第3章 黄金の発見

 サクラメント市でダットサンに乗り込み、一時間ほどの運転で東方のプラサビル市に着く。街に近づくとフリーウェイが突然途切れて、信号ですべての自動車が止まる。フリーウェイは普通、立体交差であるが、ここは信号のある普通の交差点である。そしてサクラメントから二つ目の信号は州道49号線との交差点にあたる。

 合衆国道五十号線はそのまま東へ行くが、信号を右折すると州道の南行きとなる。直後には五十号線と並行するが、49号線はその先の交通信号のある交差点を右折して南に行く。その信号の手前の右手のレストラン「バター=カップ」が朝食のために開いている。

 今日、本田佑子はプラサビルより先、つまりネバダ州やその近くまで行かない。その手前にギャンブルよりも興味深い、「歴史的」な出来事=ゴールドラッシュ=が起きた場所がある。そこをアメリカ人の若い女性といっしょに見ようというのである。

 バター=カップの入り口ドア近くで、リディア・S・マーチンは立って待っていた。このレストランのオーナーはマーチン一家が住む家のすぐとなりの友人でもある。だからリディアはウェイトレスになって手伝うこともある。佑子が来るときは、いつもは奥の決まったテーブルにいるのだが、今日は店の入り口の外に立っている。

 リディアは十七歳、日本で言えば高校二年生だろう。ところがアメリカには飛び級があって、この年の夏の初めにはもう「エルドラド・ハイスクール」を卒業している。飛び級ができるほど成績優秀だったと佑子は聞いている。

 高校の授業で運転免許も取得しているが、まだ自分用の自動車は持っていない。なにしろ自分も入れて兄弟姉妹は五人でその三番目というから、自分用の車などあろうはずもなかった。そういうことで運転はあまりしていないから、佑子の自動車が頼みなのである。

 父親は地元エルドラド郡庁に勤める公務員で、母親は普通の店の店員としてプラサビルで働いているという。佑子は父親には会ったことがあるが、母親とはなかった。

 リディア自身は背が高く体重もかなりあるが、美人というわけでもない。白人のごく普通の顔で、あまり頭が良いという印象を与えない。運動もそんなに得意なほうではないらしいが、本人は飛び級のせいと言っている。とにかく、ちょっと眼には合衆国のごく普通のティーンエイジャーと言ってよい。

 そのリディアが日本に行く。高校での交換留学で一年間行く先は福島県郡山市の私立女子高校だと言う。そこまでは分かるが学校名が分からない。いやリディアは知っているが、それはローマ字で書かれていて、漢字が想像できないので佑子はよく覚えられない。九月にその学校の二学期が始まるが、それはもう来月である。それに合わせて行くというから、飛行機でサンフランシスコから羽田空港に飛ぶのは八月下旬ということである。

 リディアは日本語が分からないし、だいいち勉強したこともない。交換留学に行くということになり、五月末になってから地元の日系人か日本人で日本語を教えてくれる人を探したらしい。だけど、そんなに簡単に見つからなかった。希望どおりにエルドラド郡で日本語を教えられる人はいなかったのである。

 そんなとき、サクラメントの州立大学に留学している佑子のことを知った。昨年までアメリカン・リバー・カレッジのプラサビル・キャンパスで学んでいた日本からの留学生で、その後、短期大学から州立大学に移ったという。

 そんなこんなで、五月末に佑子に電話があり、本人と父親がサクラメントを来訪してきた。州立大学のカフェテリアで会ったのだが日本に行くと聞いて、佑子は喜んで役に立とうと言った。ちょうど夏休みの時期で、六〜七月の二ヶ月で十回ほど会っただろうか。

 佑子はお金をもらわないで教えることにした。リィデアがそんなにお金を持っているはずはなかったし――両親だって同じだろう――自分にも教えられる資格があるわけでもなかった。だんだんアメリカに慣れてきたし、ちょっと自動車に乗りたかったというのもある。というわけで、会うのはいつも夕方から夜で、簡単な夕食はバター=カップのものだったがリディア持ちだった。

