第1章 日系人夫妻
八月も中旬になり残り少なくなったが夏休みがまだ続いている。サクラメント市はサンフランシスコの東北にあるが、東西の山々に囲まれた盆地にあり、夏期は海岸にあるサンフランシスコよりもずっと暑い。その強い日照りの中、カリフォルニア州立大学サクラメント校の北側、つまりJストリートにある正門から、みどり色の「ダットサン」が入っていく。
自動車は1200ccツー・ドアで、日本での呼び方は「日産サニー」だが、アメリカ合衆国ではダットサンと呼ばれている。その当時ダットサンという名称は日本でも用いられていたが、一九八〇年代から日本でも合衆国でもそう呼ばれなくなったという。とにかく合衆国では小さな車である。運転しているのは濃いみどり色のサングラスをかけた本田佑子で、日本からカリフォルニアに留学して二年が過ぎようとしている州立大学サクラメント校の学生だった。
ダットサンは州立大学にまっすぐ入って南に向かい、それから丁字路を左つまり東に折れる。学生寮の駐車場の南端にある唯一の入り口にまわるが、目的の学生寮は駐車場の奥のいちばん北にある。まだ夏休みの学生が多いのか、駐車場はほとんど空である。車は正門から大学に入ったときと逆の北向きになり寮に近づいて行く。
しかし佑子の車には学生寮の許可をとった駐車票が貼られていない。学生寮に住んでいないので、そこでの駐車許可はもらえないのである。かわりに大学が発行した普通の駐車票が後のバンパーに貼ってあるが、そのための駐車スペースは学生寮の近くにはない。だからコイン(硬貨)を入れるメーターが各スペースについている学生寮そばの有料駐車場に入り、駐車料金を入れないで車を止め、そのまま運転席に座って待っている。
自動車には時計がついていない――このころの安い車のことである。腕時計を見ると約束の午後四時半の少し前だった。合衆国ではデイライト・セイビング・タイム(つまりサマータイム、夏時間)といって、この当時は四月に時計を一時間早め、十月に遅くしていた。だから午後四時半といっても、まだ真昼並みの暑さである。
これは一九七六年八月十三日金曜日のことで、この年の七月四日にはバイセンテニアル(独立二百周年記念)のお祝いがあった。その独立記念日の夕方にはサクラメントでも花火の打ち上げがあったようだが、佑子の周辺ではとくにお祝いという感じでもなかった。
大友千賀雄がまだ出てきていなかったので、佑子はあまり迷わないでエンジンを止める。駐車場に入って四〜五分が過ぎたころ、千賀雄はようやく現れるが佑子の車に気づかない。立ち止まって周りを見わたすが、分からないようだ。それを見て、佑子はドアをあけて外に立ち、声は出さないが手を振る。
「すみません、遅くなって。」
そう言いながら千賀雄はゆっくりと車に近づいてくる。そして車がダットサンであるのを見て言う。
「本田さんの車は日本車かなと思っていたけど、やっぱり。」
「――やっぱり、ってどういう意味なの? とにかく乗って。」
ゆっくりと右側にまわりドアを開けて千賀雄は乗り込み、バタンと閉める。日本から輸入されているけれど、左ハンドルというか運転席は左で、助手席は右である。
運転席に座りなおした佑子はエンジンをかける。
「本田さんらしい車ですね。ボクもいちおう運転免許とったんだけど、国際免許にしてくるのを忘れたんです。まあ、日本でも運転したことはあんまりないんですけどね。」
千賀雄は話し続けるが佑子は取り合わない。
「上野さんのお宅はどこ?」
「え〜と、Vストリートで十四番街と十五番街の間です。」
◯◯番街とは「通り」を意味する――つまり街でなく、ストリートと同様、街路の名称である。合衆国の住所はすべて通りを基準にしている。
佑子はそれを聞き、黙って車をまわして駐車場から出てゆく。そして入ったときとは逆方向に進んで北に行き、大学の正門に戻って左折し、Jストリートを市の中心に向かって走った。
サクラメントも中心部は合衆国の他都市の多くと同じで、縦横、碁盤の目のように道路が配置されている。東西に行く通りの名前はアルファベットであり、南北の場合には数字が用いられている。ただ、どういう理由でそうなっているか分からないが西のほうがほんの少し北に寄っている。あるいは単にアメリカン川の流れに合わせただけかもしれない。
州立大学は市の東側にあり、そのすぐ東にはアメリカン川が流れている。下流は北に行き、それからまもなく西を向くが、その上流は東に行っている。そのアメリカン川の南支流で黄金が発見されたゴールドラッシュは、すでに百三十年近くも前のことである。
