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今日はさくら先輩の声が全然聞けなかったなあ。
土曜日はあんなにたくさん、かわいい声を聞けたのに。
生徒会、水曜日もやればいいのに……
「ちょっと、聞いてんの」
「え」
さくら先輩のこと考えていたら、そんな怒声が脳天をつらぬいた。耳元で大声を出されたせいで、鼓膜が少しだけ痛む。
現実に意識を戻すと、私の視界は女の顔に埋めつくされていた。キスするわけじゃない。逆に、めちゃくちゃ怒られている最中だった。形だけは壁ドンのようになっている。
「ああ、ごめん」
「ごめんじゃないんだよ。あんた、分かってんの。人の女に手を出して」
要するにそういうことだった。
カテゴリーAの
こっち来いよ、と連れ込まれた小路は、まさしく修羅場だ。亜美ちゃんの彼女は怒り心頭だし、その友達ふたりも私を逃がさないよう両側を塞いでいる。片方は体格がいい男で、圧がすごい。
そのうしろで、亜美ちゃんはえんえん泣いている。ロリ顔だから、大学生なのにそういうぶりっ子がよく似合っている。
亜美ちゃんとは、むこうから関係を求められた仲だった。でも今、亜美ちゃんは「マユちゃん強引で……断れなくて……」と主張している。積極的に腕を組んだりキスしたりを見られたわけだけど、そこはあとでごまかすんだろう。
いい性格してるなあ、と思う。悪い意味じゃなくて、素直に感心している。亜美ちゃんはかなり自己中だ。私も相当だけど、亜美ちゃんには負ける。付き合い始めのころ、「彼女にばれたら、あたし、そっこうでマユちゃん切るから」と宣言されたのを思い出す。さらに付け加えて、「あたしは浮気するけど恋人の浮気は絶対許せない」と悪びれもせず言い放つ姿はいっそかっこ良かった。彼女のSNSを常時監視しているらしく、ネトストの極意その七くらいまでを得意げに語ってくれた。
ちなみにマユというのは、私のハンドルネームだ。本名からフを取っただけで安直だけど、他の名前を考えるのがめんどくさかった。でも、本名そのままだった亜美ちゃんよりはちゃんと考えている。
「ごめんなさい」
と、ひとまず謝ることにした。亜美ちゃんの嘘も、いちいち指摘しない。
事実がどうあれ、亜美ちゃんの彼女にとって最大の悪は私だ。その通りだから、私は謝るしかない。それに亜美ちゃんにはだいぶ楽しませてもらった。体の相性は良かったし、おいしい店にも何度か連れて行ってもらった。お礼に、ここは合わせてあげよう。
でも、亜美ちゃんにも謝ってもらうことにはなる。私は当然悪だけど、亜美ちゃんも同じくらいには悪だ。だったら、すべきことは私と変わらない。
「謝ったって許さないから。あんた高校生だよね。学校どこ。今日で終わりにさせないからね」
そうすごまれたけど、学校は教えられない。
中学のころ、好き放題やりすぎて学校にはいづらくなった。だから今は学校から離れた場所で相手を探している。付き合う相手にも学校は教えない。平日は私服に着替える必要があるし、移動にも時間がかかる。それに、学校も本名も教えない人とは付き合えないと断られることもあるけど、しかたない。私だって、学校で孤立したいわけじゃない。
そういうわけで、学校まで押しかけられるのは困る。
ただ、教えないと今にも手が飛んできそうな雰囲気だ。
まだかな、と思って、スマホを確認する。連れ込まれる前にこっそりメッセージを出しておいたんだけど。
「おい、スマホ見るときじゃないだろ。ほんとに反省してんのか」
もっともな怒りだ。
「そうだね。ごめん。でもちょっとだけ」
「いや、しまえよ」
そのとき、ひとつのメッセージが届いた。
「あ、来た」
「しまえって」
「うん、しまう。でも話は待ってくれないかな」
「は?」