 日本へ行く前に会うのは今日がおそらく最後である。日本に行ったとき間違いなく紹介する、黄金が発見された「コロマ」を佑子といっしょに見たいということで、今日はバター=カップから外に出ることになった。だから今日はいつもの時刻と違い、夕方でなく午前中である。

 まっすぐ駐車場に入って、州道からの入り口近くに自動車を止める。腕時計を見ると予定時刻にしていた午前十時の三分ほど前だった。夕方より空いていると思ったが、それほど違いはなかったようである。

 入り口ドア付近の日影にサングラスをかけて立っていたリディアが自動車に近寄ってくる。佑子はエンジンを動かしたまま、開けはなれた窓から英語で言った。

「おはよう、リディア。待った?」

「こんにちは、ユウコ。来たばっかり。」

「じゃあ乗って。車は小さいんだけど。」

 リディアはすぐに自動車の後を回って右側のドアを開ける。これまで乗せたことはなかったが、今日は同乗させることになる。

 乗りこんでドアをバタンと閉め、リディアはその後、手に持ったバッグを後部座席にやろうとする。佑子は手を出しかけたがすぐにやめた。それほど大きな荷物ではない。それをリディアは後部座席に乗せて前を向く。

 二点式のシートベルトはあったが、締めることはまだ法律で決まっていなかった。アメリカ人は一般的に言って、そういうことにあまり関心がない――リディアもその一人のようだ。

「よーし、じゃあ出発ね。」

 ギアをバックに入れて、足をクラッチから少し離し、自動車を大きくまわす。リディアがちらっと店の入り口のほうを見たが、佑子はそれにかまわずギアを今度は低速に入れて駐車場の出口に行く。

 ちょうど左からトラックが来たからそれが通り過ぎるのを待つ。そして左右を確認して車線を渡り、またもと来た道のほうに戻る。すぐに合衆国道五十号線との交差点に出た。待つとなると信号は長い。やがて信号は変わり、合衆国道を突っ切って渡る。

 北に向かって走る州道49号線の幅は広くなく片側一車線で、当然追い越し禁止である。街の中を通っているときは両側に歩道らしきものがある。その外には塀のない住宅があり、自動車が止まっている家もある――アメリカの住宅は塀がないのが普通である。

 二人を乗せたダットサンはゆっくりと進んで行った。やがてすぐに道路の脇から歩道も住宅もなくなり、自動車が走るのは田舎の山道になる。


 年齢を言えば佑子は二二歳、五つばかり年上である。でもリディアはアメリカ人だから、二人の年齢のことはあまり気にしない。そして話しかけてはくるが、どちらかといえばあまりおしゃべりというわけでもない。今日は日本語をあまり話そうとしない。

 もっとも、初歩も初歩というレベルの日本語で話すには今日の会話はまだちょっと話題が難しいかもしれない。リディアは前を見ながら、さっそく英語で問題を出してきた。

「この道がカリフォルニアの州道49号線だよね。49って、ピンとくる、ユウコ?」

「一八四九年でしょう? 金が見つかったんだよね、これから行くコロマで。」

「ああ間違ったね。でも間違うと思ってた。」

 リディアは上機嫌に言う。さっそく引っかかったという感じである。

「金が見つかったのは、え〜と一八四八年一月二四日ということになっている。」

「あ、そうか、金が見つかったのは、それより一年早かったんだよね。金を探してゴールドラッシュが始まったのが四九年。『フォーティナイナーズ』というものね。」

 フォーティナイナーズ(四九年者たち)というのは、現在はサンフランシスコにあるアメリカン・フットボールのプロ・チームの名前である。百年以上も前のころ、金を探した人たちが最初にそう呼ばれたという。