Jストリートは大学キャンパスの西北の角からまっすぐ西に走っている。もちろん西といってもすでに述べたように行く先は北に寄っている。そして大学西側の五八番街からサクラメントの西の端にある三番街まで、Jストリートはまっすぐ走っているわけである。
反対に東側へ行くと、五八番街からJストリートは北側のほうに緩やかに、しかし大きく丸く曲がっている。大学の正門は六〇番街にあり、大学のキャンパスはそれを北端として、その南側にある。そのまま進むと、Jストリートは市の中心から離れて曲がったまま東へ行くが、同じように北に曲がったHストリートと合わさってアメリカン川で終わる。橋を渡ると道路は名前がフェア=オークス・ブールバードとなる。
四日前の月曜日、州立大学のほぼ中央にあるカフェテリア(学生食堂)で、佑子は昼食に一人でサンドウィッチを食べていて、もう終わろうとしたとき千賀雄に声をかけられた。
それから約一年前の七五年九月、学期初めの登録期間中に二人は教室で顔をあわせたことがあった。結局、千賀雄はその授業を取らず、その次の授業から来なかったけれど、その後二週間ほどして、このカフェテリアに一人で座っているのを見かけた。お互いに名乗り日本からの留学生と確認して、それからは日本語で話した。
千賀雄は大分県竹田市のT高等学校を卒業してすぐに合衆国に渡った。英会話は多少できたが渡航後に英語のクラスを取り授業が受けられるようにと九月まで準備している。その後一年間、サクラメント・コミュニティ・カレッジ(公立短大)で授業を取っていた。
会ったときの佑子はアメリカに渡って一年たっていた。ただ渡航前、東京の英語学校に二年間通っているので、年齢は佑子のほうが上だったのである。
コミュニティ・カレッジから州立大学に転校して学生寮に入ったと千賀雄は言った。佑子はといえば、妻のほうが英語学校で教わった先生であるアメリカ人夫妻のプラサビルの家に住むかたちで世話になり、こちらはアメリカン・リバー・カレッジで一年過ごし、州立大学に入っている。どちらも入学して一年たっているわけだ。
アメリカの大学では転学したとしても、最初から『やり直す』ことはほとんどない。一部科目を除いて単位がそのまま認められることが多い。ともかく、千賀雄は佑子から見て同学年ということになる。つまり、アメリカという国でも大学教育でも、二人は「同輩」ということだ。
日本であれば二つ年下の同輩ということで千賀雄と佑子の関係は面倒かもしれないが、合衆国とくに州立大学ではそういうこともない。先輩・後輩でものごとを考えることをほとんどしないからである。だから千賀雄のほうは学年よりも年齢を意識していたかもしれない。もっともアメリカ人だったら年齢を考えるということもあまりしないだろう。二人の年齢はほとんど同じなのだから。
千賀雄は積極的に立ち回りサクラメント仏教会に行き、土曜日にアメリカ人の子どもたちに日本語を教える仕事を見つけた。そこの日本語学校にいるのはアメリカ人といっても、ほとんどが日系人の子どもたちである。
そこまでが最初のときの会話で分かったことである。その後、何回かカフェテリアで見かけたことがあり、手を振るなどのあいさつをしたが会話することもなかった。その千賀雄が声をかけて来たのである。
千賀雄は持っていた何冊かの本をテーブルの上に置くと佑子の正面に座り、それからゆっくりと話し始めた。それは日系人の夫妻のことだったが、最初にどうして知り合いになったかという、きっかけの話だった。
「四月のことだったんですが、お釈迦様の誕生日ということで十日に仏教会で集まりがあったんです。そこで上野さんという人と出会いました。奥さんと二人で出ていたんですね。」
その後、仏教会の日曜日の会合で毎回のように出会ったという。そこで千賀雄は留学生で子どもたちに日本語を教えていることや、学生寮に住んでいるという話になって、上野さんのお宅に誘われたらしい。一度は短い時間、食事に行っているという。
「どうですか、今度いっしょにお宅に行ってみませんか?」
「そうね――、行ってもいい気がする。」
千賀雄の言い方は誘いだったが、佑子はとくに彼に関心があったわけではないようだ。上野さん夫妻というか、地元の日系人という話に興味を引かれたようである。
「上野さん夫妻はかなりの年齢だけど話はしっかりしています。話すのは英語でなく、まったくの日本語ですけど。」
「お宅はどこ?」
