4(中)
喧嘩喧嘩になったのは美代と真冬ちゃんだった。それを聞いて、わたしはすぐに現場に向かった。家名くんとの話が途中だったけれど、そんな場合ではない。
走りながら、そんな場合ではないという物言いの最低さに気付いた。自分の中にある絶対的な優先順位を自覚する。家名くんよりも、好きな人と親友のほうがずっとずっと大事だ。
わたしが現場についた時には、二人の喧嘩は終わっていた。というより、強制的に止められていた。現場にいた実行委員と先生が間に立って、二人の燃料に再び火がつかないようにしている。
もちろん試合も止まっていて、生徒たちの視線も集まっている。当事者が当時者だから、原因は誰の目にも明らかだ。そこにもう一人の当事者も現れたのだから、気にするなという方が難しい。
わたしと目が合うと、美代は気まずそうに顔を背けた。
真冬ちゃんはこちらを見もしなくて、話ができそうな雰囲気ではない。だからまず、美代に声をかけることにした。
「美代」
「……ごめん」
こちらも見ないまま、美代がぽつりと言った。目が潤んでいる。泣かないよう堪えているのが伝わってくる。美代が泣かない代わりに、わたしが泣きそうになった。
「ごめん、さくら……」
*
場所を変えて、まずは美代と二人で話すことにした。先生は全面的にわたしに任せると言ってくれている。こういう時、生徒会長の肩書はやはり便利だ。
場所は、迷った末に生徒会室に落ち着いた。大会中、ここに人が来ることは滅多にないし、美代にとってもわたしにとっても、慣れた場所のほうが話しやすい。
最初、美代は何も話そうとしなかった。
椅子に座って目線を合わせて、正面から向かい合う。わたしの視線を美代がプレッシャーに感じないよう気を付けながら、ただじっと待つ。
そうしていると、美代は少しずつ話してくれた。
「あいつ、フォアボールで塁に出て、あたしはファーストで……あいつの運動神経じゃどうせこっちには来ないと思ってたから、動揺してさ……ああ、違う、そういうのはどうでもいいよね」
「ううん。話したいように話してくれたらいいから」
「……咄嗟に声かけたんだ。何言ったかは覚えてない。たぶん、当たり障りないこと言ったんだと思う。険悪な感じにはしたくなかったから。でも無視しされて……。だからイラっとして、なんであんなことしたんだよって言っちゃったんだ。そっちははっきり覚えてる」
「それで、また無視されたんだね?」
聞かなくても分かる。美代は頷いて先を続けた。徹底的に無視された美代はついにきれて、真冬ちゃんに掴みかかってしまったらしい。その時に周囲が異常に気付いて、すぐに仲裁に入った。怪我をするような喧嘩でなくて良かった。そうなる前に止めてくれた人たちには感謝しかない。
「完全に余計なことした……しかも大会中に……最悪だよ。ごめん……」
美代はぐすっと鼻をならした。けれど涙は流さない。泣いてばかりのわたしと違って、美代は強い。だからこそ辛いだろう。泣くことの効用はわたしが一番よく知っている。うわあっと感情を外に出せば一応はすっきりする。またすぐに澱がたまって元の木阿弥にはなるけれど、その一瞬だけは確かに楽になる。
美代が怒って、泣けなくて、辛いのはわたしのせいだ。親友として、わたしを裏切った真冬ちゃんに怒ってくれている。そんな事実はどこにもないのに。
「美代が友達で良かった」
わたしを親友だと思ってくれていて、きっと真冬ちゃんのことも大事にしていて、だから思い余ってしまった美代。そういう美代だから、親友になれて良かったとわたしも思う。思えば思うほど、騙していることに耐えられなくなる。
わたしの葛藤なんて知る由もなく、美代は目を丸くした。それはそうだろう。本当の責任の所在がどうあれ、美代は今、自分が悪いと思って謝っている。「友達で良かった」と言われる文脈が美代には見えない。
違うんだよ、美代はとっても優しいんだよ。そう教えてあげたくなった。
「わたしが落ち込んでたらいつも気付いてくれるし、気分転換に付き合ってくれるし、わたしのために悲しんだり落ち込んだりしてくれるし……そういうのなくても、一緒にいるだけで楽しいし」
「……でも、失敗した」
「失敗なんかしてない」
「だって、これでさくらと真冬がもうどうしようもなくなったら……」
「そうだね。わたしと真冬ちゃんは、もうどうしようもないかも。でも美代のせいじゃない。美代のせいじゃないんだよ。全部、わたしのせい」
「なに、さくら……なんでそういうこと……さくらは、被害者じゃん」
「ねえ美代。わたし、美代のこと好きだよ」
意思が枯れる前に一息で言った。手が震える。今言ったことのせいではない。こんなのは何も問題ない。友達として好き。女が女に言って、とても自然に聞こえる言葉。けれどきっと、これから先はそんな風に解釈してもらえなくなるだろう言葉。だから今言っておきたかった。情けなくなるくらい震えが止まらない。
突然そんなことを言われた美代は、もちろん困惑している。
「これから先、美代以上の友達はいないって、そう思えるくらい好き。美代は?」
「……好きだよ。あたしも、さくら以上の友達なんかいない。さくらが男だったら結婚してた」
「そっか。嬉しいな。わたしも美代と結婚したら幸せだったかも。でもね、わたしは美代が男でも、結婚はできないんだよね」
え、と美代がぽかんとする。
わたしも油断すると呆けた顔になりそうだ。自分がしていることに、意思が置いて行かれそうになる。おい、ちょっと待て、本当にそれでいいのか? と心のどこかが躊躇する。美代と親友でなくなるどころか、これから卒業するまで口をきいてくれなくなるかもしれない。それでもいいのか?