「そういうことね。カリフォルニアが州になったのが五〇年。」

「そうだね。一八四八年の前は?」

「メキシコとの戦争があった。四六年から四八年。」

「戦争ねえ。」

「カリフォルニアはメキシコ領だった。」

「そうだよね。スペイン領だったこともあるよね? メキシコはスペインの植民地だったはず。」

 合衆国史の授業でそうならった。その当時は、南北戦争(一八六一〜六五)の始まりまでが前期で、それが始まったところから後期の合衆国史が始まる。カリフォルニアが合衆国の州になったのは、ちょうど前期の終わりのほう、つまり南北戦争が始まるちょっと前である。

 佑子は合衆国史を同じ教員で二学期続けてとった。当時は最低でも、前半と後半のどちらか一学期分を取るというのが、カリフォルニア州立大学を卒業するための必修条件の一つだったはずである。合衆国史の授業は短期大学に在学中に取ったが、州立大学の必修条件であっても問題ない――単位が認定されているからである。

「えーと、メキシコは一八一〇年にスペインからの独立を宣言したというけど、実際に諸外国に独立を認められたのが三六年というから、ずいぶん時間がかかってるよね。」

 リディアは教科書のような本を手にしている。それにノートというか、メモが書かれたものも持っている。

「カリフォルニアはスペイン領からメキシコ領、そして独立というわけね。いや合衆国の一部になったんだ。」

 ということはカリフォルニアにスペイン語しか話さない人がいても不思議ではない。実際、いまもラテン系が人口の四分の一以上もいる。州の公用語はもちろん英語だが、スペイン語を用いてコミュニケーションする人が一定程度いるということである。

 もっとも最近になって中・南アメリカから来たのとか、カトリック教信者で子どもの数が多いのとかも、ラテン系の人数が多い理由らしい。メキシコ系はそのひとつだがラテン系のなかで大部分を占めている。州内の地名にもスペイン語が多いわけである。

 ちなみにメキシコとアメリカ合衆国は隣りあっていて何度か戦争している。たとえばテキサス州だが、独立する前にサンアントニオ市のアラモ砦で戦いがあって守備していた人が全滅したという話は三六年。それはジョン・ウェイン主演の「アラモ(一九六〇)」という映画になっているから佑子も知っている。

 同じ年にメキシコから独立したがテキサス共和国としてで、合衆国の一員としてではない。合衆国の一部としてテキサス州となったのはそれから九年後、一八四五年のことである。

 メキシコ戦争が一八四六年に始まったというと、このころの両国はいつも戦争をしていたということかもしれない。それから約二年後、四八年二月二日にグアダループ=ヒダルゴ条約が結ばれて戦争は終わり、合衆国は戦勝国として南西部などを領土に加え、その代償として一八二五万ドルを支払った。つまり有り体に言えば合衆国はメキシコからカリフォルニア、アリゾナなどを買ったのである。

 この条約が結ばれたのは金が見つかってから九日しか経っていない。でも金が見つかったなんて、メキシコ・シティではしばらくは知らなかったのであるまいか。

 州道49号線はフリーウェイではないし、街の中は追い越し禁止の片側一車線で制限時速25マイルだから、コロマに着くまでに二十分近くかかる。ようやく目的地に近づくと英語で「マーシャル金発見州立歴史公園」と書かれた大きな木の看板が出ていた。

 さらに進むと古い家が右側に七〜八軒ある。中心部はそれだけのようだ。店のような格好をしているが開いていないし、このあたりには観光客向けの店が一軒もない。

 さらにゆっくり進んでいくと右側に小さな郵便局が道から少し離れてあった。それから、どこに止めようかと速度を落として走ってゆくと右側に広い駐車場があった。

 自動車を止めようと大きく右折すると、駐車場の右手の奥のほうに古い製材所のような木の骨組みがあるのが目に入った。歴史公園はここで間違いないから、とにかくこれから日影になるところを選んで車をとめる。他に十台ほどの車が止めてあるだけで、百台以上も入ろうかという広い駐車場はがらんとしていた。

