4(後)

 生徒会室を出て、音を立てないよう扉を閉める。

 そして、振り返らずに廊下を歩く。

 終わった。

 何が、終わったのだろう。

 美代に言おうと思っていたことは全て伝え終えた。けれどそのことではない気がする。なら何だろう。すべきことはまだ残っている。何も終わってはいない。

 美代との関係かな。

 思い至って、ようやく悲しみが訪れた。泣きそうになるのを我慢する。だって美代は泣かなかった。謝っている時も、わたしが全てを話し終えた時も。だからわたしも泣きたくない。今泣いたら、本当に美代との関係が終わってしまう気がした。わたしが泣いても泣かなくても、そうなってしまうかもしれないけれど。


 ――ごめん、ちょっと一人で、考えさせてほしい。


 美代はそう言った。それから、一度たりとも目が合うことはなかった。

 視界がぼやけ始めたから、咄嗟に上を向いた。これから行くべき所がある。話すべき人がいる。泣いた顔は見せられない。零れるな、零れるな、と念じながら、十秒ほど待った。

 そして顔を下げた時、階段から誰かが上がってくるのに気付いた。


「お疲れ様です、桐咲会長」


 そう言って、安住くんがちょこんと会釈した。わたしに会いに来たのは、言われなくても分かる。わたしがここにいるのは生徒会の誰かに聞いたのだろう。


「安住くんも、お疲れ様。大会は……」

「サッカーです。すぐ負けたので、暇なんですよ」


 そうなんだ、残念だったね、とわたしが返して、会話が途切れた。何か言いたそうな安住くんは、けれど言いにくそうに視線を彷徨わせている。何か用があるからここまで来たのだろうし、それは間違いなく真冬ちゃんのことだろうけど……。安住くんが何か言ってくれないと、わたしは何も返せない。

 そういえば、この前もこんな風に話しにくそうにしていた。話し上手な印象があるから意外だ。


「安住くんって、わたしのこと苦手?」


 気になって、無遠慮に聞いてしまった。すると、安住くんは慌てて首をふった。


「いやいや、そんなことないですって」

「そう? でもこの前から話しにくそうにしてるし」

「それはその……今回のは特に、大変言いにくいというか、俺が桐咲会長に言ったらセクハラにならないか心配というか……」


 セクハラ?


「セクハラとか言わないから、話してみて」


 今は時間が惜しい。大会の運営をみんなに任せたままだし、自分の競技のこともある。だから今この時間は、一秒だって無駄にしたくなかった。話がないなら先を急ぎたい。

 安住くんが弱った顔になる。本当に言いにくいのだろう。

 ややあって、安住くんは言った。


「あの、会長。真冬に何したんですか?」

「何したって、どういうこと?」


 曖昧な切り出し方だった。話上手な安住くん、という印象がどんどん崩れていく。安住くんには、前に意図の掴めない比喩で混乱させられたばかりだ。それとも、やはりわたしが苦手で、他の人にはこういう話し方にならないのだろうか。


