第5章 カリフォルニア州立大学サクラメント校
次の日、火曜日のお昼ちょっと前に、本田佑子はカントリークラブ=プラザに行った。ほぼ南北に走るワット・アベニューが東西に伸びるエルカミノ・アベニューに直角に交差しているところで、サクラメントの州立大学からは東に向かい、アメリカン川を渡ってしばらく行ったところにあるショッピングモールである。そこは佑子がいま住んでいるところから近い。
一年前、州立大学に転校することになったとき、最初はジョーンズ家から通おうかと思ったが、すぐに学校近くに引っ越すことになった。ジョーンズさんの知っている人がいるということが分かったからである。その友人の知り合いの人と言うから、ジョーンズさん夫妻からすれば、よく知らない人だったのかも知れない。
とにかく、アパート二階の部屋が空いていて、その一階に住んでいる管理人からの紹介で、アパートに入ることになった。アパート代は前払いで一カ月分を支払えばよい――それで入居できたのである。運が良いと言えば、ちょっと幸運である。
管理人はもう六十くらいで、実はそのアパートの持ち主だった。夫婦でそこに住んでいたが、ときどき孫が来ていて、その世話をしている。ところがその孫の親が父親なのか母親なのか、佑子は知らなかった。どうも親が離婚したらしい。そして片親になった子どもは二〜三歳で、その管理人夫婦のもとに預けに来ていたらしい。
とにかく、普通のアメリカ人なら孫が来ているというのはあまり聞かない――妻のほうがメキシコ系なのかも知れなかった。そこの二階の、日本で言うなら1DKの、アパートに住むことになった。
二階建てだが、普通のアパートと違い、管理人が一階に住んでいたので、佑子の部屋まで上がってくる者はいなかった。州立大学があるところはまだサクラメント市の旧市街だったが、そこから東に行ったところで、この辺は郊外の新興住宅地というのか、お金のない人はあまり住んでいないようである。
今日は、そこのショッピングモールの自動車用品の店で「日よけ(シェイド)」を買う。日差しの強い日に、自動車の横の窓に張りつけて、暑い光線を遮るためのもので、サイズが大中小とあるくらいであまり種類は多くない。小型の車だから、いちばん小さいサイズの日よけを買うことになる。
日よけの値段は高くなかったが、支払いが終わると財布の中には大きいお金がほとんどなかった。小切手帳は持参していなかったし、だいいち買いたいものはあまりない。ショッピングモールでの買い物はとうぶん必要ないのである。
自動車用品の店を出て、買った物を駐車場に止めた車に置きに行く。戻って今度は近くの店でチーズ・サンドイッチとアイスティーを買い、近くにあるテーブルに座って食べた――昼食である。もちろん、この暑い日、座っていたのは冷房の効いた建物の内側の通路で、椅子とテーブルが並んでいるところである。
週日にはお昼は大学で食べるのが習慣になっている。ショッピングモールの売店で買って食べるのは久しぶりである。お客もそんなには多くなかったが、昼食時の時間帯で空いている席もあまり多くなかった。とりあえず時間を取って、ゆっくり食べる。
買い物は終わったし、昼食も終わった――これからの予定はとくに何もない。こういうときは大学に行くのが普通である。カントリークラブ=プラザだから、いま住んでいるのは北のほうだが、西に行けば州立大学がある。
いまは夏休みだから、図書館に行くのがひとつの選択肢である。もうひとつの可能性として山崎清子先生がいる――先生が大学にいればである。いなければ図書館に行くつもりで、とにかく大学に向かう。
山崎先生とは州立大学に移って、前年九月の学年初めに他の教授の授業を取ろうとして、教室を間違えてお目にかかった。すぐに分かったことだが、先生は日本語を教える助教授である。
佑子は日本語の授業を取ろうとしていたのではない。統計学入門を受講しようとしていたのだが、二つの授業が開かれたのは「ユーレカ館」の三階と四階だった。佑子がいた教室には三十人ほどが履修しようと待っていて、そこにはアジア系も十人以上いた。その半分以上が日系人だったのかもしれない。
そこに時刻どおりに教師が入ってきた。自分が取ろうとしていた統計学入門の講師がアジア系の女性と思っていなかったので驚く。最初の授業だから先生はシラバス(講義要項)を配り、そのタイトルを見て、佑子は教室を間違えたことに気づいた。
