真冬ちゃんとの大喧嘩は、由佳ちゃんと佐奈ちゃんの仲裁でひとまずは落ち着いた。由佳ちゃんは慌てながら、逆に佐奈ちゃんは冷静に間に入ってくれた。

 途端に、街中で大声を出していたのが恥ずかしくなった。道行く人たちが、怪訝な顔で通りすぎていく。けれど、全ては後の祭りだった。真冬ちゃんとの関係も。言ってはいけないことを、言ってしまった気がした。一緒にしないで。その時の自分の声を思い出して、おぞけが走る。自分があんな声を出せることに愕然とした。

 そんなつもりはなかった。本当は好きだと伝えたかった。好きだから真冬ちゃんが知りたい。他の人が自分より真冬ちゃんを知っているのはいやだ。もっとわたしに話してほしい。押しつけがましい気持ちだとしても、そう伝えるための言葉を選んでいるつもりだったのに。

 なのに、真逆の言葉を口走っていた。苛立ちに逆らえなくて、感情に任せてそうしていた。好きを証明しろって、何?

 無理に決まっている。好意だけではない。喜びも怒りも悲しみも楽しさも、それらでは包摂できない色々な感情も、何もかもが自分の中にしかない。それを取り出して、はいこれがわたしの気持ちですなんて、どうしたら言えるだろう。

 それができるなら、わたしだって人の心を覗きたい。そうすれば、親友に女の子が好きだって打ち明けられるかもしれない。

 仲裁されなければ、そうした想いをありのままぶつけていただろう。未遂で終わっていて良かった。口にしてしまったら、その瞬間から二度と真冬ちゃんに会うことさえできなくなっていた気がする。大袈裟な想像だ。わたしも真冬ちゃんも明日にはまた同じ学校に登校するし、顔を見る機会もたくさんあるだろう。それでも恐怖は全身を駆け抜け、その場でうずくまりそうになった。


「帰ります」


 いっぱいいっぱいなわたしと違って、真冬ちゃんは無感情な声と表情でそう言った。「え?」と戸惑う由佳ちゃんに挨拶し、ついで佐奈ちゃんに頭を下げ、わたしには一瞥もくれることなく、真冬ちゃんは霧のようにいなくなってしまった。

 呆然として、一旦は止まりかけていた涙が、むしろ勢いを増して流れ落ちた。

 そんなわたしを見て、由佳ちゃんと佐奈ちゃんが目を見合わせ……わたしの知らない言語で、言葉を介することなく何かしらの決定がなされたようだった。


「うち、来る?」


 こうして、八年ぶりに由佳ちゃんちでお泊りをすることになった。

 由佳ちゃんも佐奈ちゃんも優しい。同性の友達同士のお泊りは、二人にとっては別の意味を持ちかねない。それでもわたしを心配して、一人にしないでいてくれた。

 ありがたかった。同時に、妬ましくもあった。二人がそうできるのは、互いに信頼し合っているからだ。わたしと由佳ちゃんの間に間違いは起こらない。その前提が共有されているから、わたしは由佳ちゃんの家に呼んでもらえる。

 二人は、好きな気持ちを証明し合えているのだろうか。あの時のアイコンタクトは、そのために築かれた二人だけの言語なのだろうか。

 とても羨ましい。とても、妬ましい。

 心配してくれているのに、そんなことを考える自分に嫌気がさした。


     *


 湯舟につかりながら、違う、これじゃないと思う。四十一度の温もりが癒してくれるのは体だけ。心はどうにもならない。今必要なのは、欲しいのは、冷たさだだけだ。死人みたいな真冬ちゃんの体温。季節が春に移っても、わたしはずっと、真冬ちゃんと冷たい水の中にいたかった。そこでなら息ができる。

 まやかしの楽園は、もうどこにもない。

 これ以上泣きたくないのに、無意味に優秀な眼球のせいで涙が枯渇することはなかった。


「バスタオル忘れてるよー、さくらちゃん。ここ置いとくね」


 扉の向こうから、由佳ちゃんの声。それでようやく、こんなことでは駄目だと思い直す。目の前に用意されたバスタオルを忘れるなんて、わたし落ち込んでますとアピールするようなものだ。これ以上、心配をかけるわけにはいかない。

