みんなが当たり前のように吸っている空気がある。

 同じようにできない奴は窒息する。

 死ぬ。

 だからあの子は死んだ。女は男が好きであるという、目に見えない空気を吸えずに、幼い残酷さが蔓延した教室で息の根を絶たれた。

 なら、わたしは?

 わたしはみんなと同じであるふりをした。なんとかくんが好きという友達の恋バナに興味を示したり、心底どうでもいい誰かを気になる男の子として挙げてみたり。

 それが子どもの社会を生き抜くコツであり、きっと大人になってからも同じなのだろう。

 わたしはちゃんと息ができていた。

 なのにずっと苦しかった。当たり前だ。わたしは男の子なんか好きじゃない。好きなのは女の子だ。世の人間が全員女の子だったら良かったのにと本気で思っている。

 みんなにとって欠かせない空気は、わたしにとっては猛毒でしかなかった。

 自ら摂取した毒は徐々に侵食を進める。肺を侵し、心臓を侵し、脳を侵し、全身に回りきる。最後には、もはや何が正常なのかも曖昧になる。それでも、わたしは凝りもせず毒を摂取し続ける。みんなの中に溶け込むために。人間扱いしてもらうために。

 けれどそれは、時間の遅速の問題でしかなかったのかもしれない。

 みんなと同じ空気を吸わなくなった瞬間に確定したあの子の死。

 わたしの死は、毒の摂取によって延期されただけで、それとほとんど同質なのだろう。

 年齢を重ねるにつれて、この息苦しさは耐え難いものになっていった。

 ゆっくりと、けれど確実に窒息していく苦痛と恐怖。

 結局、当たり前の空気に適応できない奴が辿り着く先は同じなのかもしれない。

 わたしは、ただ生き続けていたいだけなのに。


     *

 

「ごめっ、ごめんなさい……」


 生徒会室にえぐえぐ泣いている女がいた。みっともなくしゃくり上げ、目を真っ赤にしている恥知らず。認めたくはないけれど、残念ながらそいつはわたしだった。


「泣きすぎでしょ」


 隣に座った真冬ちゃんは苦笑いしている。

 真冬ちゃんが使っているのは、ついさっき盛大に床に転がしてしまったパイプ椅子だ。罪悪感と羞恥心でいっぱいになった今のわたしには、非生命であるパイプ椅子にすら「痛かったよね……ごめんね……」と申し訳なさがこみあげてくる。

 パイプ椅子に謝ってもしかたがない。だから、真冬ちゃんにひたすら謝り続けた。


「本当にごめんねえ。痛かったよねえ」

「はい。けっこう痛かったですね」

「うぅ」

「それに普通に怖かったです」

「うぅぅぅ」

「でも、わたしを殺したあとどうするつもりだったんですか? こんなとこで、死体の処理は? 頭のいいさくら先輩らしくないですね」

「うぅぅぅぅぅぅぅ」


 おっしゃる通りだった。本当にわたしは何がしたかったのだろう。できるなら、過去の自分と今の自分を切り離したい。秘密を知られたことで動揺し、極端な思考にはまっていた。

 あの子は、かつての親友は、今頃どうしているのだろう。いじめの被害者でもないわたしがこうまで影響を受けているのだ。心も体もボロボロにされたあの子は、高校生になった今、ちゃんと学校に通えているだろうか。新しい友達はできただろうか。

