第4話 マネキンから美女に変身

摩訶不思議と云うか何と云うか、自分の足元を見据えたようなその面にはおよそ表情というものがない。どこかもの悲しげでもあるのだが受けた印象はこれが人間ではなく、マネキンのような気がしたからだ。至って気になったがそのまま通り過ぎるだろうと思い目を逸らそうとしたが豈(あに)図らんや、女はコートのポケットから鍵を取り出すと眼前のバーのドアに差し入れたのである。俺はへーっとばかり無言の感嘆符を心中に打って女を見遣り続けた。こんな洗練されたイイ女がこのおんぼろバーのマダム…?と半ば呆れながら。女に怪しまれないように俺はわかばをもう一本取り出すとあわてて火を点けた。ドアを開けて中に入ろうとした女が一瞬ふりかえって俺を見る。そしてこの時である。またしても摩訶不思議としか云いようのない一瞬のメタモルフォーゼを俺は見せられこととなった。ふりかえった横顔はマネキンから人間のそれへと見事に生き返り、そればかりか得も云われぬ魅力的な微笑みさえ浮かべている。陳腐な表現かも知れないが俺は年甲斐もなく一瞬で魅了された。単に美女の微笑みだからと云うのではない、そこには人を癒すような、自然の懐に引き込むような、一種安寧の境地に誘うがごとき安らぎの相が浮かんでいたからだ。例えればモナリザ?…いやヘルマン・ヘッセの小説「デミアン」内に描かれた〝世界婦人〟と云うべきだろうか、とにかく少なくも俺の人生にあっては今まで悉皆お目にかかったことのない微笑みだった。稲妻が心に走り俺の身をその場に釘付けにした。女は俺に一瞥を送ったあとで店内に入ろうとしたが俺は矢も楯もたまらず女に声をかけてしまう。

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