「前に来たのはいつだったかなあ?」

 リディアは思い出せない――でも来たことがあるということだろう。佑子も以前に来たことがあった。春の学期が始まる前、短期大学が冬休みに入った一月である。だから一年半前のことで、一人で来たのだが、あまり記憶がない。とにかく一通りを見たが、それほど強い印象が残っていない。寒かったし、あまり人がいなかったのでそういった感じがしたのかも知れない。

 時刻はまだ午前十時半の少し前で、お昼まで少し時間がある。自動車は日影に止めたが、窓の上のほうを少しあけてロックする。そして二人は製材所のほうに歩いて行った。

 そこにあって古い製材所に見えたのは本物でなくレプリカ(複製物)で、下のほうに水が流れる水車のような仕組みがあった。そういう骨組みがあるだけで水は実際には流れない。川が増水したときに流されてしまうから、レプリカを川のそばに作るわけにいかず、少し離れたところに建てたようだ。

「この製材所のレプリカは前に来たときあった。この前に来たのは二〜三年前だと思うけど。」

 それでは、来たのはリディアが高校生になってからだ。合衆国では基本的にハイスクールが主催して旅行に行ったり遠足に出かけたりすることはないから、きっと家族かなにかで来たのだろう。しかし、ここはハイスクールから車で十五分くらいと近いから、もしかしたら授業で来たということがあるのかもしれない。

 製材所のレプリカは縦・横・高さが60x20x39フィート、つまり、おおよそ18x6x11・7メートルという、とても大きなものである。それが水から離れた場所に立っているが、まわりに人はいない。レプリカは周りを囲って立ち入り禁止になっていて、近寄っても中に入れないから外から見るしかない。だけど外の離れた場所からだと眺めるのにそんなに時間はかからない。

 ここはアメリカン川の南支流の河原で、このあたりの川は今いるところの東を北に向かって流れている。流れはこのレプリカから東側に五十メートルくらい離れているのである。

 水車のある製材所は、川を流れる水を動力源に、近くで伐採した木を製材しようとしたもの。それはだいたい完成したがうまく動かない。川の水がよく排出できなかったのかもしれない。

 そのため、責任者のジェイムズ・W・マーシャルが朝早く見直しているとき、排出口の冷たい水の中に砂金をいくつか発見したという。一八四八年一月二四日のことだった。

 それから四日後の一月二八日、マーシャルはサクラメントに行って、ジョン・A・サターに金を発見したことを報告している。サターは木材を必要としていて前年八月にマーシャルとパートナー契約をしていた。つまり、現場はサターの製材所である。

 冬は雨期で川が増水する――そこで金が見つかったのがゴールドラッシュの始まりである。これはアメリカ西部における最初となった。それからしばらく後に、ネバダ州やコロラド州などでも金や銀が見つかっている。

 マーシャルとサターは金が見つかったことを隠したが、そういう情報はたちまち広がって、一年ほどたつと六千人を超える人たちが金を探すようになっていたという。この人たち、フォーティナイナーズは、いったいどこからやって来たのだろうか?

「その当時は東海岸からロッキー山脈を越えてシエラ=ネバダを通過する道はなかったんだ。」

「じゃあ、どうやって来たの?」

「いまのパナマあたりで大西洋から太平洋に出て、あとは北上するというのがひとつの道だった。」

「すごく南まわりだよね。」

「もっと遠回りはずっと船に乗ったまま、南アメリカ大陸をまわったらしい。」

「ん〜、それというのも、見つかったのが黄金だったからね。」

 五〇年にはカリフォルニアは早くも合衆国の州になっているが、それは「一八五○年の妥協」と合衆国史で呼ばれている。つまり、州になるにはふつう何年も、あるいは何十年もかかるのに、カリフォルニアは二年ほどで合衆国の州になったのである。

