5(最終話)

 球技大会が終わった後の学校生活は、異様なほど印象が薄い。あれ以来、真冬ちゃんとは会えていないし、美代とはほとんど没交渉になってしまった。二人がいない学校生活は普段の何倍も色褪せている。

 美代は、生徒会の仕事だけは手伝ってくれた。真冬ちゃんも安住くんもいなくて、その上美代までとなったら、いくら残りの仕事が少なくても困ったことになっていただろう。わたしたちの間に入った亀裂に、他の役員やクラスメイトは薄々気付いている。けれど、気を遣ってあまり触れないでいてくれた。

 つまらない日々と共に、生徒会長としての生活は終わりへと近づいていった。

 送辞を読みながら、真冬ちゃんと楽しく資料集めしたことを思い出した卒業式。一人で残務を片付けながら、真冬ちゃんも美代もそばにいないことが悲しくなった春休み。新年早々、一年前の初々しい真冬ちゃんが懐かしくなった入学式と新入生オリエンテーション。

 そして今日、新しい生徒会長が生まれた。

 GW明けの生徒会長選挙で選ばれたのは、この一年間、会計として頑張ってくれた後輩。その子に無事バトンを渡せたわたしは、晴れて一般生徒になった。

 夜、ベッドに寝転びながら、ぼーっと今日一日のことを反芻する。現生徒会役員の退任式兼新旧役員の交代式、そして放課後に開かれた一年間お疲れ様でしたの焼肉会。二次会でカラオケにも行った。

 楽しかった。

 今日だけは、楽しかった。

 退任式でもらった花束と寄せ書き、交代式で次の一年の抱負を語る後輩の頼もしさ、焼肉とカラオケでみんなと騒ぎ合った楽しさ。最後に後輩から、最高の一年間でした、と涙ながらに言ってもらった瞬間にはもうダメかと思った。後輩たちにつられて泣かないよう耐えながら、生徒会長になって良かったという気持ちでいっぱいになっていた。最後は不始末の多い会長だったのに、そんな風に言ってくれる後輩を持てたことが嬉しい。球技大会以来、安住くんとは事務的な会話しかしていなかったけれど、この時ばかりは会長と副会長として一緒に喜んだ。

 美代は焼肉会だけ参加してカラオケには来なかった。真冬ちゃんは退任式にもいなかった。それだけが心残りになった

 ただ、悔いはあるけれど、未練はなかった。

 寝転んだまま、枕元のスマホを手にとる。先月受け取ったものに問題がないか再確認してから、タタタッと五分ほど操作を続けた。

 その作業の間、二か月前のことが脳裏をよぎった。

 球技大会。真冬ちゃんと話して、自分の競技に戻った後のこと。


     *


 ぱこーん、ぱこーん、と小さな球が軽快なリズムを刻むのを聞きながら、背中を壁に預けて物思いに沈む。考えるのは、例によって真冬ちゃんのこと。あれで良かったのだろうか。たぶん良くなかっただろうなあ。そんな後悔が胸を刺す。

 わたし自身のことに関してはひとかけらも後悔していない。美代に全てを話した時点で、もはやわたしの退路は消えている。進みたい方向に進むためには、これが最短だった。けれど真冬ちゃんの気持ちを考えたら、わたしは最低だ。言い訳のしようもない。だって真冬ちゃんは泣いていた。泣かせたいわけではなかったのに。ただ知ってほしかった。わたしが真冬ちゃんを好きだってことを。

 ぱこーん、ぱこーん。左右を行き来する球を見ながら、わたしたちの気持ちもこんな感じだったらいいのにと夢想する。好きだよ。うん、わたしも大好き。こちらが気持ちを打てば、当たり前のように打ち返してくれる。そんな世界ならいい。

 その時、右側の生徒が返球し損ねた。当たり前のことなのに、なんだ、と残念に思う。感情のない非生物でさえ、お互いの間をスムーズに行ったり来たりできない。だったら、形がなくて制御の難しいわたしたちの気持ちは……。


「うう、悔しいですぅ」


 隣で口を尖らせながら、キョウちゃんが言った。


「惜しかったよね。ごめんね、ミスしちゃって」

「さくら先輩のせいじゃないですよぅ。私もたくさんミスしましたし。でもやっぱり悔しいですぅ」


 案の定、わたしたちはあっけなく敗退した。

 結果、今のわたしは暇人だ。運営に専念するつもりだったけれど、生徒会のみんながそうさせてくれなかった。会長は休んでてください、と厳命されて動くに動けない。早い話、心配されている。美代と真冬ちゃんがあんなことになって、仲裁に入ったわたしは傍から見れば板挟みの状態だから、さぞ心労が溜まっているだろうと思われるのも当然だった。ただ、競技もない運営でも戦力外となると、やることが本当にない。壁と同化して試合を眺めているのはそういう理由からだった。