 虚勢でもいいから元気なところを見せよう。そう考えるわたしとは違って、由佳ちゃんはごくごく自然な口調で言った。


「さくらちゃんとお泊りなんて、何年ぶりだろ。あとでたくさんお喋りしようねー」


 八年前。

 最後に由佳ちゃんの家にお泊りした日。

 あの道徳の授業がひらかれた前日だった。

 翌朝、由佳ちゃんと手を繋いで登校するわたしは、まさかそれが最後になるなんて思っていなくて、由佳ちゃんもきっとそうで……だからそれ以降のわたしは、再びこんな日が来るとも思っていなかった。


     *


 由佳ちゃんちは、当然だけど昔とは全然違う。七階建てマンションの、六階角部屋。4LDK。

 由佳ちゃんのご両親は不在だった。出張らしい。久しぶりに挨拶したかったから残念に思った。けれど、娘を見捨てた裏切者として見られるのが怖くもあって、顔を合わせずに済んでほっとする自分もいた。


「たくさん食べてねー」


 お風呂上りの由佳ちゃんが、小さな子を相手にするみたいに言った。わたしに貸してくれたのと同じ、ピンクのパジャマが可愛らしい。純粋な由佳ちゃんと、濁りきったわたしがお揃いの服を着ていると違和感を覚える。

 丸テーブルには、名前だけは知っているお菓子が並べられている。北海道から沖縄まで、各地域の著名なお土産の数々。


「お父さんもお母さんも、仕事でこういうのいっぱい買ってくるの。自分たちは食べないのに。由佳だけじゃ処理間に合わないんだよねー」

「出張とか、多いの?」

「最近は二人ともしょっちゅう」

「寂しくない?」

「ないない。もう高校生だよ? それに……」

「それに?」

「二人とも由佳のせいで昇進とか遅れちゃったから、頑張って取り戻さないとなの」


 ぷちっと心臓がつぶれる音を聞いた気がした。

 昇進が遅れた。由佳ちゃんのせいで。その言葉の意味は明確だった。そしてそれは、絶対に由佳ちゃんのせいではない。

 固まったわたしを見て、由佳ちゃんが慌てる。


「あ、ごめんね。暗い話みたいになっちゃった。この話、やめよっか」


 そう言って由佳ちゃんは話を打ち切り、クッキーの袋を二つ手に取った。片方をわたしに手渡し、もう片方の封をきる。もぐもぐ口を動かしながら、おいしーと相好を崩した。

 このタイミングでなければ、ここまで気を遣われなかっただろう。このマンションまで歩いている時も、今こうしてお喋りしている時も、由佳ちゃんは不自然なまでに真冬ちゃんとのことを聞かなかった。美代たちと一緒だ。わたしが辛い気持ちを思い出さないよう、努めて明るい話をしてくれる。


「食べないの?」

「……食べられないよ」


 これは、ご両親が由佳ちゃんのために買ってきたものだ。


「ほんと、さくらちゃんは気にしいだなあ。由佳が食べてって言ってるんだから」


 ほら、と促されても、わたしは封をきることもできなかった。軽いはずの袋が、鉄球のように重く感じる。その重さに引っ張られ、わたしはいつの間にか俯いてしまっていた。

 わたしは言葉を返せない。由佳ちゃんも何も言わない。照明の光だけが妙にうるさくて、そのくせわたしの暗い心だけは照らしてくれなかった。


「ま、いいかあ」


 数分が経って、由佳ちゃんが沈黙を破った。

 わたしはまだ、顔を上げられない。


「さくらちゃんさ、真冬ちゃんのことが好きなんだよね」


 けれどそう言われた瞬間、重力がなくなったみたいに顔を上げてしまった。


「え」

「違うの?」


 違わないよね、という確信に満ちた問い方だった。


「ほんとは気付いてないふりするつもりだったんだよ? 早く元気になってほしかったし。でもさあ、さくらちゃん見てたらイライライライライライラしちゃった。由佳んちのことでうじうじするのって、真冬ちゃんとのことで暗くなってるのに引きずられてるからだよね。由佳たちのこと考えてる体で自己憐憫に浸ってるの、ちょっとムカつく」


 何を言われているのか分からなかった。いや、言葉の意味は理解できる。けれど、それを由佳ちゃんが口にしていることの意味が分からなかった。

 表情も、声のトーンもいつもと違う。別人みたいに刺々しくて、見ているだけで、聞いているだけで痛かった。


「見てれば分かるよ。何があったかは知らないけどさ、あれって完全に痴話喧嘩だよね。いいなあ。彼女と喧嘩って、由佳もやってみたい」

「よしか、ちゃん?」

「真冬ちゃんって彼女にしたらめんどくさそうだもんね。由佳も人のこと言えないけど。あ、でもさくらちゃんにも喧嘩の原因はありそう。さくらちゃんって、自覚なしで彼女のこと傷つけそうだよね」


 ……。

 今目の前にいるのは、だれ?