良くない嫌だ嫌だ美代とはずっと一緒がいい絶交されたくない! 今度は心の全てが叫ぶ。わたしは、恋愛対象として女の子が好きだ。けれど友達のこともちゃんと好きだ。友達の好きが大切だから、わたしは恋愛の好きを諦めてきた。美代がいない生活はきっと苦しい。
なのに今、それを失うようなことをしている。わたしは恋を、真冬ちゃんを選ぼうとしている。真冬ちゃんとまたうまくいく保証もないのに。結局、どちらも失うかもしれないのに。
両方を失わずに済む方法もあるのだろう。世の中、うまくやっている人は大勢いる。可能性は低いけれど、わたしだって、今からでもそうできるかもしれない。美代に何も語らないまま、真冬ちゃんともう一度。真冬ちゃんのことはともかく、口を閉ざすだけなら簡単だ。
けれど、わたしはもう、その未来を選べない。
思い出すのは、由佳ちゃんが言ったこと。
――由佳は……覚悟を決める機会がたまたまあっただけ。
――由佳たちを認めないこの世の中で、普通に生きてやるぞっていう覚悟。
あれから、普通に生きるということの意味を考えた。
由佳ちゃんにとってのそれは、かつての自分を取り戻すこと。昔と同じ場所で、昔と同じように生きる。それはとても難しい。由佳ちゃんは変わった。あのいじめのせいで。いじめがなければ由佳ちゃんがどんな高校生になっていたか、考えることさえ不毛だ。今の由佳ちゃんはもちろん、未来の由佳ちゃんだって過去の出来事の影響から逃れられない。
それでも、と歩き続けることが由佳ちゃんの言う覚悟なのだろう。いじめの中心だったあの子に会いに行って、一体何を取り戻せるのか疑問に思う。きっと由佳ちゃんもそう思っている。会えばあの頃の恐怖や苦痛が蘇るかもしれない。あの子はいじめのことなんてすっかり忘れていて、そのせいで腹が立って、最後は傷つくかもしれない。それでも、由佳ちゃんはいつか、あの子と正面から向き合うのだろう。生まれたこの場所で、一片の恐れもなく歩けるようになると信じて。それでようやく元通り。
わたしも、と強く願った。
もちろん、由佳ちゃんとわたしの普通は違う。だってわたしたちは違う人生を辿ってきた。女の子が好きなのは一緒でも、向き合い方は重ならない。だから、必要な覚悟だってきっと違う。
なら、わたしの普通、わたしの覚悟ってなんだろう。
考えに考え、それでも答えは見つからず、それでも考えた果てにわたしは、まずは清算をしようと決めた。
今日までついてきた嘘を、全部。
そんなことをしても、嘘はなかったことにはならない。
けれどこれからは、本当のことだけを積み重ねたい。
それがわたしの普通で覚悟で、証明の形。
だからもう嘘はつけない。
怖気づく心を奮い立たせる。強がりで意思を支える。そうすれば、強い自分という虚構がこの瞬間だけは本当になる気がした。
この手の震えは、最後まで止まらなかったけれど。
「あのね、美代。聞いてほしいことがあるの」
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