朝起きると、体が異様にだるかった。頭もぼーっとして、視界がかすむ。

 風邪をひいたのはすぐに分かった。熱もひどい。計測すると、三十八度越え。ふだん低体温な私にとっては、これは死ぬんじゃないかと思うくらいの異常事態だった。

 昨日、寒空の下で長いことじっとしていたのが良くなかった。

 休もう。

 当然の判断をして、学校に連絡を入れる。意識が朦朧として、どんな風に伝えたのか判然としない。

 クラスの友達にも簡単なメッセージを飛ばした瞬間、気力と体力がなくなった。

 ぼやけた意識が、さらに拡散する。

 あ、さくら先輩に連絡してないな、と散り散りになった意識の中で思った。


     *


 連絡しなかったのではなく、したくなかったんだと、瞼を上げた瞬間に思い至った。

 その理由は、自分でも分かるようで、分からなかった。

 深く考えるのは、まだつらい。熱もほとんど引いてない。改めて測り直す気にもならなかった。

 時間を確認すると、まだ午前だった。学校では、ちょうど三限の授業が終わるくらいの時間。どのみち授業はほとんど聞かないから、出席してもしなくても同じだった。

 スマホにはメッセージがたまっている。みんな、心配してくれている。

 その中には、さくら先輩からのメッセージもあった。


『聞いたよ。大丈夫?』


 それを見ただけで、なぜか泣きそうになった。自分で思っている以上に、熱で弱っているのかもしれない。


『大丈夫ですよー。余裕です』


 そう打ち込んでから、少しだけ考える。そして、新しく文字を打ち直した。


『つらいですー。起き上がれない……』


 自分からは連絡しなかったくせに、メッセージをもらっただけで、そんな風に甘えてしまう。

 ちょうど休み時間だからか、返事はすぐに来た。


『わっ大変。病院は……いけないよね。薬とか、食べ物とか飲み物とか、足りてる?』

『実はなんにもなくて……』

『そっか……ご両親は? 来てくれないの?』

『どっちも仕事なので、たぶん無理です』


 そこで、わずかな間ができた。

 次に送られてきたのは、こんなメッセージだった。


『わたし、行こうか? というか、行くね』

『どこに?』


 そう聞いてから、「あ、お見舞いか」と気づく。


『お見舞い。昼休みに色々持っていくね』


 ここで私が返すべきメッセージは、『え、悪いですよ』とか『つらいけど、ひとりで大丈夫ですよー』とか、そういう類の遠慮だろう。風邪をうつしたら大変だ。それに昼休みは短い。家から学校まで往復して、その途中で物資を調達するとなると、次の授業に遅れてしまうかもしれない。

 なのに


『……お願いしていいですか?』


 私は、そう返事をしていた。

 あとで他のメッセージを確認すると、陽ちゃんから


『放課後行くわ』


 ときていたけど、こっちは丁重にお断りした。


     *


 昼休みの時間、素早く駆けつけてくれたさくら先輩の手際は異様に良かった。出迎えた私をさっさとベッドに戻したあと、中身の詰まったレジ袋からたくさんの品々を取り出して、療養が長期戦になってもいいような環境を整えていく。病状の把握から室温の調整、果ては水分補給まで手伝ってもらって、完全に赤ちゃんみたいな扱いだった。お姉ちゃんというより、もはやお母さんだ。

 その際に、私の額に手を当てたさくら先輩は、「あんまり下がってないね……」と心配しながら冷却シートを貼ってくれた。汗をかいていたから触られるのは気後れしたけど、さくら先輩は全然気にしていないようで、安心した。むしろなぜか申し訳なさそうな顔をしていて、私はそれが嬉しかった。

 あれ、と思ったのは、さくら先輩がキッチンで作業を始めたときだ。

 てっきり、これでもう帰ってしまうんだと思っていた。しんどくて時間を確認する気力もないけど、さくら先輩が来てから随分時間が経っている。これ以上いたら遅刻してしまう。なのにさくら先輩は、明らかに料理を始めようとしていた。


