3(前)
カーテンの隙間から差し込む朝陽で、いつもより少し早く目が覚めた。
ベッドから出て二秒後にはもう眠い。学校行きたくないなぁ、という憂鬱で溜息がでる。一般生徒ならしれっとサボるところだけど、悲しきかなわたしは品行方正な生徒会長。他の模範となるべき存在だ。風邪をこじらせたことにする手は今年何回か使ってしまったし、今日も寒さに震えながら登校するしかない。
そうしたら、昨日の出来事から目を逸らせなくなる。
――さくら先輩、私と付き合ってください。
耳元で囁かれた甘い声が、砂糖のように脳内にこびりついて離れない。ぞくりとする声音が反響を繰り返し、思考をべとべとに絡めとろうとしてくる。
「真冬ちゃんも、女の子が、好き」
声に出しみても、まだ夢の中にいるみたいだ。けれど紛れもない現実だった。真冬ちゃんが悪ふざけをしたこと、だからわたしが真冬ちゃんを殺そうとしたこと、その後はちゃんと仲直りができたこと。それらが現実であるように、最後に真冬ちゃんがそう告白したことも夢ではなかった。
最初は、また悪ふざけなのかと思った。ほとんど同時に、そうではないと確信した。なんといっても、互いを信じるためのハグを交わしたばかりなのだから。
真冬ちゃんは本当に、わたしと同じなんだ。
とはいえ、違う所もある。
真冬ちゃんは、女も男も恋愛対象になるらしい。両性愛者。女だけのわたしとは違う、けれど確かに女が好きな女の人。
わたしと違って彼氏がいる理由はまっとうだ。けれど、そうなると別の疑問が浮上する。
すでに恋人がいるのに、どうしてわたしに交際を申し込むのか。
世間ではそれを、浮気とか不倫とか不貞とか呼ぶのではないだろうか。
浮気は社会通念上よろしくないこととされている。私もそう思う。誠実ではない。カモフラージュで家名くんと交際中のわたしが誠実を説く滑稽さを横に置けば、まっとうな提案とは言いがたい。
そんな疑問を、昨日のわたしは真冬ちゃんに投げかけることができなかった。それどころか、またしても突拍子もない行動に放心し、「……考えさせてください」とぽつりと漏らしただけだった。つい反射的に口走ってしまった。なぜ検討してしまっているのか。この時点でわたしの誠実さも消え失せている。元よりありはしないけれど。
真冬ちゃんは真冬ちゃんで、それだけ聞いてさっさと帰ってしまった。「ちゃんと考えてくださいね」という言葉を、いい感じの笑顔と共に残して。参加表明をしていた手前、少しだけカラオケに顔を出すつもりらしかった。
キスしてきた時もそうだったけれど、やり逃げ言い逃げは真冬ちゃんの常套手段なのかもしれない。意図なり真意なりをもうちょっと説明してほしかった。もしや、真冬ちゃんは言葉が足りないタイプの人なのだろうか。
昨日から宙ぶらりんの状態で、もやもやする。
ぐるぐる考えていると、登校の時間が迫ってきた。現実逃避をするように緩慢な動作で支度をする。諸々のケアを終えて制服に着替えたら、残りは髪型を整えるだけ。鏡を見ながら、ほんのり亜麻色に染めた長い髪を整えていく。
髪の色を変えたのは高校生になってからだ。みんなと同じように振舞いながらも、本当のわたしはこうなんだと主張したかったのかもしれない。
本当のわたしは、何を望んでいるのだろう。
浮気しましょうと、真冬ちゃんにはっきり言われたら、わたしはどうするのだろう。
*
「おはよう、さくら」
学校の最寄り駅で改札から出ると、すぐに家名くんが声をかけてきた。
「おはよう、家名くん。待たせちゃったね」
「数分だし、大丈夫」
当たり障りない会話を経て、わたしたちは並んで歩きだす。このルーチンにも慣れてきた。お互い逆方向で今回みたいに電車が遅れることもあるのに、わざわざ学校まで徒歩数分のために待ち合わせる必要があるのだろうか……という疑問が表情に出ることもない。
「こういう時は先に行ってくれていいのに」
「何十分も遅れるとかだったらさすがにね。これくらいなら待つよ。さくらと学校行くのは楽しいから。すぐ着いちゃうけど」
そう言って家名くんは恥ずかしそうに俯いた。マフラーに顔を埋めたものだから、トレードマークの眼鏡が少し曇っている。