 キョウちゃんがずっと話してくれるから、退屈はしない。それに、試合以外にも見るものはある。体育館を見渡せば、そこかしこで生徒会のみんなが働いている。何かアクシデントがあったのか、慌てて駆け回っている子。抜け目なく粛々と試合を進行させている子。要領がいいとは言えないけれど、自分のペースで着実に仕事をこなしている子。生徒会長になってから、たくさん助けてくれた後輩たち。二か月も経てば、この子たちが生徒会の中心になる。わたしはお役御免だ。

 退任の時まで、そして退任してからも、この子たちが尊敬できる先輩でありたかった。そのために頑張ってきた気もする。


「大変でしたよね、さくら先輩。疲れてませんか?」


 顔を覗き込まれて、キョウちゃんの話を半分聞き流していたことに気付いた。薄い記憶を探っても、「うん」とか「そうだね」とか、生返事しかしていなかったように思う。物思いにかまけて、現実がおろそかになっていた。何が大変だったと言われたのかも、一瞬だけ分からなかった。


「霜月さんと……宮藤先輩でしたっけ、ふたりとも、さくら先輩は仲いいんですよね?」


 キョウちゃんは聞きにくそうにしている。それでも気になるのだろう。グラウンドでの出来事とはいえ、美代と真冬ちゃんの喧嘩はそれなりの騒ぎになっていた。体育館にいるキョウちゃんが知っていてもおかしくない。あるいは、友達の応援でその場を見ていたのだろうか。


「うん。二人とも、わたしの大事な人だよ」

「じゃあ、やっぱり大変でしたね。友達同士が喧嘩してたら、悲しいですもん」


 気遣ってくれるキョウちゃんに「ありがと」と言いながら、友達かあ、とも思う。女同士だと、どれほど親密でも友達に見える。そこにはメリットもあるけれど、大前提として女同士は恋人にならないという常識があることが悲しい。わたしに告白してくれた、同性への恋があり得ることを知っているキョウちゃんでも、そういう普通を自然に受け入れているのはもっと悲しかった。

 ふいに、キョウちゃんに聞きたくなった。


「キョウちゃんは、なんでわたしに告白してくれたの?」


 聞いてから、デリカシーがなかったかな、と後悔した。けれど、キョウちゃんは全く気にした様子もなかった。


「え、好きだからですよぅ」


 当たり前じゃないですかぁ、という顔をされた。


「そっか。そうだよね」


 好きだから告白する。恋人になりたいと意思表示する。とても当たり前のこと。けれどそれが、わたしには難しかった。凄いな、と思う。女の子が好きだという気持ちを知られたくないわたしには、隠れてこそこそ彼女を作ることさえできなかったのに、キョウちゃんは、大勢がいる場所で堂々とわたしに告白してくれた。


「怖くなかったの?」


 キョウちゃんの気持ちに応えられなかったわたしに、それを聞く資格はないかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった。覚悟を決めたつもりでも、臆病な自分がいなくなったりはしない。そんな自分を黙らせる何かが欲しかった。

 キョウちゃんはなんて答えるだろう。どうやって常識の壁を越えたのだろう。わたしに告白するまでに、きっとたくさんの葛藤があっただろうに、それでも気持ちを言葉にできた、その理由を知りたかった。

 教えを請うような気持ちで待っていると、


「え、なんでですか?」


 そう言って、キョウちゃんは不思議そうな顔をした。まるで異世界の言語を聞いたような反応だった。

 説明が足りなかっただろうか。そうかもしれない。わたしの質問には、「何が怖かったのか」という指定が欠けていた。文脈の共有は大事だ。


「女の子同士って、周りの目とか気にならなかったの?」

「そういうことですかぁ。全然気にならなかったですよ」


 予想外の答えだった。


「まあ昔はそういう偏見とかあったかもしれないですけどぉ、今はそういう時代じゃないじゃないですか」


 そうだろうか。今は多様性の時代だから、と教える授業のすぐ後で、由佳ちゃんがいじめられたのが八年前。たった八年で、時代はそれほど大きく変わるものなのか。わたしはそう思えない。だからこんなに怖がっている。今がそういう時代ではないなら、どうして同性とは結婚できないのだろう。

