なアメリカ人のみに与えられる権利と義務」であり、監禁状態に置かれた収容所の徴兵忌避者は徴兵忌避では不起訴となったという。だが、法的にどう扱われていたのか、理解していた者は少なかったという。


 山崎先生は立ち上がり背伸びしながら、本棚の上のほうから一冊の本を取った。

「トゥルレイク収容所に送られ、刑務所に入れられた人について書かれた小説があります。ジョン・オカダが書いた『ノーノー・ボーイ』です。――え〜と、五七年に出版されました。忠誠質問の例の設問でノー、ノーと答え、刑務所に入れられた若者イチロウが戦後に故郷のシアトルに戻るところから始まる物語です。」

「著者のジョン・オカダもその、ノーノー・ボーイだったの?」

 木村さんがもっともな質問をする。山崎先生はゆっくり座りながら、その言葉に答える。

「いや、アメリカ陸軍に志願して入隊し、太平洋戦線に送られたらしいです。ときにはアメリカ軍機に乗って、日本軍同士の日本語でのやり取りを聞き取ることをやっていました。それは序章のところに書いてあります。もっとも、それが自分のこととは言ってないのですが。ノーノー・ボーイであるイチロウ、つまり、物語の主人公が出て来るのは第1章からです。」

 上野さん夫妻の次男・次郎もジョン・オカダと同じような立場でアメリカ軍のため働いたのだろうか。ジョン・オカダと違って大学を卒業していたが、そのことが有利になったのだろうか。

「ジョン・オカダ自身もワシントン州シアトル市出身で、戦後、地元のワシントン大学を卒業して、ニューヨーク市のコロンビア大学大学院に行ったそうです。だけど、七一年二月に心臓発作で亡くなりました。」

 死んでまだ数年である。その本は一般にどう受けとめられたのだろうか。

「この本も五七年に出版されたのですが、ほとんど売れなかったのではないでしょうか。」

 しかし著者ジョン・オカダの死後、七六年にその本は再出版され、日系人の書いた小説として見直されることになった。第二次世界大戦、つまり太平洋戦争を経験した日系人の書いた最初の小説だという。内容は戦争後の出来事についてだが、これが出版されたころ、日系人が書いた英語の小説はなかったという。

「第1章の初め、イチロウはシアトルに戻ります。刑務所で約二年間すごし、戦後に故郷に帰ってきたのです。シアトルには父、母、そして弟がいました。弟の名前はタロウというのですが、日本の読者には兄がイチロウはいいとして、弟がタロウというのがちょっとおかしいというか。ジョン・オカダは気にしていないようだけど。」

「次男がタロウというのは、日本ではあまり多くないね。」

「タロウは高校生ですが、十八歳になったら高校を中退して軍隊に入ろうと考えています。お兄さんや家族に反発しているのです。まあ、それはだんだん分かってきます。」

 シアトルに戻ったイチロウが最初に出会うのはエトウ・ミナトという名前の、旧知の日系の若者である。エトウは短い間だったけれど軍隊を体験していて、会ったとき軍の作業服を着ていた。もちろん、そのとき彼は軍隊で働いていたのではなく、民間で中途半端な仕事をしていたらしい。

「イチロウは二年ほど刑務所に入れられたこと、兵役拒否のノーノー・ボーイがその理由だったことを、エトウに隠せません。結局、ののしられ、つばを吐きかけられるのです。」

「兵役拒否のノーノー・ボーイはそういう立場だったのねえ。」

「いや、そうとも限らないのです。エトウは兵役拒否に厳しい目を向けますが、イチロウはそうでない人にも出会っています。」

 そう言って山崎先生は初めのほうの何ページかを開き、話した内容を確かめているように見ている。

「そしてエトウと別れた後、イチロウは父親、母親の住んでいる家に行きます。それは戦前にオザキ夫妻がやっていた食料品を扱う小さな店です。」

 両親は英語をほとんどしゃべることができない。ところがイチロウはその反対にあまり日本語が使えない。

 そしてイチロウが家に帰ったとき、母親はいない。十三ブロック半も離れた工場まで売り物のパンを取りに行き、バス代を節約しようと歩いて往復しているのである。やがて母親は帰ってくる。

「大学へ戻るようにと母親は言いますが、イチロウはあまりその気がありません。母親は日本に戻ったとき学歴が役立つと言いますが、イチロウは日本に行く気もありません。ところが母親は日本に帰るつもりだったのです。」