 その妥協のせいでもうひとつの特徴として、アメリカの南部と違い、カリフォルニアは黒人奴隷がいない州になった。奴隷制度などを理由に、やがて南北戦争(一八六一〜六五)が始まろうとしているときである。

 メキシコから『ぶんどって』すぐに州にする。そういう雰囲気のなかでカリフォルニアは金発見で沸いていた。


 それから二人はレプリカから少し歩いて、アメリカン川のほうへ行ってみた。夏の渇水期で水は少なかったが川は流れていた。本物の製材所はレプリカの北で下流のほうへ二〇〇メートルほど行ったところにあったという。

 そこに行ってみると川のほとりに記念碑らしいものがある。百二十八年ほど前、ここに製材所があった。記念碑にはコンクリートのようなものに、小石で「サター・ミル」という名前が書かれているが、その下のほうには金属製の四角い碑文が入っている。

 碑文を読むと、この記念碑が作られたのが一九四六年だということは分かったが、それ以外に目新しい情報はなかった。今はもう製材所のようなものは見当たらず、その記念碑のほかには何もなかったのである。すぐそばにアメリカン川が流れていたが、製材所が流されるというような激しい流れが想像できないように、水量の少ない浅い川がゆったりと流れている。

 暑い日差しの中、サングラスをかけた佑子ら二人はまわりを見渡し、アメリカン川の上流と下流を眺めた。ちょっと離れたところで川の中に入り砂金でも探しているのか、三人の若者たちが水の中に手を入れたり川の中を見ていたりする。

 たしかに、水の中にキラキラ光るものが浮いている。だがリディアはそれを眺めて、その光るものは「雲母」であって、金ではないという。それを知らないと、たとえば瓶の中に雲母を取って、黄金を集めたつもりになるのかも知れない。

 そして二人は来た道を帰り、製材所のレプリカのところまで戻って、それと州道に挟まれたところにあまり大きくない小屋があるのに気づいた。近づいてみるとこちらもレプリカだが、その前に「モルモン・キャビン(モルモンの小屋)」という説明板が立っている――モルモン教徒の小さな家である。

 モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教)はキリスト教の一派だが、その教えで信者は禁酒・禁煙し、カフェインの入ったお茶やコーヒーなども飲むことができない。彼らのあげる理屈は少しあやしいが、そういうものが子どもをつくるのに良くないというのが、いちおうの理由らしい。

 モルモン教はいわゆる新宗教で、いろいろな意味でカトリックともプロテスタントとも違う。アメリカ東海岸で始まったが迫害を受け、一部は西海岸に流れて来たようである。新宗教と呼ばれるもののなかで、とくに大きな勢力を持つようになった。

 今はユタ州にモルモン教の大本山があるが、そこが合衆国の州として認められるため、もとの宗派の教えである一夫多妻制を禁止せざるを得なかったという。そしてユタが州として認められたのが一八九四年である。

 しかしこの小屋が建てられたのは四八年の冬ということ。それは宗教などを理由に州が作られる四十六年も前で、黄金が見つかる直前のことであった。

 説明板によると、メキシコとの戦争から帰ったモルモン大隊の人々はサターとマーシャルに雇われて、水車による製材所を作る作業にたずさわっていたという。モルモンの小屋が完成したのが一月二三日というから金発見の前日である。

 そう言えば、リディアはモルモン教徒だろうか。兄弟姉妹が彼女を入れて五人というのは、きょうだいが多いからモルモン信者みたいだ。しかし何も言わず説明板を見ていたところを見ると、どうもそうではないようである。

 それにモルモン教徒だったら、大学に入学する前、大学生のとき、あるいは大学を卒業した後で、ほかの国へ布教に行く。彼女のようにほかの国の高校に行こうとしないのではないか。

