2(後)

 そのあとすぐ、私たちは手を振って別れた。

 宮藤先輩としても、思いがけずデートを目撃されて気恥ずかしかったんだろう。幸い、さくら先輩の様子に最後まで気付くことはなかった。

 黙ってしまったさくら先輩を連れて、いったん館内のレストランに入る。

 お腹のすく時間になったし、ちょうどいい。別れたばかりの宮藤先輩と一瞬で再会という、一番気まずい展開を危惧したけど、それは杞憂だった。


「いろんな意味でびっくりしましたね」


 それぞれの料理がテーブルに並んだところで、私はそう切り出した。

 暗くなってもしかたないから、あえて明るい声で。実際、気落ちする要素は何もないわけだし。たまたま核心を突かれたところで、冗談なら問題ない。逆に全くバレていないと安心してもいいくらいだ。


「おしゃれすればモテるだろうなーって思ってましたけど、あそこまでとは」

「……うん」

「大学生のお姉さんって感じ。さくら先輩と並んだら絵になるかも。写真撮っとけば良かった」

「そう、だね」

「でも彼氏くんが告白したのはいつもの宮藤先輩ですし、そう考えたらいい彼氏見つけたのかもですね。見た目の変化で告白してくる男なんて所詮ミーハーですし」

「…………」


 とうとう生返事もなくなった。


「まだ気にしてるんですか?」


 視線を斜め下に逸らしたさくら先輩は、左手で右手首を掴み、じっとその一点を見つめている。


「大丈夫ですよ。宮藤先輩だって冗談のつもりなんだし、堂々としてればバレやしません」

「分かってる。うん。分かってるよ。でも、そうじゃないの」

「じゃあどうしたっていうんですか?」

「いけないことしてるんだなって、自覚して……。というか、最初から自覚してたのに見ないふりしてたことを、急に目の前に突きつけられた、みたいな」

「気にすることないですよ」


 家名先輩だって浮気してるんだし、と言いそうになるのを、それが声になる前にかき消した。


「さくら先輩は悪い後輩にそそのかされただけです。全部そいつのせいだって思ってくれたらいいんですよ」

「でも、そんなの……」

「ずるいですか? 言ったじゃないですか。私はさくら先輩にとって都合のいい女になりますって」


 そこでようやく、私は目の前のカレーに手をつけた。冷めたカレーはまずい。早く食べてしまわないと。

 反対に、さくら先輩の手はいっこうに動こうとしなかった。石像になってしまったみたいに、変わらず右手首を掴み続けている。このままじゃラーメンがまずくなってしまう。ぼーっとするさくら先輩の代わりに私が注文したラーメン。もっと別のものにすれば良かった。

 私の言葉を真に受けていいのか、その賢い頭脳で、ものすごく葛藤しているのが分かる。きっと答えは出ないだろう。さくら先輩は頭が良すぎる。たくさんの考えが同時に巡っていて、たぶんそのどれもが正しいから、いつも頭の中で大事故を起こしているのかもしれない。

 待っていてもしかたがないから、私はふと思いついたことを試してみることにした。


「もうやめますか?」


 短く、そう問いかけた。

 それでやっと、さくら先輩の顔が弾けたように上がる。


「やめるって、別れるってこと?」


「はい。家名先輩を裏切ってるのがつらいんですよね。なら別れて、それで綺麗さっぱりってことにしましょう。今日まで浮気してた事実は消えないけど、そこは私とさくら先輩の秘密です」


 意識したよりずっと冷たい声が出た。覚えている限り、さくら先輩にこんな声を聞かせたことはない。

 そのせいか、さくら先輩は怯えたように視線を彷徨わせた。口を開け閉めして、何を言えばいいのかも分からないようだった。いつも何かを考え続けているその頭の中が、こんな簡単な一言で真っ白になっている。

 大げさな音を立てて、私は立ち上がった。


「どっどうしたの?」


 慌てた様子で、さくら先輩が言った。


「先に帰ります。それを区切りにしましょう。このあとの私たちは、ほんの少し前までの、ただの仲がいい先輩と後輩です」


 さくら先輩の顔が、今度こそ本当に石像のように固まった。

 構わずトレーを持って、一歩前に進む。

 でも、それより先には進めなかった。

 遅れて立ち上がったさくら先輩に、服の裾を掴まれたからだ。

 振り払おうと思えば簡単にそうできる、ちんまりとした掴み方。

 立ち止まるには、それだけで十分だった。


「離してくださいよ。歩けないじゃないですか」

「ごめん……でも、だって」


 だって、のあとがなかなか続かない。さくら先輩は、たまにこうなる。

 封じ込められた言葉は支離滅裂なものが多い。だからさくら先輩は言いよどむのだけど、それらは支離滅裂であるからこそさくら先輩の本音だ。

 裾を掴むさくら先輩の手が震えている。顔も蒼白で、貧血でも起こしているのかと心配になった。

 言葉にならないその感情が、潤んだ瞳を介して私の五感に届く。


「ダメなの……」


 蚊の鳴くような声量で、さくら先輩はようやく言葉を続けた。


「どの自分も本当だって、言ったけど……でも、でも、あれだけはわたしじゃない……」

「あれ?」

「わた、しは、家名くんが、好きじゃない」


 絞り出すような言い方だった。その声もまた震えていた。

 この一か月、さくら先輩はふたつのことに苦しんできた。ひとつは浮気の後ろめたさ。もうひとつは、今まで以上に家名先輩の彼女らしく振舞わなければならなくなったことだ。クリスマス会以来、ずっとそうしている。本人の前では家名先輩を名前で呼ぶようになったし、手も平然とつなげるふりをするようにもなった。時折、家名先輩が求めてきたらキスもするそうだ。そのたびに、さくら先輩は顔を真っ青にする。そして私は、いつだってかわいそうなさくら先輩を受け入れる。

