3(後)

 時間の流れに接していると、世界は自分を中心に回っているのではと錯覚することがある。早く終われと思う時ほど時間の流れは遅く、時間よ止まれと思う時ほどいやな瞬間は迅速にやってくるのだ。

 あっという間に放課後になった。もうすぐ真冬ちゃんに返事をしないといけない。

 朝からの時間は、真冬ちゃんにとってどんな時間だっただろうか。わたしを中心に世界が回っているなんて無論妄言でしかなく、真冬ちゃんには真冬ちゃんの時間が流れている。それは果たして速かったのか、遅かったのか。ひいては、真冬ちゃんはわたしの返事をどんな気持ちで待っているのか。

 どう返事をすればいいかも見えていないのに、楽しみにしてくれていたらいいな、と思う自分がいる。白状しよう。彼氏がいる身で、わたしはこの出来事に浮足立っている。不誠実にしかなりようがない、恋愛の真似事未満の何かでも、好きな女の子との何かが始まる可能性に期待もしている。


「あ、ちょっと、さくら先輩」


 肩を掴まれて、ぴたりと立ち止まった。ついで、状況を理解する。

 いつの間にか、待ち合わせ場所の校門についていた。


「まさかの素通り? なんで?」


 見れば、肩を掴んだまま真冬ちゃんがびっくりしている。


「ごめん。考え事しながら歩いてた」


 嘘ではない。わたしの悪い癖で、つい思考に没頭してしまう。それで道の障害物に激突したり、ひどい時には体調が悪くなるまで考え続けたり。さすがに小学校を卒業するまでには学習して、普段はそうならないよう気を付けているのだけど……今回は久しぶりにやってしまった。


「危ないですよ」

「ごめんなさい。気を付けます」


 そこでようやく、わたしはもう一人の存在に気付いた。


「え、安住くん?」

「どもです」


 真冬ちゃんの彼氏、安住陽太くんは、首だけ動かして会釈した。

 安住くんの存在に、今度はわたしが面食らう番だった。

 何考えてるの、真冬ちゃん。

 これから話すことは、明らかに安住くんに聞かれていい内容ではない。だというのに、なぜのほほんと二人で一緒にいるのだろう。


「あー、すみません。俺はこいつの暇つぶしに付き合ってただけなんで、すぐに退散しますよ」


 わたしの困惑がどのように伝わったのか、安住くんはそんな風に気を遣った。チャラい風体だけど、案外気遣い上手だったりするのがこの男の子だ。

 一方わたしは


「そう……」


 としか返せない。他に何が言えるだろう。後輩に気を遣わせてすることが、よりによってその子の彼女との不貞に関する相談だなんて。言い繕う言葉さえ出てこない。

 安住くんはきっと、わたしたちのことを女友達程度にしか捉えていない。これから喫茶店でガールズトークでもすると思われているのだろう。先輩として、人として、あまりにも申し訳がなかった。

