第2章 エルドラド郡プラサビル
夏の北カリフォルニア内陸部は暑い。午前九時を過ぎて、今朝も気温がぐんぐん上がっている。このところの天候のせいか、自動車のエンジンは調子良くすぐかかったが、車にはエアコンがついていない――この時代の安い車のことである。
先週金曜日の夕方は日系人夫妻のお宅への訪問だったが、月曜日の今日はアメリカ人の娘に会いに行く。彼女は「交換留学」で日本に一年ほど行く予定になっていて、まもなく出発することになる。サングラスをかけ本田佑子はサクラメントを出て東に向かい、フリーウェイである合衆国道五十号をひた走る。となりのエルドラド郡の中心プラサビルまで約五十マイル(八十キロメートル)ばかり、一時間ほどである。
出発して二十分ほどで平地が終わり、なだらかな上り勾配が始まる。目的地のプラサビルあたりまで坂道はそれほど急ではない。まわりに丘陵が広がり視界は開けているが、放牧された牛がいるわけでもない。あまり自動車の往来も多くなく、合衆国道といっても静かで眠くなるような道である。
もっとも、逆方向のサクラメント行きは朝の通勤時間帯に少し自動車が混雑するという。それほど多くはないが、仕事などに通うのに片道三十分から一時間かけることはアメリカでもある。そして一九七十年代、このあたりはアメリカ合衆国でも人口が急増しているところのひとつなのである。
プラサビル市というのはシエラ=ネバダ山脈のふもとにある小さな町、厳密に言えば、法令上の市として認められた街である。シエラ=ネバダとは北アメリカ大陸の背骨にあたるロッキー山脈からだいぶ離れて西側にある山々のこと。エルドラド郡のあたりだとカリフォルニアのネバダ州境よりにあって、三千メートル級の山々が連なっている。ネバダというのはスペイン語で「雪をかぶった」ことを意味するらしい。シエラは山脈のことだからシエラ=ネバダとは「雪をかぶった山々」ということだろう。
合衆国道をそのまま走れば、州境には深いタホ湖が横たわっている。それから少しカリフォルニア側に戻ったところにある山々は、わが国の日本海側と並んで、世界でも有数の豪雪地帯にある。冬ともなればバスより高く除雪された道が山を登る。アメリカ西海岸は地中海気候で夏は乾燥期であるが、冬は雨や雪の季節である。
もっとも、プラサビルあたりでは冬でも雪はあまり積もらない。いわゆるフットヒル(ふもとの丘陵地帯)で、まだシエラ(山脈)に入っていないからである。そしてその先のサクラメントもサンフランシスコも雪は降ることは降るが積もることはあまり多くない。
エルドラド郡はシエラを登って峠を越え、向こう側に少し下り、カリフォルニア州が終わってネバダ州が始まるところまで続いている。タホ湖の南でカリフォルニア州の東の端には、フリーウェイ五十号線を中心にサウス=レイク=タホがある。まわりは夏期の別荘地だが、フリーウェイの近くはネバダのカジノ・ホテルなどに通勤する、年間を通した住民の住む街でもある。そして、人口は郡の中で最も多く、この街は一九六五年には早くも市になった。
またタホ湖の北西には一九六〇年に冬季オリンピックが開催されたことで有名なスコーバレーがある。その辺りはエルドラド郡ではなく、北どなりのプラサ郡である。スコーバレーという名のスキー場はあるが、法令上の町があるわけではない。
そしてタホ湖の南西には美しいことで知られるエメラルド=ベイ(湾)がある。この辺りはエルドラド郡だが、夏の季節には観光客がたくさん訪れてくる。周りの木々が湖水に映り、静かな湖面が広がっている。深く澄んだきれいな水に、普段は忙しく動きまわるカリフォルニアの人々がいやされるという。
タホ湖と言えば、この湖の水利権の問題が取り上げられることがある。この権利を持っているのはなんと南に数百キロも離れたロサンゼルス市だという。南カリフォルニアは水が少なくて困っているというが、水が貴重なのは南だけでなく北カリフォルニアでも同じであろう。権利を買ったのだろうが、なぜ・どうしてという疑問が出てくるのが当たり前かもしれない。もっとも、ロサンゼルス市がこの湖の水利権を持っているという話は、水が稀少であるという話題を取りあげるためのものかもしれない。
そしてネバダ州に入るが、他にない、この当時のこの州だけの特徴は賭け事が許されていたことである。一八六四年にここは州になり、一九三一年にギャンブルを許可する州の法律が通った。
もっとも、非公式の賭け事は州ができた当初から行なわれていたのだろう。ニュージャージー州のアトランチック=シティでこの後まもなく(七八年五月)賭け事が可能になるが、この時点ではまだギャンブルといえばネバダだった。
ネバダ州のカリフォルニア州との境は「ステートライン(州境の町)」と呼ばれる。ステートラインのホテルで賭け事が行われるようになったのは一九四四年のことと言われる。合衆国道五十号線がカリフォルニアから入ったところの右側に――日本とは反対にアメリカの道路は右側通行である――大きなホテルがあり、二十四時間ギャンブルが行われている。
また、ホテル最上階のステージでは華やかなエンターテインメントが提供されている。有名な歌手とかパーソナリティとかが出演するのである。そして、ホテル階下のカジノではノンストップで、つまり三百六十五日、二十四時間休むことなく、ギャンブルが供されている。
州境の向こう側のネバダでは賭け事が合法だが、こちら側のカリフォルニアでは違法となっている。もっとも、どこでそういう事が合法になるかはネバダでも法律で決まっていて、州のなかはどこでもOKというわけではないらしい。
ネバダでは売春も場所によっては合法である。一般に、人が多い街でギャンブルが可能で、反対に人口が少ないところでは、場所により合法的に売買春ができる。だから、住む人が少ないところに牧場のような売春宿があるのだとか。そうなったのは一八六四年にネバダが合衆国に加わった時からだという。
しかし、普通の日本人がその内情を知ればビックリするほどアメリカ人一般は宗教的である。でもネバダでは賭け事もできるし、売買春も可能である。そしてそれがきちんと法律で決められている。アメリカ合衆国はそういう国なのである。
佑子はサクラメントから自動車を走らせ、東にあるエルドラド郡プラサビルに向かっている。アメリカ合衆国に渡ったのは二年前である。最初はプラサビルに住み、サクラメントに移ったのは今から一年前だから、実際にそこには一年間しかいなかったわけである。しかしアメリカと言えば、エルドラド郡が思い出されるほど印象深い場所である。