「日本へ戻るつもり?」

「そうです。アメリカに居つく考えはなかったのです。――『勝ち組』『負け組』というのを知っていますか?」

「どこかでそういうのを聞いたことが――ああ、ブラジルよね。」

「そうです。第二次世界大戦での日本の勝ち負けをめぐって、ブラジルで勝ち組・負け組という流血騒ぎがあったと言います。それで、母親はその勝ち組の人の手紙を見ていて、日本が第二次大戦つまり太平洋戦争に勝ったと信じているのです。そういう母親をイチロウはまったく受け入れられません。」

 母親は店に出ていくが、イチロウは店の裏の部屋で寝入ってしまう。そこに現れたのがタロウで、兵役を拒否した兄と違い、自分は軍隊に入ると言う。父親や母親の言うことをほとんど聞かない高校生として描かれている。そして、タロウは夕飯を食べると外出してしまうのである。

「店を閉めた後に母親はクマサカさんとアシダさんを訪問すると言います。日本にいたころ、同じ村に住んでいた人たちです。イチロウは断りきれずについて行きます。」

 アシダさんのご主人は仕事でいなかったが、奥さんと娘たちは家にいて、イチロウの母親の『日本が勝った』という話を信じたようである。

 次に、イチロウたちはクマサカさんのところに行くが、イチロウの友人である息子ボブは死んでいた。イチロウはノーノー・ボーイだが、ボブはヨーロッパ戦線に送り込まれていたのである。クマサカ夫妻は戦場に出たボブが死んだため、結局、このままアメリカに居続けるに違いない。

 イチロウは家に帰るが、父親は安物のウイスキーを飲んでいて、勝ち組である母親と同じ意見ではないという。そこで第1章は終わる。

「夫婦、兄弟で、考え方が違うのですね。」

 佑子はため息をつくように言う。木村さんも眉をひそめて、なんともやりきれないという表情をする。

「第2章ですが、その晩よく眠れなかったイチロウは翌朝、起き出してきます。裁判長に『ノー、ノー』と言い、そのせいで軍隊、国家、世界、そして自分自身に背を向けた事実を噛みしめます。」

 そして朝食をとるが、母親が昨日の話の続きを始める。クマサカさん夫妻の息子ボブが戦死したことを母親は知っていた。そしてボブやクマサカさん夫妻は日本精神を失ったという。勝ち組という意識が少しも変わっていないのである。

 そんなことを言ってクマサカさんを責める母親をイチロウは許せない。否定的な感情を爆発させてしまうが、そばにいた父親はそのせいで安いウイスキーを朝から飲む。そしてイチロウに幼なじみのフレディに会いに行くように薦める。

「フレディは五週間前に出所したばかり。イチロウと同じで、トゥルレイク収容所に入れられていたらしいんです。でも筆者のジョン・オカダはトゥルレイクを一度、名前を呼びますが、アイダホ州にあった収容所は一度も名前が出ないんです。ほかの収容所も名前が出てきません。どうしてですかねえ。」

「分からないけど、ジョン・オカダは収容所のことをあまり書きたくなかったのかも。」

「そうね。そういう可能性もあるかな。」

 フレディの様子を見て、会って話はするがイチロウは、他は何もしないでフレディのアパートを去ったというのが第2章である。

 イチロウはその後、次の章で自分が学生だった大学に行く。お世話になった工学部のブラウン助教授の研究室に行き、『真剣にとらえている。適応するのに少し時間がかかると思うけど――』など、復学したいと読者の思いもよらないことを言うのである。その後、研究室を去り大学を後にする。

 そして近くの食堂で昼食を食べているとき旧知のケンジに会う。ノーノー・ボーイであるイチロウを軽蔑するようなことをケンジは言わない。

 ケンジはヨーロッパ戦線に行って右足を失い、シルバースター勲章をもらっていた。オールズモービルの新車を買い、左足のみで運転できるように改造している。杖をついているが、切断した右足が痛み始めている。何度か再手術を受けているが、また受けなければならないようである。

 ケンジのように勲章をもらうほど戦場で活躍したが片足のないのと、イチロウのようにノーノー・ボーイで両足があるのとは、どちらが良いのか?

