第4章 最初の日系人
木影のテーブルで昼食が終わったのは午後一時半過ぎだった。リディアと本田佑子はテーブルの後片づけをし、ちょっと離れたゴミ箱に空き瓶などを捨てて、自動車に戻った。
自動車のドアを開けながら佑子が独り言のようにもらす。
「――強い日差しのとき、車の横の窓に張りつけるのが欲しい――吸盤でくっつけるみたいだけど。ウィンドーの内側に立てかけるのは、去年買ったんだ。」
「――そうね、自動車用品の店に寄ってみたら。そんな高いものではないはず。」
助手席のドアを開けながらリディアは会話を続ける。真剣な口調でない――佑子の言葉にあわせた感じである。そして席に座ってドアを閉め、前を見ながら言う。
「次はコールド=スプリングス・ロードね。そこにある小学校のとなりというから――。こちらから行けば、すぐ近くのはず。」
州道49号線でコロマに入る、少し手前にその道があった。信号がない丁字路になっていて、自動車で走っていた州道はそこで右に大きく曲がり、道なりに進むとコロマである。
その丁字路を左に曲がれば、その道路がコールド=スプリングス・ロードである。コロマから行くには州道49号線のほうに左折しないでそのまま、まっすぐ走ればよい。
自動車を駐車場から出して左折し、午前中に来た方向に戻る。道なりに右に大きく曲がって、ちょっと走るとすぐ丁字路に出た。まっすぐ行って州道から外れ、そのまま道なりに走る。対向車がほとんど来ないし、車の前と後には誰もいない。必要がなければ、こんな暑い日は誰も外を出歩きたくないものだ。
ゆっくり行くと左側にゴールドヒル小学校があったが、夏休みのせいか駐車場は空で誰もいない。金発見州立歴史公園からほんの数分のところで、注意していないと見逃すような場所である。
自動車のスピードを落とし、小学校の入り口のところを見ると、その向こうに並んで小さな、ほんとうに小さな公園のような空間がある。すこし通りすぎてしまったが、前後に自動車がいないのでバックで戻る。そして左折して小学校の駐車場に入り、また日影に車を止める。それから小さな公園まで歩いて行った。
見ればどことなく日本風である。しかし日本人が建てた感じではない。まん中に大きな石の記念碑があって、前面の中央に四角い金属板が――真鍮だろうか――入れ込まれている。その石をはさんで離れたところにふたつの門のようなものが立っている。ただし、その門にはそれぞれ尖った屋根のようなものがついている。
駐車場からその門のようなもののひとつを通って歩いてゆく。記念碑のそばにはいくつか低い石があって、それが下のコンクリートの地面に埋め込まれている。記念碑の金属板には英語で次のように書かれていた。
若松茶と生糸農場開拓地 カリフォルニアに設立された唯一の茶と生糸農場の地。日本人移民開拓者がゴールドヒルに一八六九年六月八日に到着、最初に作った農業移住地である。初めは成功したように見えたが長続きしなかった。カリフォルニアの農業経済における日本の影響の始まりを意味する。
この記念碑が建てられたのは碑文にある入植から百年後の一九六九年で、まだ数年前のことである。ここは福島県会津若松市から日本人が最初に合衆国に農業移住した場所だという。元号で言えば明治二年のことである。
「元年者(がんねんもの)」と呼ばれる日本人が明治元年に入植したハワイ州のほうが少し早いと思うかもしれないが、ハワイはまだ合衆国でなかった。カリフォルニアに日本人が最初に到着するころのハワイは一八七〇年代まで王国だったのである。
それにハワイに渡った人たちはどうも移民という感じがしない。日本へ戻る労働者として海を渡ったのではないだろうか。いずれにしても、ハワイが合衆国の一部として認められたのが九八年。州になったのは第二次世界大戦後の一九五九年である。
もっとも移民ではないがもっと早くに合衆国に渡った人もいる。なかでも一八四一年に中濱萬次郎(ジョン万次郎)が乗った漁船が難破し助けられて、彼のみが東海岸に行ったという。学校へ行き英語を話し書くようになっている。
萬次郎は後に日本に帰ったが、それより前にカリフォルニアに行きゴールドラッシュで金を稼ぎ、それで船を買って帰国した。カリフォルニアに行ったのが一八五〇年五月で数ヶ月の間に六百ドルをつくる。百二十五年以上も前だから、これが今の金額で正確にどのくらいか分からないが、ハワイから日本へ帰る船が買えたという。
萬次郎が正式に勉強し英語を話せたということがカリフォルニアの現地にいた中国人などと大きな違いをつくったと言えよう。合衆国西部最初のゴールドラッシュに日本人も関係していたのである。
