5
一夜明けて、水曜日の昼休み。
購買に昼食を調達しに、友達と階段を降りている途中のことだった。なんだか二年生のフロアが騒がしくて、気になって覗いてみた。ちょっとした人だかりできている。そこはさくら先輩のクラスの前で――
「あっ」
なんとなく予期した通り、人の輪の中心にいたのもさくら先輩だった。
見れば、さくら先輩はわずかに困り顔になっている。
「ほら、がんばって!」
「いっぱい練習したじゃん!」
その原因は、明らかにさくら先輩の目の前にいる三人だろう。真ん中でもじもじしている小さい女の子を、左右の友達らしきふたりが励ましている。
ぷるぷる震える女の子の手には封筒が握られていて、それだけでどんな状況が分かってしまった。
古風だけど大胆で、感心する。
こそこそやっている私とは大違い。
「あのっ!」
躊躇っていたその子は、やがて意を決したように顔を上げて、さくら先輩を見つめた。そして、ばっと封筒を差し出す。封筒には、分かりやすくハートのシールが貼られていた。
「これっ、読んでください!」
放心した様子で、さくら先輩はそれを受け取った。なにか言おうとして、でもあまりのことに、言葉が出てこないようだ。さくら先輩は本当に、こういうことに弱い。
そうこうしているうちに、
「それではっ、あのっ、ああ、ありがとうございましたっっ!」
と叫ぶようにして、その子は走り去ってしまった。
並走する友達ふたりが「よく頑張った!」「受け取ってもらえて良かったね!」と言うのが耳に届く。
すでにハッピーエンドを迎えたかのような三人の雰囲気とは反対に、さくら先輩の周りは空気が揺れている。こんな衆目の中で、彼氏持ちのさくら先輩にあんなものを渡す人間が現れたら、当然そうなる。
普段のさくら先輩なら即刻野次馬に解散を促しただろうけど……放心したままのさくら先輩には無理そうだ。
そんなとき
「あー、みんな、とりあえず解散してくれないか」
教室の中から、家名先輩が顔を出した。たぶん、中から様子を見ていたんだろう。
「この件については、俺は事前に知ってたから。みんなが心配してくれてるようなことはないよ。全部、ちゃんと同意の上……ああ、さくらにだけは先に言わないでくれてことだったから全部じゃないけど……とにかく大丈夫」
家名先輩がそう告げたことで、周囲で安堵の空気が広がった。
それを見て、さくら先輩がこの学校でいかに愛されているかを実感する。ふつう、こういうとき向けられるのは好奇の眼差しのほうが多いだろう。でもさくら先輩に向けられたのは、ほとんどが親しい相手への心配の眼差しだった。
野次馬のひとりとして、ここは私も解散するべきかもしれない。
でも私は、散っていく人の波に逆らって、ふたりに声をかけることにした。
「さくら先輩、家名先輩」
家名先輩は振り向いて
「ああ、霜月さん」
と、手を挙げた。
「なんか、すごかったですね。このこと、家名先輩は知ってたんですか?」
「うん。でも、俺もまさかこのタイミングとは思わなかった」
「勇気ありますよね。大丈夫ですか、さくら先輩」
問いかけると、ようやく私の存在に気づいたように、さくら先輩はこちらを見た。それまではずっと、渡された封筒をじっと見つめていた。
「平気だよ。まだびっくりしてるけど」
言葉の通り、思ったより大丈夫そうだ。
家名先輩も同じ印象を受けたのか、すぐにこう切り出した。
「ちゃんと説明するよ。誰にも聞かれないところ……生徒会室にするか。ほんとはさくらにだけ話すつもりだったけど、霜月さんも来てくれる? そのほうがさくらも安心するだろうし。あの子には悪いけど、まあ、タイミングを考えてくれなかった分ってことで」
*
昼休みの時間は限られているから、私たちは食べながら話すことにした。私と家名先輩は購買で調達したパンをテーブルに並べ、さくら先輩は自作だというお弁当を開ける。私と家名先輩は話しながらでもちまちま食を進める一方で、さくら先輩の箸はまったく動かなかった。
「朝、呼び出されたんだよ。さくらに告白していいかって。たぶん根が真面目なんだろうな。思い余ってって感じだった。それで、俺に事前に許可をとるっていうのが、あの子なりの誠意だったんだと思う」