「……先週の水曜とか、何かありました?」


 もちろんあった。けれど、それに関連して、安住くんが何を聞きたいかが分からない。セクハラを心配する理由も今のところは見当たらない。


「……真冬ちゃんと喧嘩した」


 事実をそのまま言うと、安住くんは驚いた顔をした。


「真冬と話したんですか?」

「色々あって。それで、最後に言い合いみたいに」

「言い合い……。それでか」


 一人で納得している安住くん。一方のわたしは、何のことか全く分からない。


「真冬ちゃんがどうかしたの?」

「……水曜の夜、呼び出されて何かと思ったら、いきなりセックスさせられたんです。泣きながら」

「セックス? 泣きながら?」

「部屋上がったら、いきなり押し倒されて」

「押し倒されて……」

「こういうこと、今までなかったんで俺もどうしていいか分かんなかったんですけど、桐咲会長絡みだろうなっていうのは……会長、大丈夫ですか?」


 そこで、安住くんはわたしが固まっていることに気付いた。逆にわたしは、声をかけられたおかげで硬直が解ける。


「あ、うん、ごめん。大丈夫」

「すみません。言葉選ぶべきでした」


 セクハラというのはそれでか。


「気にしないで。そうとしか、言いようがないと思うし」


 言いながら、内心ひどく動揺している。セックス、という単語のせいではない。

 あの日の夜、つまりわたしと大喧嘩した後、というのが大問題だった。しかも泣きながら。

 ふと違和感を覚える。泣きながら? そういえば、真冬ちゃんが泣いているのを見たことがない。泣くのはいつもわたしだった。そのせいか、真冬ちゃんのそんな姿をうまく想像できない。


「泣きながらって、それ本当?」


 疑いの目を向けると、安住くんは頷いた。


「本当なんです。あいつ、中学の頃から泣いたことなんか一回もなかったのに」

「想像つかない」

「実際に見た後ですけど、俺もです。こういうの、人に話すのはあれなんですけど、やっぱほっとけなくて。あれからずっと元気ないんですよ。ずっと塞ぎ込んでて。たぶん、付き合ってたやつ全員切ってると思いますし」

「え、いつから?」

「たぶん、二月の間には。魂抜けたみたいに、家でずっと寝転んでましたから。前は家にいる時間のほうが短かったのに。でも、それでも今ほどひどくはなかったんですよ。なんかもう、あいつ、ボロボロです」


 だったらどうして、喧嘩した時そう言ってくれなかったのだろう。あの時、そっぽを向いてはぐらかしながら、何を思っていたのだろう。


「俺じゃ何もできないんですよね」


 力なく、安住くんは言った。その姿は、なんだかとても情けない。諦めているような、自分は部外者だと思っているような雰囲気がある。そう感じた途端に、苛立ちが募った。なんなの。彼氏でしょしっかりしなよ。そんな思いが湯水のように溢れ出る。

 変な感覚だ。真冬ちゃんの彼氏という肩書を、あんなにも妬ましく思っていたのに。自分の中のどこを探しても、纏わりつくような、ねちょねちょしたあの感情が見当たらない。余すところなく、ひどく刺々しい感情に置き換わっている。

 どう考えても原因はわたしとの喧嘩なのに、それを棚に上げてわたしは言った。


「彼氏なんだから、なぐさめてあげなよ」

「だから俺はファッション彼氏で……」

「でも、彼氏は彼氏でしょ?」


 ぐっと言葉に詰まる安住くんを見て、わたしも少し反省する。嫌味な言い方をしてしまった。ほとんど逆恨みのようなものだ。彼氏のポジションを妬んでいた反動で、攻撃的な感情に支配された今、安住くんに何か言ってやりたくなっている。安住くんなんかより、わたしの方が真冬ちゃんのことを考えていると、マウントをとりたくなっている。不思議なことに、そういう自分が全然嫌いではなかった。


「ごめん。言い過ぎた」

「いえ、だいじょ……」


 大丈夫です。おそらくそう続けようとしたのを、安住くんは飲み込んだ。どうしたのだろう、と思っていると


「桐咲会長は、俺のことどう聞いてますか? 女性関係のことで」


 突然、そんなことを聞いてきた。


「三股してて、その全員が同じくらい好きらしいって聞いたよ」

「それ、嘘なんです」

「嘘?」

「二人のことは同じくらい好きなんですけど、真冬だけは特別というか、俺の中で格が違うというか……。要するに、ファッション彼氏じゃなくて、本音じゃちゃんとした彼氏になりたいんです」


 だったらなぜ三股を? と首をひねりかける寸前、考えを改めた。わたしだって、真冬ちゃんだけが好きなのに散々不合理なことをしてきた。わたしなりに理由があったけれど、それを他人に語っても理解は得られない。安住くんにも、何か理由があるのだろう。


「真冬と知り合うまでは本当だったんですよ。付き合ってるやつ全員好きっていうの。最初は真冬もそうだったんですけど……いつの間にかそうじゃなくなってて。でも真冬は俺のこと絶対本気にはならないって分かってたから、ちょうど良かったんですよね、ファッション彼氏ってポジションが。ちゃんとした彼氏にはなれないけど、肩書だけは手に入りますから」


