【1章完結】5(後)

 その後すぐ、真冬ちゃんは救護スペースを出ていった。代わりに、美代が来てくれた。

 美代は、珍しいことにものすごく怒っていた。もちろん、わたしが約束を破って無理をしたせいだ。わたしは平謝りするしかなかった。

 美代のお説教が終わると睡魔に襲われて、少しだけ仮眠をとらせてもらうことにした。

 そして今、ようやく目が覚めたところだ。その時にはもう美代もいなくなっていて、養護の先生が戻ってきていた。

 時間を確かめると、十八時を少し過ぎている。

 すぐにでも仕事に戻らないと。

 イベント開始時に比べて落ち着いたとはいえ、猫の手さえ借りたい状況は相変わらずのはず。曲がりなりにもリーダーのわたしがいつまでも休んでいるわけにはいかない。

 近くにいた後輩に話しかけて、現状を把握する。それから、段階的に自分を全体の仕事に組み込んでいった。

 そうしている内に、小中学生を送り出す時間になった。齢一桁の子どもたちも多く参加していることから、彼らがここにいられるのはこの時間までと決まっていた。


「おねえちゃん、ばいばーい」


 と、無邪気な笑顔で挨拶をしてくれる子どもたち。かわいらしくて、よおしお姉ちゃんがおうちまで送ってあげちゃうぞ、と言いたくなってしまう。もちろんそんなわけにはいかないので、帰宅エリアごとに分けたグループ長にあとを任せるしかない。グループ長は全員中学生の子にお願いできたからきっと大丈夫だろう。

 手を振って、未来の後輩かもしれない子たちと別れると、閉会までの残り時間はわたしたちの時間だ。会場全体がすうっと薄暗くなる。

 入口では、わたしたちとは違う制服の生徒たちが受付に並んでいる。事前に招待した、他校の生徒たちだ。未来の後輩たちに向けてお行儀よく、という建前の失われたこの時間が無法地帯と化すのは想像に難くない。だったら学校の宣伝とか地域貢献とかは忘れて、できるだけ人を集めてバカ騒ぎしてしまおうということになった。

 制服の着用は、このバカ騒ぎにおける数少ない明文化されたルールだ。要するに、一応どこの生徒かだけは分かるようにしておこうということ。誰かが問題を起こして、それがどこの誰か分かりませんでは話にならない。

 そのルールさえ守れば参加はほとんどフリーパス。各校の生徒会や教員の紹介で来てくれた人もいるし、もっと気軽に友達の誘いで来てくれた人もいる。堅苦しくない楽しいイベントにするのが今回の趣旨だった。

 そして、わたしも誘った人が一人。いや、二人。


「あ、さくらちゃんだー」


 荒野にさえお花畑を咲かせそうな声に、大人っぽく演出したこの空間とちぐはぐな印象を受ける。幼いころから変わらない、わたしの友達の声。


「来てくれてありがと、由佳ちゃん」


 わたしを許して、もう一度繋がってくれた大切な友達の。

 その由佳ちゃんは、たったっとこちらに駆けてくると、ぴとっと体を寄せてきた。


「わっつめた。外寒いもんねえ」


 由佳ちゃんの体は冷気を纏っていて、会場内外の温度差を肌で感じた。


「そうなんだよー。だからあっためて?」


 そういえば、由佳ちゃんはスキンシップが多い子だった。嬉しいことがあると、こうやってすぐに手を繋いだり抱きついたりする。

 いじめによって、ほとんどなくなってしまった癖だ。それが今では躊躇いなくできるようになっている。由佳ちゃんは、本当にもう大丈夫なんだ。

 けれど、いつまでもこうしているのは少し気まずい。

 なぜならすぐそこに、見覚えのある長身の女の子が立っているからだ。


「わたしはいいんだけど、彼女さんは大丈夫?」


 切れ長の目が特徴的な、とてもかっこいい子だ。王子様タイプの女の子って感じがする。

 由佳ちゃんの彼女だと紹介された、あの時の子。

 その子は由佳ちゃんの首根っこを掴むと、


「よーしーかー」


 子どもを叱るような口調と共に、由佳ちゃんをわたしから引きはがした。


「はうっ」


 中々あざとい悲鳴だけれど、それさえ微笑ましく聞こえるのが由佳ちゃんだ。


「そうやってすぐ人に抱きつかないの。いつも言ってるじゃん」

「やきもち?」

「違う。普通に迷惑でしょ」


 眉をひそめてはいても、二人はとても仲がいいのだろう。息が合っている。運命の二人と言うのは大げさだろうか。けれど、それくらいお似合いに見える二人だった。言い合いをしている様子すらまぶしい。