「今から彼氏が来るから。話は、それから」
*
注意を払っていても、トラブルはゼロにできない。
だから私には陽ちゃんがいるし、陽ちゃんには私がいる。
「まあそういうわけだから、これで手打ちってことで」
ぱん、と陽ちゃんが手のひらを合わせた。
それを見た亜美ちゃんの彼女は苦々しい顔をし、亜美ちゃんはさっきの小芝居とは違う涙を流している。涙の意味は簡単で、自分の立場が微妙に悪くなったからだ。陽ちゃんに謝ったことで、亜美ちゃんはもう、単なる強引に迫られただけのかよわい女の子ではいられなくなった。
亜美ちゃんが謝らなければならなかった理由は、私が亜美ちゃんの彼女に謝ったのと同じだ。どちらから誘ったかは関係ない。お互いの本来のパートナーに対して、私たちは絶対的に下の立場にある。
亜美ちゃんの彼女にも、さっきまでの勢いはなかった。一方的に私を糾弾できたのは、その場で自分だけが被害者だったからだ。でも陽ちゃんの登場で、自分の恋人もまた加害者になってしまった。亜美ちゃんだけを擁護するのは、今となっては難しい。
どちらかがピンチなったら、すぐかけつける。
これが、私と陽ちゃんの約束だった。
相手に恋人がいて自分だけがフリーだったら、こういうときに完全な悪者にされてしまう。いや、悪者なのは間違いないけど、自分にも恋人がいるのといないのとでは、状況は大きく変わる。責任の所在は、浮気相手ときっちり半分こしないといけない。
今回は私が助けられる側だけど、陽ちゃんも私と似たようなものだから、いわゆるウィンウィンな関係というやつだ。
「それでいいよね」
と、陽ちゃんが言った。にっこり笑って、有無を言わせない様子。陽ちゃんは演技派だ。こんなにはっきり笑った顔、なかなか見られない。
でも亜美ちゃんの彼女は、当然納得がいっていないようだ。
「いいわけないだろ……」
「どうして?」
「だって、誘ったのはそっちなんでしょ」
「それ、俺と関係ある?」
陽ちゃんは笑みを引っ込めた。うわ、こわ……。
亜美ちゃんの彼女も気圧されたようで、そのまま勢いを完全に失ってしまった。
*
こういうトラブルは女の子との関係で起こることが多い。
女だから、男だから、という話じゃなくて、単に比率の問題だ。今付き合っている人は、圧倒的に女のほうが多い。
そのアンバランスさには理由がふたつある。ひとつは私の趣味。同じバイでも、私はL寄りのBだから、好みで相手を選べば自然とそういう比率になる。
もうひとつは避妊。男とすると、それは避けて通れない。正直、あれはかなりめんどくさい。セックスをしてバカになろうってときに、どうしてリスク回避に頭を回さなければならないのか。
だから私の人間関係では、男は比較的少数派だ。
「真冬さー。もしかして、会長に手ぇ出してる?」
その中のひとり、陽ちゃんは、夜道を歩きながらそう聞いてきた。
学校の最寄り駅まで帰ってきて、家までの道を歩いている最中のことだった。
「なに、急に」
驚いた。陽ちゃんは私の人間関係を詮索しない。亜美ちゃんのことだって、なにも聞いてこなかった。巻き込まれたんだから、そのことは聞いても良かったのに。
それにしても、どうして気づいたんだろう。私とさくら先輩は、傍目には仲のいい先輩と後輩にしか見えないはずなのに。
なんて答えようか。勝手に話すのは良くない。私はこんなだから色々とルーズで、だからさくら先輩をからかってしまったけど、反省したからには慎重にならないと。
「同じ学校のやつには手を出さないって話だっただろ。俺もお前も、フリーだったらつい手を出しちゃうから、こっちで付き合ってることにして、誘ったり、誘われたりしないようにしようってさ。だから、ちょっと気になっただけ」
ほとんど確信した口調で、陽ちゃんは言った。
「さくら先輩ってそんなに私のこと見てる?」
