4(前)

 由佳ちゃんのマンションを出て、いつものように登校した学校は、いつもとは違う世界に見えた。外観にも、内装にも、そこにいる生徒にも先生にも変わりはない。だからその変化はわたしの気持ちの問題で、由佳ちゃんと多くを話したことが影響したのは間違いない。

 毎日のように感じていた息苦しさ。真冬ちゃんとの関係に溺れることで逃れていた息苦しさ。真冬ちゃんがいなくて再燃した息苦しさ。それが薄れている。無理して吸い続けていた、あの毒々しい空気の存在はまだそこかしこに感じるのに。

 真冬ちゃんに溺れていた頃とは感覚が違う。けれど、その中心に真冬ちゃんがいるのは同じだった。依存の二文字はまだ背中に刻まれている。そして、だからどうしたという気分だった。わたしは今、人生で最も開き直っている。

 生徒会の雰囲気も徐々に改善されていった。家名くんはみんなとの関係を修復しようと苦心していたし、わたしもできる限り家名くんに話しかけ、二人の亀裂が塞がったかのように振舞った。その甲斐あって、かつての和やかさを取り戻しつつある。

 おかげで、球技大会の準備は滞りなく進んだ。種目ごとのガイダンスから当日のスケジュール調整、会場の設営まで。

 この学校の球技大会は少し変わっている。というか、わたしの代で変えた。十月の秋季大会の時のことだ。昨年度までは学年ごとのクラス対抗だったものを、学年ごちゃまぜのチーム編成でやろうとダメ元で提案したらなぜか通った。「真冬ちゃんと組めたらいいな」とちょっと思っただけのわたしは内心焦り、けれど実際にやってみると意外と好評だったことから、今月の冬季大会でも採用される運びとなった。


     *


 球技大会の朝、卓球部門のわたしたちは体育館に集まった。一年生の赤いジャージと、二年生の紺のジャージがひしめき合い、活況を呈している。これから始まるお祭りに、みんなが高揚しているのを感じた。


「目指すは優勝です、さくら先輩!」


 キョウちゃんが、拳を握りしめながら宣言した。この体育館にいる誰よりもやる気に満ちている。ペアを組むのを了承した時もたいそうな喜びようだったし、相当楽しみにしていたのだろう。


「足引っ張らないように頑張るね」


 体育の成績は中の中、いたって凡庸だ。


「私、頭のほうはあれですけど、こっちのほうは任せてください!」


 ラケットを素振りする姿は確かに様になっている。フォームが綺麗だ。

 大船に乗った気持ちになりながら、わたしの脳内を占拠するのはやはり真冬ちゃんだった。十月の球技大会。あの時は真冬ちゃんとペアでテニスを選んで、優勝どころか当たり前のように一回戦で負けた。真冬ちゃんが運動音痴なのは知っていたけれど、想像以上だった。生徒会の仕事は器用にこなす真冬ちゃんが、何度も空振りを披露する微笑ましい姿。今でも思い出すだけで頬が緩んでしまう。

 今、真冬ちゃんは隣にいない。グラウンドでソフトボールに参加しているらしい。突き指したり、ベースに足を引っかけて転んだり、顔にボールが直撃したりしてないか心配になる。卓球なら比較的安全なのに……と思いつつ、真冬ちゃんがこちらを選ばなかった理由は明らかだ。きっとわたしが卓球を選ぶのが分かっていたから避けたのだろう。

 美代もソフトだから様子を聞くことはできる。けれど、そこまでいくとストーカー染みていて少々躊躇われた。先日のストーカー行為を思えば今さらではあるけれど。

 それに、美代は真冬ちゃんに怒っているから頼みにくい。

 わたしも、今日は自分の競技と、生徒会としての大会運営で忙殺されるだろう。学年混合のイベントの中、どうにか真冬ちゃんと話す機会を作れないかと思っていたけれど、どうやらそれは難しそうだ。