 混乱しながら、真冬ちゃんが言っていたことを思い出した。


 ――今はそれだけじゃなさそうですよ。


 そういうことなのだろうか。今の由佳ちゃんが本当の――


「ごめんね。びっくりしたよね。由佳も今、あーやっちゃったなあってちょっと思ってる。さくらちゃんは本当に大事なお友達だし、こんな由佳は知らないままでいてほしかったから。ほんとだよ?」


 そう言って、由佳ちゃんは小首をかしげた。あざとい仕草だったけれど、一瞬だけわたしが知っている由佳ちゃんが戻ってきたように感じた。本当の由佳ちゃんは、どちらなのだろう。


「今のが、本当の由佳ちゃん?」

「さくらちゃんはどう思う?」

「わたしは……これまでの由佳ちゃんが嘘とは思わないけど……。でも、今の由佳ちゃんも嘘って感じがしない」

「そうだね。どっちにしたって由佳は由佳だし。こういうとこ隠してたら、いつもは自然とああいう感じになるんだよねー」

「みんなに隠してるの? 佐奈ちゃんにも?」

「そりゃそうだよ。処世術は大事だからね。佐奈ちゃんには……いつかバレちゃうかもしれないけど、今はまだ猫被ってたいかな。だから家族以外だとさくらちゃんだけ。まあやっちゃったものはしかたないし、もう遠慮はやめるね。真冬ちゃんのこと、好きなんでしょ?」


 ん? と視線で問いかけてくる由佳ちゃん。

 答えに迷う。由佳ちゃんは何も知らない。わたしには彼氏がいることも、なのに真冬ちゃんと裏で付き合っていたことも、そのせいで学校で騒ぎになってしまったことも。けれど、わたしが真冬ちゃんを好きだという核心だけはついてきた。

 それを誤魔化したら、証明なんて絶対にできない気がした。


「……好きだよ」


 呟いて、自分の本心に気付く。重々しく口を開いたのが嘘みたいに、心が軽くなる。わたしはこの気持ちを、誰かに話したかったのだろう。真冬ちゃんには拒まれ、他の誰にも相談できず、仕舞いこむしかなかった気持ちで胸が張り裂けそうになっていた。

 由佳ちゃんになら、という打算があったのは間違いない。同じ学校の人には話せない。学校の外でも話せる人なんかいない。けれど、わたしと同じ由佳ちゃんなら。これまで秘密にしていたくせに、一人で抱えきれなくなったらこうして吐き出してしまった。打ち明けるべきタイミングは、絶対に今ではなかったのに。本当ならもっと昔、小学三年生のあの瞬間に由佳ちゃんの隣を歩くべきだった。


「いつから好きだったかは分かんない。気付かないうちに目で追ってた。真冬ちゃんに言われてはじめて自覚したんだけど……取り返しがつかないくらい好きになったのはつい最近。もう真冬ちゃんがいなきゃ駄目ってくらい好き。好きで好きでたまらないの。ねえどうしたらいいかな。わたし真冬ちゃんに嘘つきって言っちゃった。あんな声で。真冬ちゃん傷ついたかな。わたしのこと嫌いになっちゃったかな。全部わたしが悪いんだけど、でも辛いなあ、すっごく辛いの。真冬ちゃんに嫌われたら、わたし生きていけない」


 一息に、ぶつぶつ言いきった。勢いがいいのか、躊躇いがあるのか自分でも判断しにくい口調だった。陰気すぎて、自分で聞いているだけで気が滅入る。


「ふはっ」


 と、由佳ちゃんらしくない笑い声が漏れた。


「めっちゃ好きじゃん……」

「……駄目かな」

「全然? いい子のさくらちゃんが思ってたより拗らせてたから、ちょっと面白かっただけ。それがなんで喧嘩しちゃったの?」


 そこを答えるのはさすがに躊躇した。けれど、数秒後には洗いざらい語り始めていた。正しい選択をしている気はしない。自分の悩みは自分で解消しろと誰かに言われた気がした。少なくとも由佳ちゃんをサンドバックにするのは間違っている。かつて、お前は何のために由佳ちゃんを見捨てたんだ。たとえ見透かされていても黙秘しろ。けれど止められなかった。