とにかく、合衆国に渡った佑子は、サクラメントに引っ越す前にプラサビルに住むことになった。アメリカに渡る世話になったジョーンズ夫妻がそこに戻っていて、二人を頼って地元の公立短大に入学することになったのである。
佑子が通っていた東京の英語学校に妻メアリーさんがその年の春まで教師として勤め、成績が良かった佑子に、ぜひアメリカに留学しなさいと勧めてくれた。そして滞在先として、夫妻で戻る自分たちの家があると言ったのである。
深く考えず佑子は夫妻が戻る地元にあった「アメリカン・リバー・カレッジ」に行くことにして、日本にいたときから手続きを始めることになった。同カレッジは二年制の公立短期大学で、四年制の大学を卒業していないというのが入学条件と言えば条件である。佑子は高校を卒業して英語学校に行ったが、大学には行ってない。
早い話が留学生は、アメリカの短期大学に入って学位を目標にした勉学など、まずしない。とにかく大学レベルの勉強がしたい、つまり高校は終わったから、これからは上のレベルの勉学をしたいということである。そして同カレッジを卒業していなくても、成績が良好であるなら審査を経て州立大学に編入できる。実際に佑子は一年後、そのとおりにサクラメントの州立大学に入ることができた。
メアリーさんは三月まで東京の英語学校で教えていたが、夫ダグラス・ジョーンズさんのほうは日本に駐留する合衆国軍の軍属として、記者というわけではないが、「星条旗紙」の発行に関わっていた。まだ辞めなくても良いのだが、退職して合衆国に引っ込もうと考えたようだ。そういうわけで、カリフォルニアに戻ってからも地域紙を発行できないかと探していたが、買い取れる、良い地方新聞が近くに見つからなかったようである。
二年前の七月末、佑子がアメリカにやって来たとき、二人はサンフランシスコ空港でにこやかに出迎えた。ジョーンズ夫妻はその春に合衆国に戻っていたのである。プラサビルから空港まで自動車で迎えに来ていたが、佑子のアメリカでの最初の宿泊はサンフランシスコ市内だった。夫妻の娘がそこに住んでいて、三人は空港から直行して彼女の住所に向かい、そこに一泊したのである。
夫妻の娘ジェーンさんは何らかの理由で離婚していたが、わりと大きなアパートにそのまま幼い息子・娘と三人で暮らしていた。佑子はそのときも後からも、なぜ離婚したのか理由は聞いていない。住所はサンフランシスコ市のパシフィック・ハイツのどこかだったが、佑子は合衆国に着いたばかりで、あまり詳しいことは覚えていない。小学校にも入っていない幼い子どもがいるためか、その晩はどこにも食事に出掛けないでアパートで夕飯をごちそうになった。
食材はジェーンさんが購入していて、夫のジョーンズさんが腕をふるって料理を作り、ジェーンさんはそれを手伝い、メアリーさんは孫の世話をしていたわけである。そういう状況にあまり慣れていない佑子はどうして良いか分からず、調理のあいだ中キッチンとダイニングルームを行ったり来たり「うろうろ」していたが、結局ほとんど何も手伝わなかった。ジョーンズさんはラム(羊肉)チョップを焼いたが、それが得意であったのか、たいへんよく出来た料理で、自身も「とてもおいしい」と言いながら上機嫌で食べている。
その次の日の朝、ジェーンさんと子どもたちに別れを告げ、三人は合衆国道八十号線にのって、北東の方向へ向かった。バカビルのサービスエリアでBLT(ベーコン、レタス&トマト)、チーズ、ツナ(缶詰めにされたマグロ)のサンドウィッチで早い時刻での昼食を食べ、その後の道中ではナパのワインとか、デーヴィスのカリフォルニア大学とか、州都サクラメントとかの話をしている。会話の様子では、二人が少し地元の自慢をしたかったようである。
そしてサクラメント市に着いて合衆国道から普通の市道に降り、自動車を停めないで「オールド・サクラメント」(旧市街の一部)をゆっくり走りながら見物した。次に少し走ってカリフォルニア州庁・議会棟の建物を横に見ながら、そのそばを行くことになった。そのあと、今度は合衆国道五十号線で東に向かい、エルドラド郡に入り、サクラメントから一時間あまり走って、シエラ=ネバダのふもとの、二人の家があるプラサビルに戻ったのである。
夫妻の家は、プラサビルの東北(ひがしきた)に伸びる「モスキート・ロード」というすごい名前の道路を、街からずっと行ったところにあった。モスキートとは英語で「蚊(か)」のことである。もっとも佑子が行ったころ、蚊はもうほとんど出なかった。
そこは市の中心からもネバダ行きの合衆国道からもちょっと離れた、人気(ひとけ)の少ないところだったが、「街のなかという境界」のすぐ内側であった。周りに家がなく、「街のなか」と言うよりほとんど「山のなか」だったが、どういうわけか、そこまでがプラサビルの市内だったのである。
モスキート・ロードは街からはずれると、ところどころに家があるだけで、それからの両側は木がたくさん生えている。日本のような、手を伸ばせばとなりの家に届くというような狭いところではない――街のほうのとなりの家とは数十メートルの距離がある。そこには松や杉などがたくさん生えていて、他にも雑木があったが草は生えていなかった。この辺りは夏期になると乾燥して水がなくなるので、雑草はほとんど生えないという。
市の中心部から夫妻の家を過ぎ、大きく左に曲がって少し行ったところに境界杭がうたれていたが、その境界には「深い」意味があるという。アメリカ合衆国という国をほんの「少し良く理解する」ためか、プラサビルに着いてまもなく、佑子が庭に出ていたとき、ジョーンズさんが陽気に話している。
「日本に生まれ育った人には想像できないだろうが、消防車はそこの境界まで来るけど、その先には行かない。」
「ええぇ、どうして?」
「市税を支払っているのはそこまでで、その先に住んでいる人たちは払っていないからさ。」
「でも火事になったら、市税とは別じゃないの?」
「行ったら訴訟を起こされる――合衆国はそういう国さ。家が燃えてても人が死んでても、市の消防は境界を守る。まあ、人が死にそうと分かったら、助けないわけにはいかないだろうけど。」