 悲壮感のない、淡泊な語り口だった。わたしだったらそんな風に話せない。好きな人には、自分のことを好きでいてほしい。


「なんで……ちゃんと話したら、もしかしたら真冬ちゃんだって」

「それはないですよ。真冬が本気になるならない以前に、俺があいつのこと好きって、伝わらないんですし。だってあいつ、人の気持ちが分からないじゃないですか」


 淡泊な口調は変わらない。それだけに、確信に満ちた声音だった。長い年月で染みついた、もはや剥がれ落ちない確信。それは、諦めにも近い響きだった。


「でも真冬ちゃん、わたしのことたくさん気付いてくれたよ。他の誰も気付かないのに」


 真冬ちゃんは鋭い。言葉にしていないことも、あっさりと見抜いてしまう。わたしが女の子を好きなことも、視線だけで気付かれてしまった。それに、わたしが欲しい言葉を当たり前のように与えてくれる。人の気持ちが分からない……そんな風には見えない。

 けれど、わたしだって薄々察している。


 ――それ、証明してくださいよ……


 そう言った真冬ちゃんは苦しげで、今にも窒息しそうだった。あの時はわたしも余裕がなくて、心配してあげることもできなかった。それどころか、嘘つきと吐き捨てた。どれだけ後悔しても足りない。そのせいで真冬ちゃんが泣いている。

 分からなくて辛くて、だから証明してほしくて……。なのにわたしは、真冬ちゃんを傷つけてしまった。


「あいつ、感度が高すぎるんですよ。それで逆に、わけわかんなくなってるんだと思います」

「……分かる、かも」

「俺は、そういう真冬に満足してます。たまにこうやって八つ当たりぎみに、その、セックス……に付き合わされて、なんとなく一緒にいるの、結構楽しいんですよ。だから、俺じゃあいつを満足させてやれない」


 安住くんがわたしに何を求めているのか、なんとなく分かってくる。つまり、お前がなんとかしろと言いたいのだろう。お前はその他大勢の一人でいいのか? 俺とは違うだろ? ならお前一人であいつを満足させろと、口にはせずとも目でそう言っている。

 言葉にしないその部分をじっくり染み込ませるように、安住くんはそこでたっぷり間を置いた。わたしは逃げるためではなく、落ち着いて考えるために視線を窓のほうに向ける。広いグラウンドで、生徒たちが楽しそうにスポーツに取り組んでいた。生徒会長のわたしが守るべき光景だ。それをしみじみと眺めてから、わたしは安住くんに向き直った。


「わたし、真冬ちゃんの所に行くね」


 わたしも、大事な部分は言葉にしなかった。自分に任せろとは言いたくない。わたしは安住くんに言われたからではなく、自分が今すぐにでも真冬ちゃんに会いたいからそうするのだから。

 何かに納得したように「うっす」と頷いた安住くんの横を通り過ぎる。そして階段を降りようとする直前、


「会長」


 と、安住くんに呼び止められた。


「さっきは、会長のこと苦手じゃないって言ったけど、やっぱり苦手かもしれません」

「だよね。参考までに、なんで?」

「だって悔しいじゃないですか。俺は自分が相手を好きならそれでいいって、真冬には言ってるし、嘘ってつもりもなかったんですけど、ちょっとは強がりかもなって思います。会長が羨ましいんですよ。だから、苦手です」

「そっか」

「だから応援もしてますよ。会長と真冬のこと」


 安住くんはいい子だ。それを今、改めて思い知らされる。真冬ちゃんが好きだと言った後に、そういう所を見せないでほしい。わたしの弱い部分が顔を出して、遠慮してしまいそうになる。こういう人といたほうが、真冬ちゃんも幸せになれるのではないだろうか。そんな風に一歩引いてしまいそうになる。