 まだセックスはしていないようだけど、家名先輩がそれを求めてくるのも時間の問題だろう。今はタイミングを探っている感じ。今は私で我慢しているけど、いつかは本命に手を出したいはずだ。

 そのときが来たら、さくら先輩はどうするんだろう。


「でも、だから、真冬ちゃんがいないとダメ……」


 そこからは立て板に水だった。


「真冬ちゃんがいてくれたら苦しくないの。辛いし悲しいし最悪だけど苦しくないの。息ができるの。真冬ちゃんだけなの。お願いだから……そばにいて……」


 やっぱり、と思う。同時に、まただ、とも思う。

 やっぱりと思ったのは、さくら先輩の反応だ。さくら先輩は恐怖に弱い。レズビアンだと知られたくないから男と付き合ってヘテロのふりをする。本当はそこまでする必要はないという常識を、恐怖心が上回る。同じように、浮気は道徳に反するという常識を、私と別れることの恐怖が塗り潰す。

 まただと思ったのは、そうした私の行動だった。いつもなら、ここまでして相手を自分のそばに残そうとしない。微妙な雰囲気になれば、それでさようなら。

 いつもなら、いつもなら、いつもなら。

 さくら先輩だけが、いつもと違う。


「分かりました。別れるのはなしにしましょう」


 わざとらしくため息をついてから、私はトレーを置いた。それが、あたかも慈悲であるかのような空気を作りながら。

 さくら先輩はあからさまにほっとした様子だ。

 二人とも座り直し、食事を再開する。さくら先輩もようやくラーメンを口に運んだ。ラーメンは明らかに伸びていて、その上冷めているはずだけど、それも全然気にしてない。そんなことは、去ったばかりの危機に比べれば小さなことのようだった。


「大丈夫ですよ。私はさくら先輩を裏切りませんから」


 まだ少しだけ不安そうなさくら先輩がかわいくて、ついそんな大嘘をついてしまう。


「真冬ちゃんのことは信じてるよ。結局これは、わたしの気持ちの問題だもんね」


 そう言いつつ、さくら先輩はなにか言い足りない様子で。


「でも、もし裏切ったら……」


 せっかくそこまで口にしたのに、続きを喉の奥にひっこめてしまうさくら先輩。途中まで言われたら、先が気になってしかたない。


「もし裏切ったら?」

「いい。やっぱりいい」


 気まずそうに、さくら先輩は視線をきょろきょろさせる。逆に私は、さくら先輩をじいっと見続ける。黙秘と催促の時間がしばらく流れ、結局、さくら先輩のほうが先に耐えきれなくなった。


「分かった。言う、言うからじっと見ないで」

「やった。勝った。はい、どうぞ」

「だから見ないでって……。えっとね、もし裏切ったら……ビンタする……かも」


 それを聞いて、私は笑ってしまった。


「笑わないでよ」

「いやだって、真剣な顔して言うのがビンタって……しょぼい……」

「なんか、もっとすごいの考えとくから……」


 笑いながら、さくら先輩の様子を盗み見る。すねた顔も、とてもかわいい。次々と薪をくべらているみたいに、この感情が燃え上がっていく。

 私は寒がりだ。死人みたいだって言われるくらい体温が低い。なのに今、首筋に手を当てるとほのかに温かかった。

 胸の感情が熱になって、滲むように全身に広がっていく。

 火傷するほど熱くはないけど、だからこそ長く残りそうな。

 今までたくさんの恋人を作った。女も男も関係なく。その中には褒められた関係じゃなかった人も、とりたてて責められる点がなかった人もいた。どちらであっても、私は恋人とは必ずセックスをしたし、それで満たされるものも確かにあった。

 でも、こんな感情を抱いたことは一度もない。

 たくさん恋人を作ってきた私は、人生ではじめての恋をした。


     *


 一人暮らしって、便利だ。

 いつ何をしていても、誰にも見咎められない。

 遅く帰っても、夜更かししても、堂々とお酒を飲んでも。

 彼氏がいる相手とセックスをしても。

 さくら先輩のうしろから、私は覆いかぶさるように腕をまわした。


「まだ緊張するんですか?」


 耳元で小さく、息を吹きかけるみたいに言うと、さくら先輩の体がぴくりと反応した。


「……するよ」

「そろそろ慣れてくださいよ。はじめてじゃないんだから」

「でも、デートの後ははじめて」 


 あれから――水族館であんな空気になったあと、私たちは普通にデートを続けた。

 そう、普通に。別れ話、というのが私たちの関係にふさわしいかは分からないけど、そういう話をしたばかりとは思えないくらいなごやかだった。

 いつものように話して、笑って、手をつないで。

 そうなるように振舞っていたのは、私じゃなくてさくら先輩のほう。

 私たちの関係は、わりとあっさりと終わらせられる。誰に惜しまれることもない。だって誰も私たちのことを知らない。知られたところで、同じことだ。どちらか、もしくは両方の意思次第で、すぱっと切り捨ててしまえる細い糸。