 転校したあの子の動向を、裏切り者のわたしはもちろん知らない。


「ああ、いや、でも今はそんなに痛くないですから!」


 わたしと違って、真冬ちゃんはすっかり落ち着いている。


「……そんなにってことは、まだちょっとは痛いんだよね」

「めんどくさいなぁ。確かにちょっとは肩とか腰とか違和感ありますけど、気にするほどでもないですよ」


 めんどくさい、という言葉が心に刺さった。言われてもしかたがないから、余計傷つく。


「さくら先輩って、ほんとはこんななんですね」


 普段のわたしは、おしとやかで頼りになるお姉さん面をしている。今のわたしは、それとは真逆の人間だ。真冬ちゃんの中のさくら先輩像を壊したわけで、いたたまれない。

 小さくなっていると、真冬ちゃんはそっとハンカチを差し出してくれた。


「使ってください。さくら先輩の、もうびしょ濡れじゃないですか」

「ありがとう」

「鼻かむのはなしでお願いしますね。そういうテンプレはいらないので」


 真冬ちゃんは釘をさすことも忘れなかった。今のわたしは、そんなことをしそうなくらい残念な先輩に見えているのだろうか。

 ショックを受けながらも、わたしは真冬ちゃんのハンカチで涙をぬぐった。もちろん鼻なんてかまない。

 おかげでだいぶ落ち着いた。


「本当にごめんね。わたし、冷静じゃなくて、絶対しちゃいけないことした。許してもらえないかもしれないけど」


 謝罪の言葉はもう何度も口にしたけれど、わたしは改めて真冬ちゃんに頭を下げた。

 真冬ちゃんは特に怒った様子もなく


「だから気にしなくていいですよ。それに、私もからかいすぎましたし」

「からかってたの?」

「こいつ好きなやついるらしいぜーって、男子小学生みたいな気分でした」

「ああ……」

「まさかあんなに動揺するとは思わなくて。私も、ごめんなさい」


 真冬ちゃんが頭を下げた。逆に謝られるとは思っていなかったから、どうしていいか分からなくなる。

 分からないことは、他にもあった。


「……いつから分かってたの?」


 わたしが同性愛者だと。真冬ちゃんのことが好きだと。

 正直、見当がつかない。

 自分ではうまく隠しているつもりだった。女の子らしいスキンシップをされても、思いがけず誰かと手が触れ合っても、内心のどきどきを素知らぬ顔でやりすごしてきたはずだ。

 そういうわけで、真冬ちゃんにいとも簡単に見抜かれたのは、わたしにとって相当な大事件だった。


「確信したのは昨日です。だって、あんな顔するんだもん」


 微笑ましいものを見るような目を向けられる。お世話しているとずっと思っていた後輩から子ども扱いされる恥辱ときたらない。昨日のわたしは、気になっていた子からキスされて、きっと嬉しそうにしていたのだろう。突然のことに頭が真っ白になり、取り繕うことさえ忘れて、隠していた欲求をさらしてしまった。気味悪くにやけていたに違いない。手が触れるくらいなら表情筋の制御も容易いけれど、不意打ちのキスはダメだ。

 弁明したかったのに、その後すぐ、真冬ちゃんはさっさと帰ってしまった。


「でもそうなんだろうなーっていうのはずっと思ってました。さくら先輩の目線、なんかずっとエロかったし」


 鈍器で頭を殴られたみたいだった。そんな目で真冬ちゃんを見た記憶はない。悟られないように、いつだって自分を律していたはずなのに。


「そんな目で、見てないし」


 なぜか子どもの言い訳じみた感じになってしまった。


「自覚なしかぁ。確かにうまく隠してたとは思いますよ? でも敏感な子は気づくくらいにはエロい目でした」


 あまりにも辛い指摘だった。要は、お姉さん面して真冬ちゃんに仕事を教えている間、「こいつの視線エロいなー」とずっと思われていたということだ。さぞかし気持ちが悪かったことだろう。性的な目でちらちら自分を見てくる奴なんて不愉快に決まっている。わたしもそういう視線を向けられがちだからよく分かる。天を仰ぎたくなったけれど、どうにか耐えて言うべきことを探した。


「安心して。付き合ってなんて言わないから。真冬ちゃんには安住くんがいるんだし」


 真冬ちゃんには彼氏がいる。名前は安住陽太あずみようたくん。今日は欠席だったけれど安住くんも生徒会の事務局員だ。二人は同じ一年生で、中学の頃からの付き合いらしい。最初からわたしが入り込む余地はない。


「さくら先輩は略奪愛とかできなさそうですしね」


 わたしなりに気を遣ったつもりだったけれど、真冬ちゃんは元より心配していなかったらしい。そこは信頼? されているみたいで、少し嬉しかった。


「私も聞いていいですか?」

「何?」

「なんで家名先輩と付き合ってるんですか?」


 ぐうっ、と喉が鳴った。

 それは、一番聞かれたくないことだった。

 男の子への興味が全くないくせに、わたしは家名くんと付き合っている。当然、疑問に感じるだろう。

 どう話せばいいか、そもそも話すべきか、散々迷った末に、真冬ちゃんにならと打ち明けることにした。


「あのね――」


 彼氏持ちなら、女の子が好きだとは思われないだろう。

 小学校を卒業するまでには芽生えていた考え。幼い頃からの小賢しさの産物。

 気付いた時には、それが頭から離れなくなっていた。

 家名くんとの交際は、わたしにとってカモフラージュでしかない。小学生の頃、恋バナ用の「気になる男の子」を雑に見繕っていたのと同じこと。自分から彼氏を作る踏ん切りはつかなかったけれど、生徒会選挙の前に家名くんから告白されて、付き合うことにした。男の子の中では一番仲がいい友達で、とても都合が良かったから。