配布された資料に書かれていたのは「日本語入門」である。配りながら先生は『三十人は多い』とつぶやいたが、その言葉を後に佑子は教室から出て、階を間違えたことに気づいた。あわてて階段を使い、統計学入門の最初の授業に出て、ことなきを得た。
その授業が終わったとき、持っていた「日本語入門」のシラバスを見ると、教師名はヤマサキ・キヨコ、研究室は「マリポーザ館」で、オフィス・アワーは火曜日午後四時からとある。幸運なことにオフィス・アワーのある時間帯に佑子はとくに授業をとる予定にない。そういうわけで火曜日午後四時すぎにマリポーザ館を訪れたのが先生との関わりの始まりである。
日本からの留学生と知って先生は笑顔で佑子を迎えてくれ、教室の間違いをよくあることだと言った。そして以前、自分も日本からの留学生だったと打ち明ける。そして、まだ専門科目のアドバイザーがいないなら日本語でいつでも相談にのるからと言って、佑子を感激させたのである。
それからは月に二〜三度ほど山崎先生の研究室に行くことになった。たいがい用事はなかったが、二〜三十分は研究室で過ごすことになったのである。
先生はその前に授業があって何か気になることがあり、そのことについてメモする以外は、そんなにすることがなかった。また必要に応じて受講生の相談にものっていた。だから、先生のおしゃべりにつきあっていたというのが、その時間の実態と言ってもよかったのである。
アメリカの大学では正規の教育職として助教授、准教授、教授がいる。さまざまな分野で年限が違うのでいちがいには言えないが、新人教員を採用する手続きはおおざっぱに言って次のようになる。
まず、いろいろな条件をつけて公募するが、とくに担当する専門の授業科目や書類の締切が明示される。そして応募者から応募書類が郵送され提出されると委員会で審査し、その結果によって候補が四〜五人に絞られる。ただし他にどんな人が選ばれたのか、応募者は知らないのが普通である。これは日本でも同じだろう。
そして候補は個別に大学に呼ばれ、面接を受け模擬授業か講演を行う。全員が終わったところで誰をとるのがよいか委員会で議論して決定し採用する。つまり誰がそこの授業にむいているかが判断されるのである。
新任の助教授として教えるのは新学期の九月からだが、それから五年ほど経つと准教授昇格とテニュア(終身在職権)に関する審査が始まる。つまり助教授として教えた専門の授業やセミナー、執筆して専門誌に掲載された論文や出版した書籍、大学内での委員などの仕事、そして大学外での講演や役員などのさまざまな社会貢献を調べられ、准教授に昇格させ、テニュアを与えるかどうか、委員会で審査されるのである。
准教授昇格とテニュアの審査には今述べた四分野、つまり専門の授業、書いた論文や書籍、学内での仕事、学外での社会貢献が評価され、普通約一年かかるという。有名大学、例えばハーバードやスタンフォ―ドあるいはカリフォルニア大学では、この審査を通るのは難しい――ほとんどが不合格になる。逆に、普通の州立大学ではよほどのことがない限り認められるらしい。もちろん審査を通るには四分野のそれぞれでそれなりに貢献していることが必要である。
もし審査で不合格なら他大学に移らねばならない。そのため一年間の猶予があることも多いという。つまり一年間、授業を行いながら他大学に転職するためにその期間を使う。
また、審査に合格なら准教授に昇任してテニュアをもらう。その後は五〜六年で教授になるのが普通である。担当する授業に受講生がいなくなるなどの異変が起こらない限り、テニュアは保証され停年退職がない。だから終身在職権なのである。
終身在職権は日本にはない――「停年」という概念が存在するからである。ところが合衆国には停年の考え方がない。雇用者年齢差別禁止法(一九六七年)という法律ができ、(軍や警察を除き)ある年齢までで「引退する」という考え方がなくなったのである。
日本で停年がないなら「年寄り」が仕事を持ったままで人事が停滞するかしれないが、アメリカの普通の仕事では年齢がくれば適切にやめてしまう。そのくらい仕事に対する考え方が違うし、クビにしようと思えば日本よりも容易である。だから、停年という考え方がなくなってもあまり困らない。しかし、テニュアが与えられた大学の教授は逆に、簡単にクビにすることができないのである。