 きょうだいが多いというのはカトリック信者の場合もある。本人が、あるいは両親が信じる宗教のことはどう聞けばよいのか、佑子には分からないようだった。あまり宗教のことを深く考えない日本人だからということか。とにかく、その時も何も尋ねなかった。

 説明板を見終わったリディアは顔をあげて言う。

「次は、そこの道路の向こう側ね、ユウコ。向こうには博物館があるんだ。」

 その道路は二人がやって来た州道だが片側一車線だし、そんなに頻繁に自動車が通っていない。その道路の向こう側にも金発見州立歴史公園がつながっているようだ。とにかく、横断歩道を渡って反対側に行く。


 渡りきったところで見わたすと、漢字が目に入る。道路の反対側にある、あまり大きくない二つの建物には漢字が書かれ、中国人がこの地方にいたことを雄弁に物語っている。

 建物の中にあった説明板に眼を通すと、その建物が建てられたのが一八五八〜五九年というから、金が発見されてから十年ほどである。六〇年には中国人に貸されたというから、現地には中国からの労働者がたくさんいたのである。

 中国人はすでに一八二〇年代に合衆国に渡航し、金が見つかる前までに三二五人が来ている。それから五二年までに二万五千人、八〇年までには十万五千人以上が到着したという。最初はほとんどが男性であり、中国系の女性がアメリカに渡るようになったのはずっと後になってからのことである。

 ただ、合衆国で生まれた者はアメリカの市民権を持つという現在では当たり前のことが、一八九八年のアメリカ合衆国の最高裁判所判決まで認められていなかったという。この裁判所の決定まで東洋人には法の保護など何もなかったと言ってもいい。

 だから、たとえば裁判で証言することが長い間、認められていなかったのである。ということは、中国人は白人と違い、個人的に金を探すなどということはできなかったのではないだろうか。ただ使われるだけの労働者として働いていたのだろう。

 労働者としてとくに中国人の犠牲者が多かったのは大陸横断の鉄道敷設と言われる。一八六九年には将来のユタ州で大陸横断の最後のくぎが打たれて、アメリカ東海岸から西海岸までレールがつながる。だから六〇年代はサンフランシスコからサクラメント、そして金が見つかった土地よりも北のほうを通過し、ネバダ州レノ市を通って軌道が敷かれたのである。

 そのとき、カリフォルニアでは北側のドナー峠を通ってレールがつながるのだが、山はきつく急勾配で、峠を越える鉄道の建設は難工事だった。さまざまな事故によって、多くの中国人労働者の生命が失われたという。

「そう言えば、今はエルドラド郡にアジア系がほとんどいない。黒人もあまりいないし。」

 リディアは不思議そうに言う。

「だけど、ゴールドラッシュのころは中国人もいたんだ。金が見つかってすぐでなく、遅れて来たのかしらないけれど。」

 そして一八八三年に大火があった後、コロマから中国人たちはいなくなったと説明板に書かれている。コロマだけでなくエルドラド郡にアジア系がほとんどいないのは不思議だけど、最初に来た中国系がいないのは初めに中国系女性がいなかったということもある。

 第二次世界大戦の後しばらく、カリフォルニア州ではアジア系は白人と結婚することもできなかった。異人種間の結婚は州の法律で認められていなかったのである。もっとも、ワシントン州では十九世紀から許されていたというし、カナダやハワイでは禁止されなかったという。

 リディアが日本語を習おうとしたときでも分かるがエルドラド郡には日系人もほとんどいないらしい。しかしサクラメントには日系も中国系も、そして黒人も少なくない。だから人口が増えたらサクラメントが東へ膨張し、エルドラド郡にもだんだんとアジア系なども増えるのかもしれない。

 それから、小さな金発見州立博物館はすぐそばにあった。建物に入ってみるとあまり展示が多くない。現在において展示することは多くないのかも知れなかった――現物の金があまりないのだから。