「……なにしてるんですか?」


 軽く咳き込みながら聞いた。声がかすれていて、キッチンまで届かないかと思ったけど、さくら先輩はこちらを向いて


「お粥作ってあげる。薬の前に何か胃に入れておいたほうがいいし。あ、お粥も食べられないくらい食欲ないかな。それならゼリーとヨーグルトも買ってきてるけど……」


 お粥……。その二文字が頭の中で形を成すのに、しばらくの時間が必要だった。本当に頭が回っていない。そしてさらに時間を置いて、「いやいや」とツッコんだ。


「そんな時間ないでしょ」


 端的に指摘する。するとさくら先輩は、なぜか気まずそうな顔になった。


「……サボっちゃった」


 えっ、と思わず声が出た。今、さくら先輩とは縁がなさそうな言葉を聞いた気がする。


「サボった?」

「うん。真冬ちゃん気付いてないみたいだけど、もう五限始まってるんだよね」


 ……手を伸ばして、スマホを確認した。

 確かに、五限はとっくに始まっている。今度ちゃんとした時計を買おうと、どうでもいいことを考えた。


「やっぱり昼休みだとできることも少ないから。それにマスクとかうがいとか、色々気をつけてはいるけど、看病したまま学校に戻るのもね。ならいっそサボっちゃえって」

「……似合わない」

「そうかな。実は年に何回か仮病使ってるんだよ? バレないようにタイミングは見計らってるけど」


 ……知らなかった。


「誰にも言ってないから、二人だけの秘密だよ。でも今回のはさすがに怪しいかなあ」

「……なんか、ごめんなさい」

「大丈夫だよ。わたし優等生だもん」

「優等生……」

「そう、優等生。普段真面目にしてるとね、一回くらい不良やっても見逃してもらえるんだよ。たぶん」


 たぶん、と最後に付け足したのがさくら先輩らしい。

 私がこれ以上気にしないように、さくら先輩はお粥作りに励みながら、意図してべつの話題を振ってくれた。最初こそ「ちょっとでも寝てたほうがいいよ」と言っていたけど、私が「もう眠くない、黙ってたら逆にしんどい」と駄々をこねたから、そうしてくれた。

 さくら先輩のお粥作りは、ベッドから眺めているだけで分かるくらい、やたらと凝っていた。聞けば、病状に合わせてチューンしているらしい。雑な料理しかしない私にはできそうにないことだ。お粥ってちょっと煮込んだら終わりじゃないの? と思ってしまう。

 お粥を舐め腐った私の考えは、その完成品を口に入れた瞬間に一掃された。

 おいしい。

 少なくとも、今まで食べてきたお粥の中でいちばんだった。

 時間短縮のためにパックのごはんを使ったのを、さくら先輩はかなり気にしていたけど、そんなのは問題にならないくらい、おいしかった。

 それで、私はまた泣きそうになる。

 エネルギーを補給すると、少しは体が楽になった気がする。熱はまだ下がらないけど、薬も飲んだからそれも時間の問題だろう。たぶん、とさくら先輩の言い方が移ったようなことを考えた。

 そのことを伝えると、さくら先輩は分かりやすくほっとした表情を浮かべた。ベッド脇に座って、ためていた心配を吐くように、一息ついている。


「良かったあ」

「ほんと、助かりました。ありがとうございます」

「まだしてほしいことあったら、なんでも言ってね。これもお返しみたいなものだから」

「お返し?」

「前はわたしが看病してもらったからね」


 クリスマス会のときのことだ。


「あれは看病ってほどじゃ……」

「助けてもらったんだから、一緒だよ。これでお相子」


 これ以上の反論は許しません、とでも言うように、さくら先輩はこの話題をシャットアウトした。代わりに、「しんどくても食べられそうなもの、作り置きしておくからね。お腹すいたら食べて」と、言ったのを皮切りに、療養のために用意してくれた品々の説明を始めた。あれは冷蔵庫に入れたとか、これは熱が上がったときに使ってとか、そんな感じのこと。