だからアメリカのほんとうの田舎に住んでいると、そこが市税を払う境界の内側でないと、消防にかかるお金は払わなくてすむが、いざというとき消火してもらえない。合衆国が訴訟の国であるというのを聞かされたのは、その時がおそらく佑子にとって初めてで、どういうものかよく理解できなかったが、それは本当らしい。
また、モスキート・ロードは街から離れると何度も左右に大きく曲がっている。ジョーンズ家の入口を過ぎると左に大きく曲がるが、そこの内側、つまりジョーンズ家の敷地の中に水が湧いていた。道路の反対側は山で高くなり、たくさんの木が茂っていたが民家はなかった。道路をはさんで家の敷地のほうが低くなって、いわゆる「谷」が始まり、水がにじみ出ていた。つまり、ジョーンズ家の敷地は川の支流の始まりということになるのかも知れない。
佑子は現地に着いてまもなくそれを知り、すぐに言った。
「池が作れるわ。」
ところがジョーンズさんはそういうことを少しも考えていなかったらしい。
「でも、そこから水が流れなければ、下流のほうで問題にするだろう。訴えられるかも。」
愉快そうに眼を大きくあけ、眼玉を丸くそして左右に動かしながら、ジョーンズさんは言ってのけた。
「訴えられる?。」
「そうさ、それに、どんな池を作る――コイでも飼う?」
「う〜ん――難しい。」
「源流」でも、ここは黄金が見つかったアメリカン川南支流のいちばん下のほうであるが、川にどんな魚が住んでいるのか、ジョーンズさんにはあまり興味がなかったようである。もちろん黄金が見つかったのは、このまだ下流のほうで、この辺りはそのちょっと上である。佑子が着いたころの夏にはあまり水は出ていなかったが、冬にはもっと多く出てくるだろうということだった。それを何もせずに、つまりそのまま、下流へ流すだけだった。
それから、モスキート・ロードからジョーンズ家への入口のところには郵便箱が設置されていて、その上には新聞受けがあった。新聞受けは奥に細長く蓋もない、黄色っぽいピンクのプラスチック製の四角い筒だったが、日刊紙である「サクラメント・ビー」紙のものだった。その他にジョーンズ家は「マウンテン・デモクラット」というプラサビルの地方紙も契約している。これは一八五四年二月から発行されている、カリフォルニアでいちばん古いと言われる新聞で、今は週一回金曜日の発行だという。新聞の発行に関心を持つジョーンズさんがこれら二つの地元紙を取っていたのである。
とにかく引っ越しの後しばらくして、四角い金属でできた郵便箱と奥に細長い新聞受けの上に、ジョーンズ夫妻は自分たちの名前を出したという。モスキート・ロードからの入口、つまり郵便箱と新聞受けの上に看板を建てたのである。あまり大きくないということだったが、それが自動車に乗って見回っている市の監視役の目に止まり、たちまち取り外せ、ということになった。
「ここの市は、そういう看板は許さない、ということね。」
メアリーさんはそういって、肩をすくめた。
「市の条例で決まってるんだって。」
実際この近くに、街のなかはもちろん郊外にあたるところにも、郵便箱に苗字を書いたものもあるが、上のほうに別の「看板」を道路に出している家はまったくない。市職員である監視役が見回って条例で決まっていることを守らせる。ここは住宅地であり、看板を出してはいけないとプラサビル市の条例に書かれている。ビジネスであっても企業名を出すことも許されていないらしい。
注意されて直せば良いが、そのままにしておけば、罰金を課せられる。合衆国は自由なようだが、思いのままに生きられるというわけでは決してない。繁文縟礼(はんぶんじょくれい)など日本のことかと考えるだろうが、そうとも言えない。日本のほうがそういう面ではずっと気楽に生活できるのである。
さてジョーンズ家の家屋であるが、すでに建てられたものを買ったわけで、新しい家を建てたのではない。建てられてから十数年経っているから、新築でもないという。だが住んでみると新たに建てられたものに近かった――あまり所有物も多くなく、家の中がよく片付き、ものが散乱しているということがなかったのである。それに最近に建てられた住宅であり、しっかりしているという印象が強い。最新の構造とか設備とか、いろいろと配慮されているという。
家屋はモスキート・ロードに立つ郵便箱から奥に三十数メートルも引っ込んでいて、高さも道路から見下ろすと、屋根の上が見えるほどで、ずいぶんと低い。敷地も広く、道路との間にもたくさん木が生えているので、建物も屋根も道路に近いほうの一部を除いて、あまりよく見えない。家の大きさがどのくらいか、道路から見てもよく分からないのである。家に入るには階段を五段ほど上がるが、そこから見ると、小さな平屋の入口のように思える。
その入口の前には平らな駐車スペースがある。車庫があるわけではない――この辺はあまり雨が降らないから必要ないのかも知れない。実際、この近くに車庫がある家はほとんどない。
そして、狭い舗装が道から敷かれ、ずっと下がってその先にアスファルトで舗装された駐車スペースがあったが、それ以外、特別なものは何もなかった。そこに三〜四台止められたが、車はジョーンズさんのものが一台あるだけである。すぐに佑子の自動車がそこに加わることになる。
階段を上がった入口の手前は広々としていて、木造で三坪ほどの踊り場があり、その中央部分の家側にドアがある。周りには腰の高さほどの木の手すりがあった。ジョーンズ家は部分的に日本のやり方を取り入れていて、入口で靴を脱いだ。ドアの内側に上履きとして、各自のサンダルが置かれていたのである。
つまり、この家では上履きと外履きを区別していた。普通のアメリカ人だったら外履きのまま家に入ることになる――靴箱などは置いていない。そしてそのまま、すなわち靴を履いたまま寝室などの部屋に行く。雨が降っていても同じである。合衆国など西洋の様式は、玄関で靴を脱ぐ日本人にはあまり理解できないやり方である。
家に入るとすぐスペースがあったが、左側にはカウンターのこちらの端があって、それからさらに左の奥はキッチンだった。いちばん左側には小さな窓があり、その手前に流しがあった。調理をするのはすべて電熱でガス器具はまったくない。その他に大きな冷蔵庫や冷凍庫があって、もちろん加熱調理器(コンロ)もオーブンも電熱である。キッチンは整然としていて流しには普段、何も置かれていなかった。メアリーさんは使った食器を食後すぐに食器洗い器に入れてしまい、流しにものを置いておくことはなかったのである。