根は真面目、と言ったとき、家名先輩はちらりと私を見た。俺たちと違って、ということが言いたかったんだろう。
「それで、家名先輩は許可したんですか?」
黙って聞いているさくら先輩の代わりに、私が確認した。
「うん。なんか、必死だったし。ダメって言うのもな。ごめん、さくら」
ここでようやく、さくら先輩は口を開いた。
「謝らないで。俊哉くんにとっても急なことだったろうし」
俊哉くん、と滑らかに口にするさくら先輩。その呼び方が、最近は本当に自然に聞こえるようになった。
「正直、困った。女の子っていうのも驚いたし」
家名先輩は、その驚きをどう表現していいか迷っているように見える。女の子が女の子に恋をする。世界ではそういうことも当たり前に起こりえる。そんな知識が、今日はじめて実感になったんだろう。
今目の前にいるふたりもそうですよ、と言ってあげたら、家名先輩はどんな反応を見せるだろうか。
「そういうこともあるんだよな」
「俊哉くんは……私があの子と付き合っちゃうかもって思わなかった?」
なにを思ったのか、さくら先輩が突然、そんなことを聞いた。
自分もそうなのだと示唆するようなことをどうして。内心で首をかしげる。これくらいじゃ気づかれはしないだろうけど、わずかな可能性にすら怯えるさくら先輩だからこそ、その質問は意外だった。ただでさえ、予期せぬ形で「女同士」と「さくら先輩」が結びつけられている。さくら先輩なら、それだけで青い顔をしそうなものなのに。
「だって、俊哉くん言ってたでしょ? クリスマス会のとき。俊哉くんが他の女の子をほめたのに嫉妬とかしないのかって」
家名先輩が言いそうなことだった。
「だから逆に、俊哉くんにはそういうのないのかな。わたしが他の人に、とか考えなかった?」
さくら先輩の疑問は、半分的を射ていて、もう半分はそうじゃない。
確かに、恋人が知らない誰かに告白されるのは一大事だ。万が一を考えて、不安を抱いてもおかしくはない。ただし、今回は相手が女の子だ。
「だって女の子だろ。心配することなんかないよ。男だったら……絶対阻止してた」
その答えを聞いて、さくら先輩は「そうだよね。変なこと聞いてごめんね」と返した。その表情は完璧な家名先輩の彼女で、そこから読み取れることはあまりない。
家名先輩が気づいているかどうか、探りを入れたかったんだろうか。
もしそうなら、家名先輩の反応はさくら先輩にとって上々だ。自分の彼女がレズビアンかもしれない。そういう可能性は、家名先輩の頭の中にはなさそうだ。女が好きな女が存在する。女は男と付き合うものである。ふたつの「当たり前」は、家名先輩の中では矛盾していないようだった。
可能性がゼロなら、心配することはなにもない。少なくとも家名先輩の主観では。
なら――さくら先輩がレズビアンだと知っている私は?
私にとっては、さくら先輩があの女の子と付き合う可能性はゼロじゃない。
*
そうして事情を話し終えると、役目は終えたとばかりに、家名先輩は生徒会室から出て行った。女同士のほうが相談しやすいだろうから。そんな風に言っていたけど、それが本心かどうかは分からない。
家名先輩がいなくなると同時に、私はパンを食べ終えた。そのタイミングで、さくら先輩がようやくお弁当に箸をつける。
でも、どこか心ここにあらず、といった感じだ。箸を動かす流れの中に、意思や魂のようなものが宿っていないみたいだった。
さくら先輩の意識はあの子にむけられている。聞けば、一度も話したことはないというあの子。それでも生徒会長として顔と名前は一致させていたようだから、本当に漫画のキャラクターみたいな生徒会長だと感心させられる。
感心しながら、私は認めるしかなかった。そのことが、私の心に暗い影を落としている。
ありていに言えば、この気持ちはやきもちだった。
「良かったですね」
でも、だからこそ、私はそんなことを言ったんだと思う。
「良かった?」
「いい子そうだったじゃないですか。私は知らない子でしたけど、ちゃんと一生懸命です」
できるだけ平静な顔と声を作って、言った。
「それは……そうだと思う」
「きっと一途ですよ。さくら先輩のこと、大切にしてくれそう」
「……わたしに、あの子と付き合ってほしいの?」