とにかく山崎先生は助教授だし、その仕事についてから五年たつから、もうじき准教授とテニュアの審査かもしれない。ただし、このころのカリフォルニア州立の大学では外国人にテニュアを与えなかったようである。山崎先生は国籍が日本だったが、結婚した相手はアメリカ人だから市民権を取るのはそんなに難しくないだろう。授業は学生の人気が高かったようだから、テニュアにはその点でも有利のようだ。
時刻は午後一時をまわっていた。州立大学の駐車場はまだ学生が戻ってきていないので空いている。暑さの盛りといったところだが、これから日影になる場所を探して佑子は車をとめた。日影ならばウィンドーの日よけを出さなくても大丈夫だからである。そして横の窓に張りつける日よけは買ったばかりで、駐車場で出すのはちょっと面倒なのである。
少し距離のあるマリポーザ館に行ってみると山崎先生の研究室はドアが開けはなれていて誰か来訪者がいる。サングラスをはずして部屋に近づく。
日本の大学の研究室は教授本人が部屋にいるときでもドアが閉まっていることが多いが、アメリカで在室のときは普通ドアが開けはなたれている。もちろん冷暖房が日本のように部屋単位なのか、それともアメリカみたいに建物全体なのかということも影響しているのだろう。
ともかくアメリカでは研究室のドアは開けはなたれていることが多い。他の先生たちがほとんど出ていないので多くのドアが閉まっているときでも、教授が在室している部屋のドアは外に開いているのが普通である。
それに合衆国の部屋のドアの開き方は日本と逆である。一般に、日本のドアは部屋の内側のほうに開き、アメリカでは外の通路側に開いている。どうしてか分からないが建物についての昔からのやり方なのだろう。
ドアが大きく開かれている。そして山崎先生と来訪者が話しているのを聞くと日本語である。そっと覗きこんで見ると先生がこちらを向いて、『あら、本田さん』と言う。
来訪者は山崎先生と同じ三十五歳くらいの女性で、振り返って佑子のほうを見る。それで佑子は少しあわてて説明しようとする。
「今日はとくに相談したいことがあるわけではないのですが、先生がいるかなと思って覗いてみました。」
「ああそうですか。今日、こちらの木村さんが来るというので、私もついさっき大学に出てきたところです。木村さん、こちらの大学に留学している本田さんです。」
「本田です。いつも山崎先生にはお世話になっています。」
あわててあいさつしたが口にした言葉がどことなくぎこちない。木村さんはかけていた椅子から立ち上がって、入り口に立った佑子に向かって言う。
「ああどうも、木村です。山崎さんがアメリカに来るまで大学が一緒でした。」
何だかこちらのあいさつも変と言えば変である。だが、その後で木村さんは佑子のことをじっと見る。州立大学に留学しているのはどんな学生か知りたいという感じである。
「本田さん、時間はあるんでしょう?」
「ええ、ちょっと大学へ出て来たところです。とくに用事は、別にないんです。」
山崎先生は研究室の片隅にあった折りたたみ椅子をひっぱり出してきて、佑子に座るようにすすめる。木村さんはもとの椅子にかける。二人が座って落ち着いたとき山崎先生は続けた。
「木村さんは日本のT女子大学の助教授で、社会学を教えているんだそうです。」
「私は文学部の卒業で清子と同じ年に入学して卒業し、学部が同じだったのです。清子は卒業した年の秋から留学したのですけど。」
二人はT大学を卒業している。木村さんはそこの大学院に残り、山崎先生はアメリカに来た。その後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の大学院で勉強して博士号の学位を取り、この州立大学での仕事を見つけたのである。
続いて、木村さんは顔を向けて佑子に質問してきた。
「専攻は何ですか?」
「まだ決めていないんですが、社会学になるかなあと思っています。」
木村さんは、自分と専攻が同じになるかしれないと関心を持ったようである。
「社会学でもいろいろとあると思うのですが、どんなところに興味を持っているの?」
「本田さんは二年生が終わったばっかりで、社会学のどんな分野が自分に向いているのか、まだ分からないと思いますよ。」
「そうです。まだ社会学概論と社会問題を取っただけです。」
「ああそうですね。まだ二年が終わったところではどんな分野があるか、よく分かりませんよね。」
そこで佑子は思い切って尋ねた。アメリカでは授業中に質問することが多いが、それに慣れて遠慮しなくなったのだろう。
「先生はどの分野が専門なのですか?」