「サクラメント仏教会のすぐ近くです。仏教会があるのは市内の南のほうです。二人とももう歳なので自動車は運転しないと言っています。」
「自動車だったら、私が持っている。」
「それじゃあ、乗せてってくれます?」
「いいわよ。市内の南の、仏教会の近くよね。」
「そうです。じゃあ寮へ戻ってから電話をかけます。いつでもいいですよね?」
「今週ならね。ほかに予定はないから。」
「じゃあ、向こうの都合が分かったら電話します。」
そういうわけで、佑子が電話番号を千賀雄に教えたのが四日前で、その日の夜に、金曜日に訪問したいという連絡があった。
午後四時半をまわって太陽は少し西に傾いたがまだすごく暑い。それと関係なく千賀雄は感心したように言う。
「サクラメントは日本の街に比べると木が多いですね。それに塀がないし。」
自動車はゆっくりと西へと進んでいる。道路の両側に並木があり、いろいろな木が植わっている。その脇には歩道があり、その外側には塀がなく、駐車場があったり建物があったりする。
合衆国の街で佑子が行ったことがあるのはサンフランシスコとサクラメントのほか、東となりの「プラサビル」くらいである。だからサクラメントは並木が多いほうか分からない。ただサンフランシスコには、あると言えばあるけど、こんなに並木はなかった。もっとも当地には一晩いただけである。プラサビルはサクラメントの東にあるが、あまり大きな街でなく道路に並木などはなかった。
「そうねえ。でも並木も木の種類が多くて何が植わっているのか、よく分からないよね。」
「ほんとうにいろいろな木がありますね。」
サクラメントの街は並木が多く、道路は一般にきれいに清掃されている。清掃車が回転するブラシで毎日、掃除する――一日おきに道路の左右を掃いてまわっているのである。
そして碁盤の目のように道路が配置されていて、宅地はきれいに整備されている。四角の宅地にこれまた四角の住宅が並んでいる。日本のような小さな土地や形が四角でない土地はない。すべての家がいずれかの道路に接していてその道が直交しているのである。
そして家のまわりにたっぷり土地があり、そこに木が植えられている。サクラメントのような街では法規制があって、放置された土地など、ないのである。
また看板の類は立てられていない。これにも規制があって立てられないのである。その点が日本と違う。日本では看板に関係した法律はあまりないが、サクラメントを初めとして、アメリカには看板に関する、多くは禁止する条例がある。そして木が植えられ芝生が生えていることが多いが、ほとんどの場合、これらも条例で決まっているという。
Jストリートの四十四番街あたりには左側にヤシの木が並んで立っている。やがてアルハンブラ・ブールバードとの交差点に出る。三十一番街がなく、かわりにこの道路が南北に走っている。少し先の三十番街と二十九番街の間にはフリーウェイが頭上にある。
サンフランシスコからの合衆国道八十号線はサクラメントの北側を迂回して市街の東北方向へ行くが、その別路線つまり支線が市街地の西で分かれて街の南を走り、直角に曲がってここを北に行き、街の東北で本線に合流する。
Jストリートはと言えば、その三十番街でこちら向きの一方通行が終わる。つまりその向こうにはこちらからまっすぐ行けないのである。また三十番街はこちらから見て右行き、つまり北向きの一方通行だから、左折するならアルハンブラ・ブールバードしかない。
佑子は現在住んでいるアパートから自動車で出る前に、サクラメントの地図を見ている。今、その地図はダッシュボードに入っているが、エンジンをかけて暖気運転をするとき、この街の地図で、これから行く道を確かめるようにしている。
現在の自動車は暖気運転など必要ないだろうが、その当時の車、とくに佑子の自動車のように小さな車は、乗り出す前に二〜三分のエンジン運転が必要だった。今は夏だったが、冬であればチョークを引いて時間はもっと長くなる。
そういうことで地図を見る時間があり、仏教会がどこにあるか分かった。上野さん夫妻は仏教会の近くに住んでいるということなので行く道がだいたい分かったのである。
アルハンブラ・ブールバードに左折すると今度はだいたい南に向かって進む。それに直交するLストリートは一方通行で、右折すれば西の、市街地中心部の方向に行くが、その前にフリーウェイの下をくぐるとすぐそこに「サター砦」があるはずである。
千賀雄が助手席から尋ねてきた。
「この先、右に行くとサター砦があります。来たことがありますか?」
