第2章

「――先輩、起きてください。朝です」


 隣で寝ている人にかけた声は、寝起きとは思えないくらい明瞭だった。

 でも先輩は、


「うーん、あとちょっと」


 とか言ってぜんぜん起きてくれない。


「だめです。言ったじゃないですか。私、用事があるんです」


 誰かと寝るときはいつもこうだ。だいたい私のほうが先に目を覚ます。朝に強いってわけじゃないのに。むしろ弱い。ひとりだと平日は死にかけの顔で登校の準備をするし、休みの日は用事がなければ昼まで寝る。名前が真冬なのに極端な寒がりだから冬は最悪だ。

 こんな風に朝から頭がクリアになるのは、セックスをしたときだけ。

 去年の終わりから関係をもって以降、この人とも何度か夜をともにしている。

 人には言えない関係だ。だってふたりとも、他に正式な恋人がいる。つまり浮気。

 二人とも弁明の余地なく屑だけど、よりたちが悪いのは私のほう。

 そうと気づかせない面の皮の厚さで、芋虫みたいにもぞもぞする先輩の肩をゆすった。


「その動き、気持ち悪いですよ、家名先輩。さっさと起きてください」


     *


 恋人は、いくつかのカテゴリーに分けられる。

 性別や年齢といったはっきりした要素から、自分との関係性のように曖昧な要素までを総合すれば、指で数えられるほどのアルファベットだけで足りる。

 例えばカテゴリーB。三日前にデートしたリリーちゃんはこんな感じ。

 十六歳。女の子。私以外に本命の恋人がひとり。恋に恋するタイプで、私に彼氏がいることは気にしてない。ある程度遊んだら自然消滅する可能性大。

 要するに、同い年でわりとドライな関係にある女の子の恋人たちだ。誤差こそあれ、カテゴリーBの恋人たちはだいたい同じような範囲に収まっている。

 カテゴリーBとは対照的に、カテゴリーFの男の子たちは私と真剣に交際してくれている。そのうちのひとり、大輝(だいき)くん。十七歳。私以外の恋人はなし。私に他の彼女と彼氏がいることは知らない。情熱的な告白をしてくれたから付き合うことにした。ちなみに大輝というのは本名らしい。最初はお互い、SNSのハンドルネームで呼び合っていた。でも付き合うとなったときに本名を教えてくれて、私にもそうしてほしがっている。だから、近々別れる予定。つまりカテゴリーFは、むこうは本気のようだけど私としてはあまり乗り気じゃない、少し年上の男の子たち、ということになる。

 付き合う人が増えると、途中で誰が誰かこんがらがってくる。連絡がきて「どちらさまでしたっけ?」と返したり、真剣交際の体でいる相手にうっかり陽ちゃんの話をしたりするのはちょっと困る。分かってはいても、会う頻度が低い人は特にそうなりやすい。

 中学のときに、それで何度も修羅場になった。

 そこで試しに作ってみたのが、カテゴリー。

 アプリを使ってきちんと管理すると、余計なトラブルは避けられるようになった。


「用事って、デートだっけ?」


 そう聞く家名先輩は、カテゴリーC。


「分かってるなら早く帰ってください」

「そう急かさないでよ。でも霜月さんって神経太いよな。今から陽太とデートって、気まずくない?」

「べつに」

「やっぱり神経太いな」


 笑いながら、家名先輩はジーンズをはいた。身動きした拍子に、髪についた水滴が跳ねる。起きたあとシャワーに入って、ろくに乾かさなかったんだろう。

 少しムカッとする。私だって早くシャワーを浴びて、出かける準備をしたい。寒いし。でも毛布にくるまりながらでも急かさないと、家名先輩はいつまでも居座りそうだった。

 未だにグダグダやっている家名先輩を、「はーやーくー」とベッドを叩きながら煽り立てる。

 ほんと、そんな風にのろまだから、さくら先輩が振り向いてくれないんですよ。

 まあ実際には、二人がああなのは家名先輩がどうとかではないんだけど。

 いくら煽っても、家名先輩の動きはいまいち改善されなかった。もういいや、と諦めることにする。待っている間に風邪をひかないよう、さらに身を縮め、口のあたりまでを毛布に埋めて横になった。