付き合ってから、家名くんはこういう歯の浮く言葉をたまに口にするようになった。普段しないことをするから毎回歯切れは良くない。今回は頑張ったほうだと思う。
わたしでなければ、これで恋が燃え上がったりするのだろうか。わたしは特に何の感慨も湧かない。つくづく甲斐のないない彼女だ。
家名くんは、この関係にもどかしさを感じているに違いない。交際開始から半年以上、わたしたちの間に未だに大した進展が見られないからだ。実は手を繋いだこともない。そういう恋人らしいこと全て、わたしがさり気なく避けている。
男の人との身体的な接触にはやはり抵抗がある。簡単なものなら嫌悪感を抱くほどではないけれど、濃いものは結構きつい。そういう機会があるたびに、わたしが愛せるのは女の子だけなのだと実感する。
だからわたしは、恋人らしい会話を終わらせるために、極めて事務的な話題を振った。
「クリスマス会、もうすぐだね」
クリスマスといえばとても恋人っぽいイベントのように聞こえる。けれどそれは、生徒会役員であるわたしたちにとって別の意味を持っている。
「準備万端、のつもりだけど、こればっかりは実際やってみないことにはなあ。中学生と高学年の子はともかく、低学年の子たちがどう動くか全然想像つかない」
「お菓子でコントロールするにも限界があるもんね。そこは家名くんのコスプレチームに期待かな」
「あれ、本当にやりたくない。今からでも他のやつに丸投げできないかな」
「だめだよ。せっかく似合ってたのに。がんばってね」
「……善処するよ。体育館の温度調整はうまくいきそう?」
「ばっちり。先週実験も済ませたし、凍えながらパーティせずに済むと思うよ」
わたしたちの会話に、聖夜について語るに相応しい洒落っ気はない。それもそのはずで、わたしたちが話し合っているのは、あくまで学校行事としてのクリスマス会についてだ。
高校生にもなって学校行事でクリスマス会とは、ずいぶん子どもっぽく感じる。実際、去年までそんな行事はなかった。今年になって突然新しい行事ができたのは、ひとえに生徒からの要望があったから。
わたしたちが通う浅葱ヶ丘高等学校は、全国的に見てもかなりフリーダムな校風で知られている。校則は一応存在している程度。制服の着こなしは多様で、髪型もそれぞれ好きなようにしている。わたしが髪を染められたのも、そのおかげだ。高偏差値の学校だからこそ認められるその緩さは、受験生からも人気がある。
そういう学校だからか、生徒会の運営も活発かつ自由に行われている。これをやりたいあれをやりたいという生徒の要望はわりとあっさり通り、生徒会事務局も嬉々として実現へと動き出す。その一つがクリスマス会というわけだった。
もちろん何もかも自由にできるわけではない。いつ、どこで、なぜ、どのように。イベント実現の諸条件を満たす企画を立て、学校側に認めさせなければいけない。
今回は地域貢献と学校の広報が肝だった。近隣の小中学校に声をかけ、合同イベントとすること。それによって地域交流を図り、未来の受験生へ浅葱ヶ丘高校に興味を持ってもらうこと。こういうポジティブな企画意図は大人の受けがとても良かった。生徒の本音が「パーティ開いて騒ぎたいだけ」だとしても、それらしい建前さえあれば何とでもなる。
企画を考えるのはとても楽しい。それでみんなが喜んでくれたらもっと嬉しい。だからわたしは生徒会長をやっている。性格がいやな方向でひねくれているわたしだけど、そういう気持ちだけは本心だ。クリスマス会も、絶対いいものにしたい。
二週間後に迫ったイベントに向けて決意を新たにする。と、その時
「さくらせーんぱいっ」
後ろから誰かに抱きつかれた。予期せぬ衝撃でよろけて、一生懸命踏ん張る。
声で分かっていたけれど、突撃してきたのは真冬ちゃんだった。機嫌良さそうにニコニコしている。顔が近いせいで、冬なのにこっちの顔が熱くなった。
「急にぶつかったら危ないでしょ」
「大袈裟ですよー。そんなに勢いつけてませんって」
「それでも、あいさつは普通にしてね?」