 けれど、真冬ちゃんはどこ吹く風だった。


「ありがと、陽ちゃん。おかげであったまった。もう帰っていいよ」


 あまりにもぞんざいな物言いだった。

 それでも安住くんは淡々と


「感謝の気持ちが微塵も感じられねえな。いいけど。それじゃあ桐咲会長、俺はこれで」


 とだけ言って、本当にすたすた帰ってしまった。


「真冬ちゃん……」


 安住くんの背中が小さくなってから、わたしはできるだけ湿った視線を真冬ちゃんに向けた。


「なんですか?」

「……なんでもない」


 とりあえず言葉を飲み込むことにした。真冬ちゃんの瞳には一切の悪気はなく、恋人同士とはこんなものかと思い直す。

 代わりに別のことを聞いた。


「でも暇つぶしって? そんなに待たせちゃった?」


 ホームルームが終わってすぐに出てきたのだけど。


「そんなに待ってないですよ。陽ちゃんも言葉選びがへたですね。暇つぶしっていうより、寒さ対策です」

「寒さ対策?」

「私って寒がりじゃないですか」


 その通りだ。冬はもちろん、夏も苦労していたのを知っている。冷房が効いた生徒会室で、一人だけ「さむい、さむい」と言って夏用の防寒着を着込んでいた。


「それで指相撲です。すぐ終わるし、手だけじゃなくて、全力でやれば体中あったまるし。一石三鳥」


 なるほど。その最中、わたしが二人の横を素通りしたのだろう。右手だけ手袋をしていないのはそれでか。指相撲の効果もむなしく、すでにぷるぷる震え始めている。小さな手だ。指も細い。それは力も弱いだろう。昨日だって、真冬ちゃんの抵抗はあってないようなものだった。そんな女の子に、わたしはなんてことを。もう謝らないという約束を破ってしまいそうだ。


「それじゃあ行きましょうか」


 真冬ちゃんはそう言って、右手を手袋にしまい、ゆっくりと歩き出した。

 あ、と思う。もう少し、真冬ちゃんのかわいい手を見ていたかった。

 真冬ちゃんの手に触れたい。そういう気持ちが、全身を巡っている。


     *


「結構広いんだね」


 部屋に入って、最初の感想がそれだった。


「実家がお金持ちなんです」


 誇るでもなく、真冬ちゃんはただ事実だけを言った。


「親はもっと広いとこ探してきたんですよ。さすがに持て余すので、自分で探したここにしましたけど。セキュリティはどうなんだって、うるさかったですね」

「真冬ちゃんが心配なんだよ」

「娘の一人暮らしだから分かりますけど。でも心配と過保護は違いますから」


 一人暮らし。

 自由な校風に惹かれた生徒が多い浅葱ヶ丘高校では、それほど珍しくないケースだ。

 珍しいのは、この部屋のグレードだった。ワンルームながらも広々としていて、とても綺麗だ。ご両親が心配したセキュリティも、見た限りでは万全に見える。身も蓋もない言い方をすれば、きっとお高いのだろう。本当はもっとすごい部屋が検討されていたと聞いて、真冬ちゃんに捧げられている愛の大きさを知った。

 ベッドのそばにリュックを置かせてもらい、コートは真冬ちゃんのと一緒にハンガーラックにかけてもらう。


「座っててください」


 というお言葉に甘えて、ベッドに浅く腰かけた。

 暖房をつけた真冬ちゃんは、そのままキッチンに向かった。どうやらお茶を用意してくれるようだ。

 待っている時間が、だんだんと気分を弛緩させる。一方で、なぜか体はかちこちに緊張している。なぜか。いや、嘘はやめよう。緊張している理由はただ一つ。女の子の部屋に足を踏み入れたことに、わたしの心臓は高鳴っている。

 本当なら、今さら同性の部屋に緊張なんかしない。友達の部屋に遊びに行くこともある。けれど好きな子の、はじめて入る部屋はわけが違った。広いけれど一般的な造りではあるその部屋が、真冬ちゃんの部屋だというだけで、宗教的な聖域か何かに見えてきた。こんなことなら、もっと前から遊びに来て慣れておけば良かった。溜まり場になるのがいやだからと言って、真冬ちゃんは誰も部屋に入れようとしなかったけれど。

 その聖域に入れてもらえた。人に話を聞かれない場所……ということで、消去法的に入れてもらったにすぎないけれど、嬉しいものは嬉しい。 

 真冬ちゃんらしい部屋だった。炬燵とホットカーペットがあるのはもちろん、ドアや窓をはじめとしてあちこちに断熱処理が施されている。寒さ対策に余念がない。ここで真冬ちゃんが寝てるのかあ、と漠然と思う。掛け布団の中に潜り込みそうになる自分に気付いて、鋼の意思で煩悩を魂から放逐した。