「先日、埼玉県の蕨市から、市長はじめとして、たくさんの人たちが来た。三十人あまりがエルドラド郡を訪問したんだ。」
リディアは記念碑を見ながら改めてそう言う。日本からそういう人たちが来たのは七月の終わりから八月の初めにかけてである。二〜三週間ほど前のことで、訪問団はもう帰ったという。
彼女は父親からその人たちのことを知った。父親が郡役所に勤めているからだが、合衆国では民間団体が交流の中心となっているので、郡役所ではあまり大きくとりあげなかったのかもしれない。
この前に佑子に会ったとき、リディアはその訪問団の話をしてパーティに出るつもりだと言った。九月からの日本生活もあり「さようならパーティ」に出たというが結局あまり話せなかったらしい。
「来た人たちはこちらで見たこと、聞いたことを話していたけど、私のそばにはあまり英語が得意な人がいなかったみたい。私がもうすぐ日本に行くこと、分かってもらえたかなあ。」
リディアはどちらかと言えば、アメリカ人に意外と多い、性格がおとなしくて遠慮するタイプだろう。だけど、おとなしい日本人のようにくちごもってしまうわけではない――必要があれば、ちゃんと話すのである。
佑子はといえば招待されていなかったし、訪問団にも地元の人たちにも知っている人がいなかったから、そのパーティに出席しようと思わなかったようだ。
「でも、どうして蕨なのかなあ。」
埼玉県南部の蕨市はよく知っていたが、なぜ選ばれたのか分からない。リディアも詳しいことは知らなかった。
「なんでも、誰かが蕨市からエルドラド郡に来たらしい。それの返礼というか今度はある女性がここから蕨に行ったという。それで彼女は合衆国の市民団体の支部を代表して、エルドラド郡と姉妹都市はどうかと言ったらしい。」
リディアは聞いて知ったことを続ける。
「ところが蕨の人たちも合衆国における最初の日本人入植者が会津若松市から行ったということを知っていて、まず会津若松に意向を確かめたらしい。会津若松のほうでは蕨が姉妹都市になることに、とくに反対することもなかったという。」
蕨市への姉妹都市締結の申し入れを、エルドラド郡議会が一九七四年七月にしている。それを受けて、昨年つまり七五年三月には蕨市議会が姉妹都市の締結を議決したという。アメリカの当事者は郡だが「姉妹都市(シスター・シティ)」ということである。
それで今年七六年七月になって、蕨市の訪問団がエルドラド郡に来ることになった。それが三週間ほど前のことだったという。リディアはその後、一週間ほどニカラグアを訪問しているので、訪問団がアメリカに来たとき以降、佑子と会っていない。
それから二人は記念碑の裏側にある農場跡を見た。道路から見て左側がゴールドヒル小学校だがその右側に農場跡が広がっている。ただ道路沿いに金網がはってあり、中にたいしたものがあるわけではなかったが、それより入ることはできなかった。
というのも土地は私有地で、見えたところに建物はなく人は住んでいなかったし、記念碑のそばに入り口などは見あたらなかったからである。ずっと右のほうまで農場跡が続いていたが、とくに何も作っていないように見える。リディアはその土地の中の、遠くのほうにある樫の木のほうを金網越しに見ながら続けた。
「九月から留学する郡山市は会津若松市のとなりよね。だから、日本から合衆国への最初の移民は会津若松からゴールドヒルへ、ということを知らせるのがいいと思う。」
「そうね、日本から合衆国への最初の移民がエルドラド郡に入ったこと、私も知らなかった。」
「日本からの最初の移民について図書室で三日間、調べたんだ。」
プラサビル市内には小さな図書室があった。リディアはそこでとったメモの入ったノートをバッグから取り出す。
「間違っていたら訂正して、ユウコ。」
「私だってそんなに詳しくないよ。――ちょっと待って。立って話をしていてもしようがないから車に戻ろう。」
二人は太陽があたって暑い農場跡のフェンスから離れて、記念碑の前を通り、自動車のほうへ戻った。
ドアを開け放し、木影だけど少し暑いところに腰を掛けて話をする。風もあまりなかったが、日本のような蒸し暑さがないのが救いである。
「明治維新のころのことだよね。だから一八六八年かな。」
「そうだね。戊辰戦争があった。」
「ボシン?」
「新政府と徳川幕府の争いと言えばいいのかなあ。だけど徳川将軍家は大政奉還していた。つまり天皇の名においてこれからの政治は行われる。それで江戸城は開城したというから、江戸は――東京の昔の名前だけど――一部を除いて戦いはなかった。」