年上らしく落ち着いた体を装っても、わたしの心臓は飛び跳ねている。今にも破裂して、この場を臓物の展示場に変えてしまいそうだ。クリスマス会への決意などどこか吹っ飛んでしまった。
「今日はちゃんと、生徒会長できてますね」
体はくっついたままで、隣の家名くんにも聞こえないくらいの囁きだった。
ぞわりとした感覚が、耳からお腹の方へと伝わっていく。真冬ちゃんの声は破壊力が高い。耳元だと特に。
「それじゃあ、いいお返事を期待してますね!」
体を離し、一転して大きな声でそう言って、真冬ちゃんは走って先に行ってしまった。どうやら前を歩く友達を見つけたようで、すぐにその子と楽しそうに会話を始めた。あんなに堂々と「お返事」と言われたことに狼狽えたわたしとは対照的に、真冬ちゃんは何事もなかったかのようにのんきに笑っている。
「ほんと仲いいよなあ」
呆れたのか感心したのか分からない声音で、家名くんがそう呟いた。その表情に、疑いの色はこれっぽっちもない。
「あれだけ懐かれたら嬉しいだろ、お姉ちゃん?」
「からかわないでよ」
「さくらが手を焼くところなんか珍しいしさ。たまにはいいでしょ」
「もう」
そうだ。はたから見れば、女同士の関係なんてこんなもの。誰もわたしたちの間に何かがあるなんて想像しない。せいぜい普通よりちょっと仲のいい先輩と後輩でしかない。「お返事」と言ったって、みんなの頭に浮かぶのは、遊びの誘いとか勉強の面倒を見るお願いとかだろう。真冬ちゃんの告白は、二人だけの秘めごとだった。
そう考えた時、なぜか胸の奥に靄がかかったような感じがした。そんな風に勘違いしてもらえるのは都合のいいことのはずなのに。わたしは、自分が同性愛者であることを隠している。ましてやそれが浮気のお誘いに関することとなれば、家名くんにはもちろん他の誰にも悟られてはならない。なのに、誰にも分かってもらえないと意識した途端、とてつもなくいやな気分になった。合理的ではない。どうしてだろう。わたしは誰かに、女の子が好きな自分を認めてもらいたがっているのだろうか。小学生の頃、親友を生贄にして自分のことを語り損ねた時のように。あの日から意図的に目を逸らしていた問いが、唐突に目の前に現れた。
思考の海に沈んでいく。そのおかげで、わたしはすっかり油断してしまった。
さっきの家名くんは、珍しくわたしに対して悪ノリしてきた。見方によっては、関係がある程度進展したカップルのやりとりとのようだった。それで、もっと先のことを望まれてしまったのかもしれない。そうならないよう、今日まで細心の注意を払い続けてきたというのに。
「さくら」
そう呼びかけられたのと、右手に硬い感触がしたのは同時だった。
わたしは、反射的に後ろへ飛び退いていた。だから、自分が何をしたのかを遅れて理解する。
慌てて視線を上げると、家名くんはショックを受けたような顔をしていた。当たり前だ。彼女と手を繋ごうとして、ものすごい勢いでその手を振り払われてしまったのだから。
「あっ」
と、間抜けな声が自分の口から漏れた。咄嗟に弁明の言葉が出てこない。
「えっと、その、ごめん。急に繋ごうとして。そろそろいいのかなって思っちゃって」
先に謝らせてしまった。この場合、どちらが悪いのかは分からない。けれど、わたしの方が先に謝る必要があった。道義的な理由ではない。本能的な嫌悪感が先に込み上げて、考えるより早く拒絶してしまったと悟られないために、わたしは速やかに謝罪を口にしなければならなかった。ただ驚いただけで、手を繋ぐなんて、本当はどうってことないと伝えなければならなかった。
「わたしこそ、ごめんね。ちょっと驚いちゃって」
遅すぎる言葉だ。それで納得してもらえるはずもない。家名くんは曖昧に笑って、そっか、急に繋ごうとしてごめんな、と言いながら眼鏡の位置を直した。
どうあれ、わたしたちは速やかに動き出さなければならなかった。微妙な空気を発しながら突っ立っているのは良くない。わたしたちは生徒会長と副会長で、交際関係だって広く知られているのだから、道行く生徒たちは訝しむだろう。
ぎこちない会話で間をもたせながら、わたしたちは教室まで隣り合って歩き続ける。