「来たこと、まだないです。大友さんは?」
「去年の夏に来たことがあります。砦って言いますが、なかなか立派なお屋敷ですね。」
Lストリートはそのまま過ぎていく。もう一度二人で来るのはどうかと千賀雄は聞かなかった。あまり良いと思わなかったか、あるいはそのとき他のことを考えていただけかもしれない。
やがてSストリートに出て、二人の乗った自動車はそこで右に曲がる。フリーウェイの下をくぐっていくが、その先の両側はふつうの住宅のようで、車は住宅街に入ったようだ。ところどころにプラタナスの並木がありヤシの並木もある。
そのまま進んでいくと、直交する十六番街は北へ行く一方通行で交通信号がある。その次の十五番街は反対方向の南に行く一方通行でやはり信号がある。
佑子はSストリートのセンターライン寄りで信号待ちしていたが、十五番街は三車線ある。上野さんの家はその先のVストリートで十四番街との間にある。ということは左折してしばらくしたら右折しなければならない。
信号が青に変るとまず大きく左折していちばん右の車線に入る。そのまま南に行ってVストリートが近づいてくるとフリーウェイが先のほうで道路の上を東西に横切っているのが見えてきた。
その合衆国道のフリーウェイはWストリートとXストリートの間の上を東西に向かっている。ほんとうは少しも交差していないが、フリーウェイの交差点であるジャンクションは二十九番街と三十番街の間にある――つまり、さっきのところからまっすぐ南である。
そのフリーウェイを北に行けば、さっきのところを通って合衆国道八十号線に行く。東へ行けば合衆国道五十号線でエルドラド郡に入り、プラサビルを通ってネバダ州に抜けて行く。
「あのフリーウェイの向こう側で西側に三ブロックばかり行ったところがサクラメント仏教会です。土曜・日曜はいつもバスで来て、フリーウェイの向こう側のブロードウェイで降りて歩きます。」
千賀雄はそう言って説明する。仏教会があるという、フリーウェイの向こうの通りのブロードウェイに佑子はまだ行ったことはなかった。
Vストリートとの交差点は交通信号がない。右折するとたしかに両側通行だがセンターラインが引かれていない比較的狭い道路だった。ゆっくりと車を走らせる。近くに他の自動車は走っていなかった。ここは商店などがまったくない住宅地である。
「えーとね、そこの一階建ての家。」
千賀雄が指差す方向を見れば外側を薄緑色のペンキで塗った家がある。近くにあるのはほとんどが二階建てだったが、その家は一階建てだった。家の左側には自動車の入る道がある。
歩道を歩いている人がいないのを確かめ、佑子は大きく曲がって家の脇まで自動車を乗り入れる。千賀雄が降りるのを待ち、運転席の窓ガラスの上を少し開けてドアを施錠する。時刻は約束の午後五時にぴったりだった。
二人は家の正面にまわって玄関に立ち、千賀雄が呼び鈴を押す。すぐにドアのカーテンが脇に寄せられ、それから錠がはずされる音がしてドアが開けられた。
そこに立っていたのはわりと背の高い、どちらかといえば痩せている老人である。白髪で眼鏡はかけておらず、始めは眼つきが鋭いという印象を与えたが、すぐに破顔して笑顔になった。
「いらっしゃい。」
「上野さん、こちらが本田佑子さんです。」
「本田です。よろしくお願いします。」
「上野健蔵(たけぞう)です。ようこそいらっしゃいました。のり子、こちらにいらっしゃい。妻ののり子です。この方が本田さんだそうです。」
「のり子です。大友さんに話をうかがっていました。――どうぞ、こちらへ。」
のり子さんは背がそれほど高くなく、少し肉付きのよい身体をしている。しかし年齢は夫とあまり違わない。そしてニコニコと機嫌が良さそうである。
中に入って玄関を過ぎると、右の部屋では四角いテーブルのまわりに椅子が並べられ、テーブルの上にはナイフとフォークなどが置かれている。つまり食事の準備がしてあったが、食べ物はなにも出されていない。奥にキッチンがあり、料理はまだオーブンと冷蔵庫に入れられているらしい。キッチンと食堂の間にカウンターがあり、奥のキッチンには照明がついている。カウンターには調味料やナプキンが置かれている。
左右の部屋のまん中には間仕切りがなくつながっているという、合衆国ではよく見られる間取りである。左の部屋はというと、暑い夏という季節に当然のことながら、火の入っていない暖炉があり、応接セットが置かれている。暖炉は薪ではなく、中に置かれたストーブのようである。
