6(後)
外に出ると雪がふっていた。傘がいるほどじゃないけど、それなりに寒い。雪と夜気の合わせ技が、頭のてっぺんから足先までを、容赦なく冷却してくる。
「また手袋忘れたの?」
私がぶるっと身を震わせ、両手を合わせてこすったのを見て、さくら先輩がそう聞いてきた。
「たぶん玄関に置きっぱなしです」
「寒がりなんだから気を付けないと。カイロは?」
「かぴかぴのやつならここに」
言ってから、昨日使ったカイロをポケットから取り出した。ほら、とさくら先輩に見せてあげる。
「ちなみに新しいのは手袋の横だと思います」
「使ったのは捨てなよ……。真冬ちゃんって、そういうとこいい加減っていうか、抜けてるよね。部屋はきれいなのに」
そんなやりとりをしながら校門を通る。すると、さくら先輩が突然足を止めた。そして、迷うそぶりのあと、左手をおそるおそる差し出してきた。
なんのつもりなのかはすぐ分かった。だからわざと分からないふりをして、じっとその手を見つめ続けた。そうしたら、さくら先輩は恥ずかしそうにしながら、ぽつりと一言こぼした。
「……人間カイロ」
私は吹き出しそうになるのを我慢して、意地悪なにやにや笑いだけをむけた。
「ほんと好きですよね」
「違うから……寒そうにしてる真冬ちゃんのために繋ぐだけだから……」
言い訳がましいさくら先輩を堪能してから、そっとその手をとる。やっぱり暖かい。残った左手は相変わらず冷たいけど、そんなのはどうでもよく思えるくらい、体がぽかぽかした。
手をつないだまま、私たちは歩く。
「こうしてるとさ、女同士で良かったのか、悪かったのか、ちょっと混乱しちゃうんだよね」
ふいに、さくら先輩がそんなことを言った。
「急にどうしたんですか?」
「女同士だからこんなに堂々と手をつなげるけど、でも、男女だったら最初からこそこそしなくても良かったのに」
女同士だから差別される。だから関係を隠す。
女同士だからどんなに親密でも友達に見える。堂々と手をつなげる。
本当は、堂々と恋人として手をつなぎたかった。そういうことなんだろう。
「さくら先輩は、恋人との関係は周りに認めてほしいタイプですか?」
「どうかな。真冬ちゃんのこと、ただの仲良しな友達って言われたらね、すごくいやな気持ちになることがあるの。っていうことは、やっぱり認めてもらいたがってるのかな」
「ふうん」
自分が聞いたくせに気のない返事をしたけど、本当はうれしかった。だって「好きになった人のこと」じゃなくて「真冬ちゃんのこと」だ。付き合った人はいなくても、これまでにさくら先輩が恋愛対象として意識した人は何人かいるだろう。その中のだれかでも、私を含めたその人たちを一括りにする言葉でもなく、私ひとりのことでいやな気持ちになってくれたことが、私に仄暗い歓びを与えてくれた。
「真冬ちゃんは違うの?」
「そうですね。自分が満足できればいいタイプです」
「そっか。強いね」
それだけ言って、さくら先輩は口を閉ざした。
私は、周りなんかどうでもいい。私が相手のことを好きで、相手も私を好きでいてくれるなら、それがすべてだと思える。
だから、ねえ。
さくら先輩も、ずっと私のことを好きでいてよ。
見捨てないでって、さくら先輩は言うけど、そっちこそ、私を見捨てないでよ。
「それじゃあ、また明日ね」
しばらく黙ったまま歩いていると、すぐに分かれ道にたどりついた。私は左へ曲がって自分の家に、さくら先輩は右に曲がって駅にむかう。
「はい。また明日」
簡単な挨拶を終えると、私たちの手はあっけなく離れた。指先から順に、温もりが急速に失われていく。
その心細さを、私は笑ってごまかした。
逆にさくら先輩は、名残惜しさを隠そうともしない。あと少しだけつないでいなかった、という気持ちが顔に出ている。それは、こと恋愛に関してはいつも余裕のない、残念でかわいいさくら先輩だった。
心の中でだけ、私はそっと問いかける。
さくら先輩は、いつまでその余裕のなさを、私に見せてくれる?