 そこでふと、思いつくことがあった。本当に後退しかねない脚を根本からへし折るのに最適な、けれど色々な意味で最低な思いつき。


「ありがと。わたし、頑張るね」


 今度こそこの話はおしまい。安住くんは、そんな顔をした。けれどわたしは、一つだけ付け加えることにした。


「応援してくれるなら、お願いがあるの。聞いてくれるかな」


     *


 階段をおりながら真冬ちゃんのことを考える。

 真冬ちゃんについて考えるとは、つまり真冬ちゃんとどうなりたいかについて考えるということだ。わたしは、真冬ちゃんと対等になりたい。わたしが真冬ちゃんを好きな分だけ、真冬ちゃんにもわたしを好きになってほしい。けれどわたしには積み重ねがない。真冬ちゃんと出会って約一年、付き合っていたのは一か月とちょっとだけど、その間にわたしは真冬ちゃんに何をしてあげられただろう。思い当たるものが何もないせいで、あらゆる自信を喪失する。生徒会の仕事を、ほんのちょっとは教えてあげられたかもしれない。けれど、ただそれだけだ。以前、生徒会は楽しいかと真冬ちゃんに聞いた自分が滑稽に思えてくる。何もないが故にささいなことを恩着せがましく押し付けて、一時的な安心感を得ようとしていた浅ましさに眩暈がする。真冬ちゃんがわたしを好きになってくれる理由なんてどこにもなかった。

 ただ、ここに来てさすがのわたしも考える。

 真冬ちゃんは、やはりわたしのことが好きなのではないか?

 あの喧嘩の直後に、真冬ちゃんは泣いていたらしい。しかも、セックスの最中に。それを自分とは無関係と言えるほど、わたしも鈍くはない。

 そしてまた、真冬ちゃんを理解できなくなった。真冬ちゃんがわたしを好きだと仮定して、だったらどうしてわたし以外の大勢とも付き合っていたのか、どうしてバレンタインの日にあんな態度だったのか、どうして今も好きだと言ってくれないのか、疑問が絶えず生まれ続ける。

 現実はわたしの思うようにはいかなくて、真冬ちゃんは気持ちの証明を求めている。それができたら、わたしは真冬ちゃんと対等になれるだろうか。わたしは嘘偽りなく真冬ちゃんが好きだよ、と真冬ちゃんの心と体の全てに教えてあげたら、真冬ちゃんもわたしが好きだと言ってくれるだろうか。そうしてわたしたちの好きが釣り合う想像と、そうならなかった未来の想像が同時に浮かんで、ここから先に進まなければ結果を知らずに済むことを意識してしまった。このまま何もしなければ、少なくもこれ以上傷つかずに済む。そしてずっと、後悔し続けるのだろう。傷は広がらない代わりに、古傷として永遠に残り続ける。その傷に触れるたびにわたしは後悔し、真冬ちゃんを思い出し、かつて逃げ出した自分を罵倒し、過去の自分にすら責任転嫁する自分を嫌悪する。

 そんなのは絶対にいやだった。

 そう思ったから、わたしは今、ここにいる。真冬ちゃんが休んでいる、一階の保健室。養護の先生は球技大会の仮設救護スペースに戻ったはずだから、きっと一人だろう。中から物音は聞こえない。窓枠から覗いても人の姿は見えない。奥のベッドはカーテンが閉じられている。

 逃げられていないだろうか。言い逃げやり逃げは真冬ちゃんの得意技だ。

 ふうっと大きく息を吐いて、そっと扉を開けた。


「真冬ちゃん、いる?」


 返事はない。けれど、真冬ちゃんはそこにいた。カーテンで遮られた向こう、ベッドの上で人が身じろぎした気配を感じた。

 近いづいて、問答無用でカーテンをあける。


「……勝手に入ってこないでくださいよ」

「子どもみたいに拗ねないの。わざわざそっち向いて、そんなにわたしの顔見たくない?」


 毛布にくるまったまま、真冬ちゃんはぴくりとも動かなかった。


「指、大丈夫?」


 そう言って、毛布をぎゅっと掴む指を上から覗き込む。普通に動いているし、テーピングも必要なかったようで安心した。もう冷やさなくていいのか心配だけど、養護の先生に診てもらった上でのことなら大丈夫だろう。