     *


「やったね、キョウちゃん」

「はい、やりました!」


 ぱあん、と気持ちのいい音が鳴った。掌がじんじんする。勝利の痛みだ。

 秋、真冬ちゃんとはできなかったハイタッチ。キョウちゃんがとびきりの笑顔を浮かべている。二回戦を勝ち抜いただけでこれなら、もし優勝したらどこかに飛んでいってしまうのではないだろうか。


「このまま優勝しましょうね」


 キョウちゃんはそう言うけれど、それは難しい。

 任せろと言うだけあって、キョウちゃんはとても上手だった。卓球部員顔向けのテクニックで、シングルスなら優勝もありえただろう。けれど、相方のわたしが駄目だ。ついていけないのは目に見えている。


「キョウちゃんはこの後どうするの?」


 次の試合の邪魔にならないよう、体育館の隅に移動しながら聞いた。三回戦までは時間がある。その間、キョウちゃんは自由時間だ。


「友達の応援に行きます。さくら先輩は?」


 わたしはステージに作られた運営スペースを指さした。


「後輩と役割交換。働いてくるね」


 この時間、勝っても負けてもわたしが暇になるのは分かっていた。逆にそろそろ出番を迎える後輩は準備を始めないといけない。だからここで交代するよう予め決めてあった。

 他の運営メンバーもそうやって予定をプロットしている。選手兼運営となるとハードスケジュールから逃げられない。午後にもなれば思ったより早く負けたメンバーが運営に回れて、マンパワーの問題は解消されるはずだけど、大会が始まったばかりの今は全員で協力し合うしかない。

 キョウちゃんを見送って、ステージへ向かう。その途中で、あれ? と思った。

 見れば、家名くんが後輩に声をかけている。後輩が立ち上がり、ちょこんと頭を下げた。それからステージを降りて、わたしとすれ違った時に「あとよろしくお願いします」と言って、キョウちゃんと同じく外に走っていった。

 ステージに上がって、どうしたのかと聞くと


「早速負けたから、ここは俺が詰めとくよ」

「サッカーだっけ?」

「そうそう。ボロ負けだった。四点差。さくらは勝ってるんだよな。ここはいいから休憩したら?」


 テーブルに固定されたタブレットを見ながら、家名くんが言う。このタブレットには、体育館とグラウンドで行われる全競技のリアルタイム情報が送られてきている。卓球の項目を覗けば、わたしとキョウちゃんのペアが二回戦を勝ち抜いた情報が更新されているだろう。


「ううん。わたしもいるよ。この時間はわたしの担当だし」


 余った椅子に腰かけて、会場内を見渡した。


「そうか。……少し安心した」


 体育館の喧騒で搔き消されそうな声だった。


「避けられるかと思ってた。今だけじゃないけどさ」

「避けるなんて……そんなことしないよ」

「だよな。さくらは優しいし、俺、分かっててやり直したいって言ったんだ」


 優しくなんかない。わたしの言動は全て自分のためだ。

 自分の安全のために家名くんと付き合った。自分の欲望のために真冬ちゃんと不貞を働いた。自分の立場のために真実を隠した。そして今家名くんといるのは、これ以上自己嫌悪を抱えたくないからだ。


「かっこ悪いんだけど、それでも俺は、さくらがいい。説得力ないか。でもほんとにそう思ってる。……ごめんな。また急に、こんなこと」


 本当に、わたしなんかのどこがいいのだろう。

 わたしと付き合いたいと思ったきっかけ。今もまだそう思ってくれる理由。家名くんの思考も感情も、わたしの理解の外にある。

 いっそ聞いてみようか。最初に告白された時さえ聞かなかったことを、今。

 そう思って、一秒後にはやめにした。聞いたってどうせ分からない。答えの意味も、それが真実なのかも。全てが曖昧なまま「そうなんだ」とお茶を濁して終わるだけ。

 真冬ちゃんは正しい。世の中、自分以外の誰もが怪物だ。正体不明で、味方だと思っていてもいつか背中から撃たれるかもしれない存在。そんな世界で、わたしは何を信じればいいのだろう。

 由佳ちゃんのことが頭に浮かぶ。無邪気な由佳ちゃんという、わたしの脳が勝手に生み出していた幻影が崩れ去ったばかりだ。人には表に出している部分と、裏に引っ込めている部分があって、裏を知る機会はほとんどない。