 ケンジに送ってもらいイチロウは両親の家に帰る。母親はひとりで店を守っている。イチロウが家に着いたとき買い物客がいたが、母親はイチロウに鋭い視線を向ける。裏の部屋ではタロウがトランプで一人遊びをやっている。

「ちょうどこのとき、タロウは十八才になりました――誕生日でした。そして、もう高校には戻らない、軍隊に行くと決めています。卒業まで待つように父親が言ってもだめでした。」

「イチロウが兵役につくのを拒否したので、タロウは軍隊に行こうとしたのかなあ。」

「書かれていないのでタロウの考えはよく分かりません。イチロウがノーノー・ボーイだったからというのも、まあ〜、原因のひとつでしょうね。」

 そしてタロウが家を出て行くところで第3章は終わっている。


 その晩、ケンジとイチロウが中国系の闇カジノに行ったところから次の章が始まる。シアトルも中国系が数多く住んでいる。

 ケンジが少し勝ったところでやめて換金し、二人は酒場に行く。タロウは未成年だがそこで飲んでいる。そういう未成年たちを無視して、ケンジとイチロウの二人は飲みながら話している。

 そこへ白人の女の子を連れたブルが入ってくる。日系人ブルはイチロウがノーノー・ボーイであることに気づき、いろいろと言う。そのことで、イチロウはウイスキーをあおるように飲むのである。

 そんなイチロウにタロウは近寄ってきて、店を出るように言う。酒場の外で仲間といっしょに襲うため、呼びにきたのである。

「タロウはなぜそれほどまでに兄イチロウのノーノー・ボーイが気にくわないのかねえ。」

「そうね。でも、一部の日系人の間でノーノー・ボーイがどう思われていたか良く分かるよね。結局ケンジが現れ、イチロウは助けられるのです。悪い仲間がナイフを出すのですが、軍隊にいたケンジにはかなわないのです。格好だけは一人前だけど、連中はたいしたこと、ないのです。」

 そして、ケンジとイチロウの二人は車で郊外に出て、エミの家にいく。エミの父親は日本に戻り、日系人の夫は軍隊から戻らないという。

 イチロウはそこにあったピアノを弾くが、刑務所で習ったと言う。そこでエミに、自分が兵役を拒否したことをあかす。ケンジと同じで、エミもべつにそのことに否定的なことは言ったりしない。

 そしてイチロウはエミのベッドに行くことになる。そこでエミの母親はずっと前に亡くなったことを知る。父親はイチロウの母親と同じで日本が勝ったと信じ、そのせいで日本に戻った一人だったのである。ケンジやエミがノーノー・ボーイであるイチロウに冷たくしないのにはそういう理由があった。

 翌朝イチロウが起きたときエミは庭の植木に水をやっていたが、さらに衝撃的なことを話す。

「エミの夫ラルフのずっと年上の兄、マイクは第一次世界大戦のとき、ヨーロッパ戦線で活躍した過去があったのです。ところが太平洋戦争のとき、マイクも他の日系人といっしょに収容所に入れられます。それは輝かしい軍歴に合衆国が少しも敬意を払っていないということを表しています。」

「第一次大戦のヨーロッパ戦線で戦ったベテラン(退役した老兵)も収容所に入れられたの? そういえば、西海岸の日系人の収容所行きには例外がないと言ったよね。」

「そうです。怒ったマイクはトゥルレイク収容所に入れられ、最後には行ったこともない日本に戦後送られることになったのです。」

「日系人収容にはそういう問題もあるのねえ。」

「ラルフが家に戻ってこないのも、兄マイクのことがあったのかもしれません。」

 ケンジは膝から下を失った脚の具合が良くない。イチロウはオレゴン州ポートランド市のべテランズ・ホスピタル(復員軍人援護局病院)にケンジといっしょに行く約束をする。朝食を食べて二人がシアトルに戻るのが第4章の終わりである。

 イチロウが両親のところに戻ったところから第5章が始まる。母親は以前と変わらず、ヨーロッパ戦線で脚を失ったケンジとつきあうべきではないという。父親はイチロウが夜に帰らなかったのは遊んでいたのだと勝手に考え喜んでいる。

 そして母親の妹から手紙が来る。例によって合衆国にいるきょうだいに戦後の苦しい生活をしている親戚を助けてほしいという手紙である。母親はそれを偽物だと言うが、その手紙には母親が小さいとき、水泳ぎで溺れかけたことが書いてある。