「だけど、会津若松には戦闘があった。」
「そうだね。会津と新政府の戦争と言えば白虎隊だね。」
「ビャッコタイ?」
「数え年で十六〜七歳の若者が戦いに参加して、鶴ヶ城が落城したと思い、負けたと判断してみんな自害したんだ。会津といえばその話をよく聞く。」
いちおう佑子はそう言ったがこの話は移民とあまり関係ない。だけど戊辰戦争と会津と言えば白虎隊とどうしても結びつけてしまう。
「ふ〜ん。とにかく、会津若松は負けたんでしょう?」
「そうだね。新政府軍が勝って、昔の幕府側は負け戦というわけ。」
「会津若松は負けたのだけれど、そちらについていたシュネルさんという人がいた。」
「シュネルさん? あまり聞いたことがない。」
「ジョン・ヘンリー・シュネル。武器御用商人というけど、日本人の奥さんがいた。本人はドイツ人らしく、プロシアの大使館にいたともいう。だが、そこらへんのとこはよく分からない。」
プロシアとはその頃のドイツのことだろう。
「そうか会津に外国人がいたということ、あまり知らなかった。」
日本人も知らないことをリディアはよく調べている。もっとも、あまり情報がないという。だから日本人もその点でたいした違いがなさそうである。
「それでシュネルさんは日本人の奥さんと何人かで逃げたらしい。途中で新潟のほうに行ったという。」
「明治の新政府が戦争をしたのは新潟でも同じではないかな。――長岡藩だったかな?」
「シュネルさんの弟が新潟にいたとも言うが、はっきりと分からない。どうもそこから船で横浜のほうに出て、それから太平洋を渡ったらしい。」
「太平洋を渡ったのは何人?」
「よく分からない。とにかくその後シュネルさん夫妻たちはチャイナ号という船で合衆国に来たらしい。」
「なるほど。だけど日本人だけで逃げた場合、国を捨てるという発想はあまりないんじゃないかな。」
アメリカに渡るにはやはり何らかの理由が必要だろう。日本の国内戦争で負けるとか、それで居場所がなくなるとか、外国人がいるとか。この場合、それぞれの要素があったのではないだろうか。とにかく、一同はそろってアメリカに渡り、ここに移住したという。
「サンフランシスコ着がこちらの日付で五月二七日となっている。」
「サンフランシスコと言っても、今のような街があったわけではないでしょう?」
「そうね。でもゴールデンゲート(金門海峡)を過ぎれば内海だから。まだ橋は作られていなかったようね。だけど、そこで別の船に乗りかえて、まっすぐにサクラメントに来たのだと思う。こちらまでかなり大きな船が入って来れた。」
「サクラメントはもうカリフォルニアの州都になってたんだね。」
「そう。そこからは陸路で来たんだ。コロマからプラサビルに郡役所が移ったのが一八五七年という。」
「旧名ハングタウン(吊るし首の町)からプラサビルに町の名前が変わったのは?」
「え〜と五四年。シュネルさん夫妻が来たのが六九年だから、ゴールドラッシュも終わっていたのでしょう。サクラメントからゴールドヒルに来て、着いてすぐ六月八日に土地を買っている。」
そのとき前の道をコロマのほうへ自動車が二台、あまり離れないで走っていく。後の車はピックアップの年代物で、ピックアップとは小型の家庭用貨物自動車(トラック)のことである。二台はゆっくりと走り去り、辺りは何もなかったようにふたたび静かになった。
「前の地主は何という名前、リディア?」
「土地はチャールズ・M・グレイナーさんから買ったとあった。」
「その人はどういう人かなあ――。読んだものに書いてあった?」
「なにも書いていないんだ。ゴールドラッシュからだいたい二十年くらい経っている。買ったのは一六〇エーカーで代金は五千ドルだったという。」
「それがそこの石碑にある『若松茶と生糸農場』というわけね。」
二人は石碑がある方を見たが、碑文には土地購入に関したことは何もふれていない。
「そこに入植した日本人は何回かに分かれて来たのかもしれない。一八七〇年の国勢調査には日本人が二十二人いたという。シュネルさんの二人の娘は白人扱いで、その日本人の中にたぶん入っていない。妹のほうは母親が合衆国に入ってすぐに生まれた。アメリカ人で母親が日本人というのはたぶん彼女が最初よ。」
「日本人と分かる女性はその母親の前に合衆国に入国していないというわけね。」
「父親のシュネルさんはその後、日本に行ったがそこで亡くなったらしい。殺されたのかしれない。とにかく、これも情報がない。」
「で、入植地はどうなったの?」