 真冬ちゃんは突き指していた。喧嘩の直後、ひとまず二人を別室に移そうとした時、真冬ちゃんが左手を気にしていたから気がついたことだ。確認してみると、案の定。もしや美代との喧嘩でと肝を冷やしたけれど、怪我をしたのはその前、守備の時にボールをキャッチし損ねた時だったらしい。それならそれで、早く申告すれば良かったのに。突き指でも重症だったら大変だ。大事なことを何も言わないあたり、真冬ちゃんらしいけれど。

 結果として、真冬ちゃんの待機場所は保健室に決まった。生徒会室と同じで、球技大会の間、基本的にここには誰も来ない。養護の先生にも、治療が終わったら仮設救護スペースに戻ってほしいと伝えてあった。


「じろじろ見ないでください」


 真冬ちゃんが嫌がるから、わたしは一度身を引いた。



「大丈夫そうだね」

「だから言ったじゃないですか」

「まあまあ。念のためっていうのもあるし。じゃあ、話を聞かせてくれる?」


 やや不意打ちぎみに本題に入った。美代と違って、強引にでも話さないと延々と平行線が続きそうだ。

 予想通り、真冬ちゃんは何も話してくれなかった。


「ならわたしから聞くけど、なんで美代のこと無視したの?」

「……さあ」

「理由くらい言いなよ」

「さくら先輩は宮藤先輩の味方なんですね」

「敵とか味方とかの問題じゃないよ。わたし、生徒会長だから。ここはわたしに任せてくださいって、先生たちにも言っちゃったし」

「そういうの、もういいですよ」

「じゃあ個人的な関心で聞くけど、なんで美代のこと無視したの?」

「個人的な話なら、さくら先輩には関係ないじゃないですか」

「関係あるよ。美代は友達だし、真冬ちゃんは元カノだもん」

「元カノその七くらいですね」


 刃で体を真っ二つにされたような気持ちに負けそうになる。


「元カノその七に免じて、理由くらい教えてくれたら嬉しいんだけどな」

「……だって、意味ないじゃないですか。私はもう生徒会に行かないし、宮藤先輩も私とは話したくないだろうし。関わりなくなった人と会話して、何になるんですか?」

「でも美代から話しかけたんでしょ? だったら真冬ちゃんと話したくないってことはないんじゃないかな」

「気まずかっただけですよ」

「そうかもしれないけど、美代、後悔してたよ。これでわたしと真冬ちゃんが本当にダメになったらどうしようって」

「宮藤先輩とは関係なく、私とさくら先輩はすでにダメだったので安心してくださいって伝えてください」


 暖簾に腕押しという感じだ。真冬ちゃんはもう、こちらを向く気すらなさそうだった。


「わたしのこと、好きなくせに」


 思い切って言った。真冬ちゃんは反応しない。けれど、反応しないよう自分に強いているようにも見えた。


「図星?」

「いっつもえんえん泣いてたさくら先輩が言うようになりましたね」

「おかげさまで強くなったんだよ」

「うそ。今も心臓が口から飛び出そうになってるくせに」


 それこそ図星だ。


「それでどうなの? わたしのこと、好きなの?」


 真冬ちゃんはまた黙り込んだ。


「わたしは真冬ちゃんのこと好きだよ。元カノその七なんかじゃダメ。今すぐ彼女にしてほしい。その一じゃなくて、一人だけの彼女ね」

「で、私は彼女その一ではあっても、恋人その二になるんですね」

「違うよ。家名くんには、もう付き合えないって言ってきたから」


 毛布を弾くようにして、真冬ちゃんがこちらを向いた。


「やっとこっち見くれたね」