 けれど、それはわたしの実感でしかない。キョウちゃんにはキョウちゃんの実感がある。キョウちゃんだって、似たような授業を受けたことがあるはずだ。その学校では、同性との恋愛が当たり前に受け入れられたのかもしれない。


「そっか。キョウちゃんは、女の子が好きってこと、隠さないでいられたんだね。なんか、安心した」


 本心と、僅かばかりの羨望を込めて言った。

 すると、キョウちゃんはきょとんとした。さっきよりも不思議そうな顔だ。そして何かに気付いたようにはっとして、一転して気まずそうな表情を浮かべる。


「あ、あー、そっか。さくら先輩からはそう見えます、よね」


 両手の指同士をくっつけて、急にそわそわし始めたキョウちゃん。またしても思いがけない反応だった。そう見えますよね? わたしには何がどう見えているのだろう。

 落ち着いて、「そう」が指す対象を考えてみる。文脈的に、当て嵌まりそうなものは一つしかなかった。

 え、だったらなんで? と頭の中で疑問がうずまく。その解答が出てくる前に、キョウちゃんが言った。


「私、べつに女の子は好きじゃないんですよぉ。中学は普通に彼氏いましたしぃ」


 思った通りだった。そ、そうなんだ……と曖昧な反応しかできず、だったらなんでわたしに告白したの? という疑問は声にならなかった。気にはなるけれど、聞いてしまったら最後、ものすごく落ち込む未来が待っている予感がした。そしてその未来は、わたしが聞かずとも訪れる気もした。


「でもでも、さくら先輩のことは好きでぇ。性別じゃなくて、この人だから好き! みたいな。告白した時は、本気でそう思ってたんですよぉ」


 告白した時は、ということは、今は違うということだ。キョウちゃんは再び「でも」を重ねた。


「今考えたらぁ、恋愛の好きじゃなかったなって。なんていうか、憧れとか尊敬とか? の好きって感じで。告白するまでは盛り上がっちゃって、そのへん区別できてなかったんですけどぉ……あの、さくら先輩? 怒ってますか?」


 恐る恐るといった感じで、キョウちゃんはこちらを見上げた。いたずらが飼い主に見つかった子犬みたいだ。


「ううん、怒ってないよ。どうして?」


 本当だった。わたしは怒っていない。


「それで告白OKされてたらどうするつもりだったのって、思われてるかなぁと……」


 確かに、実際にそうなっていたら怒ったかもしれない。彼女ができて喜んだ後に、やっぱり違いました、と言われたら悲しい。けれど、わたしはキョウちゃんの告白を断っている。たらればの話で怒る気にはならない。だからわたしは、「大丈夫だよ。気にしないで」と言ってあげた。

 けれどキョウちゃんは、まだ怯えている。

 どうしてだろう。もっと安心できる言葉をかけてあげたほうがいいだろうか。そう思っていると、


「だったら」


 キョウちゃんは躊躇いがちに


「なんでそんなに、真顔なんですか? その、特に目が、全然笑ってないです……」


 そう言った。

 そして、お互いに無言。

 自分でも間の抜けた挙動だと自覚しながら、自分の頬にゆっくりと触れてみた。

 確かに、表情が死んでいる気がする。

 怖がらせないように、ちゃんと隠したつもりだったのに。


「やっぱり、怒ってます、よね?」


 再度の質問。わたしは改めて、こう答えた。


「怒ってないよ。ほんとだから安心して。信じてもらえると嬉しいな」


 言ってから、わざとらしく見えない範囲で微笑んでみた。今度こそうまくできたと思う。キョウちゃんも、それで少しは安心したらしい。涙目になりながら、ほっとした様子を見せてくれた。


「変な勘違いして、ごめんなさい。さくら先輩、見たことない顔してたから……」

「わたしこそごめんね。ちょっと疲れてるのかも」

「今日は大変でしたもんねぇ」


 それから、わたしたちは普通のお喋りを続けた。その間ずっと、わたしは表情に気を遣い続けた。キョウちゃんに嘘がバレないように。

 そう。わたしは嘘をついていた。

 怒っていないのは本当。

 けれど、気にしていないと言ったのは嘘だった。

 女の子は別に好きではない。けれど性別関係なく特定の個人が好き。けれどそれも勘違いで、本当は憧れや尊敬の好きだった。

 そっか。そっかあ。

 なんて、身軽なんだろう。

 素朴な感想が浮かんで、ふっと脱力した。

 全身がスライムみたいになりながら、わたしの中で想起されたのは一つのIFだ。小学生の頃から繰り返し、繰り返し考えてきたIF。

 異性愛者になれたら楽だろうなあ。

 同性愛者の現実を実感するほどに、異性愛者のみんなが羨ましくてしかたなかった。異性愛者にだって辛いことはあるはずだけど、少なくとも自分の愛のあり方そのものを否定されることはない。女が男を好きでも、女が男を好きでも、それは当たり前のことだと認めてもらえるのだから。それがただただ、羨ましかった。