「法律とか裁判とかですね。」
少しこんがらがったという感じが佑子にしたようだ。
「それは法学部ですか?」
「法学部で教えている社会学の人もいますね。だけど私は社会学が専門だし、いま所属しているのは文理学部だから。法律だとか弁護に関しての社会学というか、それが社会にどういう意味を持っているか、どういう役割を果たしているか、そんなところですかね。」
「ああ分かりました。法律や裁判の社会的な側面をみたり、社会や人間がどのように法律に接したりするか、ということですね。」
「まあ、そういうことですね。」
山崎先生がそこですかさず説明する。
「そういうわけで、木村さんはアメリカに裁判を見にきたというわけです。」
木村さんはそれを詳しく、佑子にも分かるように言う。
「日本で裁判というと被告人と裁判所の人だけの話ですよね。ところがアメリカには陪審制度があって、裁判にごく普通の一般の人が関わっているのです。そして刑事事件だけでなく民事事件についても陪審が決めています。」
陪審裁判というのは聞いたことがあるが、それまでそんなに関心はなかった。それに佑子は合衆国に来てまだ二年しかたっていないので裁判所に行ったことがない。
「日本にいるのではよく分からないですよね。それで自分の目で直接見に来たというわけ。」
佑子は黙ってうなずくしかなかった。まだあまりよく分からない分野である。
「今度の旅行で、東海岸ではニューヨーク州とマサチューセッツ州、中部のイリノイ州、そして西海岸ではワシントン州とカリフォルニア州。ここサクラメントが最後です。州によって裁判制度は少しずつ違います。陪審があるのは同じですが、州によって関係する法律が少しずつ違うようです。」
「サクラメントの裁判所に行くのですか?」
「明日ね、行く予定です。」
自分の予定なので自信を持っているように言う。前から行くことに決めていたようである。
「州の最高裁ですか?」
「いやあ、普通の刑事事件で陪審が選ばれるところを見ようと思って。アメリカで陪審裁判が行われるのは州の上級裁判所で、普通の第一審だけです。サクラメントは法廷がいくつもあって陪審選任は毎日のようにやっているようです。」
「ああ、なるほど。」
「それに、カリフォルニア州の最高裁判所はサンフランシスコにあります。」
山崎先生はやんわりそう言って、思い違いを指摘する。
「もっとも、サクラメントやロサンゼルスでも最高裁の法廷が定期的に開かれているそうですが。」
「ところであなたが来たとき、ちょうど日本を出る前にあった事件のことを話していました。あなたは日本の前の総理大臣が逮捕されたことを知っていますか?」
「え、知りません。そうですか?」
木村さんが説明する。
「アメリカの航空機製造会社が日本の航空会社に飛行機を売り込みたいというので、リベートを支払ったという疑いです。前の総理大臣が現職だったとき、それを受け取ったというのです。ただし、逮捕のとき使われた犯罪名は外国為替法違反ということです。」
そう言えば総理大臣が替わったのが一昨年の暮れのようである。佑子は一昨年の夏カリフォルニアに渡ってきたので、その後のことは分からない。
「今年二月にアメリカ上院の外交委員会で航空機売り込みの問題が出てきました。その件で先月、七月二七日に逮捕されたというわけです。」
それなら三週間、二十一日前である。
七十年代ころの日本とアメリカの間では、一般人にニュースが伝わるのが遅かった。日本の新聞もその当時はアメリカで発行されていなかった。インターネットなど、もちろん影も形もなかった。だけれども、サンフランシスコやロサンゼルスでは邦字紙が発行されていて、それなりのニュースはこれらの新聞社に入って来たようである。
そして週に一度、三十分くらいの日本語放送がケーブル・テレビで行われるようになったのはいつごろのことだったか? しかし、一般の留学生にそのような情報が入る方法はない。佑子のように何も知らないのが普通だったのである。
「私もそのことを知らなくて。さっき聞いたところです。」
山崎先生も日本のことはあまり知らないようである。佑子が着いたとき逮捕のことを話していたという。そういうことで木村さんは具体的に説明することになった。
ただ、その前にちょっと違ったことを言い出す。
「清子は大学にいたころもノンポリだったけど。私はどちらかと言えば学生運動に関心をもっていたし、政治にも興味がありました。六十年安保のとき、私たちは大学受験でしたけど。」