「マジ? やばいね」


 ある程度まで聞いた由佳ちゃんは爆笑している。笑いごとじゃないんだよ、と憤慨しそうになったけれど、わたしが由佳ちゃんなら同じようにお腹を抱えていたかもしれない。だからもう、笑えるだけ笑ってくださいという気分になった。

 わたしが続きを話そうとすると、


「待って。続きは飲んでお菓子つまみながらにしよう」


 由佳ちゃんはそう言って、部屋を出て行った。飲みながら? わたしたちは未成年だけど……。由佳ちゃんは、わたしの話を飲み会のワンシーンみたいに捉えている気がする。わたしも、半分はそれと似たような気分で愚痴っているようなものかもしれない。自分の人間性に反吐が出そうだけど、今まで溜め込んだものを吐き出している内に理性が飛んでいた。

 やがて戻ってきた由佳ちゃんの手に握られていたのは、オレンジジュースの瓶だった。さすがに飲酒するほどには擦れていないようで安心する。本当にアルコールを持って来られたとして、今のわたしが品行方正な生徒会長として振舞えたかどうかは疑わしい。


「それでそれで?」


 そう聞く由佳ちゃんに、わたしは残りの話をした。その間、由佳ちゃんはお菓子を食べて、コップに注いだオレンジジュースを飲んだ。わたしもそうした。食べられないよ……なんて言っていた記憶は宇宙の彼方に飛んでいた。わたしも由佳ちゃんも、完全におかしくなっている。由佳ちゃんにとっても未経験のシチュエーションだったのだろう。本当の由佳ちゃん、と言っていいのか分からないけれど、普段は見せない自分を野ざらしにし続けるには、ちょっとおかしな精神状態が必要だったのかもしれない。わたしも同じだった。着ているパジャマよろしく、わたしたちはお揃いだ。


「……なんで、分かったの?」


 わたしがそう言うと、由佳ちゃんはとぼけた顔をした。


「真冬ちゃんとのこと?」


 精一杯の恨みがましい視線を向ける。


「ごめんごめん。意地悪した。それだけじゃないよね。真冬ちゃんとのことは、まあ今日かな。アイス食べながら見てたらね。さくらちゃんもこっち側なのに気付いたのは……もう忘れたや。ずっと昔から」


 そんなの、今日の今日まで夢にも思わなかった。けれど、考えてみたら当たり前の話だ。再会してから今日まで、わたしたちは数えるほどしか顔を合わせていない。それで気付くのは、いくらなんでも鋭すぎる。

 そして、わたしたちは最近まで疎遠になっていた。だからその昔というのは、言うまでもなく小学校三年生以前まで遡る。由佳ちゃんを見捨て、自分の秘密だけは完璧に守り抜いたと思っていたあの頃。それが勘違いだったなら、由佳ちゃんはわたしをどんな風に見ていたのだろう。自分と同じなくせに、一人だけ安穏と日々を過ごしていたわたしを。


「……ごめん」


 今度は由佳ちゃんが目を丸くした。


「なんでさくらちゃんが謝るの?」

「わたし、由佳ちゃんをスケープゴートにした」

「スケープゴートって、言い方」


 なぜか由佳ちゃんはからりと笑った。


「スケープゴートだよ。わたしね、あの日は由佳ちゃんと同じことしようとしてたの」

「同じこと? あー」

「でも由佳ちゃんが先に言っちゃったから……様子見しようっておも、思って……そしたらあんなことになっちゃって……自分じゃなくて良かったって、心底ほっとして……」


 今日はもう泣かないと決めていた。けれど駄目だった。泣くのが癖になっているのかもしれない。

 感情が忙しい。気分の高ぶりが急速に萎んでいく。


「泣かないでよ、もー。さくらちゃんのこといじめたかったわけじゃないんだから。確かにイラっとはしたけどさ、相談にのろうとも思ったんだよ。それに昔のことは気にしないでって前言ったじゃん」

「だって……」

「これも前言ったけどさ、由佳は幸せなんだよ。佐奈ちゃんがいる。さくらちゃんが今どう思ってるかは分からないけど、大事な友達のさくらちゃんとまた遊べるようになった。今さら気にするようなこと、一つもない」