 だから、わたしも異性愛者になれたら楽だろうと思った。

 もちろんその仮定は何にもならない。女の子が好きというのは、わたしにとっては体の一部みたいなものだ。体のパーツを付け替えられないように、この指向はずっとわたしと共にあり続ける。それがどんなに苦しい現実を呼ぶとしても、苦しいのはいやだと心の底から願ったとしても、ある日突然異性愛者になったりはしない。わたしは家名くんとキスをして即嘔吐した女だ。

 わたしは同性愛者。女の子が好きなことは手放せないし、手放したくもない。ただそれが辛い現実とセットになっているから、貫こうと思うと覚悟みたいなものも必要になってくる。向こう側ならこういう思いはしなくていい。それを知っていながら、わたしはこちら側にいる。

 なのにキョウちゃんは、さっき異性愛者だと判明したキョウちゃんは、その境界線を躊躇いなく行き来した。

 本当に、身軽だ。

 葛藤と共にこちら側にいるわたしと違って、キョウちゃんは当たり前のようにあちら側にいる。だからふとした拍子に、例えば隣の芝生がなんとなく青く見えた時なんかに、こちら側へやってくることもある。そして、しばらくすればあちら側へ帰っていく。そこに葛藤は、あまりない。

 キョウちゃんは悪くない。分かっている。同性愛者でなくても、特定の同性だけが好きになることもあるだろう。それが恋ではなかったと後で気付くことも、まああるだろう。そもそもキョウちゃんは、わたしが同性愛者だと知らない。知っていたら、こういうことを軽率に言ったりしなかっただろう。だから本当に、わたしは怒っていない。

 ただ、そういう時代じゃない、とキョウちゃんが言えた理由が分かった気がした。同性を好きになる。その結果、周囲がどう反応するか。そういうことに感じる現実味が、わたしとキョウちゃんとでは決定的に違っている。わたしが血反吐をこぼしながら同性愛者として生きている一方で、キョウちゃんは気軽に同性を好きになり、すぐにそうではなかったと気付いて引き返した。そのあまりの差に、体から力が抜けてしまっただけだ。表情が消えてしまったのも、たぶんそのせいだろう。


     *


 ある意味で、その時のことはわたしの背中を押してくれた。この作業をしている間、きっと震えてしまうだろうと思っていた指は、わたしの思い通りに画面を操作し続けている。途中で止まることも、操作ミスをすることもない。だから、作業はすぐに終わってしまった。後は眠って、学校へ行くだけだ。


     *


 朝、起床と共に暖かさを感じた。まだ若干の肌寒さを感じた四月もとうに過ぎ去り、少しすれば夏がやってくる。真冬ちゃんとの関係が目まぐるしく変わったあの冬が、何十年も前の出来事のように感じられた。

 登校の準備をしながら、心の状態を確かめる。

 大丈夫。落ち着いている。それは家を出て、電車に乗り、学校最寄り駅で降りるまでの過程を経て、同じ学校の生徒の視線が増えていっても変わらなかった。

 学校へと続く道を歩く。校門前につく頃には、どれくらい話が広まっているか、集まった視線の数で大体分かった。

 校舎に入ると、視線はさらに集まった。屋内だからか、軽いざわめきも聞こえる。気付かないふりをしてスリッパに履き替える。歩みを再開する。階段を上る。そろそろ新鮮さを感じなくなった三年生のフロアについて、自分の教室へと向かう。教室の前まで辿りつく。

 そして、いつも通り扉を開いた。

 その直前まで、それまでとは比較にならないざわめきが、教室の中からは聞こえてきていた。それが、しんっと静まり返った。

 世界から音が消えてしまったようだった。当然そんなはずはなく、わたしが歩を進めれば小さな足音が鳴る。けれどそれ以外の音は、中々戻ってこなかった。

 教室にいるほぼ全員の視線が集まる。みんな、何か言いたそうにしている。なのに、話しかけてくる人はいない。歩きながら教室を見渡すと、美代だけが窓際の席で頬杖をつき、じっと外を眺めていた。せっかくまた同じクラスになれたけれど、この一か月と少し、この教室で美代と話したことは一度もない。