直接答えは口にせず、迂回しながら会話を回すことにする。ここまで断定的に問われると、「陽ちゃんの勘違いだよ」と頑なに否定するのは意味がない。
でも、会話の回転はすぐに止まった。陽ちゃんの足も、一緒に止まる。
二歩先に進んでしまった私は、振り向いて聞いた。
「どうしたの?」
陽ちゃんは、お前なに言ってんの? と言いたげな顔をしていた。
「え、なにその顔」
「お前こそなんだよ。なんでそんな、解せん……みたいな顔なの?」
そう言って、陽ちゃんはいつもの澄まし顔に戻った。再び歩き始めて、私を追い抜いていく。
その背中を追いかけて、私もすぐに隣に並んだ。
歩きながら、頭の中でたくさんの疑問符が生まれる。
すると陽ちゃんは「あー分かった。そういうことね」と何かを察したみたいに頷いて、
「なんつーか、会長じゃなくて、お前が見てるんだよ。けっこうがっつり」
「……私が? さくら先輩を?」
「そう。だから狙ってんのかなって」
思いがけない指摘だった。でも心当たりはある。言われて記憶を探ってみると、少し遠くにいるさくら先輩の姿をうつしたものが多い気がした。
はあーっと、盛大なため息が出た。
「失敗したなあ」
そう簡単にはバレませんよ、とさくら先輩に言ったのは私だ。これは本当に申し訳ない。
「会長ってレズなの?」
さくら先輩の気持ちを思えば、ここは否定すべきところ。でもそんな嘘は見え透いている。だから、微妙に話を逸らすことにした。
「あんまりレズって言わないほうがいいよ。もとは差別用語だから」
調べてみると、そのままレズビアンと呼ぶか、ビアンと略すのが好ましいらしい。当事者が自分でレズを自称するならいいって意見もあった。私も当事者だけど、あまりピンとこない。そもそも私はバイだから、レズビアンの「当事者」に入っているかも分からなかった。
「そうなん? そりゃ悪い」
陽ちゃんは素直に謝った。陽ちゃんのいいところだ。言外の肯定をさらっと流してくれたことも含めて。陽ちゃんの「悪い」には、無神経なことを聞いたって意味もたぶんあった。
「でもずっと守ってたルール破ってまでって、相当気に入ったんだな」
意外だ、と陽ちゃんは続けた。
「恋愛イコール作業ゲーって感じの真冬がねえ」
「それは陽ちゃんも一緒じゃん。三股男のくせに」
「真冬は何股女なんだよ」
陽ちゃんは苦笑して、
「俺はちゃんと全員好きだから」
「だから私とは違うって?」
「そう」
「最低なのは一緒だよね」
心外そうな顔がむかついたから、とりあえず蹴っておいた。
「まあでも」
と、私の蹴りをかわしながら、陽ちゃんはこちらを見た。
「好きな人できたんなら、もうこういう遊びはやめとけよ」
「……なんで」
「なんでって……あー、お前はそうだよなあ」
頭をがりがり掻いて、陽ちゃんは前を向いた。
その陽ちゃんを、今度は私が横目で盗み見る。なにかを口に出すべきか、迷っているような表情だった。
「まだダメなのか?」
逡巡の果てに、陽ちゃんは聞くことを選んだ。
まだダメなのか。なにが、とは聞き返さない。陽ちゃんは全部分かっている。
「好きな人、できたんだろ。相手が桐咲会長なのは……ちょっと問題あるけど。家名先輩とか。でもなにか変わることもあったんじゃないか?」
「今日はやけに私のこと気にするね。私だけを本命にしたくなった?」
そんなことはないと知っていて、わざと茶化してみた。
でも、陽ちゃんは返事をしなかった。私がちゃんと答えるのを、ただ待っている。
「……変わらないよ」
今日は助けてもらった立場だから、真面目に答えることにした。
「生まれたときから、ずっとなんだから」
こんな私になったことに、確かな理由なんかない。
気づいたのは、あのときだ。
今残っている記憶で、最も古いもの。
――真冬ちゃんのことが大好きよ。