その他の電化製品もたくさんあったが、調理台の隅に置かれたパン焼き器を除き、佑子はどれにもあまり触らないようにしていた。他の人たちが使うのをメアリーさんがあまり好まないという事がなんとなく分かったからである。実際、サンフランシスコで腕をふるったジョーンズさんも家ではあまり料理することがない。このころは日本でも電化製品が出回り始めたころで、メアリーさんは新しいものを大事に使おうとしていただけかも知れない。
右側は窓が広くとってあるが、そこから見えるのは木の梢のほうだけ。ちょっと遠いところに山々の高い峰が見え、あとはその上に青い空があるだけである。街のほうに数十メートル行くと家が存在するが、逆の方向にはずっと先までない。だから、民家などの風景はぜんぜん見えない――ここは谷のいちばん奥にあたる。
カウンターと右側の窓の間には、入ってすぐのところには何もないが、その奥には大きなダイニングテーブルが据えられ、その両側には六つの椅子が置かれていた。テーブルの右は少し余裕があったが、テーブルの上には普段は何も置かれてない。左側には真ん中で切られたカウンターがあって塩・胡椒と紙ナプキンはその上に置かれ、その他に電話機もあった。七十年代では普通の黒電話である。
さらに進むと、正面に暖炉があったが薪は置かれていなかった。つまり暖炉は本物で、薪を燃やすように出来ていたが、肝心の薪がなかった。暖炉にはもちろん煙突もついていたが、どうも上のほうに「蓋」があって、閉められていたようである。つまり薪を燃やす様子は少しもなかった。というのも、家の中にもまわりにも、薪は少しも置かれていなかったのである。
ガス・ストーブのようなものがなく、暖炉も使われていないとしたら、冬季にどうやって家を温めているのだろうか。どうやら電気を熱源として温められていたようである。もともと窓は少ないし、冬季にもほんの少しの電熱で家は温められていた。またこの当時、カリフォルニアの山沿いでは夏のエアコンはなかったようである。
ダイニングテーブルの奥には、暖炉の左の壁際に、大きな箱型のブラウン管テレビが設置され、その前には椅子がテレビのほうを向いて三つほど並んでいる。ひとつはメアリーさん専用の椅子で、もうひとつがジョーンズさんのものである。壁から少し離れたメアリーさんの椅子は足を載せる台が付いた大きなもので、手元のスイッチを入れると「足載せ台」が前のほうに伸びるようになっている。ジョーンズさんの木の椅子は他のものと変わらないようで、ただメアリーさんの椅子のそばにあり座布団が載っているので分かった。そして、ダイニングテーブルの椅子もテレビに近いほうのいくつかはテレビがよく見えるようになっている。
テレビと言えば、メアリーさんは昼間にはあまり見ていなかったようである。昼の時間は読書することが多く、夜はCBSテレビのニュース番組を見るくらいだった。たまに「60ミニッツ」という番組を見ていたが、佑子にとって話すスピードが速く、最初の頃は内容まで分からなかったようだ。しかし二〜三カ月も経つと次第に理解できるようになり、おもしろくなったと一緒に見ている。
そして、テレビの後を入る形で、奥にはジョーンズ夫妻の寝室、ウォークイン・クローゼットとそれぞれの書斎があるらしかった。ドレイプ(大きな布切れ)が懸かった壁があり、ドアが閉められていたが、佑子はそのエリアには入った事がない。そちらへ行くのを「遠慮している」と言ったほうがよいのかも知れない。部屋が三つ四つあるらしかったが、入ったことがないのでよく分からない。
だがこれだけでも、つまりこの階だけでも奥がずいぶんと広いようである。入ったところは建物の横にあたるところで、家は縦長にずっと奥まで行っていたわけである。
台所のカウンターと夫妻の寝室の入口の間には階段があり、上に上るのではなく、下に降りていった。佑子が与えられた部屋は階下と言えるが、それは普通の一階だった。つまり玄関が一階のようにも思えるが、先がそれよりも低い土地であったので、玄関は二階で家に入るのに二階からというような家だったのである。だからキッチンもダイニングも外から入った二階ということになる。
当然、一階にも窓があったが、見えるのは森林というか木の幹と枝葉ばかりで、あまり見晴らしが良いとは言えない。二階の道路側の入口の近くはその下に一階がなかったが、反対側の夫妻の寝室の下に広い部屋が三つあった。佑子は階段を降りたところの部屋を確保したが、奥の二部屋は住む人もなく空いていた。なるほど佑子が来て良かったと夫妻が言ったのが分かるようだった。
二階の暖炉の下は石材とコンクリートで固められているようだったが、そこは閉め切られていて外からは見えない。その階段側は浴室兼トイレだったが、暖炉の下の反対側は洗濯機などが置かれていた。そこにはお湯を沸かす温水器も据えられていたのである。それから階段を下りたところから台所の下の方には、ドアで仕切られた大きな物置があった。ただ佑子はそのドアを開けたことはない――だから何が入っているのか知らなかった。
ジョーンズさんは昼間、自動車に乗って街のほうへ出掛けることが多かったが、メアリーさんは外に出ることはほとんどなく、家に居続けて家事全般を行なっていた。だから洗濯や食事の準備など、佑子はやることがなかった。また洗濯機や乾燥機は、すでに述べたように、上の階ではなく下に置かれていた。その佑子の洗濯は二週に一回だけだったし、乾燥機からカゴに出してたたむだけだった。たたんだ洗濯物は自分の部屋の備え付けの引き出しの中にしまうように言われていたのである。
掃除は二週間に一度ほど、掃除機をかけた。掃除機は大きな、丸い型のもので、最初に夫妻の部屋のほうで動かした後、ダイニングルームの大部屋にやってきた。佑子はその後、階下の自分の部屋、シャワー室とトイレ(この二つは、ひとつになっていたが)にかけた。階段は二〜三回に一度の割合で、月に一度くらいに掃除した。どこにも汚れがほとんどない状態で、掃除もさっさと片付いた。
上の階の夫妻の部屋にもトイレやシャワーがあったようだが、二階のシャワー室に風呂桶があったかどうかは、佑子は知らない。一階の浴室には脚があるバスタブもちゃんと据えてあったが、佑子は湯をはったことがなかった。カリフォルニアでは水が不足気味だったので、お湯を使いすぎないようにと、家に着いたとき最初にジョーンズさんに注意されていたのである。だからバスタブにビニールのカーテンを閉めた形でシャワーを使った。