 視線に気付かないふりをして、わたしは前へ進んだ。中央列の一番後ろがわたしの席だ。リュックを机に置いて、音を立てないように椅子を引く。そのまま座ろうとした時、教室の扉が再び開いた。

 静まり返ったこの空間に対して、遠慮の欠片もない開け方。ガララッと音を立てながら中に入ってきたのは、このクラスの誰でもなかった。突然の来訪に、教室の誰もが唖然とする。もしかしたら来るかな、とわたしは思っていたけれど。

 乱入者はわたしを見つけると、脇目もふらず近づいてきた。変わらないその姿に安心して、こんな状況なのについ幸せを感じてしまう。


「おはよう。久しぶりだね、真冬ちゃん」


 何事もなかったかのように挨拶すると、真冬ちゃんはあからさまに苛立ちの表情を浮かべた。


「おはよう、じゃないですよ。なんでそんなに、落ち着いてるんですか」

「いきなりどうしたの?」

「どうしたって……さくら先輩、やっぱりあれは」


 勘のいい真冬ちゃんは気付いてくれたようだった。


「なんであんなこと」

「迷惑だった?」

「否定しないんですね」


 わたしは何も言わなかった。それが何よりの肯定だった。


「……ちょっと来てください」


 手首を掴まれ、強引に引っ張られた。地響きがしそうな勢いで真冬ちゃんが進んでいく。教室でも、廊下に出てからも、わたしたちを見るたくさんの目は完全無視。


「痛いよ」

「我慢してください」

「逃げたりしないのに」


 真冬ちゃんはわたしのことも無視した。

 連れてこられたのは、あの資料室だった。学校で一目のない場所となれば、考えることは同じだ。けれど、


「あ」


 真冬ちゃんが開こうとした扉は、びくともしなかった。鍵かかかっている。


「真冬ちゃん、真冬ちゃん」


 そう言って、わたしは真冬ちゃんに鍵を渡した。すると、真冬ちゃんは怪訝な顔をした。


「なんで……」

「連れてこられるならここだろうと思って、昨日のうちに生徒会室から借りてきたの。真冬ちゃん、たまに抜けてるから先回りしておこうかと。大正解だね」


 一日くらいなら、誰も気づかないだろう。

 渡した鍵を使って扉を開けた真冬ちゃんは、一本取られたのが気に入らなかったのか、ものすごく機嫌が悪そうな顔をしながら、わたしの手を引いて中に入った。そして、単刀直入に聞いてきた。


「これ、なんですか」


 手を離して、スマホの画面を見せてくる。表示されているのは一枚の画像だ。SNSのDMをスクショしたものらしい。画像の左上には、明らかに捨てアカと分かる雑なユーザー名が記されている。見覚えしかない名前だ。こんな迷惑なアカウントからメッセージを送り付けられたのが、真冬ちゃんのクラスメイトであることも知っている。

 肝心のDMは至ってシンプル。一枚の写真が貼り付けられているだけだ。そしてその写真が何を写しているのかも、わたしはよく知っている。

 だからこれが何であるかも、ちゃんと教えてあげられる。


「何って、見れば分かるでしょ?」


写真の中では、わたしと真冬ちゃんが唇を重ね合っている。


「わたしと真冬ちゃんが、相思相愛だっていう証明だよ」


     *


 球技大会の日。


「代わりにお願いがあるの」


 真冬ちゃんがいる保健室に行く前、安住くんにそう言ってから、わたしはお願いの内容を説明した。

 これから、わたしは真冬ちゃんに会いに行きます。

 話の途中で、わたしは真冬ちゃんにキスをします。

 安住くんにはその一瞬を撮影してほしいです。

 その際、被写体がわたしと真冬ちゃんだと分かるようにしてください。

 撮れた写真は、後でわたしに送ってください。

 すると、安住くんは分かりやすく困惑した。それ、何に使うんですか? と顔に書いてあった。無理もない。こんなお願い、意味不明にもほどがある。けれどただ頷くだけで、何も聞かなかった。保健室に向かうわたしについてくる気配はなかったけれど、来てくれるだろうと信じることにした。安住くんは真冬ちゃんが好きなのだから。

 そしてその夜、安住くんから写真が送られてきた。


『さすがに一瞬すぎます。まじで焦りました』


 そんなクレームがセットになっていたわりに、その写真は上手に撮られていた。

 後の作業は簡単だった。だって先例がある。わたしはそれを真似ればいい。一目で分かる捨てアカを作成し、浅葱ヶ丘の生徒のアカウントを数十個、無作為にピックアップする。そして、写真を送信。それでおしまい。