「日本からお茶の木と桑の木の苗をたくさん持ってきていた。その他にも持ってきたものはいろいろあったらしい。一年目は六九年のサクラメント市でのカリフォルニア州農業フェア(共進会)に出展したし、翌七〇年サンフランシスコ市での園芸フェアにも出たという。」
「なかなか順調だったんだ。」
「最初はね。その後は水で苦しんだらしい。水がなかったのか、それとも水が汚染されていたのか。よく分からない。」
ゴールドヒルと会津の緯度はほとんど同じである。しかし入植は簡単には行かなかったようだ。
日本の夏は雨期というか雨が多い。だがカリフォルニアは地中海気候で冬が雨期であることはすでに述べた。現地は夏には雑草も生えないくらい、カラカラに乾いてしまう。
日本から入植した人たちがこの違いを分かっていたかどうか。たぶんそういうことで、碑文に書かれていたように長続きしなかったのではないだろうか。
「ふ〜ん。それでどうなったの?」
「農場では伊藤けいという人が七一年になくなったという。櫻井松之助という人は一九〇一年まで生きていた。」
「一八七一年というと、おけいさんは最初に合衆国で死んだ日本人になるのかなあ。」
「そこの農場跡にお墓があるらしい。死んだのは十九歳だという。」
「数え年でしょう。あなたと同じくらいね。」
「そうね。ここに入植した日本人はみんな、一度は病気になったらしい。おけいさんも重い病になった。」
ここの農場で働いていた者はその後、何人かが近くで暮らしたらしい。もしかしたら、いまもその子孫がこの近くに住んでいるのかしれない。
だが日本にあって合衆国にないもの、それが戸籍であり住民票である。つまり、この近くに住んでいても合衆国には戸籍や住民票がないから、出自が日本人であっても本人が主張しないかぎり分からない。それも十年ごとの国勢調査で答える程度である。合衆国で国勢調査が重要な、ひとつの理由だろうか。それに比べ日本の国勢調査は戸籍もあり、あまり重要でなく正確度も低いのではないか。
もっとも戸籍が制度として優れているわけではない。大韓民国では二十一世紀に入り、時代遅れとして廃止された――戸籍には差別の根が温存されているという。
「道徳」を実現するため、差別を生み出す装置として、戸籍は大きな役割を担って来たと指摘する者もいる。戸籍制度を持っている国はほとんどないのである。
「結局、この農場は持ち主がいなくなった。」
「シュネルさん本人も、家族もいなくなったんだね。しばらくして税金が未納で、この農場は没収されたのではないかな。それで今の持ち主になった。入札か何かだよね。櫻井さんはその後もずっとこの農場の周辺に残ったらしい。」
「それで、最初の日本人として、この農場に名前が残っているのはおけいさんというわけね。」
「ここの土地にお墓がある。裏表に日本語と英語で『おけいの墓』とあるらしい。櫻井さんがその墓をつくったのかも。櫻井さん自身のお墓はコロマにあるという。」
あまり詳細ははっきりしないけれど、ここが合衆国における日系人の最初の入植地であることだけは間違いなさそうである。だけど不思議なことがある。ここは日系人の最初の入植地であるというのに、今この辺に日系人が住んでいないことである。散り散りになったというが、櫻井さんがいなくなった後は誰もいなくなったのか。あるいは第二次世界大戦のころ、ここに住んでいた日系人は収容所に送られ、そのまま戻らなかったのかも知れない。
二人はそのあと、午後二時すぎにゴールドヒル小学校を後にして、プラサビルへ向かった。助手席に座ったリディアはうかない顔だ。
「一八四八年初めのコロマの黄金発見と、六九年のゴールドヒルでの日本人入植は、あまり関係ないみたい。」
「そうねえ、場所が近いだけで時間は二十年も離れている。」
「それに、日本人入植は分からないことが多いし。」
「この二つをいっしょに話すのは難しそうね。」
「う〜ん、どうしよう。金発見はいつでも話せるけど。日本人入植のことは後まわしかな。」
自動車はゆっくり進み、対向車は来ないし、見晴らしは良いが、まわりに家はない。自動車を運転しつつ、リディアのほうをちょっと見て佑子は尋ねる。
「日本の高校でエルドラド郡を紹介するため、他にどんなことを考えたの?」
「エルドラド郡やプラサビルと言えば、やはり金の発見のことね。プラサビルの『プラサ』というのは街の近くの川で見つかった砂金が堆積した鉱床のことを意味している。」
「それを市の名前にしたわけね。ビルというのは街ね。ナッシュビルとか、ルイビルとか。」
「それからゴールドラッシュのとき、汚れた衣類を洗濯に出すのにハワイまで送ったという話。それくらい金を探すのに夢中になり、サクラメントでもサンフランシスコでも人手がなかった。」