ジョーンズ家では夜間の電気を使って、お湯を沸かして貯めるタンクを使っていたが、お湯をたくさん使うと水になってしまい、料理などに都合が悪い。だからシャワーは三日か四日に一回、夜の食事の後にしたが、あまりお湯を使わないようにしていた。
夏は暑いことはすごく暑いけど、日本と違い、あまり蒸さない。乾燥しているわけだし、夜は夜で暑苦しいことはまったくない。昼間は乾燥しているので、給水瓶を持ち歩いて飲用水を切らさないようにしなければならないが、力仕事を外でやるわけでなく、汗は出てもすぐ乾くので、あまり汗臭くならない。佑子は髪の毛もあまり長くなく、そんなに頻繁にシャンプーする必要もなかった。
佑子の部屋には机と椅子、もちろんそれにベッドがあったが、行ったとき机の上には照明するものが何もなかった。それで机の上に置くスタンドを買うことになったのだが、街の商店で購入することになった。スーパーマーケットの帰りについででという感じで店にちょっと寄り、安いスタンドがあったので購入した。その他に部屋には作り付けの本棚があって、佑子の教科書などを置いておくことになった。その部屋を以前の住人も子ども用に使っていたらしい。
そして、食事らしいものは夕食だけで、アメリカ式というか、朝食は用意されていなかった。朝食はパンとジャム、ピーナッツ・バターなどが置かれ、佑子が食べたいだけ食べた。いつも食パンがあったのは不思議と言えば不思議だ。
週に一度、土曜日の午前中、夫妻はいつも自動車でスーパーの「レイリーズ」に行く――一週間の買いだめをするためである。いつも夫の運転で、妻は運転免許を持っていないのではないかとも考えられるが、佑子はそれを確かめたことがない。メアリーさんは免許証を持っていたが、運転しないだけかも知れない。
夫妻は毎朝コーヒーを淹れていたが、朝食を原則として食べなかった。ドーナツをたまに食べることがあったが、ジョーンズ家は卵をあまり食べない。これは鶏卵を取り過ぎると身体に良くないという、その時の日本での報道が影響したのかも知れない。佑子は毎朝、食パンをジャムやピーナッツ・バターで食べたが、コーヒーを飲むかわりに牛乳を飲んだり、アップル・ジュースを楽しんだりした。土曜日午前中の買い物で、それらがいつもあったのである。
朝食は別々だったが、家族で食卓を囲む食事は夕食で、その準備は毎回メアリーさんがしている。スパゲッティやポーク・ソティ、フライド・チキンなどが出されたが、どれもみんなメアリーさんが作っている。スパゲッティなどは、だいたい牛や豚のひき肉が入っていた。それにレタスやニンジン、セロリ、トマトなどを使ったサラダで、パンも食パンやサワードウ・ブレッドなどがあって、単調にならないように工夫していたようだ。
日本人のイメージでは、アメリカ人は「ビーフ(牛肉)」をよく食べるが、実際にはそんなことはない。あまり食べないのである。そのかわりにポークやチキンが出てくる。ビーフに比べてこれらは安いし、いろいろと料理が可能だからである。
週に一度くらいは手を抜いたのか、「TVディナー」が出てくることがあった。メアリーさんは仕事らしいことを何もしていなかったが、書物を読むのが好きだったし、書き事もよくしていた。他には何もしないで例の椅子に座って読書していることも多かった。だが本に少し夢中になると、夕食準備の時間がなくなってしまって、TVディナーが出てくる。
TVディナーは日本ではあまり見ることがないけれど、オーブンで温めて熱くする、アルミトレイに入れられた、できあいのディナーである。そのときのメーンは、薄いビーフを煮たものだったりするから、安物というわけではないが、温めればよい食品だった。とにかく夕食はメアリーさんが作ったのであるが、ときどきのTVディナーも、気分が変わって良いということになる。
昼食といえば、佑子は外で食べることが多かった。ただ週末の昼食にはたまに、夫のジョーンズさんがみんなの分を作ることがあった。ツナやスライス・ハムなどのサンドウィッチが多かったが、ポテトフライやコーンチップやアップル・ジュース、たまにニンジンのジュースが出てきたりした。もちろん、それらは袋に入った商品のままだったし、ジュースなどは瓶や缶に入っているものだった。
アルコールの類はほとんど飲まなかった。とくにジョーンズさんはなぜか酒類を口にすることはほとんどなかったのである。メアリーさんのほうはビールの小さな缶をあけていた。缶は百三十CCくらいの小さいもので、もちろん酔わなかったが、血圧が低いためか毎日一缶程度飲んでいたようである。
佑子は酒を飲むことはでき、日本では酔っぱらった経験もある。日本にいたときは飲むこともあったが、理由がないと飲みたいということもない。結局アメリカに来てから飲んだのはクリスマスのとき、メアリーさんが作ったパンチだけで、ジョーンズの娘家族と一緒だったが、それもひとグラスだけと少量であった。
夕食のあと片づけは家族みんなでやった――といっても、三人だけである。食器洗い器があったし、残飯もあまり出ない。瓶や缶などはまとめて置いておく入れ物があった。ゴミは週一回の回収にトラックがまわってきたが、蓋付きの大きなブリキのバケツに一杯になることもなかったのである。
合衆国に行き、公的なことでいちばん最初に佑子がしたのは銀行口座を持つことだった。そうしたほうが良いと言ったのはメアリーさんである。それでアメリカに着いた最初の週に、ジョーンズ夫妻に連れられてプラサビル市内におもむき銀行に行くことになった。そこはダウンタウンにあったセキュリテイ・パシフィック・ナショナル銀行のプラサビル支店だった。
入口には警備員がいたが、腰に拳銃をぶら下げ濃い紺色の制服を着ていたので、警察官がたまたまいるという感じであった。その時もそれからも、佑子は警察や保安官事務所の世話になることはなかった。カリフォルニア州でもエルドラド郡はその当時から比較的安全で、昼間から犯罪が起こることはめったになかったのである。
プラサビルにも警察があり、郡の警察である保安官(シェリフ)とは別の組織である。その二つの組織に上下はなく、市の警察署と郡の保安官事務所とは協力しあっている――市内は警察が担当し、郡の残りは保安官である。市の警察はあまり大きくなく、エルドラド郡のなかで警察署があるのは、プラサビルとサウス=レイク=タホの両市だけで、郡の他地域は保安官事務所で見ているという。