 唯一迷ったのは、実行のタイミングだった。球技大会後すぐに、とも思ったけれど、それだと生徒会運営に支障をきたす。卒業式、入学式、生徒会選挙。その他にもすべきことはたくさん残っていた。だから、全部が終わってから。そう決めて、今日まで真っ当な生徒会長のふりをし続けた。生徒会長だから、責任があるから、という言い訳で先延ばしにしているようで後ろめたかった。後輩から花束と寄せ書きをもらった時も、最高の一年だったと言われた時も、わたしは喜びながらもこんな先輩で申し訳ないという気持ちで胸が張り裂けそうになっていた。それでも待つしかなかった。わたしがただの生徒になって、誰にも迷惑をかけずに済むタイミングを。わたし一人だけが誹りを受ければ済むようになるタイミングを。


     *


「陽ちゃんのバカ」


 写真の出所を知って、真冬ちゃんはそう吐き捨てた。


「なんでそんな協力……」


 真冬ちゃんの反応を見て、安住くんに感心した。気付くことにかけては一級品の真冬ちゃんから、何年も気持ちを隠し通せるなんて。安住くんの好意を知らなければ、確かにその行動は不可解に見えるだろう。あるいは、知っていてもそう感じるのだろうか。好意に気付いてはいても、理解はできないから。


「違う、陽ちゃんのことはどうでも良くて……」


 さらりとひどいことを言う真冬ちゃん。けれど、わたしも同じことを思った。大事なのは真冬ちゃんのことだけだ。


「みんな、大騒ぎですよ」

「そうだろうね」

「だろうねって。なんで」

「真冬ちゃんが好きだって、証明したかったから」

「……こんなの、証明になりません」


 返す言葉もない。傍から見れば、これは単なる破滅願望だ。わたしには被害者の顔をする資格がないと、全校生徒に露呈した。自動的に、わたしが同性愛者であることも知れ渡った。


「分かってるんですか? 最悪のカミングアウトですよ。女の子が好きって、それだけなら受け入れられたはずなのに。こんな、芸能人のスキャンダルみたいなやり方して……」

「美代にも似たようなこと言われた」


 先んじて美代にカミングアウトした時のことだ。ちょっと考えさせてほしい、と言う前に、美代はこうも言っていた。


『同性愛者っていうのは、全然構わない。でも、それってさくらも浮気してたってことだよね。同性愛者だってこと黙ってて、家名くんを騙してたってことだよね。それは……ごめん、受け入れられないかも。そういう人を、親友って思える気がしない』


 真冬ちゃんに何度も言われた通りだった。ずっと前、例えば家名くんと付き合い始める前に、真っ当な形で本当のことを伝えていれば、美代の言葉は「全然構わない」で終わっていたのだろう。美代だけではない。多くの生徒が、わたしをありのまま受け入れてくれたかもしれない。その未来は露と消えた。仮にわたしがそんな風に行動できていたとして、美代が本当に言葉の通り、それまでと全く同じ友達として振舞ってくれたかどうか、それを知ることさえもうできない。


「たぶん、学校にはいづらくなるだろうね。しばらくは腫れ物って感じかな。先生にも伝わったら、素行不良で推薦も難しくなるかも。真冬ちゃんはお咎めなしだったけど、わたしは元生徒会長だし」

「それなら……」

「それでも、アピールしたかったんだよ。わたしは、真冬ちゃんのことが大好きだって」


 今度は、真冬ちゃんが返す言葉を失う番だった。そんなに驚かなくても。何度も何度も伝えてきたことなのに。


「いやなの。わたしが真冬ちゃんのこと好きって、知ってるのが自分だけなんて」

「それだけですか?」


 迷いなく頷く。

 それだけだ。それだけで、十分だった。好きな人を好きだと堂々と言いたい。なんてことのない望みかもしれない。そのために、こんな大掛かりなことをするのは馬鹿みたい。けれど必要だった。真冬ちゃんを一番好きなのはわたしだ、安住くんよりも、以前拡散した写真に写っていた他の誰よりも、このわたしこそが真冬ちゃんを深く深く愛していると、世界中に響くような大声で主張することが、わたしには必要だった。だってこれがわたしの普通だ。みんなとは違うかもしれないけれど、わたしは普通に真冬ちゃんを好きになって、普通に真冬ちゃんを好きだと公言したかった。それだけのことのために、わたしは全てを清算する覚悟を決めることにした。