 ちりっと何かが焦げる音を聞いた気がした。それはきっと現実に存在する音ではない。だから気づかないふりをしていれば、いずれは意識の外に逃げてくれるはずだ。


「もー佐奈ちゃん。やきもちやいてないで、ちゃんと挨拶してよ」

「だからやきもちじゃ……すみません、初対面でこんな。瀬川佐奈せがわさなです」


 きりがないと判断したのか、由佳ちゃんの彼女――佐奈ちゃんはそう自己紹介してくれた。


「桐咲さくらです。敬語じゃなくていいよ。名前で呼んでくれたら嬉しいな」

「じゃあ、それで。さくらさんは、あたしたちのこと知ってるんだよね?」

「うん。ていってもつい最近だけど」

「前にすれ違ったのが久しぶりの再会なんだっけ? ならせかしちゃったのは悪いことしたね」


 いや、あれは正直ありがたかった。何を話せばいいのか思いつかなかったし、そもそも由佳ちゃんに恨まれているかもしれなかったから。

 佐奈ちゃんは知らないのだろう。由佳ちゃんがいじめられていたこと、わたしが見て見ぬふりをしていたことを。知っていたら、こんな風に友好的な態度にはならないはずだ。

 だからわたしたちは気安く会話ができる。わたしが二人のなれそめを聞いて、由佳ちゃんが嬉しそうに教えてくれた。そして、佐奈ちゃんが恥ずかしそうに「やめてよ……」とそっぽを向く。

 そんな佐奈ちゃんを、由佳ちゃんは愛おしそうに見つめている。幸せそうだ。はじめての彼女と順風満帆ならそういう風にもなるだろう。

 誘って良かった。再会と仲直りのしるしにと思ったけれど、由佳ちゃんが仲直りしてくれたのは建前だったらどうしようと連絡するのに数日かかったことが思い出される。スマホを前に延々と迷っていた時間が報われた気がした。

 なのに、何かが焦げるような幻聴はいつまでも消えてくれなかった。


「それにしてもすごいね。うちの学校じゃこんなイベントできないよ」

「会長が由佳だからなあ……」

「なにそれー。副会長の佐奈ちゃんが能なしなんじゃないの?」


 ぷくっと頬を膨らませた由佳ちゃん。その膨らみを反映するみたいに、わたしの焦げ付きも広がっていく。

 止まって。止まって。お願いだから。

 そう念じても無為に終わる。そして、最後には焦げた匂いまで錯覚するようになり、わたしはもう認めるしかなくなった。

 二人が羨ましい。妬ましい。ずるい。腹立たしい。いちゃつくな。あっちに行け。見せつけるな。さっさと別れてしまえ。

 自分がこうなるのは予想できた。それでも誘った。自分の醜さを否定したくて。仲睦まじげな二人に会えば、きっとこの黒い感情は消えてなくなる。こんな感情を抱いてしまったのは何かの間違いだったのだ。そう思いたかった。

 その期待こそが間違いだった。二人と会って、わたしの中はどす黒く染まっている。甘ったるいくらいに由佳ちゃんの幸せが嬉しいはずなのに、それ以上に妬ましくてしかたがない。はりつけた薄っぺらい笑みの下では、そういう醜い感情が蠢いている。

 この感情はもうどこにも行ってくれない。そう悟ってからの二人との時間はずっと苦痛だった。一緒にいる時間が長くなるほど、自分の惨めさを自覚させられた。


「それじゃあお仕事がんばってね、さくらちゃん」


 由佳ちゃんがそう言って、二人と別れた瞬間はほっとした。

 ちゃんと取り繕えて良かった。まだ理性を保てるなら、わたしはまだ大丈夫だ。

 仕事に戻って、がむしゃらに動き回る。また倒れないよう気を付けつつも、余計な考えを振り払うのに必死だった。

 そうこうしている内に、余興のビンゴ大会が始まった。実行委員が壇上に上がり、MCで会場を盛り上げている。

 みんなが壇上に注目し始めたことで、ビンゴ要員以外はそこそこ暇になってしまった。休む暇もなく続いていた仕事がふいに途切れ、ほんの僅かの間、ぽつんと突っと立ってしまう。