もちろん口には出さず、私たちはそのまま別れた。
しばらくして振り向くと、さくら先輩の背中はもうどこにもない。それを確認して、私は大きく息をはいた。真っ白な呼気が虚空に消えていく。そして――気づけば、私はその場でしゃがみこんでいた。
目が覚めてから、ずっと寒い。さくら先輩は、いつか私のとなりからいなくなる。そのことが、心を凍りつかせようとしている。そのくせ、心の一番奥深くにある、この恋心だけは燃え続けているのが厄介だった。表面は冷え続けているのに、中心は痛いくらいに熱をもっている。大きな矛盾のせいで、気分が悪い。
手をつないでいる間だけは、そんな苦しさも少しはまぎれた。体が温まると、冷えた心も鈍感になれるのかもしれない。
今はひとりっきり。体はまた冷えて、心の温度と等しくなっていく。燃えているのは、やっぱり奥底の恋心だけだ。
留まり続ける時間のぶんだけ、当たり前だけど体は冷えていく。そのせいで、心もさらに冷えていく。分かっているのに、そこから一歩も動けなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。そばを何人か通りかかった気がする。声をかけようか迷うような気配もいくつか感じたけど、今のところはみんなが私を放っておいてくれている。それでいい。今は、ただ黙ってこうさせてほしい。
「お前、なにしてんの?」
その声は、中学のころから何度も聞いてきたものだった。
彼氏の、陽ちゃんの声。陽ちゃんもこの近くで一人暮らしをしているから、今ここを通りかかるのは不思議なことじゃない。
「……べつに」
膝に顔を埋めているせいで、思ったよりもくぐもった声になった。たぶん、陽ちゃんにはものすごく機嫌の悪い声に聞こえたはずだ。でも陽ちゃんは、まったく意に介さずに言葉を返してきた。
「べつにってことはないだろ。意味もなく道のど真ん中にしゃがみこんでる奴って、それやべー奴じゃん」
正論だったから、逆に腹が立った。
「うるさいな。やべー奴でいいから、早くどっか行きなよ」
「行ってもいいけど、俺、一応は彼氏だし。調子悪そうな彼女ほっていくのもなあ」
そう言われて、私はようやく顔を上げた。軽い感じに見えて、陽ちゃんはてこでも動かないと分かったからだ。
「一応ってなに」
「お互い浮気しあってる恋人は、ちゃんとした彼氏彼女とは言いにくいだろ?」
「……分かった。すぐ立つから、ちょっと待って」
「はいよ。ん」
そう言って、陽ちゃんは右手を差し出してきた。
「なにそれ」
「なにって、立つの手伝ってやろうかなって」
「……いらないよ」
その手を無視して、私は自分で立ち上がった。陽ちゃんにも惜しむ様子はなくて、へいへい、と役目を失った手を引っ込めた。
本当は、ひとりで立ち上がるのも辛かった。でも、さくら先輩の手が思い浮かんで、今は他の人の手に触れたくなかった。
*
「で、なにがあったの?」
家に帰ると、陽ちゃんが単刀直入に聞いてきた。一応の彼氏として気になるんだろう。道中邪険に扱ったのに、当たり前のようにここまでついてきた。
無視してリュックをおろし、脱いだコートを雑に放り投げる。それから灯りも暖房もつけず、叩きつけるように自分の体をベッドに投げ出した。うつ伏せのまま、枕をぎゅっと抱く。
「制服くらい脱げよ」
と、陽ちゃんが呆れたように言ったけど、それも無視する。私が呼んだんじゃないし、もてなす必要も……とはいえ放置するのも忍びない気がした。
寝転がったまま、「座れば」と指差しだけで促す。
「それじゃあ遠慮なく」
どかっと、勢いよくデスクチェアに座る音がした。
「……雑」
「お前ほどじゃねえよ。で、なにがあったの?」
しつこいな、と思って無視を続行する。
「もしかして会長に振られた?」
まだ振られてないし。そう言いそうになる口をとっさに閉じた。これは挑発だ。わざと癪に障ることを言って、言葉を引き出そうとしている。
私がのってこないのを見て、陽ちゃんは小さくため息をついた。
「重症だな」
「最近、なんでそんなに詮索してくるの」
独り言が鬱陶しくなって、微妙に話を逸らす。
「露骨に悩んでますって顔してるからな。恋愛経験豊富な俺が相談にのってやろうと思ったんだよ」
「ズルして稼いだ経験値だけどね」
同時に複数人と交際していれば、それは経験値もたまるだろう。
「ズルでも経験値は経験値だろ。いいから話してみろって」
せっかく逸らした話が、また元の軌道に戻ってしまった。
でも実際、相談をするなら陽ちゃん以外に適任者はいない。付き合っている人全員が等しく好きだと豪語するだけあって、恋愛感情を飼いならす術に長けている男だ。むかつくけど。