「う〜ん、そうかあ。洗濯・クリーニングと言えば、今は中国系と言われるけど。その当時はまだ、中国人が洗濯するなんてなかったのかなあ。――ハワイにまでねえ。」
「それと、金探しに関連してリーバイ・ストラウスがジーンズを発明した。ストラウスはゴールドラッシュからしばらくして、サンフランシスコで商売を始めたんだ。プラサビルにも来たと思うね。とにかく、この人の設立した会社は今やアメリカの衣料品会社でいちばん売り上げが多い。」
十九世紀にブルー・ジーンズを何と呼んだのだろうか。アメリカではこのころ、つまり二十世紀の七十年代にはリーバイスと呼ぶこともあった――発明者の名前である。
日本でまだGパンという名前で呼んでいたのではないだろうか。だけどアメリカではGパンと言っても通じないだろう。Gパンというのはちょっと見たり聞いたりすると英語のようだが、このころの日本での通称でしかないみたいである。
「私たち二人とも今はいているのはジーンズだよね。」
「ストラウスが作って売っていたころは金を探していた人がはいていたというけど。もともとの生地は帆船の帆だっていうからね。」
「丈夫なのが取り柄ね。」
「だけど女性がジーンズをはいたのは最近のことなんだ。母なんかまだ見向きもしないよ。」
「ああ、そうなんだ。でも日本でも同じかも。若い人がはいていても年取った人はあまり選ばない。」
「『女性はスカート』という風習が第二次世界大戦のころ、少し変って女性がズボンをはくようになった。男性が戦争で外国に行って女性が外で働くようになったから。こういうのも流行だよね。」
「流行といえばミニスカートというのもあった。膝頭(ひざがしら)が少しだけ出てた。」
「でもこれも十代か二十代か、若い人だけだったでしょう?」
「そうねえ。」
「それから、スチュドベイカーという自動車メーカーね。ジョン・M・スチュドベイカーはプラサビルにいた当時は鍛冶屋で、一輪車を作って金を探す人に売っていた。それがずっと後に自動車を作って売るようになったというわけ。二十世紀に入ってからだけどね。そのメーカーがスチュドベイカーと呼ばれた。」
「今はないよね、そのスチュドベイカーとかいうメーカー。」
「吸収合併でGM(ゼネラル・モータース)の一部になったらしい。だけど自動車はまだいっぱい走っている。」
「アメリカには車検がないからね。」
だがカリフォルニアでも排気ガス規制がだんだんと厳しくなって来ていた。自動車の持ち主が変わるとき検査場へ持っていく。佑子が車を買ったときにはまだ必要でなかったが、数年後には排気ガスの検査をすることになる。もっとも修理工場にもそういう検査機器はあったみたいで、検査も最初のうちはそんなに厳しくないということだった。
自動車はプラサビル・ドライブとの交差点にさしかかった。
合衆国では道路に名前と番地が必ずついていて、番地の低いほうから高いほうに向かうと、番地は道路の左側が奇数で右側は偶数になるのが普通である。コールド=スプリングス・ロードの場合は二人が自動車で走った方向に番地が増える。
州道49号線にも名前があり、コロマに近いほうではコロマ・ロードである。コロマ・ロードとコールド=スプリングス・ロードはほぼ並行して走っているが、ともに番地の小さい数字はコロマにあり、したがってプラサビルのほうが大きくなっている。
このように、番地は道路についていて、番地がついた道路にはすべて名前があるというのが合衆国でのやり方である。コールド=スプリングス・ロードはプラサビル・ドライブとぶつかっている。
そこは交差点の形になって信号もあるが、まっすぐ行くと大きな小売店の駐車場に入っていくので、番地のついた道路はこの交差点で終わりである。つまり、コールド=スプリングス・ロードはこの交差点で終わっている。
「前の通りはプラサビル・ドライブね。これを右に行って交差点を左に曲がれば郡役所のほうに出る。ちょっと右に行ってみよう。」
リディアの言葉にあわせ、佑子は後を見て右の車線に入り、停止線まで出て今度は左側を見る。左側から自動車が来なければ、正面の信号にかかわらず、右折してよいというのがカリフォルニア方式である。
そのままプラサビル・ドライブを次の信号まで走る。ここを左折すると、佑子が昨年まで通っていたアメリカン・リバー・カレッジがあり、その先の郡役所のほうへ行く。信号は青だった。
「まだ早いから、この道路をフリーウェイまで行ってみよう。」