「ノンポリ」とはそのころの言葉で、政治的なことに関心を示さない学生を意味している。
六十年安保といえば幼稚園に行っていたころのことで、佑子の記憶にそのころの政治に関することはほとんどない。山崎先生はと言えば、大学時代のことを思い出すように言う。
「そのころの私は勉強ばかり。そんなわけで政治には関心が少しもありませんでした。今でもあまり興味が持てないんです。でもねえ、犯罪とか事件とかにからんだ話は別です。」
木村さんは以前のことを思い出したようである。
「そう言えば高校三年のとき、六月に国会議事堂でデモ隊のT大学の女子学生が亡くなりました。その後、私もデモに行こうかと思ったくらい。もっとも日米安保条約はその後すぐ自然成立してしまったのだけど。」
「宏美は東京でしょう? 私は信州松本で、田舎だったのよ。」
木村さんは宏美というらしい。山崎先生は自分の出身地を東京と比較して強調したかっただろう。
「まあ結局、清子も私もその次の年の春、T大学に現役で合格したというわけよね。」
「あのころからもう十六年も経ったのね。」
山崎先生はそう言ったのだけど、木村さんは経った年のことは関心がなかったようである。
そのとき山崎先生の右横で電気ポットのお湯が沸き始めた。ポットが蒸気でピーピー、音を立て始めたのである。
山崎先生はすぐに電源を引き抜いて音を止めると、右脇のキャビネットにあったマグ・カップを自分用とお客用の合計三つ取り出す。そして、黙って見ている二人のほうを向いて尋ねる。
「紅茶と緑茶があるんですが。もっとも、どっちもティー・バッグですけどね。」
「私は緑茶がいい。」
木村さんはすかさず言い、佑子もそれに続けて答える。
「じゃあ私も。」
「まあ紅茶の場合、砂糖はあるけど、レモンとかミルクとかが夏の間は置いてないんです。」
言い訳のようにそう言いながら山崎先生は緑茶のティー・バッグを箱のまま机の上に出し、ポットのお湯をマグ・カップのそれぞれに注ぐ。
木村さんは遠慮しないで箱の中のティー・バッグをひとつ取り出し、むいて自分のカップの中に入れる。山崎先生も包装をとって入れるので、佑子も少しあわてぎみに同じことをする。
緑茶といってもあまり匂いのない番茶のようなものがゆっくりと溶け出す。これなら少し入れすぎても渋くならない。もっとも山崎先生はその後、入れたティー・バッグのため小さなお皿を三人の真ん中に出してきた。
「で、前の総理大臣のことなんですが、え〜と七二年の七月に選ばれて就任したかな、それから二年半くらい総理大臣を勤めていました。」
「私は一九六五年の夏からアメリカに留学したのでよく知りませんよね。――ああ、そう言えば七三年の夏に日本へ帰ってますね。」
山崎先生はそのころのことを思い出す。木村さんはすかさず、ぴしゃりと言う。
「結婚して、そのことを知らせるため、日本に行った。」
「そう、ロサンゼルスで知り合ったリチャード・モリと結婚し、それで日本へ行きました。新婚旅行ですよね。」
「リチャードさんは日系だけど、大柄でスポーツマンといったタイプね。」
木村さんはそう言ったが佑子はその話は知らなかった。もっとも、山崎先生が結婚して男の子がいるという話は聞いている。そのことをべつに隠したりしなかったからである。
佑子は二人の顔を話にあわせてかわるがわる見ることになった。
「私はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の大学院に入って言語学で博士号を取り、しばらくしてこちらで教えることになったんです。リチャードは南カリフォルニア大学のビジネス・スクールを出ました。ロサンゼルス市で仕事をしていたのですが、私がサクラメント市に来ると、ほどなくこちらで仕事を見つけたのです。」
「そういうわけで七三年に結婚したんですね。その夏に日本に帰ってきて大学で親しかった人を呼んで東京でパーティを開きました。披露宴のようなものね。――教授たちも出ました。」
木村さんは三年前のことを話している。山崎先生は木村さんの言葉で自分たちのことを思い出したようである。
「松本市の実家では家族や親戚を呼んでお披露目をしました。リチャードはあまり日本語がしゃべれないので少し困りましたが。」
「彼も日本のことをいろいろ知って、きっと勉強になったのでは?」
「そうね、三世だということだから。父親のほうのおじいさん、おばあさんの出身地は愛媛県だと言っていたけれど、あまり時間がなくて四国には行っていないんです。」