 ぼうっとしていると、時間の感覚がぼやけてくる。過去と現在が夢のように溶け合っている。

 うとうとしていると、今日までのことがぼんやりと頭に浮かんできた。


     *


 さくら先輩は、家名先輩の彼女だ。

 家名先輩は、さくら先輩の彼氏だ。

 私はその両方と関係をもっている。もちろん二人はそれを知らない。自分だけが相手を裏切っていると思っている。

 私だけの秘めごと。

 私だって、こうなるとは想像もしていなかった。中学のころ痛い目をみたこともあって、同じ学校の人には手を出さないようにしていたし、そうじゃなくても、私から家名先輩に近づくことはなかっただろう。

 でもそれは、あくまでも「私からは」という話で。


 ――霜月さんに相談があってさ。


 さくら先輩と部屋で話した次の日に、家名先輩からそう呼び止められた。相談内容は、「さくらが塩すぎてつらい」だ。

 名前で呼んでくれない、手もつなげない、当然キスもさせてもらえない。

 とにかくものすごく距離を感じる。

 それはまあ、彼氏としてはじれったかっただろう。

 一方で、私はさくら先輩の事情も知っている。

 さくら先輩はレズビアンだ。女が好きな女。男は恋愛対象にならない。

 さくら先輩は、自分がレズビアンだと周囲に知られるのを恐れている。昔、カミングアウトした友達がいじめられたと言っていた。そのトラウマが原因で、カモフラージュの彼氏を作ることにしたらしい。

 私もバイだから、そういうのが厄介事を呼びかねないって気持ちは分かる。とはいえ、まさかそこまでとは思わなかった。自分があまり気にしない性格だからか、そもそも想像力が足りていないせいか、軽はずみにからかってしまったのは反省している。人に知られることが、さくら先輩にとってどれだけ重いことなのか、殺す気で首を絞められたらさすがに分かってしまった。

 だからさくら先輩は、家名先輩と本気で付き合っているわけじゃない。名前を呼ばれないのも、手をつなげないのも、キスできないのも、さくら先輩に避けられていたからだ。

 やや同情しながら、私は家名先輩の話を聞き流していた。さくら先輩との仲の良さを見込んで私に相談したんだろうけど、私が言えることは「がんばってください」しかない。相談相手を間違えている。

 神妙な顔で相槌をうちながら、退屈を紛らわせるために、さくら先輩のことを考えた。友達のことでトラウマを抱えている、かわいそうなさくらさくら先輩。その友達っていうのは、クリスマス会に来ていた人じゃないだろうか。さくら先輩と親し気に話していた、なのに遠目に見ても、やりとりに若干のぎこちなさを感じたあの人。

 実は気になって、さくら先輩と別れたタイミングで話しかけてみた。ふんわりした、かわいらしい人だったけど、小学生の頃なんかは目をつけられやすいタイプかもしれない。さくら先輩とはつい最近になって再会したらしく、ますます自分の勘が当たっている気がした。

 今度、当ててあげたらさくら先輩は驚くだろうか。そんな想像をしていたから、いつの間にか家名先輩の様子がおかしくなっていたことに気づかなかった。


 ――ありがとな、霜月さん。参考になったよ。

 ――霜月さんって優しいよな。ちゃんと話聞いてくれるし、こっちも話しやすいし。


 この辺りまでなら、まあ普通の反応ととれなくもない。でも翌日以降も、家名先輩は顔を合わせるたびに相談をもちかけてきて、


 ――あーあ、霜月さんが彼女だったらこんなに悩まなかったのになあ。

 ――あのさ、俺、話聞いてもらってるうちに霜月さんのことも……。


 たった数日で、ご覧のありさまになっていた。

 てきとうに相槌をうっていただけなのに、さくら先輩のほうががよっぽど塩だったんだろう。その程度で優しさを感じるほど、家名先輩は女に飢えていた。

 ふうんそうなるのか、と漠然と思いながら、私は家名先輩と寝た。カテゴリーC。むこうから関係を求めてきた、他に彼女がいる年上の男だ。

 私には、家名先輩を求める理由はなかった。でも断る理由もなかった。というか断れない。学校で自分から手を出さないだけ上出来で、誘われてしまったら、相手に生理的な嫌悪感がない限りつい服を脱いでしまう。私はセックスが好きだ。家名先輩はお世辞にも上手とはいえなかったけど、それでもまた誘われたら即了承してしまうくらい、大好きだ。何人もの恋人を作っているのも、できるだけたくさんセックスしたいからだった。中毒みたいになっている私に、いつでもどこでも付き合ってくれる人はいない。