カリフォルニア州では各郡に保安官が一人いて、基本的に選挙で選ばれている。そして保安官助手は保安官が雇う。市の警察署長が普通、市会議員(市長)に雇われるのと対照的であり、一般の警察官は署長に雇用されている。もちろん保安官や保安官助手とか警察官になるには警察学校を修了しているなど、資格が必要である。
市長といってもプラサビルのような小さな市では市会議員五人による互選が多い。だから五人がだいたい順番に市長になっていく。郡議会議員(スーパーバイザー)も同じで五人が選ばれる。プラサビルのような小さな街やエルドラド郡では特別に市長や郡会議長の市民による選挙はないようであるが、サンフランシスコやロサンゼルスのような大きな市(郡を兼ねる場合がある)では別である。市会議員がたくさんいるし市長は特定の選挙で市民に選ばれている。
にこやかに警備員にあいさつしながらジョーンズ夫妻が支店に入り、佑子があとについていく。窓口のカウンターの外の、いちばん奥の机に座っていた女性がそれを見て、すばやく立ち上がり笑顔で三人を迎える。右側には窓口の女性四人が客の男女を相手におしゃべりしながら手続きしている。まだハイジャックなどがあまりなかった時代で、普通のカウンターの係員たちである。
出迎えた奥の机のバーバラさんは夫妻とよく知りあった者たちとしてあいさつしている。夫妻は市内に引っ越してきたばかりだが、四カ月もたてばアメリカではよく知っているのである。そして新たに来た留学生として佑子がバーバラさんに紹介される。夫妻と同居していると説明され、口座を持ちたいのだという。こういうことはカリフォルニア州ではよくあることなのかも知れない。
バーバラさんはそこですぐ仕事に戻って机に座り、手際よく書類を作っていく。夫妻と佑子は机の反対側に座る。住所などを書き込んでから、バーバラさんはタイプライターから顔をあげ、佑子を見つめて訊ねる。口座を持つにはお金がいるが、いくらあるのか。
佑子はそのとき四千ドルを持っていたので、それを財布からとり出した。その時の為替レートで百二十万円ほどである。二年の間、週末に働いたお金に佑子の両親が同額以上を足して作ってくれた。その中から今までに使ってしまった金額を取り除いたものである。
折り目のつかない真新しい千ドル札が四枚で、日本の銀行で受け取ったままだが、アメリカの銀行でも千ドル札がめずらしいのか、バーバラさんは紙幣をまじまじと見つめる。そして笑顔を見せて、アメリカでも千ドル札はあまり見ることがない、などと言い訳をする。ニセ札かどうか確かめていたのかも知れない。ともかくお金を渡して四千ドルの預かり証をもらい、その口座の小切手帳は一週間後に郵送されてくるという。
当時の合衆国では小切手が万能のように使われていた。佑子の場合、無利子の小切手口座ではなく、普通預金口座で小切手が出せるということだった。カリフォルニア州内では小切手が便利な支払いの手段であり、佑子のこれからの大きな支払いは、大学の学費も含め、すべて小切手になる。もちろん、佑子はまだクレジットカードを持っていないので、その他の買い物は現金でということになる。
それから八日後に送られてきた小切手帳には名前と住所が印刷されていた。住所はもちろんモスキート・ロードに番地が書かれたジョーンズ家のものである。それを所持することになり、佑子はアメリカ社会で一人前と認められた気持ちがすると、ジョーンズ夫妻に語っている。そして少なからずそれを手伝ったので、バーバラさんに対しても特別な気持ちを持ったらしい。
銀行口座を作ったら、自動車を購入したほうが良いとジョーンズ夫妻はいう。短大に通うのに歩いて行くわけにはいかないし、ちょっと時刻が遅くなると身の安全が心配になる。日本で運転免許を取ったし、実家の車で運転も少しやっていたので、佑子は国際運転免許証を持って来ていた。メアリーさんから、アメリカに行ったら自動車の免許が必要よ、と言われていたのである。
地元紙マウンテン・デモクラットのクラシファイド=アド(三行広告)による個人広告を見てジョーンズさんに相談し、ダットサンを選んだ。実家の車も日産系だったし、日本車は燃費が良いからという理由である。その自動車は五百ドルと広告に書いてあった。
広告にあった番号に電話をかけると相手は関係のなさそうなスーパーの駐車場を指定してきて、そこで会おうという。そこは佑子もまだよく知らないところである。場所はプラサビルの東の中心的な道路「ブロードウェイ」に所在するスーパーマーケットの駐車場。この時はジョーンズさんの車に乗せてもらって行くことになった。
駐車の白線が引かれているだけの、だだっ広い場所の道路に近い片隅に相手は自動車二台で来ていた。一緒に来ていたのが友だちだか兄第だか分からなかったが、ジョーンズさんは黙っていた。売り渡そうという自動車はもちろんダットサンだったが、中古もいいとこだった。エンジンをかけ、前後に動かしてみて、ブレーキなどの調子を見た。別にどこにも不具合なところはなかったし、燃費がいいよなどと、持ち主である中年の男性は言う。あやしげなところは少しもない――信頼して良いということだった。佑子はさりげなくジョーンズさんのほうを見たが、この時も別に何も言わなかった。
何分も時間をかけないで、運転してきた持ち主から自動車を買うことにして、その場で五百ドルの小切手で支払った。小切手を使った最初の支払いである。このように、アメリカで自動車を買うのは簡単である。所有を意味する書類をその時そこで受け取り、どこにも売買を届け出る必要がない。そのとき購入したのが佑子のいま乗っている中古のダットサンである。すぐにとなりのガソリンスタンド(英語ではガス=ステーションだが)に行って燃料を入れる。
そのガソリンスタンドはセルフ・サービスの店だった。アメリカのセルフ・サービスのスタンドでは最初に代金を支払ってしまう。後から清算なんてしないのである。だからどのくらい入るか知っていないと困ることになる。ガソリンは少ししか残っていなかったから燃料を入れることにより、ほとんど満タンになった。それに乗って帰り、その日の佑子は掃除したり磨いたりに没頭したのである。
また、日本で出された国際運転免許証は一年間有効だったが、アメリカの運転免許にしたほうがいいとジョーンズさんが言うので、DMV(州自動車局)に行くことになった。日本の免許証は警察が出すが、カリフォルニアではDMVという役所が担当である。免許証を取るためには自分の自動車で市道を運転し試験を受けることになるから、少し車に慣れたころにDMVを訪問することになった。