その瞬間、さくら先輩の表情が少し曇った。私の心と同じ程度には、暗く。その顔を見て安心したいがために、私の口は動いているのだと再認識する。
「そうじゃないです」
ほしい反応が得られたところで、ほんの少しだけ本心を混ぜる。でも、すぐに心にもないことを口にした。
「でもさくら先輩にとってチャンスなのに、それに気づかないふりして、さくら先輩のとなりにいるのも違うって思うんです」
「チャンスって、なに?」
「周りの反応、見てましたか? あの子がさくら先輩に封筒を渡したときの」
「……どんなだっけ」
「ですよね。さくら先輩は、そんな余裕なかったでしょうから。でも私は野次馬だったので、ちゃんと見てましたよ」
さくら先輩はなにも言わず、目で続きを促してくる。
「ざわついてました。動揺とか不安とか、あとは心配とか。でもそれは、さくら先輩には家名先輩がいるからです。他に意味なんか、ありませんでした。それがどういうことか、分かりますよね」
「……女同士って、みんな気にしてなかった?」
すぐさま、さくら先輩は正解を言い当てた。
あのとき、相手が男だったとしても反応は変わらなかっただろう。
「あの子の友達からして、そうでしたよね。女が男に告白するときみたいに、女が女に告白するのを応援してました」
「この学校じゃ、女同士だからって差別されないって、そう言いたいの?」
私は小さくうなずいた。
ややあって、さくら先輩は言った。
「真冬ちゃんの言うことは……当たってるのかも。あの子の友達のことは、さすがにわたしも目に入ってたし。あの子たちがそんな風にできるのも、この学校に柔軟な空気があるからだとも思う」
「だったら」
「でもダメ。そもそも家名くんがいるし。今あの子と付き合って家名くんと別れたら、簡単に乗り換える軽い女みたいだし……。それに、わたしにとってはもっと大事なことがあるの」
「大事なことって、なんですか?」
「あそこにいたのがこの学校の全員じゃないことと、わたしがそうだって分かったとき、わたしの近くにいる人たちがどんな反応をするかは、やっぱりまだ分からないってこと」
その声には切実さが滲んでいた。
それを聞きながら、私はひそかにほっとする。大丈夫。さくら先輩はちゃんと分かってる。
このときやっと、どうしてさくら先輩が、家名先輩にあんなことを聞いたのか理解した。
「家名くん、わたしがあの子と付き合うとか、全然考えてなかった」
「そうですね」
「結局、外の世界の出来事なんだよね。どこか遠くの国の戦争みたいな。だからあんな風に言えるの。男だったら阻止してたって、女同士はありえないって言ってるようなものでしょ」
「悪気があるわけじゃないんですけどね」
「そうだね。だからわたしは怖いよ。家名くんだけじゃない。それが自分のすぐ近くで起きてる出来事なんだって、家名くんよりずっと……ずっと大切な友達が、美代が知ったらどう思うかって考えたら」
唐突に宮藤先輩の名前が出てきたことに、一瞬だけ面食らう。でも、さくら先輩にとっては唐突じゃない。きっと、ずっと考えていたことなんだろう。さくら先輩は平穏な日々が失われることを恐れている。友達は、誰よりも仲のいい宮藤先輩は、そうした日々の象徴としてあるんだろう。
「家名先輩は、宮藤先輩じゃないですよ」
「分かってる。でも怖いの。美代もそうだったらどうしようって、そう思っちゃう」
さくら先輩の中には、そうだった場合のリアルな想像があるのかもしれない。それが今、頭の中で一時停止ができない映画のように上映されている。だからか、心なしか顔が青ざめているように見えた。
さくら先輩が言ったことの大半は、私にも分かっていた。この程度のことじゃ、さくら先輩は一歩を踏み出せない。なのにチャンスだなんて言ったのは、自分のための確認作業でしかなかった。大丈夫、さくら先輩はまだ私のそばから離れられない。そう確認して、安心したいだけの形式的な作業。
「だからね、やっぱりわたしには真冬ちゃんだけだよ」
さくら先輩が、図ったように私のほしい言葉をくれる。
「わたしのこと、見捨てないでね」
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