 そのとき、それを誰にも言わないということを約束していたが、妹がそう書いているので、母親は日本が負けたということに気づき始める。溺れかけたことを知っているのは本物の妹に違いないからである。

 ショックを受けた母親のかわりに店番を始め、いろいろ考えをめぐらし、やがてイチロウはポートランドで仕事を見つけることを決める。逃げているのではなく最初から始めるのだと考える。

 昼食の時刻になっても母親は動かない。父親が食事をとらせようとするが寝室から出て来ないのである。そこでこの章が終わる。

「次の第6章の前半はケンジが自分の家に帰るところから始まります。そこには父親がいますが、母親はすでに亡く、同じところに妹と弟も住んでいます。妹と弟はそれぞれ仕事を持っていますが、いちばん下の弟は大学に行ってて、同居してないようです。ほかにきょうだいは二人の姉が結婚していて別のところに住んでいます。」

「父親と母親は日本から来たんですね?」

「そうです。最初、二人は日本に帰るつもりでしたが、母親がなくなり、今では父親はこちらのほうが良くなって帰る気がなくなっているのです。」

 山崎先生は、それが「ほんとう」のことのように、お話の解説を続ける。

「父親は以前にはペンキ塗りと壁紙張りを仕事にしていましたが、大学に行っている弟もアルバイトをしているようなので、もうあまり働かなくてもいいようです。ケンジは父親にウイスキーを土産に持って行きます。そして自分の部屋に行って休みますが、父親はローストするチキンを近所のスーパー『セイフウェイ』に買いにいきます。やがて妹や弟が帰ってきて夕食になります。そして、二人の姉たちも夫や子どもといっしょに実家を訪ねて来ます。」

 その後、姉たちは自分の家に帰るが、結局ケンジは朝になるのを待つより夜中に自動車を運転したほうが良いと考えなおして、家族を残して早めに家を出る。

 最初はすぐにイチロウの家に行くつもりだったが、再び前の晩の店に行ってしまう。そこで見た経営者の、お客である黒人に対する否定的態度はケンジにいろいろと考えさせる。

 そしてイチロウの実家の食料品店に行く。母親は少しおかしくなっている。夜中であるが店にいてミルク缶を棚に並べ、それから全部を取っ払って棚を空にして、また缶を並べ直すということをやっている。

 ケンジが来たのでイチロウはスーツケースを持って出てくる。そして、母親が気になるというより、ケンジのほうがもっと心配だと言う。

「夜中に二人はシアトルから合衆国道を走って、となりのオレゴン州ポートランドに行きます。その途中、パトカーにスピード違反で検挙されます。警察官は十ドルで見逃してやると言いますが、ケンジは現金がないと言って断ります。警察官はそれで、スピードを時速八十マイル、酔っぱらい運転と書き、賄賂を渡そうとしたという内容の裁判所への出頭命令を渡すのですが、警察官がいなくなった後でケンジはその命令書を自動車の窓から捨ててしまうのです。」

「ひどい出頭命令ね――そういう話は日本ではあまり聞かないよね。」

「そうですね、ひどいですね。」

 同じように佑子も感じたようである。

「そしてケンジとイチロウはポートランドに入って朝食をとり、ケンジが病院に入るところで章が終わります。」


 そのとき、廊下の向こうでエレベーターが止まり、ドアが開く音が響いた。そして中から出てコッコッと革靴でゆっくり歩く音が近づいてくる。

「お茶をもっと飲みますか?」

 山崎先生は本の内容を解説して一生懸命だったのがちょっと「お休み」と言ったところである。

「いやあ、あまり喉が乾いていないって言うか――。」

 そう言って木村さんは佑子のほうを見た。とくに飲みたいというわけではない佑子も欲しいとは言わなかった。それでどうやら山崎先生も、もう一度お湯を沸かすのが面倒になったらしい。