「意味、ないですよ。私は、信じませんから」


 苦しげに、呻くように、真冬ちゃんが言った。まるで反撃するみたいな声音だ。こっちに来るな、と怯えているようにも見えた。たとえ百万人にこの気持ちが知れ渡っても、一番に伝えたい人の心にはいつまでも届かない。

 もどかしいけれど、それでもわたしは幸せだった。

 一歩、真冬ちゃんに近づく。すると、本当に怯えたように、真冬ちゃんも一歩後ずさった。


「逃げないで」


 連れて来られたのはわたしなのに、この言い方はおかしいだろうか。

 わたしが一歩進めば、真冬ちゃんも一歩下がる。それを何度か繰り返した時、真冬ちゃんが口を開いた。


「やめてください。私を、さくら先輩の自己満足に巻き込まないで」


 そこで一度、わたしは足を止めた。


「真冬ちゃんの言う通り、自己満足だよ。わたしが誰を好きかなんて、みんなには関係ないもんね。真冬ちゃんにだって。だから、何?」


 一瞬、真冬ちゃんの息が止まったように見えた。わたしが歩を進めても、真冬ちゃんは一歩も動かない。ようやくわたしの手が届く。怖がらせないよう、ソフトに触れた。頬の冷たい感触が手のひらに広がる。


「関係ないんだから、わたしのことなんか気にしなければいいんだよ。さっきだって、教室まで来なくて良かったのに」

「あんな写真が拡散したら迷惑です」

「今さらじゃない? 一枚増えたくらい、許してよ」

「さくら先輩とっていうのが、いやなんですよ」

「また嘘ついた」


 嘘じゃない、と真冬ちゃんは反論しなかった。この前はあんなに頑なだったのに。頬に触れるわたしの手も、引き剥がそうとはしなかった。わたしの体温が移ったみたいに、真冬ちゃんの頬が温かくなっていく。わたしたちの温度が均質になっていく。


「わたしは、わたしのしたいようにしたよ。真冬ちゃんは、どうしたいの? 真冬ちゃんの本当は、どこにあるの?」

「私は……」


 それだけ言って、真冬ちゃんは口を閉ざした。言わなかったのではない。言えなかったのだと伝わってくる。怯えと困惑で満たされた目から、はらりと一筋の涙が流れた。そのことに、当の真冬ちゃんは気付いていない。たくさんの感情が詰まった水滴が、わたしの手をわずかに濡らした。


「……気付いてくれなかったくせに。ずっと、気づいてくれなかったのになんで、なんで今さら気付くんですか。本当の気持ちなんて、聞くんですか……」

「ごめん。でも、知りたかったから」


 真冬ちゃんの瞳は潤んだままで、そのせいかとても綺麗で、こんな時なのに惹かれてしまう。ほんの少しだけ意識が逸れて、ちょうどその時、真冬ちゃんがわたしの手をとった。頬から遠ざけられ、一瞬だけ寂しくなる。けれど、真冬ちゃんの両手に包まれるのは心地良かった。温かくなった頬と違って、その手はまだ冷たい。こうしている内に、また温まってほしい。


「したいことなんか、私、ないです。ずっと手ぶらでいたい。なにも欲しくない。だって手に入ったら、苦しくなる。失くしちゃうのが怖くて、なのに捨てられなくて……そんなんだったら、最初からないほうがいい。私は、飽きたらいつでも捨てられる、どうでもいいものだけあればいいんです」


 触れ合う手を見つめながら話す真冬ちゃんは、何かに祈りを捧げているようでもある。わたしは、もう片方の手をそこに重ねた。お互いに対して祈っているみたいだ。それなのに、わたしたちの祈りは全然違う形をしている。


「それが真冬ちゃんの本当?」

 真冬ちゃんは、躊躇いがちに頷いた。

「ねえ、真冬ちゃん」

「なんですか」

「わたしのこと、好き?」


 今度は、素直に頷いてくれなかった。


「誘導尋問みたいで、なんか気に入らないです」

「素直じゃないなあ」

「……好きです」


 この距離でも、ほとんど聞こえない声だった。


「好きです、好きです、好きです」


 小さな声のまま、けれど繰り返すほどに、その言葉がわたしの体中に染み渡っていく。


「また、わたしの彼女になってくれる?」

「いやです」

「好きって言ってくれたのに」

「好きだから、いやなんです」

「真冬ちゃんは、何も失くしたりしないよ。だってわたし、真冬ちゃんから離れないもん。真冬ちゃんが捨てたくなったって、はりついてでもずっと一緒にいるから」


 その時、チャイムが鳴った。あと五分でホームルームが始まる。

 そんな音、聞かなかったことにした。


「わたしはね、真冬ちゃんとは逆なの。大切なもの全部持っていたいんだ。好きな人も、友達も、立場も、楽しいことも、嬉しいことも。他にもたくさんあるよ。そういうのが全部、自分のものであってほしい。でもさ、それって無理だなあって分かっちゃった」