 そんな時、後ろから呼びかけられた。


「さくら」


 振り返ると、すぐそこに家名くんがいた。サンタ姿から制服姿に戻っている。


「倒れたんだってな。大丈夫?」


 家名くんも心配してくれていたのだろう。仕事についても負担をかけてしまったはずだ。


「もう平気だよ。ごめんね、大変だったでしょ」

「いいよ。逆に、それまではさくらに負担かけすぎてたし。それより宮藤がめちゃくちゃ怖かった」

「うん、すごく怒られたよ」

「だろうな」


 ビンゴ大会を眺めながら、二人で雑談を続ける。その中で、ふとした拍子に由佳ちゃんたちのことが話題になった。三人で話していたのを、家名くんは遠くから見ていたらしい。


「仲良さそうだったな。友達?」

「うん、友達。幼なじみなんだ」


 今度はそう言えて良かった。嫉妬していても、わたしは由佳ちゃんを友達だと思えている。


「すごいかわいい子だったよな。アイドルかと思った」

「昔からそうなんだよね。ほんとお姫様って感じ」


 そこで、家名くんは急に黙ってしまった。


「家名くん?」

「さくらはさ、俺がこういうこと言っても何も思わないんだな」


 家名くんの思いつめた表情を見て、自分の失敗に気付く。ここでわたしは、他の女に目移りした彼氏を怒る彼女であらねばならなかったのに。

 また、やってしまった。


「さくらはさ、本当に俺が好きで付き合ってくれてるのか?」

「そりゃあ、そうだよ。なんでそんなこと言うの?」


 知っていることを、わたしはしらばっくれて聞いた。


「だって、さくらだけまだ苗字呼びじゃん。俺は名前で呼んでるのに。手もつなげないし、なんかずっと塩なんだよな……」


 家名くんはとても言いにくそうにしていた。だからこそ、ずっと溜めこんでいた本音なのだと分かってしまう。

 はじめての彼氏だから恥ずかしいんだよとか、清いお付き合いがわたしの理想なのとか、白々しい言い訳がいくつも頭に浮かんだ。以前ぎくしゃくしてしまった後、次にこういうことがあった時にリカバリーできるようにと考えていた、たくさんの言い訳。

 そのどれもを、わたしは何故か口にできなかった。家名くんを都合よく利用している罪悪感のせいかもしれない。もはや家名くんとの交際の意味を見失っているせいかもしれない。あるいは、由佳ちゃんの友情に嫉妬という仇で返した自分を、誰かに罵倒してほしいと思ったせいかもしれなかった。

 けれど家名くんは、


「ちょっと来て」


 そう言って、わたしの手を引くだけだった。

 はじめてまともに手を繋いだ。硬い、大きい、怖い――気持ち悪い。

 拒絶できず、わたしは会場の外へ連れ出された。

 会場の、体育館の裏側。そこに他の人影はなく、会場の盛り上がりが外壁を通して聞こえるだけ。覗き見でもしない限り、わたしたちが何を話していても、何をしていても誰にも分からない。

 振り向いた家名くんは、落ち着きなく視線を彷徨わせている。らしくない強引さに自分でも戸惑っているのだろう。


「俺は、さくらのことが好きだ。だから告白したんだし……。それで、その、そういうわけだから……恋人らしいことも、したいと思ってる。さくらは、どうなんだ?」


 そんなの決まっている。したくない。絶対いやだ。だって、手を繋いだだけであんなにも耐え難かったのに。


「わたしは――」


 もう言ってしまおう。ごめんなさい。あなたのことは友達としては好きだけど、そういう相手としては見られませんって。だってこんなことは意味がない。わたしはみじめになるし、家名くんだって傷つけてしまうだけだ。本音を言っても傷つけることは変わらないけれど、今ならまだ引き返せる。

 だから、


「わたしも、家名くんと一緒だよ」


 そんな馬鹿なことを口走っている自分が、心の底から理解できなかった。


「不安にさせちゃってごめんね。家名くんが、俊哉しゅんやくんがはじめての彼氏だから、何をしたらいいかよく分からなくて。でも気持ちはちゃんと一緒だよ」


 さっきは言えなかった嘘くさい言い訳がするすると出てくる。ぞっとするくらい淀みなく聞こえる言葉だった。構ってもらえなくて拗ねた弟をなだめる、とても優しいお姉ちゃんのような。