教室では席が離れていたのが不幸中の幸いで、廊下側にある家名くんの席で別れると、誰にも聞かれないよう小さく溜息を吐いた。
*
窓際後方の自席につくと、前の方で集まっていたグループから
「おや、お疲れですかい? さくらさんや」
そう言って、美代はまだ空いていた隣の席に腰をおろした。
「そう見える?」
「あたしの目に狂いはないね。昨日は殺気立ってたけど、今日は逆に落ち込んでる」
ため息は聞かれていないはずだし、表情にも気を付けていたけれど、親友だけはごまかせないようだった。
それにしても、昨日のわたしは殺気立っていたらしい。確かに、日中の記憶がほとんどない。今日とは違う意味で、頭が真冬ちゃんに占領されていた。とてつもなく恥ずかしい。
「一体どうしたん?」
言うてみ、と美代が似非関西弁で聞いてきた。あまり深刻にならない雰囲気づくりをしてくれるのが美代らしい。
「実はね」
わたしは美代に、虚実入り乱れたストーリーを伝えた。真冬ちゃん絡みのことは全て伏せ、家名くんとのことも、男慣れしていないピュアな女の子にありがちな話として再構成した。
美代の親切心はありがたい。打算のない友情を感じる。けれどそんな親友にも言えないことは多い。もちろん、わたしが女の子を好きなことも教えていない。美代の中のわたしは、虚構としての桐咲さくらのまま。それは、他の生徒たちの中にいるわたしと変わりない。
わたしは、親友とそれ以外をある意味で十把一絡げに扱っている。そのことを知られるのは怖い。自分を信じていないのか、と詰られるだろうか。それとも、大事なことを隠して友達面していたことを軽蔑されるだろうか。
そういう恐怖を抱えてでも、わたしは何も打ち明けられない。親友は自分の絶対的な味方とは限らないのだ。他ならぬわたしがその実例だった。
わたしの不誠実な話を聞き終え、美代は「ふむ」と考えてから口を開いた。
「今日、カラオケ行こっか」
あまりにも真面目な顔で、ここまでの話とは関係のないことを言い出したから、返すべき言葉がすぐに見つからなかった。
「カラオケ?」
「そ、カラオケ。二人で行こうよ。昨日楽しみにしてたのに、さくら来ないしさ」
美代もまた生徒会事務局員だ。文芸部との兼任だから昨日は生徒会室に来なかったけれど、その後のカラオケには合流すると聞いていた。
「昨日も行ったのに、今日も行くの? というか、話の流れおかしくない?」
確かに今日、水曜日は生徒会の定休日だ。時間はたくさんある。ただ、わたしは曲がりなりにも恋愛相談をしていたはずだ。それがどうしてカラオケになるのだろう。
「いやー。話聞いといてあれなんだけど、あたしには恋愛のことは分からんからなー。下手なアドバイスするより、ストレス発散に付き合ってあげた方がいいかなって思ったんだぜい」
にかっと笑って、美代はわたしの頭を撫で始めた。「おーよしよし。お姉ちゃんは頑張ってるぞー」と言いながら。
わたしは「やーめーてー」と軽く抵抗しながらも、実はまんざらでもない。雑なようでいて、わたしのことをよく考えてくれるところに救われる。美代とはずっと親友でいたい。叶うなら、いつかわたしが全部を打ち明けてからも。
少しだけ軽くなった心で美代とわちゃわちゃする。やがて予鈴がなり、美代はまだ遊び足りないと言いたげな顔で自席に戻っていった。
遊び足りないのはわたしもだ。ぜひともカラオケに行きたくなってきた。けれど、美代には後で断りの返事をしなければならない。
担任が来るまでの間、スマホを眺めてぼうっとすごす。目的意識のないネットサーフィンには二分で飽きて、なんとなくメッセージアプリを開いた。履歴の一番上にいるのは真冬ちゃんだ。その中には、昨日の夜から何度も夢か真か確認して、その都度どうしようと唸ることになったメッセージが残されている。
『明日の放課後、お返事聞かせてください』
その時、折よく真冬ちゃんが新しいメッセージを送ってきた。「ヨロシク!」と書かれた吹き出し付きのスタンプだった。
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