 ぽんぽん、と由佳ちゃんはわたしの肩を叩いてくれた。口調も表情も元には戻らないけれど、その触れ方にはいつもの由佳ちゃんの優しさを感じた。衝動的に、由佳ちゃんに抱きしめてもらいたくなる。けれど、必死に我慢する。信頼してくれた佐奈ちゃんを裏切りたくない。そういう意味はなくても、今ここで軽率に由佳ちゃんに触れることはできない。


「そっかー。さくらちゃんも色々あるんだね。由佳ばっかり大変な目に合ってる気がしてたけど、そんなわけないか」

「わたしのは自業自得だから」

「そうかもしれないけど、そうじゃない部分もあるよね」


 思い浮かぶ理屈はある。けれど、わたしがそれに頷くことはできなかった。

 察したように、由佳ちゃんが代わりに言葉にしてくれる。


「由佳たちはさー、砂詰めたリュック背負いながら走ってるようなもんじゃん。それで集団から遅れちゃったり、逆についていこうとして頑張りすぎちゃったり。なんでもかんでも世間が悪い社会が悪いって言うつもりはないけど、やっぱり思っちゃうよ。誰が好きとか関係なくさ、みんなと同じ条件で走れるなら由佳はいじめられなかったし、さくらちゃんは無理して彼氏なんか作らなくて良かったのに」


 はあ、と由佳ちゃんは溜息をついた。


「……由佳ね、次の学校でもうまく馴染めなかったんだ。先生も同級生も優しかったんだけどね。遊んでくれる子も、一緒に帰ってくれる子もいたし……でもすぐ不登校になっちゃった」


 動揺が顔に出ないよう必死にこらえる。


「みんな優しいから、逆に怖くなったんだよね。だって引っ越したっていっても、そう遠くに行ったわけじゃなかったもん。由佳のこと知ってる誰かが、また前みたいにいじめてくるかもって考えたら家から出られなくなったの。裏で陰口言われたり、何の前触れもなく暴力ふるわれたり……また同じことがあったらもう立ち直れないなって、それが怖くて、毎日電気もつけずに部屋に引きこもってた。楽しいはずの子ども時代がパーだよ。無邪気な由佳を返せーって感じ」


 オレンジジュースをぐびっと飲み干した由佳ちゃんは、「さくらちゃんも飲め飲め」と言って、自分のだけでなくわたしのコップもいっぱいにしてしまった。少しこぼれてしまったのにも構わず、由佳ちゃんは話し続ける。


「そしたらさあ、おばあちゃんのとこに引っ越そうって。お父さんとお母さんが。もうすっごい田舎。もちろん電車はないし、バスも日に何本ってとこでさ。二人とも仕事なんか二の次で……それからなーんもないとこでしばらくのんびりしてたら、だんだんムカついてきた」

「ムカつく……」

「なんで由佳がこんなにのたうち回らなきゃいけないんだよーって。だっておかしくない? 由佳、何もしてないし。悪いのはいじめてきたあいつらじゃん。でもあいつらはあの頃からずっと人生エンジョイしてるわけでしょ? なんじゃそりゃって思ったよね。ただ男が好きなだけのくせに」


 あるいは男なら、女が好きなだけのくせに。

 ずっと、ずっと、わたしも思ってきたことだった。誰かを好きなのは同じなのに、どうして異性愛者だけが自分を偽らずに済んでいるのだろう。


「だから、こっちに帰ってきたの?」

「正解。でもそういう反骨心そのままってわけじゃないよ。由佳は、ただ取り戻しに来たの。元の人生、っていったら大袈裟だけど、そういうの全部、由佳のものだから。さすがに元住んでたあたりはお父さんもお母さんも嫌がって、結局ここに落ち着いたんだけどね」


 わたしは、ただただ圧倒される。無邪気だとばかり思っていた由佳ちゃんの八年。その間に由佳ちゃんが考えてきたことの途方もなさに呆然とする。わたしには想像もつかないその時間が、今の由佳ちゃんを形作ったのだろう。わたしが一歩も動けずにいる間に、由佳ちゃんは遥か先へと進んでいた。