奥さんに案内されて左の部屋へ行くと低いテーブルの上には紅茶セットがあった。涼しい程度に部屋はエアコンがきいている。
「どうぞ、おかけください。」
うす茶色の長椅子があり、前にいた千賀雄が右の端にさっと腰をおろしたので、佑子は左にまわり中央をあけて左側に座った。上野さんは暖炉に向かって左側の佑子の前の安楽椅子に腰掛ける。奥さんは右側の椅子の前に立ち、ポットのお湯を急須に注いでいる。
上野さんは奥さんのほうをちょっと見たが、正面を向いて佑子に尋ねる。
「本田さんは大学では何を専攻しているのですか?」
上野さんははっきりした声でそう言って気楽そうに訊いてきた。佑子を見極めようとしているのか、じっと見つめる。
「まだ決めていません。入学してから一年になるのですが。留学して二年ですか。――そうですねえ、社会学に関心があります。これまでに社会学概論と社会問題を受講しました。」
合衆国の大学では普通、専攻は入学した後で決めることができる。日本のように入学時に決まってしまうことはない。だから入学して勉強したが『専攻が向いてない』などということはない。もっとも定員がある工学部などは別のようだ。それに勉強があまり好きでないということが分かって退学してしまうこともある。
とにかく自分で専攻を決めて「宣言」する。三年半も在学すれば遅くとも学期の始めに専攻を宣言できるし、その学期の終わりに専攻の単位が足りていることが確認され、そして履修科目など卒業要件を満たしていれば、その専攻で卒業することができる。
標準は四年だが、三年半でも三年でも単位が揃えば卒業できる。でも州立大学では何年もかけて卒業する人が多いらしい。四年というのは標準でしかないのである。
ここの州立大学はセメスター制で、一学期は五科目十五単位くらいである。大学によってはセメスター(二学期)制でなく、クォーター(四学期)制を取るところもある。
履修単位を少し多く取ることもあるが、学期初めの一週間か二週間で届けを出して余分な単位は落としてしまう。今学期と、次の学期の成績が続けて良くなければ退学だから、そういうことがない日本のように、単位を多く履修することはないのである。
もっとも成績が悪くて退学と言っても、程度の少し下がった大学に転校するだけかもしれない。就職も日本のようにみんなと横並びで一斉にやることもないようである。そういえば千賀雄はビジネスを専攻したいと言っていた。
「なるほど、専攻はまだ決まってないわけですね。」
奥さんが紅茶を注いで、どうぞとこちらにカップを差し出してくる。佑子も千賀雄も軽く頭をさげる。上野さんと自分の前にも紅茶カップを出し、それから椅子に座って話を聞くようになる。
「ところで本田さんの出身はどちらですか?」
「埼玉県の上尾市です。といっても街の真ん中ではなく田舎のほうですけど。」
「埼玉というのは、東京のすぐ北ですか。」
「ええ、そうです。上尾というのは東京の上野駅から北へ電車で四十分くらいです。」
「そうですか。私たち二人は和歌山県の出身です。もっとも国を出てからいろいろあって、和歌山に帰ったことはないのですが。」
「和歌山ですか、行ったことがないです。紀伊半島というか、そんな知識しか持ち合わせていないです。――こちらに、サクラメントに、和歌山県出身の方は多いのですか?」
「わりと居ますよ、県人会があるくらいですから。もっとも私は日本から知っている人はいないのですが。」
上野さんには「なまり」があったが、英語の単語を入れないでゆっくりと話す標準語風の日本語だった。それにきちんとした言葉を使っている。日本に住む歳とった日本人とそこが違うところであろう。そして脚を組んでいて腕をよく動かしている。顔も左右に動かしているのでそれほど堅苦しい雰囲気はなかった。
「私は一九〇六年にT中学を出たのです。卒業するとすぐにアメリカに渡りました。」
それは何と七十年も前のことである。そのころの中学はもちろん旧制で、今でいう県立の高等学校といったところだろう。だけど県下に一つか二つしかなかった時代である。
「そのころ、アメリカに来る日本人は多かったのですか?」
「いや確か、その次の年だったと思うのですが、日本との『紳士協定』ができ、その後あまり移民が来なくなりました。それからしばらくたった一九二四年の移民法で日本からの移民ができなくなりました。」
「一九〇六年というと日露戦争のすぐ後ではなかったですか?」
千賀雄が短く質問を入れる。上野さんは想い出すように答えた。