 足音はドアの前を通り過ぎ、そのまま進んだが、向こうの端で回れ右をしてまたドアの前を戻っていく。その足音から振り向かなくても年かさの男だと分かった。

 足音はドアの向こうをゆっくりと通り過ぎて行ったが、山崎先生はその姿をちらっと見たようだった。そしてエレベーターを利用する音が響いて下のほうへ降りて行った。

 エレベーターが行ってしまって、木村さんは言う。

「だいたい半分くらいまでいったよね。それでどうなったの?」

 山崎先生の説明がうまいのか、それとも、もともとジョン・オカダの書いたものがおもしろいのか。

 第7章は、ポートランドでイチロウが泊まるところを見つけ、新聞で求人案内を見るところから始まる。

 求職に行った最初の仕事は、ホテルのポーター(客の荷物を運ぶ係)だったが「過去五年間の職業歴」という質問が申し込み用紙の二ページ目にあるのを見つけて面接会場から出てしまう。ノーノー・ボーイの経歴が良くないのは明らかだからである。

 次の面接では日系人に好意的なキャリック氏に製図の仕事を好条件で提供される。しかしイチロウはこの提案にためらう。ノーノー・ボーイだったと打ち明けるが、キャリック氏はそんなことはあまり気にしていないようである。

 それからイチロウはホテルに帰って寝る。そして起きてからキャリック氏に断りのはがきを書く。そして夕飯を食べにレストランに行くが食べるのはなんと朝食なのである。そして、となりのバーに行き、ビールをチェイサーにウイスキーを飲む。それからホテルに戻るのである。

「翌朝、泊まったところを引き払ってイチロウは病院に行きます。どこの病院も面会時刻は午後ですよね。でも時間がないので午前中からケンジに会います。ケンジはどうも具合が良くないようです。」

「どうかなあ、それで良くなるの?」

「どうもだめなようです。ケンジはイチロウにシアトルに戻るように言います。そして、これはジョン・オカダのメッセージなのかも知れませんが、まわりの皆が何も言わなくなるまでノーノー・ボーイのままでいるのがいい。何も言われなくなったら、どこへでも行きたいところへ行き、結婚したい人がいたら、すればいいと言います。そしてそれからケンジはドイツ兵を撃ち殺したことについて話します。もう人殺しはやりたくないと言うのです。最後にケンジの父親によろしく伝えて、ということで面会は終わります。」

 そしてイチロウは七時間の運転の後、シアトル近郊のエミの家まで行く。エミは夫ラルフ、ケンジ、そしてイチロウがそれぞれ違うふうに好きだと言う。

 イチロウはケンジがもうじき死ぬことをエミに知らせる。そしてキャリック氏に仕事を提供されたがそれを断ったことも。かわりにエミの農場で働くことを提案されるが、イチロウがそれも断って実家に帰るところで、この章が終わる。

 イチロウの父親が安いウイスキーを買うところから第8章は始まる。あわてていたせいで歩道の上で転ぶが、さいわい持ったウイスキー瓶は割れない。しかし肩と腰をひどく打ってしまう。そういうわけで、家に帰ってからウイスキーをあびるように飲むのである。

 母親はイチロウがポートランドに出かける前から食事をとっていない。出かけたときは店でミルク缶を棚に並べたり取っ払ったりしていたのだが、今度は寝室でスーツケースを引っぱり出す。そしてバスルームに行って鍵をかけ、バスタブにお湯をためるのである。

 父親は酔いながら昔のことを思い出す。そんな状況のとき店の外にはイチロウがいる。しかし店に帰る前に、イチロウはケンジの家に自動車を返しに行く。

 イチロウが収容所から戻った後で会うのは初めてだが、ケンジの父親はアイダホ州の日系人収容所にいたときとあまり変わっていない。イチロウは病院での様子を話すが、ケンジはその日の午後三時ごろ亡くなったという知らせがすでに父親のところにあったという。

 だからケンジの父親は翌日ポートランドに行き、葬儀の準備をする予定である。地元シアトルの日系人の埋められる墓地はいやだと本人が言ったという。ポートランドの軍人墓地に埋葬されるのである。

「なんか、ケンジの父親は淡々としているみたい――。」

「いや父親として涙を流すのですが、ケンジの弟や妹にはまだ知らせていないのです。その晩、以前からの予定どおり二人には映画を観に行かせたのですが、どう話したらよいのか悩んでるのです。」

 イチロウはケンジの父親に自動車で送ってもらって家に帰る。そこで鍵のかかったバスルームで母親が死んでいるのを見つける。父親は酔っぱらって店の中でひっくり返って寝ている。そこで第8章は終わる。

 数日して母親の葬儀が仏教会で営まれる。僧正の読経の後、日系人たちが故人のことを話し合う。それがあまり正確でない。つまり美辞麗句で故人がいかにすばらしい人だったかを述べあう。