「全員が好きって、しんどくないの」
むかつく。でも相談したい。その板挟みで葛藤したあと、結局その質問に行き着いた。あくまで陽ちゃんの話なら聞いてやらんでもない、みたいな。自分でもくだらない意地だと思う。
「なに、真冬はしんどいの」
だから私の話はしたくないって。そういう気持ちを込めて、再び無視をする。
「沈黙は言葉より雄弁だな。とりあえず、そう解釈しとくよ」
……そうだよ、しんどいよ。
さくら先輩ひとりでも、こんなにもしんどい。
同時に複数なんて、想像するだけでぞっとする。
「俺はべつに、しんどくないな」
「相手にどう思われてるかって、考えないの」
「そういうのはない」
「なんで」
「なんでって言われてもなあ。俺は、俺が相手を好きならそれでいいし」
世の常識を話すみたいに、陽ちゃんは淡々と言った。
それなら確かに、相手の気持ちは関係ないだろう。
昔から陽ちゃんの真似をしてきたけど、そこだけは真似できないな。そう思って、絶望的な気分になった。
「真冬は違うみたいだな」
「違うよ」
あれだけ無視していたのに、自分の話を口が勝手に喋り始めた。絶望的な気分が、一周回ってそうさせたのかもしれない。そういうことにしないと、もっと絶望的な気分になりそうだった。
「私ね、さくら先輩の都合のいい女になりますって言ったの」
「都合のいい女?」
「二番目でいいって。他に正式な恋人がいてもいいから付き合ってって。そう言ったの」
「お前も俺も、よくやるパターンだな」
そう、よくやるパターンだ。
正式な相手では満たされない部分を、別の誰かで埋め合わせたい。しばしば出会うタイプで、大抵はカテゴリーAからDまでの間にしまい込んでいる。
そういう人をものにするには、いかに都合のいい存在になるかが大切だ。相手の事情を全部受け入れて、後ろめたい欲を満たしてあげる。抑圧されてきた感情を、ちょっとこちら側に抱き寄せてあげるだけでいい。そうしたら、むこうから勝手に倒れこんできてくれる。
さくら先輩だって、そのはずだった。
ボタンの掛け違いが起こったのは、私の中でだけ。
前提が、狂った。
「私がやってるのは作業ゲーって、陽ちゃん言ったけど。そうだよ。そうなんだよ。さくら先輩だってそのはずだったの」
そうであれば良かった。でも、「はずだった」のあとに来る接続詞は大抵決まっている。そこに据えられる逆接こそが、とめる場所を間違えてしまったボタンだ。
「好きになっちまったものは、しかたねえよなあ」
陽ちゃんが、息を吐くように言った。
そこにすべてが詰まっていて、私が言うべきことがなくなる。なにかを言う代わりに、枕をさらに強く抱いた。
恋は盲目と、よく耳にする。そのせいだろうか、私が抱いたこの恋は、果てしなく貪欲だ。自分では制御できないくらいに。善も悪も飲み込んで、ぐちゃっとまとめて重力で押し潰してしまう。そうして狂いきって、最後にはこの心臓さえぺちゃんこにする。
二番目でいいなんて、そんなのは相手が好きじゃないから成り立っていたことだ。ただ付き合って、セックスができれば、その関係がどんなものでも構わない。
構わない? そんなわけあるか。
さくら先輩は、あの人たちとは違う。
カテゴリーAの亜美ちゃん、カテゴリーBのリリーちゃん、カテゴリーCの家名先輩、カテゴリーFの大輝くん、そして今ここにいる、カテゴリーHの陽ちゃん。
みんな一緒だ。代えがきく。だから、一人ひとりのことはどうだっていい。
だから、さくら先輩のことはどうだって良くない。
好きだから、好きでいてほしい。いつまでも、誰よりも、私のことを。
「陽ちゃんみたいになれたらいいのに」
さくら先輩が、恋人との関係を周りに認めてもらいたいと言ったとき、私は全然共感できなかった。私が相手を好きで、相手も自分を好きなら十分だから。
でもそれは、相手にだけは、自分のことを好きでいてもらわないと気が済まない、ということでもある。
私はそういう人間なんだと思い知らされる。最悪だ。他人の好意を求めているのに、他人の好意を信じられない。犬が自分の尻尾を追い回すような、愚かしい永遠の繰り返し。
やめられたら、どんなに楽だろう。
ふと、そんなことを思った。
さっき私がこぼしたのは、ほとんど独り言だった。だから、陽ちゃんはそれに返事をしなかった。
代わりに、何を思ったのか
「今日、するか?」
そんなことを言った。
「……しない」
そっけなく返すと、「りょーかい」と大して未練もなさそうに、陽ちゃんは引き下がった。
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