 何も失くしたくなかったから、ずっと無理をしてきた。好きでもない男の子と付き合って、信じたい友達に隠し事をして、本命の女の子と浮気の関係になって。その全てが歪みとなって、一番大切なものまで失いそうになっている。


「だから、選ぶことにしたの」


 真冬ちゃんの瞳だけを見つめて言った。


「これだけは絶対手放さないぞって、そう思えるくらいくらい大切なもの」

「それ、本当に私でいいんですか」

「わたしがこんなに好きなのって、真冬ちゃんしかいないもん。だから、真冬ちゃんに振られたら困るんだよね。わたし、何にもなくなっちゃう」


 ずっと見つめているから、真冬ちゃんの反応が、その変化が、手に取るように分かる。怯えと困惑、その後に憤り、苦しみ、逡巡、そして気持ちがあふれて……。

 はぁ、と溜息が一つ。

 それから倒れこむようにして、真冬ちゃんは自分の額を、わたしの胸に預けてきた。


「分かってますよ」


 弱々しく呟く真冬ちゃんの背中に、わたしはそっと手を添えた。


「好きを証明しろなんて、めちゃくちゃだって。私、拗らせすぎだって」

「ほんと、そうだよ」

「でも、しょうがないじゃないですか。私は昔からこんなんで、たぶんこれからも変わんなくて……さくら先輩といたら、もっとひどくなる。だから、離れたかったのに……」

「ごめんね」

「さくら先輩は、ひどい」

「うん。わたし、ひどいね」


 わたしがそばにいる限り、真冬ちゃんはわたしの言葉を疑い続ける。きっと、それは苦しいことだろう。耳を塞ぎたくなるのだろう。言葉は、真冬ちゃんにとっては毒なのかもしれない。わたしにとって、世間の空気がそうであるように。自分が辛かったことを、わたしは真冬ちゃんに強いようとしている。


「死ぬまで一緒にいたら、証明できるのかな」


 ふいに、そんな思いが言葉になった。

 死ぬまで。

 気が遠くなりそう。

 けれど、冗談ではなかった。高校生の恋愛なんてと人は言うかもしれない。同性への恋なんて一過性だと言う人もいるかもしれない。そういう言葉を全て、無視しながらなぎ倒してでも真冬ちゃんと一緒にいよう。本気で、そう決めた。

 わたしは、真冬ちゃんが好きだ。真冬ちゃんは、わたしが好きだと言ってくれた。その言葉を、わたしたちが対等であることを、今なら信じられる。それだけで、死ぬまで幸せでいられる。

 だから真冬ちゃんにも、わたしたちの対等を信じてほしい。わたしはもう幸せだけれど、二人でもっと幸せになりたい。たとえそれが、死の一瞬だとしても。


「今死にたい……」


 鼻をすすって、真冬ちゃんはそう言った。一度でも離れたら、本当に死んでしまいそうな危うさを感じる。背中に添えた手に力をこめたいという衝動に駆られ、けれどこの細い体が折れないように、ただそっと、あやすように撫で続けた。


     *


 それぞれの授業に戻ることなく、わたしたちは真冬ちゃんの部屋で今日をすごすことにした。一限が体育だから真冬ちゃんのクラスはもぬけの殻で、部屋の鍵を回収するのは簡単だった。灯りが落ち、がらんとした教室を見渡すと、いつもは狭く感じるその空間が無駄に広く感じられた。寒々しくて、けれど窓から差し込む五月の日差しは暖かい。

 部屋についたら、シャワーも浴びずに貪るように体を重ねた。途中で、真冬ちゃんは少し泣いていた。涙をごまかすように、わたしたちは互いに求め合う。触り合って、舐め合って、キスをする。息が止まるようなキスだったけれど、苦しくはなかった。

 溺れることが、窒息から逃れるたった一つの方法だった。傍から見れば、今も大して変わっていないのかもしれない。けれどもう、溺れる必要はない。わたしは、みんなと同じように呼吸するのを止めたのだから。

 その代わり、わたしには当たり前のように吸うべき空気がある。まさしく今、わたしはそうしていた。真冬ちゃん。霜月真冬ちゃん。溺れていなくても、わたしは息をし続けられると思った。

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語りえぬ恋についての物語 押本 詩 @utaoshimoto

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