 イチロウはそういうことに辟易(へきえき)とする。弟のタロウは姿を見せない。兵士になるための訓練を受けているらしい。

 その後、葬儀社でも短い法要があり火葬にふされる予定で自動車に乗って火葬場に向かっている。その後レストランで食事をすると聞いてイチロウは逃げ出す。

 たまたま後ろにいたフレディの車に乗り込むが、フレディはエトウと悶着を起こしていて、乗り移って来たイチロウをもう少しで、パイプレンチで殴るところだった。

 その前の晩、フレディが飲んでいるところにエトウがからんできた。いろいろあって、結局、エトウの尻をナイフで刺してしまったという。中国人の支配人がいちおう仲直りさせたが、その後フレディは街を歩いていて自動車にひかれそうになった。だから神経質になっている。

 それから二人はドライブイン・レストランに入ってハンバーガーとコーヒーを注文する。イチロウはあまり空腹ではない。

 そこを出て家に帰る途中、イチロウはどこかに仕事がないか尋ねる。フレディは仕事を探したときのことを話す。キリスト教関係の仕事を紹介する場所があるが、あまり良い仕事はないらしい。

 そしてイチロウは家に帰って母親のこれまでを振り返る。日本へ戻るつもりで息子たちに合衆国の「悪い」習慣をつけないようにしていた。だからレコードなんか許さなかったし、プレイヤーを粉々にしてしまったこともある。

 そんなことを思い出しているときエミが現れる。母親の葬式のことが日系新聞に出ていた。ケンジの死のことも知っていたし、夫ラルフが離婚を求めているという。そういうわけでエミは寂しい。だからダンスがしたい。

「そうは言うものの、エミは葬式の晩にダンスが出来ると思っていません。だけどイチロウはダンスがしたければすればいいと思います。車で出ますが街の中心では知っている人がいる可能性があるので南のほうに行きます。」

「アメリカでは愛する二人のためにダンスがあるんだねえ。」

「そうね、そういうことがあるかも。」

「でも、これは三十年も前のことか――。」

 結局、午前三時ごろまでイチロウは家に帰らない。家に戻ったとき父親は日本に送る荷物をまとめている。母親が亡くなり、やっと自分のしたいように出来る――父親はそう言いたそうにしている。

 イチロウは明日、仕事を探しに行くと言う。そこで第9章が終わる。


 次の章はイチロウが仕事を求めてキリスト教関係のところを尋ねる場面から始まる。シアトルはまだ冬が終わらず、霧雨にけむるようだ。仕事を探してモリソンさんという人に会うが、戦前の日本にも行ったことがある人だった。

 モリソンさんは、イチロウが徴兵に応じなかったことについては、そこで働いているゲリーと同じで、助けることはできないという。しかし仕事を探しているなら週三十五ドルで雇ってもよいという。

「モリソンさんは歳をとっているの?」

「まだ三十歳を過ぎたばかりに見えたそうです。日本にいたのは子どものころだったのかも知れません。」

 そしてイチロウはゲリーと会う。ゲリーは脚立の上でおおきな緑色の貨物トラックに会社名を書き込んでいる。

 最初の対応は冷たいが書いた文字に満足すると、態度を変えて反応が良くなる。そしてゲリーと話しこむが、結局、イチロウはそこの仕事にはつかないと言う。

 それで、ゲリーは最初、製錬所で働いていたそうだが、どうしてペンキ屋のようなことをしているかとイチロウは尋ねる。製錬所で勤め始めて徴兵拒否のことで無視された。仕事が欲しいからそのままでいたが、助けてくれていた黒人の同僚がそのせいで自動車事故にあう。結局、ゲリーは製錬所をやめ、そこでペンキ屋をやっている。そして自分の時間にはアーティストとして筆を持つという。

 雨が本降りになった中をバスに乗ってイチロウは帰る。そしてアイダホ州でトミーなどとともに、てんさい(砂糖大根)を収穫する仕事をして働いていたときのことを思い出す。

 トミーはクリスチャンで日曜日には教会に行く。教会の中には日系人を追い出すものがあったし歓迎しているようなものもあった。しかし日系人を歓迎しているような教会でも黒人は無視される。それを軽視するようなトミーの偽善的な態度がイチロウはとても許せなかった。