日本の免許証にはまったく英語が入っていない。だから外国の警察官に免許証を見せても、これが運転免許証であると分からない。ということで国際運転免許証が必要になるが、カリフォルニアの州警察(カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール)の警察官の一人に言わせれば、日本の免許証があればアメリカでも運転はでき、条約上、国際運転免許証など必要ないという。日本の警察は国際運転免許証を取得させるため(というか、その手数料をとるため)、免許証に外国語を入れてないのではないかと彼は疑っている。英語が入っていないのは、あるいはそういう理由があるのかも知れない。
とにかく運転免許の試験であるが、なにしろ日本で免許を与えられ、すでにカリフォルニア州でも運転している。ということで、DMVに行って書類に記入し所定の金額を払うと法規の筆記試験があり、それに合格すると今度は運転の実技試験がある。試験官が受験者の持っていった車の助手席に座って発車するのだが、DMVのあるブロック(街区)の周りをぐるりと一回りするだけでOKになった。日本で免許を取っているので、実際の運転試験はすごく形式的である。免許証は後から郵送されるという。
郵送されてきた運転免許証は少し厚い紙に印刷されているだけで写真もない。もちろん、その免許証はカリフォルニア州の住民と同じものである。もっとも、その後しばらくして八十年代になると、カリフォルニア州の免許証は写真が入ったものになった。日本の現在の免許証と同じような雰囲気のものになったのである。
やがて九月の始めになった。一九七四年九月一日は日曜日であるから大学の授業は二日から始まる。その前の木曜日、佑子はジョーンズさんの運転する自動車に夫妻と一緒に乗って、アメリカン・リバー・カレッジへ行くことになった。夫妻はきちんと正装していた――つまりジョーンズさんは茶色の背広を着てポーラー・タイを絞めていたし、メアリーさんも濃い青色の上着に同じ色のスカートだった。佑子も濃い紺色のスカートに同じ色の上着を着た。もちろん白いブラウスで、何とはなしに暑苦しく、堅苦しい感じである。
同カレッジはプラサビルの西にあった。だからモスキート・ロードを走り合衆国道五十号線に出て、それにのって西に行く。すぐに降りてプラサビル・ドライブに入り、それからしばらく行って左折すると同カレッジである。その距離は全部でだいたい十キロ弱、マイルで言えば六マイルくらいで、ゆっくり走って約二十分である。合衆国道の部分でプラサビル中心街を避けるということになる。合衆国道といってもプラサビル市内のあたりは信号で止まるし、もちろん有料ではない――これから短大に通うのに毎日通る道である。
キャンパスに着くと駐車場があり、その脇に校舎が立っているのだが、平屋の小さな小屋のようなものが四〜五棟あるだけで他には何もない――およそ大学らしい建物はないのである。事務棟があって、それも平屋の小屋で仮の建物のようである。この短期大学の分校は開かれてすぐのようだったし、それから十年ほどでサクラメントの中央キャンパスに引き払ってしまったのである。
ジョーンズ夫妻は小さな看板が前に出ている事務棟に入っていって責任者を探した。すぐにディーン(学部長)はアート・スコットさんと分かった。ジョーンズ夫妻はディーンにあいさつして、入学が許可されているとして佑子を紹介する。それから日本のことを色々と話して、自分たちの経験を面白おかしく語っている。そして大学の授業は九月二日月曜日に始まるという確認をすることになった。結局、あいさつだけでその日は終わってしまったのである。
アメリカの大学では「入学式」のようなものはない。入学はあらかじめ許可されていて、九月には何もなく授業が始まる。ここの短期大学は前期・後期の二学期制で、授業は月水金の定時から五十分間と火木の一時間十五分の授業に別れている。受講希望者が多い授業の場合、指定されることもあるが、希望する授業を取れることが多い。受講生は最大でも二十人ほどで、日本に比べると少ない。もっとも有力大学では受講生数百人の「有名授業」もあるという。
佑子は授業がすぐに始まった「合衆国史前半」を取ることにした。カロライナへの失敗した移住やマサチューセッツ・プリマスの出来事などから南北戦争の始まりまでである。月水金の午前十時から五十分間の授業となる。その他には数学(代数学)や化学など、その時の留学の注意などに書かれていたように、理系を多く選んだ――五科目ちょうどである。二週間ほどすると登録があった。地元の学生は無料であるが、外国人学生は授業料を払わなくてはならない。
とにかく、日本のように何科目もたくさん登録しない。そして一科目三単位であるから、一年間で三十単位を取ることになる。在学の二年間で六十単位になり、短大卒業に必要な単位数である。もちろん、その単位数の残りは専攻になるように専門科目も取らなくてはならないし、合衆国史や英作文のような必須の授業科目もある。
短期大学の授業の担当教師は大学院生であることも多い。合衆国史を担当したのもカリフォルニア大学デーヴィス校の博士課程に所属する人ということだった。といっても、若いわけではない――もう四十歳は過ぎているのではないか。そしてテストが毎月にというほどある。佑子は一回目のテストでは慣れていないせいもあって七十点くらいだったが、二回目からはほぼ満点の成績を取ることができた。問題ないというか、成績優秀である。実直な◯×質問が多いので素直に答えれば良く、いわゆる「引っかけ」はないのである。
教科書の販売には事務棟とされている建物にコーナーが設けられていた。ここのキャンパスは小さいので受講者も少なく、教科書を販売する書店を開くほどのこともない。その点、佑子が次年度から所属した州立大学には立派なブックストアがあって、その時に売れている多くの書籍とともに、教科書などを取り扱っていた。