「そうです。ロシアとの戦争ではアメリカが仲介して終わりました。だから仲間の国に来るような気楽な気持ちで来たのです。それはいいのですがアメリカに渡ってすぐに地震がありました。一九〇六年のサンフランシスコ大地震です。四月の中ごろだったと思います。日本から渡ってきてすぐでした。サンフランシスコは壊滅状態だったと思います。」
「そのとき、サンフランシスコに住んでらっしゃったのですか?」
「いやあ、サンフランシスコから少し離れたサリナスの北のほうです。私が住んでいたところもたいそう揺れました。びっくりしましたが、まあ、日本でも地震はありますからね。」
サリナス市はサンフランシスコから南のほうに行ったところ、カリフォルニア州中部である。その街の名前を聞いて、佑子は言う。
「サリナスって、ああそうだ、スタインベックはサリナスに住んでいたのでしょう?」
ジョン・スタインベックは一九六二年にノーベル文学賞をとった小説家で、「怒りの葡萄」や「エデンの東」で有名である。
「ああ、そうですね。もっとも、あの人がノーベル賞をもらったころ、私たちはもうサクラメントに引っ越していて、サリナスにはいなかったですね。それにそのころ、私たちのいた農場はサリナスに近いというだけで、モントレー郡だったけれど、サンタクルズ郡との境に近いところでした。」
「じゃあ、どちらかというとサリナスのサンフランシスコに近いほうですね。」
千賀雄が言う。西海岸沿いに、モントレー郡、サンタクルズ郡、サンマテオ郡、そしてサンフランシスコ郡と続いているのである。
レモンスライスを入れて紅茶を少し飲み、話題が変わった。佑子が尋ねる。
「英語はあまりしゃべれなかったのではないですか?」
「それほど話せなかったのは最初だけですよ。夜間に英語学校があったし私も若かった。がむしゃらにやりました。日本の中学で英語を習っていたのですぐにできるようになりました。言葉であまり苦労した覚えはないですね。」
「奥さんも同じですか?」
「私は主人よりも先に、小さいときに両親と来たので、こちらで学校に行きました。両親とは日本語で、学校では英語でしたから、今でいうバイリンガルというのか、とにかく言葉で不自由したことはないのです。」
合衆国への日本人移民については、移民仲間で次のようなことがよく言われていたという。
移民も上のほうは教育もあり、しっかりしていたが下のほうはダメだった。つまりピンからキリまであり、英語だってきちんと話し書くことができるようになる人もいたが、逆に何年いてもちゃんと話せるようにならない人もいた。住まいもアメリカ人として恥ずかしくないような人もいれば、何年たっても飯場暮らしの人もいた。
第二次世界大戦のとき、カリフォルニア州の日系人は強制収容所に入れられたが、生活水準がそれまでより落ちた人がいた反面、収容所のほうがずっと良かった人もいた。そこでの暮らしがそれまでと比べて良くも悪くもない人がいて、それぞれが1/3ぐらいずつだった――。
「ところで、本田さんがサクラメントに来たのは何か理由があるのですか? 親戚とか――。」
「いやあ、別にそういうわけでもなくて。誰も知り合いはいないのです。というか、アメリカ人夫妻が帰国するのに合わせて、ついて来たんです。」
「え、アメリカ人ですか?」
「ええ、日系人ではなく、普通のアメリカ人です。日本に十年以上も住んでいて、その前にはカリフォルニアにいたんだそうです。オークランド市とか。」
「それじゃあ、日本語も分かるね。」
「あまり得意ではないみたいですが――。奥さんのほうが英語学校の教師をやってたんです。」
「それで、サクラメントへ?」
「いや、プラサビルのはずれです。」
「ああ、それで。最初の一年はアメリカン・リバ―・カレッジに行ってたと聞きました。」
「そうです。去年の九月に州立大学へ転校しました。」
「プラサビルから通っているわけではないでしょう?」
「そうです、いまは街の東にあるワット・アベニューに住んでいます。」
「大学の反対側ですね、こっちから行くと。」
それで佑子のサクラメントの住居について話すのは終わりだった。茶碗に注がれた紅茶をみんなが飲んでいる。佑子はそっと訊ねた。
「上野さんはアメリカに来てどんな仕事をされたのですか。」
「実はのり子の父親は遠い親戚だったのでその手伝いをしました。私が来たころはイチゴの栽培が始まってまもなくだったし、ほかの作物もありました。最初は農業の手伝いをしていたのですが、すぐに出荷だとか輸送だとか、ほかの仕事が忙しくなりました。英語が話せる私が外部と交渉するようになったのです。」