そのまま直進して道なりにゆっくり行く。左側に大きなスーパーマーケット「レイリーズ」がある。ジョーンズ夫妻が毎週、買い物に来ていた店である。佑子が昼食を買っていたスタンドも道端にあった。何も変わっていない。
そして道路沿いのその近くには、郡の歴史博物館やフェア=グラウンドがある。エルドラド郡のお祭り(フェア、共進会)はそこで六月に開かれる。郡のお祭りというのが、アメリカの各地で、今もとても盛んに行われているのである。
そして、すぐに合衆国道五十号線と立体交差しているところに出る。下のフリーウェイはこの辺ではまだ信号で止まることがない。佑子たちは上の橋を渡って反対側に行き、道路の右にあるレストランの駐車場に入りUターンする。この先は山が続き、道路の両側は林になっていて建物がないのである。
また戻ってフリーウェイ上の信号つき交差点を過ぎ、次の信号まで走るのだが、全部で五分もかからない。次の信号を右折するのだが、曲がってまもなく左側にアメリカン・リバー・カレッジのプラサビル・キャンパスがある。
「アメリカン・リバー・カレッジか、もう一年以上ご無沙汰だね。」
「ここに通ってたんだね。」
「そう、おととしの秋から、一年間だけだったけど。」
「アメリカの大学って、どういうものか分かったんじゃない?」
「そうね。もっとも、サクラメントに移って、ここのやり方が、まあ何というか、やさしいと言うか、厳しくないと言うか――。」
「分かる、分かる。学生にやさしいんだよね。」
「そう、みんなが相手を考えているという感じがするんだよね。」
小屋みたいな校舎が変化なしに並んで立っている。佑子が通っていたころと少しも変わっていない。もっとも今は夏休みで学生は誰もいないようだ。事務棟を除いて、人気(ひとけ)がなかった。
やがて郡役所が右に見えてきた。郡(カウンティ)と言えば、日本では今は名前だけになっているが合衆国では違う。もちろん、州によってはカウンティとは違う名称を使っているところもある。カリフォルニア州では一部を除き、郡議会に五人の議員(スーパーバイザー)がいるのが普通である。
そしてエルドラド郡について言えば、郡役所は郡の全体を見ている。郡内で独立の市として認められているのはプラサビルとサウス=レイク=タホの二市だけで、他はこの郡役所の管轄である。
つまり、その二カ所以外の地方議会は郡議会になる。日本では郡といっても名前だけになり、町か村が必ずあり、郡だけのところはない。アメリカでは郡だけで市町村がないところもあるのである。
郡役所の建物は賞をもらった立派なもので、そこにはリディアの父親が働いているが、今日はアポイントメント(会う約束)がない。そういうわけで寄るわけにもいかない。
そのまま行くと合衆国道五十号線の上を通り、左折するとプラサビルの街のほうへとつながっている。このあたりはまだ家がなく、五十号線の反対側は林がある山となっている。
すぐに今朝来たレストラン、バター=カップのところに出る。右折すれば州道49号線の南行きだが、そのまま進むと街の真ん中に出る。佑子は今夏になって一度だけ時間があったので、街中を走ったことがある。
「この街を見てみようと思うけど、時間はある?」
佑子が言うとリディアは腕時計を見る。佑子も自分の腕時計を見た。
「午後四時からウェイトレスをすることになっている。まだ一時間以上あるね。」
「これから二〜三十分くらいかな。それくらいなら大丈夫だよね。」
「そうね。」
リディアは前を見て軽くうなずく。信号が変わり自動車はゆっくりと街なかに入っていった。すぐに前後に自動車が連なってくる。
そして、まもなく「ハングマンズ=ツリー」と看板に書かれた酒場が左側に見えてくる。有名な店で、なぜかと言えば店の前の二階のところに吊るし首にした男がぶら下がっているのである。
もちろんそれは人形だが、バーの中には実際の吊るし首に使った木の根が残っているという。この市の旧名、ハングタウン(吊るし首の町)の歴史を象徴するような酒場なのである。
それを過ぎると道が左のほうに少し曲がり、左側に鉄塔が見えてくる。昔からあった自衛消防団のベル=タワーで高さ十五メートルほど――上のほうに鐘がある。一八六五年からこの地に立っているというから、日本からの最初の移民たちも見たに違いない。もっとも、そのときも現在の鉄塔であったかどうかはさだかではない。
道路がY型になり、Yの下から右のほうに行くが、左側から合流する形になっているところの向こう側に塔は立っている。正面の向かい側から来るときは、まっすぐ行くとその塔の右側に一方通行路があって別の通りに行くが、塔の左側には今通っている街のメーン=ストリートがある。