どういう経緯で言われたのか忘れたけど、母からそんな言葉をもらったとき、幼い私が抱いた率直な感想はこうだった。
ほんとかよ。
ひどい娘だと思う。控えめに言っても、私は恵まれた子どもだった。裕福で、両親の仲も良く、望むものは何でも与えられた。ひどい虐待を受けたり、育児放棄をされたり、といったことも全くない。
与えられたものの中には愛情も含まれていたはずだった。私が笑えば二人も笑顔になり、逆に泣けば優しく抱きしめてくれる。
いつだって娘の幸せを願っている父と母。誰もがうらやむ幸せな家庭だ。
不幸なのはただ一点。
娘の私だけが、二人の愛を信じられずにいること。
母に愛を囁かれたとき、私は自分の疑り深い性質を知った。
愛されている「らしい」ことは分かる。受け入れられる。でも納得はできない。無理に納得しようしたら、ぎぃぃぃぃいっと黒板を爪で引っ搔いたような音を延々と聞かされている気分になる。
そうなるのは、親だけじゃなかった。兄弟、友達、先生。親の愛情という初歩中の初歩さえ信じられない人間が、どうして他の誰かを信じられるだろう。
「いよいよ俺もお役御免かと思ったんだけどな。そうでもないらしい」
そう言う陽ちゃんの声は、嬉しそうでも、残念そうでもなかった。淡々と、事実を口にしただけ。そういう声だ。
「私にこういう遊びを教えたのは陽ちゃんなんだから、ちゃんと責任とってね」
ありもしない責任を、理不尽に押し付けてみる。
ただ、責任云々は冗談だけど、それ以外は本当のことだ。
中学のころ、陽ちゃんの女好きは校内でも有名だった。気に入った相手に節操なく手を出していて、潔癖な女の子たちには汚物のごとく嫌われていた。
当時の陽ちゃんは嫌悪の視線をものともせず、それどころか「俺は付き合ってるやつ全員が等しく好きだから」と平然と言ってのけるものだから、一部の層からはある種の尊敬を集めたりもしていて。
そんな陽ちゃんが、入学半年後に手を出したのが私だ。あれが私のはじめてのセックスだった。
家族に、友達に、教師に、私と接する全ての人に、愛想笑いの裏で疑いの眼差しをむけ、常にノイズにまみれていた頭の中が、綺麗さっぱりクリアになった。自分と他人がいるから、不信が生まれる。そんな境界線、なくなってしまえばいいのに。ずっと抱き続けた願望を一時的にでも叶えるのに、お互いの体温を溶け合わせるセックスは最適だったんだろう。洗礼を受けた宗教者の気分ってこういうのかな。四方八方から怒られそうな感想が浮かぶくらい、革命的な経験だった。
セックスをしている間だけ、すっと心が軽くなる。
だから陽ちゃんは、私の師匠。たまに「ねえししょうー」と呼んだら陽ちゃんはすごくいやがっていた。
昔を思い出すと、懐かしさを感じた。
「ねえししょうー」
久しぶりに呼んでみると、陽ちゃんはやっぱり顔をしかめた。
「まじでやめろ……。だいたい今じゃ真冬のほうが手は早いし広いだろ」
いやそうな顔は、すぐに呆れた顔になった。
「師匠は弟子に抜かれるものだからね」
中身のない返しだった。でもこれでいい。陽ちゃんとずっと真面目な話をするのはむずがゆい。陽ちゃんとは、ずっと薄っぺらい関係でつながってきた。お互い詮索しない、深く踏み込まない。
気持ちを察してくれたのか、そこから私の家につくまで、陽ちゃんはもうなにも言わなかった。
でも、最後にこれだけは聞かれた。
「桐咲会長のどのへんが良かったの?」
「私と離れたくなくて、いつも余裕がなくなるところ」
陽ちゃんは、「それ、誰のこと?」と笑った。はぐらかされていると誤解したらしい。分かってないな、と思いながら、私はエントランスのオートロックを解除した。
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