奥さんがそのことを説明するように言う。
「父はあまり英語をしゃべるのが得意というわけではありませんでした。聞くのはなんとかなりましたけどね。」
千賀雄はそれで分かったという顔をして言った。
「そういうわけで、上野さんは奥さんと結婚したのですね?」
「のり子は一人娘だったし、アメリカに来るときにそれを知っていたので、それもあるかなと思っていました。」
「どうでした? こちらに来て奥さんを最初に見たとき。」
千賀雄は軽く冗談のように言ったが、上野さんは少し顔が明るくなり気分が良くなったようだ。
「娘十八、番茶も出ばな、と言いますからね。」
奥さんも機嫌が良くなったようである。
「私もほっとしましたよ、この人を見て。まあ人間はいいし、英語もできたし。」
「結局、私たちは一九一四年に結婚しました。」
「婿に入ったのですか。」
「そうです。こちらに来たときから同居していましたから、相手のこともよく知っていましたし。」
奥さんもニコニコしていた。上野さんは続けて言った。
「それから子どもが生まれたのです。女の子が三人、男の子が二人です。」
そして合衆国と日本との戦争、第二次世界大戦のときの強制収容所の話になった。
一九四二年に当時の大統領フランクリン・D・ルーズベルトは大統領令九〇六六号に署名した。アメリカ西海岸に住む日系人を例外なく強制的に収容するものである。西海岸に住む日系人にとって戦争中の収容所は避けて通れないものだった。
「強制収容所はどこに行ったのですか。」
「私たち家族はキャンプ・アマチに行きました。四二年の初夏でした。」
「アマチ収容所は正式にはグラナダと言うらしいです。コロラド州南東部のグラナダという町にありました。」
奥さんが収容所のあった場所を言う。佑子はアメリカに来てから学んだことを言った。
「カリフォルニア州ではマンザナーが有名ですよね。それとトゥルレイク。普通の人はマンザナーに入れられ、少し問題がある人はトゥルレイクに入れられたとか。」
「いちばん上の娘は結婚して私たちのところを離れて、ロサンゼルスの近くに住んでいました。子どもも男と女の二人いました――私たちの孫ですが。娘一家はマンザナーに入れられました。こちらの両親、おじいさん・おばあさんは、私たちが収容所に行ったときにはもう亡くなっていました。」
「私たちが一時収容施設から連れ出された当初はトゥルレイクかと思いましたね、初めは北に向かいましたから。でもネバダ州に入って、自分たちはどこに行くのか分からなくなりました。」
その収容所について佑子はあまりよく知らなかったようで、確かめるように訊く。
「それで、コロラド州まで行ったのですね。」
「そうです。キャンプ・アマチは太平洋からずっと離れていました。そういうわけで収容者に対してはあまり厳しくなかったですね。」
「収容所では何をしていたんですか?」
「野菜づくりです。ほかに私たちができる仕事はなかったのです。」
それから奥さんが思い出したように言う。
「警察や消防、それに医者も私たち日系人がやりました。でもそういうのは資格が大事ですからね。」
上野さんも続ける。
「しかし資格が必要でもお金になる仕事ではないのです。私たちも野菜の出荷で少しのお金が入りましたが、まあほんの少しです。」
「私はこちらで教育を受けていたので子どもたちに教えました。コミュニティ・カレッジ(公立短大)をいちおう終えているのです。教えたのは小学生ですが、みんなおとなしくて良い生徒でした。」
佑子は少し気になったのか、二人に尋ねた。
「ご両親は太平洋戦争のころはなくなっていたのですよね。そして、いちばん上の娘さんは結婚して別のところにいた。そうすると、アマチ収容所に行ったのはお二人と四人の子どもたちですか?」
「いやアマチ収容所に行ったのは私たちと下の娘二人だけでした。二番目の子どもは男の子でしたがカリフォルニア大学を出て東海岸で医学校に行っていました。下の男の子も東海岸の、今でいうアイビー・リーグの大学生で、私たちが収容所に入ったころ、ちょうど卒業でした。だから収容所には入っていないのです。」
上野さんはそう言い、奥さんが状況を説明する。
「下の息子次郎は戦争が始まった翌年に大学を卒業し、戦争中は帝国海軍どうしの通信を傍受する仕事をしたと言っていました。日本語が分かりましたからね。」