塔の手前には、左側からの合流のため一方通行の一時停止があって、メーン=ストリートに右折・左折ができる形になっている。ベル=タワーのそばには歩道があり、観光客らしき人が何人か見上げたり近くを歩いたりしている。
タホ湖のそばを通って進んでくるワゴン・トレイン(幌馬車隊)を中心にした夏のお祭りのとき、何人かが(空砲だが)ほんものの銃を使って撃ち合いの「芝居」をするのもこの鉄塔の近くである。
その反対側、つまり走っている通りの右側には映画館がある。正面の看板のところに大きく映画の題名と主演俳優の名前が出ていたがどちらもあまり見たり聞いたりしたことがない。上映時間中なのか館の前には人影が見えない。
佑子は日本にいたころ、ときどき映画に行ったが合衆国に来てから見に行ったことがない。ときには映画に行くような余裕も必要であろう。もっとも女性が一人で映画を見られるのか。合衆国では誰かに連れていってもらうことになるのかもしれない。
反対側にセキュリテイ・パシフィック・ナショナル銀行の支店があった。合衆国での小切手振り出しということを教えてくれた銀行である。バーバラさんという人がいるはずだがその店の前を通りすぎる。警備員がドアの内側に立っているのがガラス越しに見える。
それから左側のすぐそばに市役所(シティホール)があった。二階建ての小さな建物が二つ並んで立っている。二十世紀初めからのシティホールだという。シティホールの二つ並んでいる二階建ての建物の左側は消防署だったという。それを二十世紀の初めにシティホールにしたらしい。
そして、その向こう隣りにカリフォルニア州の上級裁判所があった。日本で言えば地方裁判所である。裁判所は二階建てコンクリート建築の立派な建物である。とくに左側にある二棟のシティホールとは比べ物にならない。
裁判所と市役所――たしかに裁判所は州の建物である。できた当時は州で多い方から三番目の人口とはいえ、市とは言っても今の人口が一万人くらいでは、市役所はこんなものかもしれない。
けれど、アメリカの地方自治をよく表しているのではないか。役所の建物は一般に日本のほうが立派すぎるほど立派で、合衆国のものはあまりちゃんとしたものはない。
裁判所の前を通り過ぎると左側から道路がぶつかる。その三叉路は信号がなく、各道路が一時停止になっている。前を行く自動車が一時停止して、左側から来た車が右折か左折するのを待っている。一台ずつ通っている――こういうところはアメリカの田舎ではすごくマナーがいい。
「ここを左にずっと行ったところに金鉱の跡がある。昔、金の鉱脈にそって山を掘ったんだけど、今は鉱山の跡が残っているだけ。」
「砂金だけではないんだ――。ここには金鉱山もあったんだ。」
「ゴールド・バグ・マインと呼ばれている。」
「なるほど、『黄金の虫』鉱ね。」
「それだけじゃない。ここから右の前のほうにある山は金の露天掘りもやっていたんだ。」
交差点を渡ったが、金の露天掘りをやっていたという山は見えてこない。
「木が生えてなくて岩が露出しているんだけど。――ここからは見えないね。」
自動車はさらに進んで左に「タウンホール」という建物が見えてきた。道路に向かって、そう書かれた小さな看板が出ている。平屋の建物で奥に細長いが、正面の道路に面したところはそんなに幅はない。
ここで市会議員が月に二回、火曜日午後六時に集まるという。市長は互選で市会議員五人のなかから選ばれる。毎回たくさんの傍聴人がいるにちがいない。
道路の反対側には二階建ての普通の建物の一階に郡立の法律図書室がある。裁判所のすぐ近くにあるところが合衆国らしい。だけど小さくて、建物の一部を使っているらしい。リディアが部分的にゴールドラッシュや最初の日系人のことを調べたのはここらしい。
その建物の駐車場があり、次はメキシコ料理レストランである。広い駐車場があり、次に土産物の店があり、また駐車場がある。
そして、今度は道路の右側からの三叉路で、信号がなくやはり三方向とも一時停止の交差点がある。交差点のところにあまり高くない塔のようなものが立っている。右側の道路の終点の中央のところだが、その前をメーン=ストリートが走っている。右からの車はなく前の自動車に続いてすぐに発車した。
左側には広い駐車場が続いていたが、交差点から少し行くと大きな自動車販売会社、プラサビル=トヨタがあり、何台もトヨタ車を並べて扱っている。この街で中古車ではなく新車を売っている唯一の販売店だろう。今までずっと見て来たところ、他メーカーの新車を並べている店はない。