 わたしだって、優しくて頼りがいのある生徒会長なんて虚像をまとっている。


「かっこ悪くないよ。そう言ってもらえるのは、嬉しいし」


 こうやって、虚像の口は平然と噓をつく。最低な話だけれど、家名くんからわたしがいいと言われても全然嬉しくなかった。むしろ生理的な嫌悪が全身を走って、鳥肌が立ちそうになる。

 けれど、ここから話すことは本当だ。


「でも、わたしはもう、家名くんとは付き合えない」


 言った瞬間、時間が飛んだように感じた。家名くんがどう反応するのか、怖かったからだろう。失望か、怒りか、あるいは。


「……今返事されるとは思わなかった」


 その第一声に、感情のようなものはのっていない。理解が追いついていないというより、理解に認識が追いついていないという感じがする。

 まさか今とは思わなかった。わたしも、自分で自分に驚いている。由佳ちゃんと話したあの日から、いつかはそうするだろうという予感はあったけれど、今ここでという発想は全くなかった。

 先走っているだろうか。逆に手遅れかもしれない。それでも、今ここだった。わたしは、一秒でも早く真冬ちゃんに近づきたい。見えたかもしれないそのための道を、立ち止まることなく進みたい。今ここでの先送りを選ぶことはしたくなかった。

 わたしのために、わたしは家名くんを傷つける言葉を吐く。


「ごめん。でも、これ以上時間をかけても、答えは変わらないから」

「理由、聞いてもいいか? いや、俺が浮気したからっていうのは分かってるけど」

「好きな人がいるの」

「……いつから?」

「家名くんと付き合う、少し前くらいから」

「それで、なんで俺と付き合ったんだ? 俺の告白なんか断って、そいつに告白すれば良かっただろ」

「そうだね。それが当たり前だよね。でもわたしは当たり前のことができなくて、自分を守ることしか考えてなかった」

「俺は、そいつの代わりか?」

「代わりとは違う。わたしがその子に告白できなかったのと、家名くんと付き合ったのは……理由は同じだけど、関係はないの」


 ステージの上で球技大会の運営をしながら、わたしたちは何の話をしているのだろう。眼下で、生徒たちが健全な汗を流している。時を同じくして、わたしは自分の不健全さを晒している。

 家名くんが、変わらず平板な声で言った。


「さくらが言ってること……正直半分も理解してないんだけど……」

「そうだよね」

「ただ、それなら、最初からふっておいてほしかった」


 そこでやっと、家名くんの声に感情が浮かんだ。悲しさと憤り。バレンタインの日、真冬ちゃんに突き放されたわたしもこんな声をしていたのだろうか。


「それは……謝るしかできない。ごめんなさい。不誠実だった。付き合ってる間ずっと、そのせいで不安にさせて、時間も奪って」

「謝らなくていい。というか、謝らないでくれ。余計みじめになる。それに、だから浮気していいってことにはならないだろ。とにかく、謝らないでほしい」


 わたしは頷いた。家名くんを傷つける言葉を吐いていても、傷つけたいわけではない。謝罪以外にわたしにできることはないけれど、家名くんがそう言うならわたしは言葉を飲み込む。

 言うことがなくなると、自分がしていることの意味を冷静に把握できるようになった。カモフラージュとしての彼氏。その鎧を、わたしは外そうとしている。過剰と知りながら手放せなかった守りを、こんなにもあっさりと。

 どうしてか恐れはない。それどころか、心と体が身軽になっていく爽快さすら感じた。


「……さくらが好きなやつって、誰か聞いてもいい?」

「それは……」


 少し迷ってから、わたしは口を開いた。


「今は言えない。ごめん。でも、いつか分かると思うから」

「それって……」


 家名くんが質問を重ねようとした時、体育館の入り口から生徒会の後輩が走ってくるのが見えた。その子はステージに上がってくると


「すっすぐ来てください、会長……喧嘩です、ソフトで……」


 息を切らせながらそう言った。



 

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