「戦闘には参加していませんが戦後すぐに日本にも行っています。でもこちらに帰ってきたとき、日本はひどい状態だと言っていました。それで、私たちは日本に行きたいとは思わなかったのです。もっとも次郎はその後二、三回日本を訪れているはずです。日本から戻ってきてからはずっと東海岸で、今はニューヨークで働いています。――再婚ですが、相手は白人ですけどね。」
「今は私たちもあまり行ったり来たりしないのです。なにせ住んでいるのが東海岸ですので。」
「戦争前、私たちは生活するのに一生懸命でしたし、戦後の日本は少しの間、遠く感じました。結局、日本が経済成長し始めたころには私たちも年を取りました。和歌山の親戚もほとんど代が変ってしまって、名前が分かるか分からないかになったのです。」
上野さんも奥さんもため息をつきうなずいた。アメリカ軍の日本との戦いのため次男が働いたというのも、二人が戦後日本に行かなかった理由かもしれない。
「上のお子さんは?」
「長男の稔(みのる)は医学校へ行っていましたが、開業医にはなりませんでした。大学で教えていましたが、今は研究所に勤めています。」
そして奥さんが言葉をはさむ。
「研究所というのはライナス・ポーリングさんが作ったものです。」
ポーリングというのは佑子の知らない名前のようだった。千賀雄もよく知らないという顔をして尋ねる。
「その、ライナス・ポーリングというのは?」
「一九五四年にノーベル化学賞をもらった学者です。六二年に平和賞ももらっています。」
「えっ、二回ももらっているのですか、ノーベル賞を?」
「そうです。二回受賞した人は他にもいますよ。」
「ああそうです。キュリー夫人も二回もらっているはず。」
佑子はそのことを思い出したように言った。上野さんは続ける。
「稔が勤めている研究所はメンロー=パークにあります。そこに呼ばれたと言ってます。」
メンロー=パークという街はサンフランシスコとサンノゼのちょうど中間でスタンフォード大学の近くにある。ということは、ポーリングはスタンフォード大学で教えていたらしい。
「平和賞というのは?」
「核兵器実験や軍備拡大に反対した活動を表彰されました。実際に一九六三年に合衆国とソビエト連邦は部分的核実験禁止条約を結んでいます。」
「そういうわけですか、なるほど。」
千賀雄がそう言い了解したという顔をする。佑子が続けて尋ねる。
「稔さんは医学者ですよね?」
「そうですね。医学的な研究をしていると思います。ポーリングさんの関心がそちらに変わったようです。ひとつの例として、ビタミンCの大量摂取が健康のために良いと、ポーリングさんは主張しているようです。」
そして上野さんは椅子から立ち上がり、右の棚に置いてある写真から二枚を取った。暖炉の上と同じ高さにあったが、右に離れていて暖炉の季節に熱くならない場所である。
「これは第二次大戦後に次郎が送ってくれた、東京にいたときの写真です。」
大きな建物の入り口の前に一人で立っている写真で、軍服のようなものを着ている。白黒の写真で、上野さんは机に置いて見せたが、千賀雄がそれにぐっと近づいてくる。
「こちらは稔がカリフォルニア大学を卒業したときの写真です。」
自慢そうに上野さんは言う。時間が経つことで白黒写真は少し薄くなり黄色くなっていたが、そこには四人の若者が卒業式のあとか着飾って写っている。
「稔は右から二人目です。カリフォルニア大学の日系人卒業生の仲間で、一九四一年の卒業式です。」
写真の中心には笑顔の稔がいて、他の仲間も同じ様に大きく微笑んでいる。佑子はそこに写った人たちの顔を右から順に見て行き、写真の左へと視線をまわし、そこに写った人を見つめている。しかしそうした身振りは、写真を見せていた夫妻の注意をあまり引かなかったようである。上野さんは佑子の仕草をあまり細かく考えないで、明るく言ったのである。
「稔は大学の成績が良かったので、その写真のときにはもう東海岸の医学校への入学が決まっていたのです。」
奥さんは長男が自慢らしく続けて述べた。
「私たちが収容所に入れられ、入学して二年目からはお金にも困ったと思います。しかし私たちが収容所を出たときはもう研修医(インターン)でした。」
そのとき時計が鳴って午後六時を報せ、上野さんは待ち構えたように言った。
「ああ六時、夕食の時刻ですね。今夜は特別にロースト・ビーフです。――向こうのテーブルに行きましょう。」
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