「お待たせです」


 しばし待つと、炬燵の上にマグカップが二つ置かれた。その隣に、お菓子を詰め合わせた袋も。その辺りのスーパーで売ってそうなもので、こういう所は庶民っぽい。

 真冬ちゃんは早速お菓子をばくぱくしながら、わたしの隣にぽすっと腰かけた。かわいい女の子は座る時の効果音もかわいい。「食べないんですか?」という眼差しを受けて、わたしも申し訳程度にひとつだけもらうことにした。

 わたしがその一つを、真冬ちゃんが三つめを食べ終えたあたりで、わたしたちの会話が始まる。


「いい、真冬ちゃん。お返事の前に聞きたいことがあります」


 なんとなく敬語で切り出した。前置きの雑談くらい入れるべきだっただろうか。そうすると、いつまでも引き延ばしてしまいそうだ。

 果てしなく緊張するわたしとは対照的に、真冬ちゃんはリラックスした様子だ。


「聞きたいこと?」

「まず根本的なことからなんだけど、真冬ちゃんはわたしに、浮気の提案をしてるって解釈してもいいの?」


 走り出したからにはもう止まれない。だったらと、思い切って核心をついた。

 そして真冬ちゃんも、変にはぐらかすつもりはないらしい。


「そうですよ。他に何があるんですか?」


 真冬ちゃんは曇りなき眼でそう言い切った。


「お互いの彼氏と別れて、清いお付き合いをしようってわけじゃないんだね?」


 そういうパターンもありえると、ここに来るまでは考えていた。実際に真意を聞かされてなお、わたしは真冬ちゃんが浮気を持ちかけてきたことを信じられない。


「はい。私は陽ちゃんと別れる気はないですし、さくら先輩も家名先輩と別れなくていいですよ」

「真冬ちゃんはそれでいいの?」


 わたしの疑問に、真冬ちゃんは首をかしげた。


「というと?」

「安住くんに悪いとか、ないのかな」


 浮気とは、交際相手に大なり小なり罪悪感を覚えるものではないだろうか。その浮気が、自分から持ちかけたものである場合は特に。

 けれど、真冬ちゃんの瞳は相変わらず曇らなかった。


「確かにさくら先輩からはそう見えるかもしれませんね。では、ここでとっておきの新情報をお教えします。陽ちゃん、実は三股してるんですよ」


 わたしの目は点になった。


「三股? ええっと、真冬ちゃんが安住くんに浮気されてるってこと?」

「ですです。私が把握してるのはそれだけですけど、唾つけてる子はもっといると思いますね」

「そうなんだ……」


 反応に困る。

 三股、三股……。にわかには信じがたい情報だけど、冗談で言っているようには見えない。


「真冬ちゃんはそれでいいの?」


 さっきと同じ質問を、今度は全然違う意味で投げかけた。浮気されているにしては、真冬ちゃんの態度があまりにも平然としすぎている。普通はもっと、怒るとか悲しむとかあるのではないだろうか。


「付き合ってるっていっても、私たちのはファッションなので」

「ファッション?」

「ありていに言えばセフレ……じゃなくて、薄っすら付き合ってるだけで、べつに本気ではないって感じなんです」


 セフレ? 今セフレって言った? 

 セックスフレンド? なるほど。なる、ほど。納得していいのかどうか分からない。

 同時に、真冬ちゃん、安住くんとそういうことするのかあ、とショックも受けた。それはそうか。薄っすらでも付き合っているのだから。


「だから私的には、さくら先輩が私とだけ付き合ってくれるなら、まあ陽ちゃんと別れてもいいかなーと思うんですけど……それは無理なんですもんね?」


 その通りだった。それができたら、最初から家名くんと付き合ったりしない。


「悪くない提案だと思うんですよね」


 空気を入れ換えるように、真冬ちゃんは言った。


「悪くない……」

「さくら先輩は、なんでここに来ちゃったんですか?」


 そこを突かれると痛い。「考えさせてください」と言った自分を叱責した朝が思い出された。


「さくら先輩は、女の子が好きなことを周りに知られたくない。でも、好きな女の子と付き合いたいって気持ちはありますよね? で、好きな女の子って私ですよね。だから揺らいじゃった。すぐに断れなかった」