「その、てんさいの体験は収容所に入れられる前?」

「どうも日系人収容所に入れられた後のようです。アイダホ州の収容所から出され、てんさいを収穫したときのことらしい。とにかく雨が降ったらその後は晴れる。イチロウがそんな気持ちになって、第10章は終わります。」

 そして最終の章である。フレディから電話が来る。あまり気が進まないがイチロウは呼び出され、近くの靴磨きの店まで行くことになる。

 フレディは黒人の靴磨きに女の世話をしろと言うのだが、配下の女たちは忙しく、今日はだめだと言われてしまう。

 仕方がないので玉突きの店にいく。店主は日系人だがあまり英語ができない。店のいちばん前にある台でなく奥の古い台を使うように言われる。

 フレディが最初のキューを突くが玉がひとつも落ちない。それで怒って玉突きの棒で台を叩くのである。もちろん店主は激怒しイチロウたちは走って逃げる。フレディは狂っていると、イチロウはそのとき判断せざるを得ない。そして行くところがなく、結局、前に行った酒場に行くことになる。

「狂っているって、フレディはどうしたの?」

「フレディはノーノー・ボーイから立ち直れないのです。そういう人間として、ジョン・オカダは描いています。」

 行くところがなくバーに座って飲もうとすると、フレディがブルに捕まる。そして体格のいいブルに店の外につまみ出される。イチロウはやめさせようとしてブルを殴ってしまう。喧嘩をやめさせようとする人たちに止められるが、そこにフレディがブルに蹴りを入れてくる。

 そして逃げるが自動車のエンジンがかからない。ブルがドアを開けて捕まえようとするとき、フレディはパイプレンチで殴るのである。エンジンがかかり発車するが、フレディの車はひっくり返り反対側のビルディングに激突してしまう。気がつかなかったが、そこに走ってきたほかの自動車とぶつかっていたのである。

「そうすると、フレディはもう助からないね?」

「そうね。イチロウは事故現場も見ないでその場を立ち去ります。そして、それまでのことを振り返ります。「一縷(いちる)の望み」という表現でこれから良くなるであろうことを暗示し、物語は終わります。」

「う〜ん、難しい終わり方だけど、ハッピー・エンドというわけには行かないしね。」

 木村さんも佑子も同感といった表情をしている。ノーノー・ボーイが主題では結末が幸せというわけにはいかない。

 ジョン・オカダは物語を口語で書いている――シアトルで使われていた英語である。日系人が使ったブロークン・イングリッシュというわけでなく、ちゃんとした英語だが、表現というか用語だけは日系人移民の使っていたものだ。これも時代とともに変わっていったのだろう。


 山崎先生が腕時計を見たので、つられて佑子も自分の腕時計に目をやった。三時五十分をまわっている。

「あら、もうこんな時刻? もう少しでここを出なければならないけど。」

 そこで木村さんは思い出したようにそして確かめるように訊く。

「ところで、明日・明後日の予定だけど――。」

「明日の午前中、ロサンゼルスに行かなくてはならないの。向こうで一泊して帰ってくるのは明後日の午後だけど遅くなると思うわ。申し訳ないけど。」

「そういう予定だと手紙に書いてあったけど、変更がないのね。」

 木村さんは確かめるように言う。それに対して山崎先生は言い訳するように小声でつぶやく。

「何とかしようと思ってたけど、今日でなく明日行くというのがやっとで――。明日・明後日はジョージの面倒をリチャードが見るってことになってます。」

「分かりました。明日・明後日は私のほうで何とかします。」

「申し訳ないけどお願いします。」

 そこで木村さんはちょっとためらった後で、佑子のほうを見ながら言う。

「本田さん、明日の夕方、時間ある?」

「私? 私だったら、う〜ん、べつに用事はないです。」

「じゃあ、明日の午後六時にダウンタウンの私のホテルに来ない?

 ウェスタン・ホテルだけど。」

 山崎先生は佑子を見て、少し心配になったか、言い添える。

「ウェスタンはHストリートの十一番街と十二番街の間です。Hストリートは向こうからの一方通行ね。」

 佑子はつられて答えるように言う。

「ええ大丈夫です。Hの十一と覚えることにします。六時にウェスタンですね。」

 そこで、山崎先生は立ち上がって帰る準備を始めたので佑子も立った。そして木村さんのほうを見て言った。

「それではまた、明日の夕方。」


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