というわけで、ロサンゼルスで仏教式の結婚式を挙げたが、二度目の披露宴を日本で開いたことになる。
「東京と松本で滞日期間が十日間ばかりでしたよね。」
「それが七三年、さきおととし。三年前の夏ね。」
「私はもう今の大学で教えていて、東京でのパーティの幹事役を勤めました。」
「そう言えば、宏美にまだそのときのお礼を言ってなかった。――その節はお世話になりまして。」
「どういたしまして。」
山崎先生はにっこりして、木村さんはおどけたように言う。それから木村さんは思い出したように尋ねる。
「ところでリチャードさんは?」
「リチャードは仕事です。今日は六時にダウンタウンのレストランで待ち合わせの予定です。」
「じゃあ、今夜の食事は自宅ではなかったんですね。」
かつての日本では、子どもがいる・いないに関わらず、お客を自宅で接待したが、合衆国ではそういうことはない。アメリカでは子どもは成人になるまでお客の前に出ることはないのである。もちろん、付き合いが家族単位で子どもを知っている場合は別だが。だから、基本的に小さな子どもがいる家庭で接待することはない。いきおいレストランに行くことになる。
「私は料理があまり得意でないので、日本料理で有名なレストランに行きます。」
「ニューヨークでは中華、ボストンではロブスター、シカゴではバーベキューのスペアリブ、シアトルでは魚料理を食べました。そしてサクラメントではついに日本料理ですか。期待が高まってます。」
「四時過ぎにここを出て、いったん自宅に寄ってジョージの様子を見てからダウンタウンに向かいます。」
今日、息子ジョージは自宅にいてシッター(子守り)を午後ずっとお願いしてあったらしい。
時刻から言って、息子の夕飯の準備をして、その後でレストランに行く。ということは、今日のシッターがいるのは休みを入れてたぶん九時ころまでらしい。
「あ、本田さん、今夜の食事は無しね。また今度お誘いするわ。」
「ああ、分かってます。」
リチャードさんに会ったことはないから、山崎先生にレストランに誘われても佑子は困ってしまうだろう。もっとも木村さんと三人だけだったら、もしかしたら行ったかもしれない。でも値段が高いレストランならどうか。合衆国に二年間いるが、佑子はまだ日本食の高級レストランに行ったことがないのである。
それから、山崎先生はリチャード・モリと結婚したのに、苗字が変わっていない。けれども結婚して名前が変わるのは日本人くらいである。たいていの国では結婚しても自動的に苗字が変わることはないようだ。大学の先生などは名前が変わると学生が迷う。だから変更することは少ないのではないか。
木村さんはお茶を飲みながら山崎先生と佑子の話を聞いていた。山崎先生がティー・バッグをカップから取り出したのを見て、同様に自分のバッグを取り出しながら言う。
「こちらの話ばかりで日本の話が続きませんね。えぇっと、前の総理大臣の逮捕の話はしましたっけ?」
「そうですね、三週間前に逮捕されたという話を聞きました。」
「そうなんですよね。容疑が外為法違反というわけです。」
逮捕のことは二人の間の会話では三度目ではなかったか。とにかく、もとに戻って話を続ける。
「総理大臣だったのは二年半くらいね。最初は威勢がよかったので、総理大臣として私もいいかなあと思ったんですけどね。学歴があまりなかったのですが。」
そのころ、前総理大臣は「日本列島改造論」などという本を出版していた。それは佑子が高校二年のときで、とにかく、最初のころはなかなか元気が良くて調子が良かったのである。学歴がないというのはそのころ、よく言われたことだった。
「ところが物価が急上昇しました。清子が結婚したときがそうで、七三年ですね。」
「私たちが日本に行ったとき、少しずつ上がっていましたがまだよかったのです。アメリカに帰った後、石油が値上がりし、便乗値上げもあってすごい物価上昇が起きたそうです。」
「そう、物価がそのとき三割とか四割とか、上がったと言われてます。石油ショックと呼ばれてます。」
三年くらい前のことで佑子もよく記憶しているが、物価上昇がすごかったのである。産油国が原油の値段をつり上げて、オイル・クライシスとか石油ショックとか言われた。そのおかげで国内のありとあらゆる物の価格が高騰したのである。総理大臣としても困ったのではないか。
「そして、その次の年、七四年七月の参議院選挙で政権与党はあまりぱっとしなかった。」