「由佳ちゃんはすごいね」

「すごくはないでしょ。由佳は……覚悟を決める機会がたまたまあっただけ」

「覚悟?」

「由佳たちを認めないこの世の中で、普通に生きてやるぞっていう覚悟。ほんとにドロップアウトしかけてたから、そういうのがないとやり直せなかったの」

「やっぱりすごいよ。わたしにはできない」

「じゃあ素直に褒められておくけどさ、由佳にも未だにできてないことがあるんだよね」

「それは、何?」

「あいつに会いに行こうと思ってるんだ」


 そして、由佳ちゃんはその名前を告げた。由佳ちゃんがいじめられるきっかけを作ったあの子の名前を。驚きすぎて、口を間抜けな形で開けてしまいそうになった。


「……それ、大丈夫なの?」

「たぶん大丈夫じゃない。だからまだ実行できてないの」


 当たり前だ。避けて通れる苦しみの元凶に、わざわざ自分から近づかなくてもいい。けれど、由佳ちゃんがそうしようとする意味は分かる。


「無理しなくていいんだよ」

「そのつもり。行けそうなら行くよ。でも高校卒業するまでにはって思ってる。あいつと会って、当たり前みたいに話して、まだちょっとは残ってる恐怖心みたいなのを綺麗さっぱりなくして、それでやっと、全部が元通り」

「わたし、ついて行こうか?」

「ありがと。でも、一人でやらないと意味ないから。まあ陰で応援だけしててよ。由佳も応援してる。さくらちゃんと真冬ちゃんが早く仲直りできるように」

「できるかな」

「できるよ。そこまで来ると、二人でちょっと話し合って仲直り、めでたしめでたしとはいかないかもしれないけど、それでも大事なことは変わらないよ。さくらちゃんが好きなのは誰で、真冬ちゃんが好きなのは誰か。由佳が見る限りじゃ、そこだけはすっごく簡単なことだと思うけどね」


 そんな気は全然しなかった。その単純なはずの構図が見えなくて、わたしは悶え苦しんでいる。けれど、何かが見えた気もする。思っていたことをぶちまけ合っただけなのに不思議だ。自分の中に、意思が生まれたのを感じる。これまで同じ場所に留まり続けたせいで、新しい道に一歩踏み出すのさえ躊躇してしまうわたしが、その臆病さを忘れて前に進むための意思。

 この意思を伝えることが、わたしの証明なのだという想いが湧いた。気持ちの証明という不可能を、わたしなりの形で伝える。そうすれば、色が見えないという真冬ちゃんを安心させてあげられるだろうか。色が見えない、というのがどういう意味なのか、未だに分からない。だからそれが正解なのかも分からない。不安が尽きなくてどうにかなってしまいそうだ。せっかく生まれた意思が挫けそうになって、わたしは咄嗟に、コップに残ったジュースを飲み干した。由佳ちゃんの真似だ。おかげで、折れかけた意思が息を吹き返した。由佳ちゃんが「お、いいねー」と言って、空のコップをまたオレンジ色に染めた。

 それからわたしたちは、日付が変わっても好き勝手に喋り続けた。テーブルの上がお菓子の袋の残骸だらけになる。ふと窓の外を見ると、いつの間にか太陽が昇り始めていた。

 さすがに寝よう。ちょっとでもいいから。

 どちらともなく言い出して、わたしたちは床についた。由佳ちゃんはベッドに、わたしは床に敷いてもらった布団に。平日の真ん中にこの時間まで起きているのはただのバカだ。それが二人揃って生徒会長なのだから終わっている。

 灯りを消して、目を閉じて……しばらくの間、わたしは眠れなかった。

 すると、由佳ちゃんが話しかけてきた。


「起きてる?」

「……起きてるよ」

「まああんなに騒いだ後じゃ寝られないよね。……さくらちゃんさあ」


 そこで声が途切れた。


「何?」

「……小学生の頃、由佳のこと好きだったよね」


 自然な質問だった。考えたら分かることだ。小学三年生のわたしが、どうして自分の性的指向をきちんと把握していたのか。どうしてそれを、由佳ちゃんも気付いていたのか。確証はなかっただろう。それに、今さら遅すぎる。だからさっきは聞かなかった。けれど、夢と現が曖昧な今なら。

 嘘をつく必要はどこにもなかった。


「好きだったよ」

「そっか」

「由佳ちゃんは?」

「さくらちゃんと一緒」

「そっか」

「……さくらちゃん」

「何?」

「おやすみ」

「……うん、おやすみ」


 わざとらしく、一度寝返りをうつ。由佳ちゃんも同じようにして、わたしたちは遠く離れたまま背中合わせになった。

 その後は、不思議なほどぐっすり眠ることができた。


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