「……なに、にやけてるんですか。気持ち悪いです」


 無自覚だったから、咄嗟に自分の頬に触れた。なんとなく、緩んでいる気がしないでもない。


「真冬ちゃんのこと好きだからね。顔が見れて、わたしの全身が喜んでるんだよ」

「全身って。なんか、ほんと気持ち悪いですよ」

「真冬ちゃんを想って気持ち悪くなれるなら本望かな」

「……家名先輩とはもう付き合わないって、それ本気で言ってるんですか?」

「本気だよ」


 真冬ちゃんが信じられないという顔をする。無理もない。わたしがいかに拗らせに拗らせ、家名くんというカモフラージュを死守していたかを、真冬ちゃんはよく知っている。

 そこに至るまでの紆余曲折は語れば長く、わたしにとっては大事な道筋でも、真冬ちゃんにとっては何の意味もない。だからわたしは、本当に大切な部分だけを言うことにした。もうすでに何度も言っている、当たり前の結論。


「だって家名くんのこと、全然好きじゃないから。あ、恋愛対象にならないって意味でね。友達としては好きだよ」


 真冬ちゃんが絶句している。わたしも、ここまで平然と言えるとは思わなかった。水族館で同じことを口にした時は、心に亀裂が走るような悲壮感を伴っていたのに、そんな感じが全くしない。至って自然に、平らかな感情のまま、単なる事実として言葉にできていた。


「……いいんですか。カモフラージュ、なくなっちゃいますよ」

「そうだね」

「こわくないんですか」

「怖い、ような、気が、する?」

「なんで疑問形」

「自分でもよく分からないの。なんか、麻痺してる感じ」


 ずっと、この世界は猛毒に満ちていると思っていた。今もそう思っている。わたしが吸ったら死ぬ空気。けれど吸わなくても死ぬ空気。女は男が好きで、男は女が好きだという古今東西で共有されてきた空気。

 わたしは、吸って死ぬほうを選んできた。吸わずに死ぬより、そのほうがまだしも長く生きられると信じていた。たぶんそれは間違っていない。七転八倒しながらも、わたしはそれなりに平和に生きてきた。得られたものもたくさんある。唯一無二の親友ができた、生徒会長として慕ってもらえた、みんなと同じものを共有する人間としてなんのフィルターも通さず見てもらえた。いつか耐えられなくなって死ぬ未来が来るとしても、それが今この瞬間ではないことに安心できた。

 けれど由佳ちゃんとぶちまけあって、吸わなくてもべつに死にはしないんじゃない? とも思い始めている。あの後学校に来て、世界が変わったように感じた。息苦しくなかった。たぶんその時から、わたしは毒々しい空気を吸わなくなった。

 大変なのはこれから、という理解ももちろんある。今はタイムラグで助かっているだけだ。吸ってもらえなくて怒った毒の空気がいつか凶器になって、四方八方からわたしを刺しにくる。それでもまあ、死にはしないだろう。由佳ちゃんがそう教えてくれた。かつてみんなと同じ空気を吸わなかった由佳ちゃん。だから死んでしまったとわたしが勝手に思っていた由佳ちゃん。その由佳ちゃんは今もそんな空気は吸っていなくて、それでもちゃんと生きている。辛い瞬間はあるだろう。誰にも知られず、ひそかに泣いている日もあるかもしれない。けれど、死んでいない。強く逞しく、きっと多くのことに傷つきながら、普通に生きている。

 何より、真冬ちゃんと完全に終ってしまうことの方がずっと怖い。真冬ちゃんに突き放されたこの一か月、その恐怖は現実の痛みとなって、わたしはのたうち回った。真冬ちゃんと恋人だった頃の充足感、真冬ちゃんが隣にいなかったこの一か月の空疎さ。