「物価上昇がきいたんですかねえ。」
「それに秋には月刊誌で総理大臣の『金脈問題』が出てきました。なんやかやで総理大臣をやめたのが一昨年、七四年の十二月だったんです。」
「それが今年の夏に逮捕されたというわけですね。」
山崎先生が確かめるように言う。それに対して木村さんはうなずいてから、また別のことを言い放つ。
「ところが運転手が自殺したんです。」
「運転手って、誰の?」
「前の総理大臣の――つまり逮捕された前の総理大臣の事務所のです。今月二日に死体が見つかりました。」
山崎先生も少し状況が分かってきたようである。佑子は細かいことをきくため、木村さんに短く質問する。
「自殺って、どういうことですか?」
「山道で車の中に排気ガスを引き込んだらしいです。」
「えー、それで死んだんですか。」
佑子もだんだん様子が分かってきたようだ。
「運転手というので前の総理大臣のかと思いましたが、事務所で運転を担当していたと新聞に出ていました。」
「前の総理大臣には別の運転手がいたのですか?」
「そうですね、運転手が全部で三人いたらしいですが、自殺したのは前の総理大臣の運転手とは別人らしいです。」
「じゃあ、何で自殺したんでしょう? 何も自殺しなければならないようなことはしていないんじゃないですか。」
そう山崎先生は言ったし、佑子も同じように言いたかったようだ。木村さんは新聞で読んだらしく、次のように答えている。
「それが、自殺の前日に検察に事情聴取されたらしいです。」
「まあ、聴取されるのは事務所のほとんど全員でしょう。」
「それで、検察に聴取された後に自殺したらしいのです。」
「う〜ん、じゃあ怪しい。」
「商社からの賄賂五億円を何回かに分けて受け取ったのではないかという疑いをかけられていました。検察の聴取には率直に応じたというのですが。」
佑子はそういうことなら分かるという表情をする。でも山崎先生はまだ何かが足らないというように質問する。
「でも、運転手だけでそんな大金を受け取らないでしょう?」
「だから――、秘書が受け取って、その運転をしていたというのが検察の目立てだったと思う。」
「なるほど。それでその運転手が自殺したのですね。検察は困ったでしょうね。」
事情聴取のすぐ後に自殺したとなると検察の責任が大きいのではないか。
「そうね。でも私はその二日後の四日に羽田を出発して、サンフランシスコ空港を経由してニューヨーク市に着いていますから、その後の展開にはついてってないのです。」
「それで前の総理大臣が逮捕されたことについて、あなたはどう思っているの?」
山崎先生はその点でさらに追求する。昔の癖が出てきたのか。
「まあ〜、裁判は公判が終わるまで分かりません。というわけで、逮捕されただけで、どうのこうの言えないのですが。」
「それは大学の講義で学生に言うことでしょう。あなたから見て、どうなんですか?」
「まあ正直いうとあやしいですね。事務所の運転手が自殺してますしね。」
山崎先生が続けて一般論と言えるものを出してくる。
「でも、その事件の発端が合衆国議会の議論というのがいかにも日本の立場を表していませんか?」
「そうですね。そういうことも言えますね。――それに、アメリカの手先になってる人も、たくさんいるって言われてますから。」
木村さんはそう言ったが、あまり合衆国のことが好きでないということか。このころの知識人はアメリカがあまり好きでない人が多い。山崎先生という友人がいるから木村さんも合衆国に来たけれど、知った人がいなければ来ないのかもしれない。それに、法社会学という学問の「専門の本場」も合衆国というわけで、この国に注目せざるを得ないというのもありそうである。
「とにかく、今年になって死んだ人がたくさんいるって、そういうことを書く週刊誌もあります。」
前の総理大臣が疑われ、航空機製造会社の名前からつけられた「ロッキード疑惑」はまだ捜査が始まったばかりである。死んだ運転手が取り調べでどんなことを言ったか、この時点ではまだ分からなかった。
「そういうことが渡航前にありました。」
木村さんは山崎先生のほうを向いてそう言って、そして佑子のほうを見た。
山崎先生は何も言わなかったが、佑子は日本とアメリカに何か変化が起こりつつあると感じたようだ。少し考えていたようだが、佑子は木村さんに向かって質問している。
「前の総理大臣と言えば、中国との国交正常化を実現したのでしょう?」