こんな小さな街まで日本車の販売店があり、日本から持ってきた自動車を売っている。また、佑子の自動車はダットサンである。
この数年前にオイル・クライシスとか石油ショックとか言われ、産油国が原油の値段をつり上げた。だから燃費の良い日本の小型車が売れたのだが、日本の自動車が売れることで、日本とアメリカの貿易摩擦が始まろうとしている。
その自動車販売会社の後、あまり店はなく、もうプラサビルの街は終わりのようだった。
「え〜と、ねえ、そこを左に行ったら。そのまま、まっすぐメーン=ストリートを行ってもしょうがない。もう住宅地だからね。」
リディアが言うので道路のままに左折すると、ちょっと先のほうに合衆国道五十号線が上を走っていた。しばらく行くと一時停止があり、まっすぐそのまま走ると合衆国道の下をくぐって、モスキート・ロードである。
そこは佑子が一年前に住んでいたとき、家に帰る道であった。すぐにまわりに家がなくなり、両側に木が生い茂っている。最近の一年間に佑子は三回しか来ていない。サクラメントに移って、モスキート・ロードに行くこともあまりなくなってしまった。ジョーンズ夫妻に会う理由も、そんなに多くはなかったのである。しかしこの道路を見ると懐かしい気持ちになるのだった。
それはともかく、合衆国道の手前を右に曲がると「ブロードウェイ」である。この道はフリーウェイと並行して東のほうへ行く。ブロードウェイはこの街の観光、つまりメーン=ストリートに関心のない人のためにあるようなものである。
左側はフリーウェイで、右側は店がある。ただ、店舗の間に駐車場が広くとってあり、歩く客はほとんどいない。並んで店のあるメーン=ストリートのほうだったら歩く観光客もたくさんいる。
ブロードウェイに曲がるところの右側にレストランがあり、次がマクドナルドの店、コーヒー店、メキシコ料理のファストフードであるタコス店、銀行の支店などがある。そのとなりにスーパーマーケットがあり、レストランがある。佑子が今乗っている自動車を買ったのは、そこのスーパーの駐車場である。
その先に行くと、ガソリンスタンドが道路を挟んで二つ並んでいる。いずれにしても、どの店も間がたっぷりとってあり、そこは駐車場になっている。
しばらく行くと、反対側のフリーウェイとの間に家具店、花店、自転車店、薬局が並び、サンドウィッチ店などもある。その反対側の右側に戻ると酒店があり、その後にトラクターの店というのもあった。
やがてモーテルのように、宿泊する人を対象とするものが先のほうに見えてきて、これ以上行っても仕方がないところまで来る。
「というわけでプラサビルの商店街も終わりね。」
「この前来たときはトヨタの販売店の向こうでUターンしたんだったね。結局こちらの街中の交通信号機はバター=カップのそばの州道49号線のところにあっただけ、合衆国道五十号線を別にすれば――戻ろうか。」
自動車を右側の駐車場に乗り入れ、方向転換しないでそのまま別の出口へ行った。駐車している車があまりなかったからである。
一時停止して左右を見、車線を渡り左折して行く。ブロードウェイを過ぎメーン=ストリートに戻った。そのとき佑子は思い出したように、ゆっくりと質問する。
「そうだ、それで――、日本に行くのはいいけれど、帰って来たらどうするつもり?」
リディアは少し黙っていたけれど、別に特別なことは何もないように言う。
「大学へ行く――カリフォルニア大学バークレイ校。実は今年、入学するつもりで手続きをしていた。入学許可も貰ったが、話をして一年待ってもらうことにした。」
日本とこういうところが違う。バークレイ校などのカリフォルニア大学群では州内の高等学校を卒業した上から二〜三割くらいの学生を入学させるという。授業料もほとんどない。そして、その他に四人に一人くらいの入学者が、他の州から来るという統計がある。
個別の入学試験はないけれど、共通試験があるので審査はあるし、だいいち願書を出さなくてはならない。リディアはもちろん州内の高校卒業生でも成績が上のほうに入る。大学にしてみれば、入学を一年待つくらい問題なかろう。
いつものレストラン、バター=カップに戻ったのは三時半ころだったが、リディアの四時からというアルバイトには十分間に合う。
「日本に行ったら、グッド・ラック。そして、がんばってね、リディア。」
「うん、ありがとう、ユウコ。戻ったらまた連絡するね。」
リディアをそこで降ろし、佑子はサクラメントに向かって自動車を発車した。
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