 私がまた心変わりしないように。さくら先輩自身が罪悪感に耐え切れなくならないように。そういう色々な不都合から逃げるために、さくら先輩は「普通」でいることを選んだ。

 まるで世界の中にもうひとつ、とても硬い殻で守られた世界を作ってしまったみたいだった。そこにいるのは、私とさくら先輩のふたりだけ。

 おかげで、無事にデートを終えられた。

そして私は、名残惜しそうにしているさくら先輩を家に連れ込んだ。

 服も下着もぜんぶ脱がせて、一緒にシャワーを浴びる。浴室を出て軽くキスをしてから、さくら先輩をベッドに横たわらせた。

 ちなみに私たちのセックスでは、たいてい私がタチで、さくら先輩がネコ。

 最初の何回かはさくら先輩の好きにしてもらっていたのに、いつの間にか役割が入れかわっていた。人を攻めたてるのが苦手なさくら先輩らしい――昨日まではそう思っていたけど、たぶん原因は違うところにある。

 私がさくら先輩をいいようにしたいから、そうなったんだ。

 水族館で感じたあの高ぶりが、まだ胸の中に残っている。それをぶつけるように、さくら先輩の体を上から下まで撫でまわした。

 溶けていく、さくら先輩の表情。私にしがみついても、体の反応はおさまらない。しぶとく残った理性と冷静さが、次第に目減りしていくのがよく分かった。やがて普段のさくら先輩からは想像できない声が漏れ始める。

 そうして何もかもが終わって、ふたり並んでぐったりしていると、さくら先輩がぽつりと言った。


「真冬ちゃん、なんか今日、楽しそうだったね」


 息も絶え絶え、という感じだった。さくら先輩が「ちょっと、ストップ」と言っても、私がその声を無視し続けたせいだ。むしろ高ぶりが増して、よりいっそう、さくら先輩の弱いところを攻めるような触り方になっていった。やめてと懇願する唇をついばむのは最高に気持ち良かった。


「楽しかったですよ。年上の威厳がなくなっていくの、すごく興奮します」

「サディスト……」

「悔しかったら、今度はさくら先輩がいじめてくださいよ。期待してますから。前みたいにヘタレちゃダメですよ」


 煽ってみると、さくら先輩はそうなった自分を想像したのか、恥ずかしそうに体ごとあっちを向いてしまった。


「わたしだって、やろうと思えばできるもん」


 と、ぎりぎり聞こえるくらいの声で強がるあたりが、見た目に反したさくら先輩の子どもっぽさだ。

 その余裕のなさが、かわいいと感じる。


「真冬ちゃん……安住くんともこういうことしてるんだよね」


 背を向けたまま、なにを思ったのか、さくら先輩はそんなことを聞いてきた。ずっと確認したかったことを、顔が見えない今、思いきって聞いてみたのかもしれない。


「してますけど、いやですか?」

「いやだけど……平気だよ。だってお相子だもん」

「お相子?」

「わたしだって、家名くんがいるし。これで一対一」


 わりと筋の通った受け入れ方だった。倫理面を考慮しなければ。こういうのは自分の気持ちが大事だ。さくら先輩がそれでいいなら、私は全然構わない。

 本当は一対一なんかじゃないっていうのが、ちょっと問題だけど。

 さくら先輩にうしろから抱き着いて、私はそれをうやむやにすることにした。


     *


 感情に名前を付けてしまえば、さくら先輩をカテゴリーに分けられなかった理由は明白だった。

 いくつかの差異によってアルファベットが変わるカテゴリー。

 その全てに共通する要素がひとつだけある。

 私が、相手に本気で恋していないこと。

 そういう相手だから、カテゴリーという冷めた枠内に押し込められる。

 そういう相手じゃないから、さくら先輩をその中に入れようとしても、あっけなく弾き出されてしまう。

 恋という感情は、アルファベットという記号で表せないことを知った。

 その前提に立ったとき、ひとつの問題が浮上する。

 今いる恋人たちとの関係を、今後どうしていくのか。

 私はもう、さくら先輩からは離れられない。恋という感情が愛着であることも、私は知ってしまった。どうすればさくら先輩が手に入るのか、どうすればさくら先輩を自分の手の中に留めておけるのか、気づけばそんなことばかり考えている。

 一方で、他の恋人たちとの関係に思いをはせてみると、自分でも驚くほど愛着がなかった。恋とそれ以外はこんなにも差があるのかと笑ってしまったほどだった。

 なのに、誰の連絡先も消そうとは思わなかった。

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