「後悔しても知りませんよ」

「たぶんするだろうね。でもわたし、今は無敵なの」

「そうですか。頑張ってください」

「他人事みたいに言わないでよ」

「他人事ですから」

「他人事じゃないよ。真冬ちゃんには彼女になってもらうんだから」

「なりません」

「お願い」

「いやです」

「なんでいやなの?」

「いやだから、いやなんです」

「それ、トートロジーっていうんだよ。同義語反復。落第だね」

「高尚な議論とかしてないので。私の気持ちの問題だから、それでいいんです」

「わたしには証明しろって言ったくせに」


 次に言おうとしていたであろう言葉を、真冬ちゃんは飲み込んだ。


「好きを証明しろって、めちゃくちゃだよね。何それって感じ。好きだから好きなんだもん。わたしの気持ちの問題でしょ? それで十分なんだから、彼女になってよ」

「私の気持ちは無視ですか」

「無視してないよ。だってわたしのこと好きでしょ?」

「好きじゃないです」


 今度は即答された。何故か、全然平気だった。


「ほんとかな。真冬ちゃん嘘つきだし」

「嘘じゃないです」

「じゃあ、証明してよ」

「だから、そんなの――」

「無理かな。無理だよね。でも証明して。嘘じゃないって。そうじゃないと、わたし認めないから。真冬ちゃんがわたしのこと嫌いって納得するまで、わたし諦めないよ。ずーっと追いかけてあげる」

「べつに嫌いなんて言ってないです」

「なら好きなの?」

「……好きじゃない」

「どっちなの?」

「なんで二択になるんですか。無関心っていうのもあるんです。どうでもいい。どうでもいいんです」

「だったらなんで泣いてたの?」


 真冬ちゃんはぽかんとした。そしてすぐに狼狽え始める。


「聞いたよ。由佳ちゃんたちと遊びに行った後、家名くん呼び出して泣きながらセックスしたんだよね」

「そん、なに、え、あ……」

「おかしいよね。わたしのことどうでもいいのに、なんで泣いちゃったの? セックスで誤魔化したくなるくらい、何が悲しかったの?」

「……違う、それは」

「わたしは関係ないって言い張るの? それこそ証明できないもんね」

「そう……そうですよ。さくら先輩なんか、関係ない」

「泣きながらセックスしたっていうのは認めるんだ」

「あ……」

「……何が、そんなに悲しかったの?」


 もう一度聞いたその一言だけは、できる限り優しく口にした。

 真冬ちゃんは俯いたまま何も言わない。それをいいことに、わたしはベッドの上に侵入した。


「ちょっと、なんですか」


 押し戻そうとする真冬ちゃん。左手は突き指しているから右手だけ。力が弱すぎて、ちゃんと抵抗するには全然足りていない。いつかのように。それでも暴れていることに違いはなくて、安っぽいベッドが微妙にきしむ。


「確かめようと思って」

「……なにを」

「真冬ちゃんがわたしのこと好きかどうか」

「だから好きじゃないです」

「それを確かめるんだよ」


 今度はわたしが、真冬ちゃんの肩を掴んだ。


「……こい」


 ぽつりと、真冬ちゃんが言った。


「こい?」

「しつこい!」


 ほとんど悲鳴のようだった。涙は流れていないのに、泣いているようだった。


「しつこい、しつこい、しつこい、しつこい!」


 手を振りほどこうと、真冬ちゃんが暴れ始める。わたしは離さない。


「離してください」

「やだ」

「離して」

「だめ」

「離せ!」


 とうとう、真冬ちゃんは泣き始めた。最初はぐすっと小さく、徐々に嗚咽も涙の粒も大きくなり、呼吸が荒くなっていく。


「あ、ひっ、あう」

「真冬ちゃん」

「も、」

「真冬ちゃん」

「もう、やだあ」


 うわあっ、と真冬ちゃんが声をあげて泣く。まるで赤ちゃんのよう。涙も声も止まらない。わたしもそうだった。この数か月、何度も泣いた。真冬ちゃんの前で泣いた、最初の記憶がよみがえる。交わしたハグ。そうしていれば安心すると、真冬ちゃんが言っていた。だからわたしは、あの時と同じようにした。