 ……図星だった。わたしは平穏な日常が惜しい。具体的には、いじめられたり白い目で見られたりしたくない。今なら、生徒会長としての楽しい毎日を守りたい。だから家名くんと付き合っている。けれど、好きな人と付き合いたいという気持ちだって、それと同じくらいにはある。平穏と好きな人を天秤にかけて、もし釣り合いがとれるなら両方自分のものにしたい。

 なおも逡巡するわたしに、真冬ちゃんは一息に告げた。


「わたしなら、さくら先輩の望みを叶えられます。誰にも言えない、どこまで行っても彼氏の二番手でしかない浮気相手。私はそれで構いません。さくら先輩が女の子と付き合おうと思ったら、そういう都合のいい女に手を出すしかないんです」


 都合のいい女。その表現に拒否感を覚えたのに否定はできなかった。彼女は欲しいけど彼女がいるのは隠したい、というのはそういうことだ。


「真冬ちゃんは、そこまでしてわたしと付き合いたいの?」


 言葉にすると、ずいぶん傲慢な問いだ。それでも聞く必要があった。自分の彼氏に、真冬ちゃんが果たすべき義理がないのは分かった。告白を受けることでわたしが得られるメリットも。けれど、真冬ちゃんにとってのメリットだけがまだ語られていない。安住くんはともかくもし家名くんに事が露見し、周囲にバレたら、わたしも真冬ちゃんも評判が地に堕ちる。それでも、真冬ちゃんはわたしと付き合うと言うのだろうか。

 真冬ちゃんの答えは早かった。行動もまた。


「だってさくら先輩、かわいいし」


 真冬ちゃんがそう言った直後、わたしの上半身がベッドに沈んだ。見えるはずの天井の灯りは隠れ、影を帯びた真冬ちゃんの顔で視界が埋まった。

 昨日とは逆の位置。けれど、肩を抑える力は変わらず弱く、抵抗は容易い。容易いのに、力がうまく入らなかった。


「いいなって思ったんです。理由なんかそれだけです。ねえ、頷いてくれたら、この続きができるんですよ?」

「……でも、浮気は」

「ちょっと揺れましたね?」


 沈黙するしかなかった。それが答えになってしまった。

 頷けば、この続きができる。真冬ちゃんと安住くんがしているようなこと。それを女同士で。

 言い訳のしようもなく、わたしは揺れている。

 どうせバレない。女同士の交際なんて、世間にとっては「ありえない」のだから。

 それでも、首を縦に振ることはできなかった。横に振ることもできなかった。好きな子と付き合いたいという欲求と、浮気はダメという理性によって、真っ二つに引き裂かれそうになる。


「決められませんか?」


 改めて問われても、わたしは答えを出せなかった。はいも、いいえも、その一言さえ口にすることができない。


「なら、私が決めてあげます」


 真冬ちゃんの冷たい手が、わたしの頬にあてがわれる。ついで、ゆっくりと顔が下りてくる。ただでさえ近かった距離がゼロに迫る。

 吐息を感じた。命を感じた。女の子を、感じた。

 そしてわたしは、人形のように状況を受け入れていた。

 選択も決断も真冬ちゃんに委ねて、責任を負うことなく、心が本当に欲している方向に連れて行ってもらおうとする。もうこれでいい。理性で踏みとどまるには、この欲求は大きすぎる。ちっぽけな理性の悪あがきを、凍り付かせてくれるなら。

 けれど途中で、真冬ちゃんの唇は動きを止めた。残りの距離は紙一枚分くらい。ぴたりと静止した真冬ちゃんが、その先に進むことはなかった。僅かな間を置いて、真冬ちゃんの顔が徐々に離れていく。


「冗談です」


 放心するわたしに、真冬ちゃんが言った。


「最後は、ちゃんと自分で決めてくださいね」

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