 おい、何をしてるんだ、わたし。

 自分で自分に激怒する。同時に、悟った。

 わたしは、いつまで経っても小賢しい臆病者のままなんだ。


「なら、キスしていいか?」


 意を決したような表情で、家名くんが言った。

 わたしはただ、こくりと頷く。

 目を閉じたあとの時間は異様に長く感じた。いっそこのまま時間が止まってくれたらと思うくらいに。

 現実には時間は等しく進む。自分の唇に男性のかさついたそれが押しつけられる時間も、唇同士が重なって静止した時間も、お互いの体がちゃんと離れるまでの時間も、全て等しく。

 家名くんの顔は真っ赤になっていた。念願かなって彼女とはじめてキスをしたのだから無理もない。本当はもっと早くにこうしたかっただろうに、よく今日まで耐えていたものだ。


「……俺、いくよ。二人ともずっと抜けてるのは、具合悪いだろうし」


 それだけ言って、家名くんは小走りで戻っていく。

 キスを希望したところで、振り絞った勇気が枯れ果ててしまったのだろうか。けれどその背中はどこか生き生きとしているように見えた。

 そして、わたしはといえば。

 笑顔で家名くんを見送り、その姿が視界から消えたのを確認して


「えぷっ」


 喉から漏れた奇妙な音とともに、胃の中身を盛大に吐き出していた。

 おおえっと、ベトベトしたものが滝のように地面に落ちた後も、げえげえげえげえ舌を伝って残りかすが滴る。最初、咄嗟に口を手で覆ったのが災いして、制服にも少し吐瀉物がついてしまった。

 この後は閉会の挨拶もあるのにどうしよう……と思った瞬間にまた吐いた。今度はほとんど液体みたいだった。

 気持ち悪くて、思わず地面に膝をついてしまう。

 そう、気持ち悪かった。本当に気持ち悪かった。想像をはるかに超える嫌悪感。自分の中に眠るアレルギーの反応を全部まとめて引き起こされたみたい。

 わたしも戻らないと。分かっていても体が言うことを聞いてくれない。元々の体調不良も重なって、顔を上げる気力さえ底をついていた。


「あーあ。こんなになっちゃって」


 憐れむような、小さなつぶやき。顔を見なくても、それが誰か声で分かった。


「真冬ちゃん……」

「さくら先輩は臆病なんですよね。臆病だから、どんなに馬鹿なことだって分かっていても、自分が傷つくことばっかりしちゃうんです」


 どこからか見ていたのだろうか。戻ってきた家名くんの様子から事態を察したのだろうか。どうしてわたしがこんな有様になったか、真冬ちゃんは分かっているようだった。


「死にたい……」


 自然と零れた情けない声のせいで、もっとみじめな気分になった。普通に生きていたかったはずなのに、そのためにしてきたことのせいで、もう楽になりたいと願ってしまう。死んだら、わたしはどうなるのだろうか。少しでも息がしやすい場所に行けたら嬉しい。けれど現実はまだ死ねなくて、ただただ苦しかった。


「死んでみますか?」


 そう言って、真冬ちゃんはしゃがんだ。目線を合わせて、手を伸ばしてくる。

 冷たい手が、首に触れる。

 そして、ぎゅっと力がこめられた。

 真冬ちゃんらしい、弱々しい力だった。こんなのじゃ死ねない。けれど、そのことになぜか安心していた。


「私なら」


 首を絞めながら、真冬ちゃんは囁く。


「私しか、さくら先輩の彼女にはなれませんよ。いやなこと全部、私で発散しましょう? 私は、さくら先輩を受け入れられますから」


 あ、と思った。ひび割れていく。わたしの心が、黒い気持ちを溜めていた殻が、ぱきぱきと音を立てて。

 真冬ちゃんが、そっと首から手を離す。

 ひゅっと息を吸い込んだ瞬間、真冬ちゃんの両手が、わたしの吐瀉物にまみれた右手を包んだ。


「きたっ、きたないよ……」

「そういうのも全部、受け入れてあげます」


 やめて。

 ダメ。

 そんなこと言わないで。

 だって、そんなの。

 そんなこと言われたら。


「うぁ……」


 決壊する。


「うあ、うあぁぁ、もっうやだぁぁ」


 気づけば、わたしは真冬ちゃんの胸の中にいた。わめいていると言っていい。この瞬間のわたしは子どもにすら満たない幼稚な存在。言葉を覚える前の、泣くことでしか意思表示ができない赤ちゃんのよう。みっともない。恥ずかしい。お前なんて本当に死んでしまえという気分になる。

 それでも止められない。粉々になった心の殻は、もう元には戻らない。

 真冬ちゃんが受け入れると言ったから。受け入れるなんて、言ってしまったから。

 その真冬ちゃんは、わたしの背中を優しく撫でてくれている。その手も今やべとべとのはずだけど、自分の吐瀉物のせいだ、何を気にすることもない。だいたい、わたしだって吐瀉物まみれのままだ。

 お相子だった。

 わたしたちの関係も、これからお相子になっていくのだろうか。

 わたしは真冬ちゃんから多くをもらえる。彼女ができる、癒してもらえる。たぶんほかにも、たくさん。

 じゃあ真冬ちゃんは、わたしから何を得られるの?