 そうしてむかえたクリスマス会で、家名先輩は念願のキスをさくら先輩としたようだけど、今もまだ私と寝ている。さくら先輩と付き合い始めてからの半年で、よっぽど溜まっていたんだろう。キス程度じゃダメで、セックスくらいしないと解消できない欲求不満。でも、さくら先輩にセックスはできない。キスは耐えられても、セックスはハードルが高すぎる。家名先輩もそこは察しているのか、単にセックスしたいと言う勇気がないのか、溜まったものは私で吐き出している。私も黙ってそれを受け入れて、今に至る。

 ところで、家名先輩との馴れ初めを整理していたら、なんとなく違和感を覚えた。喉に小骨が刺さったようで、気持ち悪い。

 なんだろう、と首をかしげていると、ふと思い当たった。

 自分からは、同じ学校の人には手を出さない。高校生になってから、そのルールをずっと守ってきたはずだった。なのに私は、さくら先輩に手を出した。家名先輩と違って、明らかに自分から。全く自覚がないままに。まるで息をするように、そうしていた。

 思えば、あのころの私は少しおかしかった。私から言い寄る場合、いつもならあんな風に回りくどいことはしない。「付き合わない?」って言ってみて、「オーケー」と返ってきたら契約成立。「ノー」と返ってきたらそれまでだ。私にとって、恋人とはその程度の思い入れしかない相手で、みんな、恋の情熱とは程遠いカテゴリーの枠内で語れる存在だ。

 さくら先輩も、そのはずだった。

 さくら先輩のことは、元々「いいな」と思っていた。首を絞められたあの日、さくら先輩のことを深く知って、もっとそう思った。それ自体は、よくあることだ。セックスしていい相手と認識して、距離を詰め、関係をもち、カテゴリーに分ける。その四工程のうち、最後のひとつだけが、うまくいかなかった。

 あれ、と首をひねる。

 桐咲さくら先輩。十七歳。彼氏がひとりいて、前から私のことが好きだった。そういう特徴なら、カテゴリーFの範疇だ。なのにどうしてか、さくら先輩の名前をそこに記せなかった。

 こんなことは、今までなかったのに。

 胸の奥を探ると、奇妙な感情を発見した。それは、なぜか甘い感じがする。さくら先輩と最初にキスしたときと同じ味だった。


     *


 一月の真ん中は極寒だ。シャワーを浴びたあと、ばたばたと身支度を整えたおかげで火照っていた体も、外に出た瞬間に冷却されてしまった。手袋を忘れてしまったのが痛い。家名先輩がのろまなせいだ。おかげで約束の時間が迫っている。

 急いで準備したせいで、身だしなみが整っているか心配になった。歩きながら、鏡に写った自分を思い出す。今日はカジュアルにしよう。昨日家名先輩とセックスしながら、そう決めていた。白のもこもこニットに、黒のベルト付きスカート。アウターとしてダウンを羽織っているけど、短めのスカートだから普通に寒い。色々と考えた末に、髪型はいつも通りで。うん、大丈夫。たぶんいい感じだ。

 自己採点を終えて満足すると、ちょうど待ち合わせ場所についた。時間ぎりぎり。でもちゃんと間に合っている。 そして約束のお相手は、当然のように私より先にそこにいた。


 ――霜月さんって神経太いよな。今から陽太とデートって、気まずくない?


 帰る前に、家名先輩がそう言った。

 その指摘は間違っている。今日のデート相手は陽ちゃんじゃない。


「真冬ちゃん、こっちこっち」


 デートの相手が、嬉しそうに手を振っている。この日が人生で最上の瞬間だと思っていそうな笑顔がまぶしい。その子供っぽい表情と、普段の大人っぽい雰囲気とのギャップにも慣れてきた。


「さくら先輩」


 今日のデートの相手で、浮気相手。桐咲さくら先輩のもとへ、自分が誰と寝てきたのかおくびにも出さずに駆け寄った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る