合衆国の大学のブックストアで特徴的なのは「使用済み教科書」を販売することだろう。まず使った教科書を半値くらいか、それより良い値で買い戻す。そして中古として売るのである。値段はもちろん買い取ったより高いが新品より安い。ブックストアで新品と中古が並べてあるから買う者は選択できる。長く使用したいと思えば新しい教科書を持つが、多くは「その場限り」というか、その学期だけだ。使用済み教科書は何回も使われることになる。ところが教科書会社はそんな事情をよく知っている。だから五〜六年で大幅な改訂を行なう。改訂されたら、もちろん買い戻しはないのである。
日本の場合、書店は中古教科書を売ることができるのだろうか。再販禁止(再販売価格維持)ということで、日本では新品の書籍は割引ができないことになっている。合衆国ではそういうルールがないので、値段は売る書店が決める。もちろん、新品の教科書は全国でほぼ同じ値段だが、中古の教科書の値段は店で決めているようである。日本では東京・神保町の書店等で古い書籍を扱っているが、大学などで使える教科書はないようである。
困ったことに、その短期大学分校には図書館がなかった。図書室として同じ建物に、各授業のための参考図書二、三冊の書籍を置いただけだし、読むべき資料として二、三部が置かれていた。だけど図書に関連してあったのはそれだけである。だから図書館がないというのは、佑子が次年度に州立大学に移った理由のひとつである。
いま資料を見ると、当時はプラサビル市内のあちこちに図書室があったようだ。現図書館は郡役所の近く、つまり短期大学があったすぐ近くに一九七八年、佑子が留学した四年後に新築されている。ということで佑子がその図書館を使うことはなかったのである。
それから昼食であるが、佑子は近くにあった「ジェーンズ」というハンバーガー・ショップで買うことになった。自動車を駐車場に停め、建物の外に面した窓口に行って、ハンバーガーやホットドッグを注文する。ジェーンというので女性かと思ったのだが、働いているのは若い男性だけのようである。すぐに注文したものを出してくれるので、代金を支払うがチップは要らない。窓口の近くの野外にテーブルも据えてあったが、佑子はそこに座ることもなかった。
佑子はその後でそばのスーパー、レイリーズに行って、何か飲むものを買う。その逆の順序もあって、スーパーで飲み物を買ってからショップに行くこともある。もちろんハンバーガー・ショップにもミルク・シェイクやコーラなどの瓶詰め飲料があるが、佑子はそういうものがあまり好きでない。そしてハンバーガーかホットドッグと、トマトやりんご、オレンジのジュースと瓶詰めの水を買い、いつも昼食は短大駐車場の自動車で食べていた。州立大学のカフェテリアで昼食を食べるようになっても、一人なのは同じである。
しかしホットドッグとは変わった呼び名である。なんでも元はダックスフント・ソーセージと呼ばれていたが、ある漫画家がダックスフントの綴りが分からなかったせいで、ホットドッグと書いたらしい。それが定着してしまうところがアメリカの変わったところである。今ではハンバーガーと同じくらいポピュラーな食べ物で、球場などで販売されていて、その場合もチップは要らないのである。
そして近くにはレストランもあったが佑子は入ったことがない。レストランは入るとテーブルに案内され、結局はチップを置くことになる。その当時、チップは5%くらいと言われていたが、今は8%くらいか。とにかく、レストランではチップを残さなければならない。そういう習慣がない日本人はなかなか、このやり方に慣れない。州立大学でもカフェテリアはセルフ・サービスでチップは不要だが、学内にはチップ必要のレストランもあったようだ。
佑子は月水金にハンバーグ、火木はホットドッグと決めていた。肉はどちらも一〇〇%ビーフだと言うが、佑子にはほんとうに牛肉か、それとも豚肉などが混じっているのか分からなかった。ハンバーグはチーズを載せることもあったが、たいがいは肉とトマト、タマネギ、レタスをバンで挟んでいた。ホットドッグはもちろん細長いバンで包んでいるが、日本とはバンの切り方が違うようである――日本では上を切って開くが、アメリカでは横を切る。それに合衆国ではバンであるが、日本ではどういうわけかパンと呼ぶ。
結局、ジョーンズ家での生活は一年で終わり、佑子はその後サクラメント市に引っ越すことになる。成績が良かったこともあり佑子は短期大学から州立大学へと転学することになったのである。ジョーンズ夫妻は思っていた以上に佑子の成績が良かったので州立大学に移ることを喜んでくれた。けれども、せっかく見つかった「下宿生」が一年でいなくなることはさみしく、残念でもあったようだ。
また、佑子の生活で日本とあまり変わらなかったことがある――それは日曜日のことである。日曜日の午前中、アメリカ人の多くは普通、教会に行く。彼らはだいたいキリスト教信者で、日本人が戸惑うほど信仰が強い。しかし佑子は教会に行ったことがなかった。というか、ジョーンズ家はキリスト教徒ではなかったのである。
それではジョーンズ夫妻は何を信仰していたのだろうか。二人は日本にいたとき、日本独特のある宗教の信者へと改宗していた。佑子はそれを知っていたが、二人は一度もその信仰に誘おうとしなかった。実際、佑子はその信仰の細かいことを知らなかったし、それに反発することもなかった。二人が家の前の道路に看板を出そうとしたのも、その宗教が関係していたようだ。でも市の条例は看板を出すことを禁じていたので、すぐにあきらめたらしい。
ジョーンズ夫妻は佑子の見ているところでは、信者としての行動はとくに何も行なわなかった。家で彼らの部屋を閉め切っていたのは、あるいは信仰を佑子の知らないところで行なうためか。一カ月に一度ほど、サンフランシスコ、オークランドやバークレイに出掛けていたが、それがなんのためなのか佑子は知らず、ただ黙って留守番をしていた。結局、二人にとって、その信仰がどういう意味を持っているのか、分からずじまいのままであった。
合衆国に来て一年ほどで、佑子はプラサビルからサクラメントに移ってしまった。ジョーンズ夫妻にはいろいろと世話になったが、佑子が順調に留学を進めるのを二人は喜んでいたようだ。それが合衆国での留学生としての生活の大きな支えとなったのである。
ともかく、佑子が留学を始めてほぼ二年が経つが、最初の一年はアメリカでの生活の基礎となった。佑子はそんなことを考えていたようだが、自動車はプラサビルに入ろうとしていた。
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