「後から手続きを始めたのに合衆国よりも早く、一九七二年に正常化して、アメリカ人からしてみれば気に入らなかったのでは。この日中国交回復は、アメリカの頭越しに行われたとして、アメリカ政府は激怒した。そのために総理大臣を辞めさせられ、今度の事件で逮捕されたという説もあるようです。うがった見方ですが。ということで前の総理大臣のこともあり、これから日本とアメリカはどうなるんでしょう。」
山崎先生は半分空になったマグ・カップを見つめ、木村さんの言葉を反芻しているようだったが、しばらくすると木村さんのほうを向き、それから佑子を見ながら姿勢を直して、ゆっくりとあまり大きくない声で言う。
「日本とアメリカということですが、私はこの国で暮らして今年で十一年目になります。州立大学で日本語を教えるようになって五年が経ちましたが、ようやくアメリカで暮らす日系人の気持ちが分かるようになったと思っています。」
今までの話し方と比べて山崎先生は声が小さくなりゆっくりしている。それで木村さんは椅子にかけ直したし、佑子も飲んでほとんど空になったカップを机の上に置いた。
「これはリチャードが言ってたのですが、子どものころの日系人仲間で共通の話題は何だったかというと、やはり第二次世界大戦のときの強制収容所のことだと言います。ハイスクールで子どものころのことを作文で書いたとき、日系人はみんな収容所のことを書いたのだそうです。それだけおおきな経験だったんです。」
「リチャードさんは収容所に入れられていたんでしょう?」
木村さんは確かめるように訊く。
「そうですね。入ったのは生まれてすぐのことであまり記憶にないと思います。出たときは四六年でそろそろ物心がつくころでした。」
「どこへ?」
「最初マンザナーに入れられていましたが、トゥルレイクに移されたと聞きました。」
「マンザナー収容所というのはごく普通のカリフォルニアの日系人が入ったところでしょう?」
日系人のことを知っている日本人ならマンザナーの名前も知っている。佑子はアメリカに渡ってから二学期分の「合衆国史」をとった。後期は南北戦争の最初から始まったが、学期の終わりのほうでマンザナー収容所の名前を知ることになった。トゥルレイク収容所もそのとき名前が出てきたのである。
山崎先生は二人のほうを見てゆっくりと答える。
「そうですね。カリフォルニアのふつうの日系人が入れられたのがマンザナーだと思います。」
だけど、アメリカに来たことがない日本人でトゥルレイク収容所を知っている人は少ないのではないか。実際、木村さんもあまり知らないようである。
「後のほうの、その、トゥルレイクというのは聞いたことがないと思うのですが――。」
「トゥルレイクというのはオレゴン州との境の近くにあった強制収容所です。マンザナーというのはカリフォルニアの中ほどでネバダの側にあり、トゥルレイクは北のほうオレゴン近くのカリフォルニアにありました。」
ゆっくり話していたので、そこで佑子が口をはさんだ。
「日系人の強制収容所は合衆国の全国で一〇ほどあったようです。先週、日系一世の夫妻に会いましたが、二人はグラナダにあった収容所に入れられていたという話でした。」
「――そのグラナダというのは?」
木村さんが尋ね、その質問に佑子はどう答えようかと迷っているうちに、山崎先生が口に出す。
「日系人にはアマチ収容所と呼ばれ、コロラド州の向こうの東南(ひがしみなみ)の角にありました。」
さすがに山崎先生はよく知っている。そして、うなずきながら、佑子は自分の話を続ける。
「夫は強制収容所に入れられたとき、五十歳過ぎだったようです。下の息子がちょうど大学が終わって軍隊に入り、太平洋戦線で働いたと言っていました。上の息子は医者の卵のようで、合衆国東部で大学院である医学校に行っていましたが、軍隊に招集されたのかどうかは分かりません。少なくとも日本人との戦闘には行ってないと思います。弟のほうも、日本兵と直接戦ってはいないでしょう。」
「なるほどねえ。あちこちに日系人の強制収容所があったということは日本でも知ってる人はいるけど、そういう細かいことまで知らないこと多いよね。」
「その夫妻はサリナスの北に住んでいたので、アマチ収容所に行ったとき、最初はマンザナーの方向と逆で、トゥルレイクに連れて行かれるかと思ったそうです。」
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