 リディアは間をもたせるように続ける。

「エルドラドとはスペイン語で黄金郷、つまり理想の土地と思っているだろうけど、『エル=ドラド』にはどちらかと言えば金ピカという安っぽいイメージもあるんだ。」

 その説明に佑子は小さい声で『なるほど』と応えた。そしてそばの展示にはインディアン(ネイティブ・アメリカン=原住アメリカ人たち)のことも書いてあり、それを見ながら独り言のように言う。

「コロマってスペイン語ではなかったんだ。原住民の言葉だというけど、コロマというのは原住民の部族かな。とにかくスペイン語ではなかった。」

 これまでスペイン語を勉強したことがなかったから、佑子はそう言ったのである。続いてさらに展示を見ながら言う。

「コロマというのはネイティブ・アメリカンがこのあたりを呼ぶ地名かな。原住民のことをニセナン族と書いてある。」

 もともとインディアンたちはコロマに住んでいたのだから、川に砂金があるのを知っていたに違いない。けれども、マーシャルたちが『見つける』までは金のことには関心がなかったらしい。

 マーシャルが製材所を作るのに何人かのインディアンたちはモルモン大隊の人たちといっしょに雇われていたという。つまりマーシャルやサターは彼らを仲間と考えていたようである。

 だけどゴールドラッシュがあり、金を探しに来た人たちによって現地のインディアンたちはひどい目にあう。白人の病気に倒れ、あるいは白人の暴力のため、ほとんどいなくなってしまったと博物館の展示には書いてあった。インディアンは今、誰もその辺に住んでいないのかもしれない。

 博物館にはその他のことも展示されている。たとえばサターのことだとか、近くであった強盗の手配書だとかである。

 サターと言えば、サクラメントに砦が残っていて、この前の金曜日にそこの近くを通った。もちろんリディアはもうすでに行ったことがあるが、日本を訪問する前にもう一度、佑子といっしょに行くには時間がないらしい。

 そういうわけで、『個人的にサター砦に行ってみようか』と言いながら佑子は博物館を出た。

 博物館からすぐのところには拘置所跡がある。一八五七年にプラサビルに移されるまで、ここが郡の中心だったそうだから、拘置所があっても少しも不思議ではない。

 だが不可解なのは、その拘置所がひどい状態なのだ。屋根もないし、むき出しの大小の石が見える――本体がコンクリートでできていたらしい。八三年の大火――中国人がいなくなった原因――で焼けたのかもしれない。

 そして、さらに行くと少し高くなったところにマーシャルの像が立っていた。金が発見されたところを指差しているようだ。また、そこからすぐのところにマーシャルの住んでいた家もあった。中に入れず外から見ただけだったが、百年以上もたっているのに建物はしっかりしているような感じを受けた。

 そして、あまり離れていないところに溝が掘ってある。そばの説明板によれば、ゴールドラッシュのときに金を探して水を引いた跡らしい。あちこちに溝があるが一八六〇年代からは黄金はあまり見つからなくなり、これらの溝はブドウなど果樹栽培の水やりに使われるようになったという。

 黄金の発見場所はシエラ=ネバダの山裾にあり、今はここでは果樹が栽培され、ワインにされるブドウや、その他にナシ、リンゴなどが作られている。黄金がなくなり、そういう土地に変わっていったのだろう。

 前回に一人で見たときよりも、今回リディアと見たほうが佑子には良く理解できたようである。とにかく今はこの地方も何も特徴がないように見える。黄金発見というのも、昔の歴史の一コマと言ったところである。


 二人が公園をまわり、もとに戻って駐車場に帰ってきたときには正午を過ぎていた。この近くにレストランはないと聞いていたので昼食はリディアが作って持ってきていた。二人のランチは自動車の後部座席のリディアの荷物の中にあった。