 ジャージ越しでも、真冬ちゃんの冷たさを感じる。氷柱みたいだと思った。細くても芯が強そうで、けれどやっぱり、触れたらぱきっと折れてしまいそうな、か細い氷柱。

 さっきまでの暴れようが嘘のように、真冬ちゃんの動きをぴたりと止まる。それでもまだ、泣き続けている。


「好きじゃない」


 言いながら、真冬ちゃんはわたしの背中をぎゅっと掴んだ。引っ掻かれて、ささやかな痛みが走る。好きじゃない、という言葉を、わたしの感覚に刻み込もうとしているみたいだ。けれど、本当にささやか。こんなので、わたしはもう傷ついてなんかあげない。


「好きじゃない……」


 繰り返す真冬ちゃんの体を、一旦解放する。泣きはらした顔を見て、愛おしさが込み上げた。大好きだから大好きなこの子を、心の底から安心させてあげたい。


「もう帰ってください」

「ごめんね。まだ帰れない。真冬ちゃんはわたしのこと好きじゃないかもしれないけど、わたしが真冬ちゃんのこと好きなのは、ちゃんと知っておいてもらわないと困るから」

「それもさっさと諦め――」


 言い終わらないうちに、わたしはその唇を塞いだ。お互いの呼気が、出口を見失う。

 真冬ちゃんは抵抗できなかった。突然の事態に理解が追いつく前に、わたしが唇を離したからだ。長い時間なんて必要ない。ほんの一瞬だけで良かった。

 真冬ちゃんは、怒ったようにわたしを睨みつけた。真冬ちゃんに怒りを向けられたのは、これがはじめてかもしれない。この前の喧嘩や、さっきのような言い合いですら、そこには悲しみや苦しみしか感じられなかった。けれど今、真冬ちゃんは怒っている。

 それが不思議と、嬉しい。自分の中で完結する悲しみや苦しみとは違う、相手がいてこその怒り。それを他でもないわたしにぶつけてくれた。真冬ちゃんがはじめてわたしを見てくれたようで、嬉しかった。


「いきなりなにするんですか」

「キス」


 聞かなくても分かることを言ったわたしに、真冬ちゃんはさらに怒ったようだった。


「犯罪ですよ。強姦です。女同士だからって、許可なしでなんでもしていいわけじゃないです」

「そうだね。でも真冬ちゃんだって、わたしの許可なくキスしたんだからお相子だよね」


 あれが全ての始まりだった。真冬ちゃんを殺そうとまで思いつめた原因でもあるけれど、今はあの一瞬さえ愛おしい。


「あんなの時効です」


 目元をぐしぐし擦りながら、真冬ちゃんが都合のいいことを言う。


「それに、さくら先輩の殺人未遂と相殺です」


 指摘されると弱い所だ。


「それで、わたしの気持ちは伝わった?」

「全然、これっぽっちも、分かりません」

「そっか。残念」


 そう言いながら、それほど残念には思っていなかった。キス一つで伝わるなんて、さすがに期待していない。


「わたし、戻るね。真冬ちゃんも、競技に参加したくなったら戻って。気分が乗らなかったら、大会が終わるまでここで休んでいいけど」


 最後に生徒会長らしいことを伝えて、ベッドから降りる。すると、引き留めるように真冬ちゃんの腕が伸びてきた。


「あ」


 無意識だったのか、真冬ちゃんは途中で、さっと手を引っ込めてしまった。遠慮しないでいいんだよ、と言いたくなった。熱を出した時みたいに裾を掴んで、わたしが帰れないようにしてもいいんだよ。真冬ちゃんにお願いされたら、わたしは球技大会なんて簡単に放り出せる。

 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、真冬ちゃんに背中を向ける。そのまま歩いて、保健室を出た。真冬ちゃんは何も言わなかった。わたしもずっと黙っていた。

 廊下にはもう、わたし以外誰もいない。

 そう思った瞬間、呼吸が荒くなった。慣れないことをしたせいか過呼吸になっている。胸を抑えてもまだ苦しい。ひい、はあ、ひい、はあ。情けない呼吸音が繰り返される。これで真冬ちゃんが出てきたら笑えない。せめて少し離れたほうがいい。分かっているのに、緩んだ緊張の糸は元には戻らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る