「本当は泊まってお世話したいんだけど……」


 と言うさくら先輩は、私がお願いすれば、本当にそうしてくれそうだ。

 でも、そんなわけにはいかない。私も、さくら先輩も分かっている。

 ただ、私とさくら先輩が考えているのは、それぞれ全くべつのことだった。


「わたしがずっといたら、真冬ちゃん落ち着けないもんね」


 そんなことない。できることなら、ずっといてほしい。

 私がそうお願いできないのは、ただ、このままじゃ風邪をうつしてしまいそうだからだ。泊まりなんて、させられない。

 だから、私はこう言うしかない。


「もう十分ですよ」


 そう、十分だ。サボってまで看病してくれた。学校よりも、さくら先輩が大事にしている生徒会よりも、私を優先してくれた。それだけで。


「だから――」


 だから、もう帰っていいですよ。風邪が移っちゃう。

 そう伝えようとした私の口は、


「だから、もうちょっとだけ」


 思いがげず、そんなお願いをしていた。

 私の手が、さくら先輩の手をきゅっと握っている。


「うん、いるよ、もうちょっとだけ」


 さくら先輩は、空いているもう片方の手で、未練がましい私の手を包み込んでくれた。

 今ばかりは、私の手のほうが熱い。いつもとは違う温度差を感じながら、やっぱり好きだなあ、と感傷的な気分になる。

 この恋の膨張には、際限がないみたいだ。そのまま膨らみ続けたら、最後にはどうなるんだろう。想像したら、ちょっと怖くなった。さくら先輩なしでは生きていけない自分はリアリティがあって、熱ではなくそのせいで、体がぶるっと震える。

 しばらく、黙ったままそうし続けて。

 ずいぶん恥ずかしいことをしたと、ようやく自覚して。

 ごまかすように、私は会話を再開した。


「帰りはまっすぐ家ですか?」


 話し始めても、私たちの手はつながったまま。


「どうしようかな。何も考えてなかった。うーん、今帰ったら、さすがにサボったって母さんにバレちゃうなあ」

「さくら先輩にしては珍しいですね。なにも考えてないなんて」

「……真冬ちゃんのことが、心配で」

「……それは、ありがとうございます」


 さくら先輩が恥ずかしそうにするから、なんとも言えない空気が漂ってしまった。そういうことは堂々と、かっこよく言ってほしい。


「あ、そうだ」


 さくら先輩がなにかを思いついたような顔をした。


「モールに行ってくるよ」

「モールですか?」

「チョコだよ、チョコ」


 チョコ。バレンタイン。手作り。

 そのための調査と買い出しだと連想するのは簡単だった。


「土曜日に行くつもりだったんだけど、ちょうどいいから今日見てくるね」


 そう宣言したさくら先輩は、授業をサボって買い物に行くことなんて、まるで気にしていないみたいだ。サボり慣れしている感じがする。さくら先輩の新しい一面、私以外誰も知らない秘密を、またひとつ知ることができた。

 こうやって、さくら先輩に関する「私だけ」を増やしていけば、いつかはさくら先輩の気持ちに納得できる日が来るんだろうか。さくら先輩が自分から離れていく想像に怯えなくて済む日が来るんだろうか。

 だいぶマシになった頭で、再び根本的な問いに立ち返る。

 私以外のみんなは、どうやって相手の気持ちに納得しているんだろう。

 みんなが見ている根拠は、相手の中じゃなくて、自分の中にあるのかもしれない。相手との関わりの中で自分だけの特別を積み重ね、それを相手の気持ちに見立てる。見えない気持ちを可視化することで、安らぎを得る。そして、積み重ねたものが崩れ去らないよう、毎日毎日、新しい特別を積み重ね続ける。

 私にも、それができるだろうか。


「……楽しみにしてますから。私が好きな味、ちゃんと当ててくださいね」

「任せて、って言いたいけど、事前に教えてくれたら絶対好みの通りに作ってあげるのに」

「それじゃ面白くないじゃないですか」

「バレンタインに面白さっている?」


 いらないかもしれないけど、私はほしいと思う。だって楽しいほうが記憶に残る。積み重ねた特別は、できるだけ長く色づいていてほしい。

 その特別が納得につながるかは分からないけど。

 つながるって期待くらいは、持ちたいから。


     *


 その日の夜、さくら先輩が帰ってからの孤独を耐えていると、メッセージが送られてきた。

 ひとつじゃなくて、たくさんのメッセージ。


『これ、なに?』


 そんな一文の下に、ひとつのスクショが貼り付けられていた。


『霜月真冬の正体。お前ら全員、クソビッチに騙されてるぞ』


 煽るような文言が、スクショの中では踊っている。

 それに連なる、いくつかの写真。

 写真の中に、私がいた。誰かとキスしたり、抱き合ったりしている写真だ。

 その誰かは、どの写真でも別々の人だった。

 そうした写真の中には一枚、特に浅葱ヶ丘高校の生徒の注意を引くものがあった。

 腰に手を回されながら、私が家名先輩を家に連れ込んでいる写真だった。

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