 それを取り出して日影になっている公園の四角い木のテーブルに行く。腰かけて、リディアは持って来たものを出した。ツナ・サンドに、瓶に入ったオレンジジュースが半分凍っている。それに赤いリンゴと、袋に入ったポテトチップスだった。

「ツナ・サンドは私が作ったの。タマネギを刻むとき、やはり涙が出たわ。」

 リディアはそう言って笑った。サンドイッチは胡椒がきいて良くできていた。

 また、夏のこの時期にリンゴとは驚きだが、合衆国ではスーパーマーケットに行けば、このころも一年中手に入れることができた。夏は季節が逆の南アメリカから輸入されていたのである。ただ、あまり品質が良いとは言えない――お弁当用というわけだ。

 リディアが質問してくる。

「ゴールドはなんて言うのだったっけ?」

「『きん』というのが普通ね。」

「え、他にもあるの?」

「『おうごん』なんていうのもある。」

 英語ではスラングでいくつか「金」という意味の言葉がある。だけどスラングだから通じない人もいるし他の意味もある。しかし日本語では「金」「黄金」という単語が普通にある。いや今はさらに「ゴールド」という言葉も加わっている。他言語からの融通という点で、英語と日本語は違うようだ。

 リディアはローマ字で「きん」とか「おうごん」とか、ノートに書き込んでいる。それからポテトチップスをかじりながら、何か日本に行ったとき話すことがないかと、周りを見渡しているようである。そんなリディアを見て、ふと思い出したように佑子は尋ねる。

「ところで先週、ニカラグアに行ったよね?」

「そう、首都のマナグアに行ったんだけど、高校を卒業したのを祖父母がお祝いしてくれた。もう言ったかしれないけど、往復の航空券を送ってくれた。」

 このころ、中央アメリカのニカラグアではアナスタシオ・ソモサ・デバイレが大統領だった。同国では独裁が続いていたのだが、もちろんリディアも佑子も、ニカラグアが独裁国家だということを意識していなかったのである。

「ニカラグアへ行ったときの写真、持って来たけど、見る?」

 その話が出ることを期待していたようで、リディアは何葉かの写真を取り出す。

「祖父母はもうリタイア(隠居)してるのだけど、ニカラグアは住みやすいというわけ。もしかしたらずっと向こうにいる気かも。」

 写真に写った夫妻はまだ現役だと言っても良いように元気に見える。もっとも二人とも七十歳を過ぎていただろう。

「彼らはお父さんの両親?」

「いや、母の親たちです。」

 そう言えば、あまり父親に似ていないようだ。リディアはと言えば、とくにその祖母に似ている。

 その次の写真には、真ん中にリディアがいて五人が写っている。向かって左にいるのは前の写真に写っていたリディアの祖父母だが、右側にいる二人は佑子の知らない人たちで、五十歳くらいの太った男と女が着飾って写っている。

「それで、この人たちがソモサ夫妻。夫はニカラグアの大統領だって。」

「ええ〜、大統領?」

「そう、大統領宮殿にあいさつに行ったのだけど、執務室の前で写真を撮ってくれたの。」

「あなたのお母さんの両親って、何者?」

「祖父は合衆国の会社の現地支社長というのをちょっと前までやってた。その企業は材木をニカラグアから合衆国に輸入してた。」

「なるほどねえ。相手にしてみれば輸出でお金を入れてくれるというわけだよね。」

「それから二日後に招待されて、ディナーを食べにまた宮殿に行ったんです。肉を中心にすごい料理で。毎日あんな料理を食べるなんて、たまになら良いけど。」

 そう言ってリディアは笑った。そんな生活をしていれば祖父母も合衆国に帰ってくる気がしないのかもしれない。ただリディアも佑子もそのときには知らなかったが、まもなくニカラグアのソモサ独裁は終わる。

 この暑い時期に金発見州立公園にやってくる人はあまり多くない。二人が来てから何人も来ていないので、駐車場は空いたままだった。


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