 ――わたしなら、さくら先輩の望みを叶えられます。誰にも明かせない、どこまで行っても彼氏の二番手でしかない浮気相手。


 以前そう言った真冬ちゃん。

 そんな関係で、真冬ちゃんは何が得られるのだろう。

 真冬ちゃんの頬に触れて、そっとキスをする。また汚してしまったけれど、拒絶はされなかった。むしろ積極的に受け入れてくれている。言葉の通りに。だから安心して、わたしは真冬ちゃんと舌を絡ませ合えた。家名くんとはここまでしなかったから、はじめての経験だ。想像していた通りのことと、想像とは違ったこと。その全部が怖くて、気持ちよかった。なんだか舌が二枚になった感じがしたけれど、真冬ちゃんと溶け合ったみたいでなんとなく嬉しい。キスがこんなにも幸せな気持ちを生むなんて。たかが粘膜同士の接触が、とてつもない価値をもっていることを知った。

 いつまでもそうしてはいられないから、キスした時のようにそっと体を離す。名残惜しい。もっとキスしていたい。真冬ちゃんと重なっていたい。

 そう思った時点で、たぶんわたしの返事は決まっている。


「まだイベント終わってないですけど、せっかくなので返事、聞かせてもらえますか?」


 体だけでなく心も重なったように、真冬ちゃんがそう言った。


     *


 イベントの片付けもそこそこに解散となった後。

 灯りを消した、真冬ちゃんの部屋。一人暮らしだから、その中にいるのはわたしと真冬ちゃんだけだ。暗がりの中、一糸まとわぬ女が二人。

 真冬ちゃんを殺そうとした時の光景が思い出される。あの時とほとんど同じ体勢。違うのは服の有無と、わたしたちの関係に邪なものが混ざっていること。

 女の子の体だ。

 ずっと求めていたもの。

 ずっと触れたかったもの。

 この体に触れられるなら無敵になれる気がした。

 どんなに辛いことがあっても、真冬ちゃんが慰めてくれる。ダメなわたしのままでいさせてくれる。いつだって都合のいい女の子でいてくれる。

 明日は、家名くんとデートすることになっている。街へと繰り出して、最後にはきっと恋人らしいことをするのだろう。だってそれがクリスマスイブだ。

 どの程度のらしさであれ、また吐きそうになるに違いない。なんでこんなことをしているのか、後悔と自己嫌悪に陥ることになる。

 けれど大丈夫。全部が終わったら、またここに来ていいと真冬ちゃんは約束してくれた。

 真冬ちゃんの胸の中で泣けば、何もかもが清らかになる気がする。

 生徒会室でキスされた瞬間に、ぼんやりと感じたあの感覚。

 短い時間だったから、錯覚かもしれないと思っていた。

 けれど、体育館裏でのキスが、あの感覚は本物だと教えてくれる。

 我慢して摂取し続けた毒が溢れ、吐瀉物の海と化し、わたしはその中に沈んで窒息するはずだった。先送りし続けた死がようやく訪れる予感。そのまま人形のように状況を受け入れることが、わたしに残された、唯一人間として生き、死ねる道だった。

 そうではなかった。吐瀉物の海に、わたしを追って飛び込んでくれた女の子がいた。

 わたしには、その子が救済をもたらす神様に見えた。

 神様と、唇を触れ合わせる。そうしたら、汚らしかった吐瀉物の海が、真水のように透き通っていく。綺麗だった。別の意味で、死後の世界に来てしまったのかと思うほどに。

 けれど、わたしはまだ生きている。

 だって、こんなにも呼吸が楽だ。

 真冬ちゃん。霜月真冬ちゃん。

 この子がいてくれるなら、ここは永遠の楽園だと思える。いつまでも、沈んでいたい。

 わたしの、誰にも言えない恋人。

 この不実な関係に溺れていれば、わたしは息をし続けることができるだろう。

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