 なんて不純な交際理由だろう。けれど、わたしには必要なことだった。絶対にあの子のようになりたくないという感情が、自分でも過剰と感じる防衛本能に変貌して、丸裸の状態で生き続けるストレスに耐えられなくなっていた。

 そんなことを、簡潔に説明する。過去の具体的な話を省いて、家名くんがカモフラージュの彼氏である点だけが伝わるようにした。

 すると真冬ちゃんは、「なるほど」と神妙に頷いてから


「さくら先輩って、ほんとにめんどくさいんですね」


 と、呆れた顔で言った。


「自覚はあるから言わないで……」


 真冬ちゃんの言いたいことは分かる。彼氏がいなくたって、自分からカミングアウトしなければいいだけのこと。人が内に秘めていることなんて大抵は分からない。真冬ちゃんみたいに勘の鋭い子はいるけれど、そんな人は数少ない。実際、中学までは彼氏がいなくてもなんとかなった。

 しかも、彼氏がいたらこっそり彼女を作ることもできない。

 わたしだって好きな子と付き合いたい。だからといって、彼氏はいるけどわたしと付き合ってくださいなんて言えるわけがない。

 改めて考えて、わたしは自分のしていることのバカバカしさを痛感した。


「知られるのって、やっぱり怖いですか?」

「怖いよ。すごく。だって、そうなったら人じゃなくなるから」


 あの子への仕打ちは、相手を人だと思っていたらできないようなことばかりだった。


「そっか。そうですよね。私、想像力が足りてなかったです」


 今度は、めんどくさいとは言われなかった。昔の話はしていないし、わたしの言い方もとても朧気だったのに、それだけで何かを察してくれたようだった。おかげでようやく、一番聞きたかったことを口にできる気がした。


「真冬ちゃんは、わたしのこと気持ち悪いって思う? これからも仲良くしてくれる?」


 何より怖いのは、親しかったはずの人から嫌悪と悪意を向けられること。あの子はクラス中からそうされた。わたしもそれに加担した。見て見ぬふりも立派な加害者だ。その罪がまるごと跳ね返ってくるみたいで、押し潰されそうになる。真冬ちゃんに見限られたら、きっと本当にぺちゃんこになってしまう。

 おそるおそる、真冬ちゃんの様子を伺う。

 すると、真冬ちゃんは唐突に両腕を広げた。


「え、なに?」


 思いがけない動作だった。とてつもなくシリアスだった空気の中、無言でなされたその動作はシュールで、なんだか肩の力が抜けてしまう。


「ハグしましょう」


 突拍子もない提案に、首をかしげるしかない。


「仲直りのハグです。私はさくら先輩のこと気持ち悪いなんて思わないけど、言葉だけじゃなくて、やっぱり形も大事だと思うんですよ」

「そう、かな」

「効きますよ、体のコミュニケーションは。言葉なんかより」


 ハグの効果はともかく、言葉の信用ならなさには共感できた。

 思い出すのは、「差別はいけない」と綺麗な感想を並べる元クラスメイトたち。そして、同じ口から吐き出されたたくさんの悪意。人の言葉は容易に手の平を返すことを、わたしはよく知っている。

 真冬ちゃんに倣って、わたしも両腕を広げてみた。

 満足したように微笑んだ真冬ちゃんが、そっとわたしの体を包みこんでくれる。ひんやりした心地良さを感じる。そういえば、真冬ちゃんは体温が低かった。

 高ぶっていた感情が冷まされていく。その心地よさに、ともするとまた泣いてしまいそうだった。


「さくら先輩。怖がらせて、本当にごめんなさい」

「もう謝らなくていいよ。わたしこそ、ごめんね、真冬ちゃん」


 これでもう、謝るのはお互いやめにしよう。わたしがそう提案し、真冬ちゃんが納得する。

 わたしたちは、明日からも仲のいい先輩と後輩でいられるだろう――なんて思っていると


「これで仲直りですね。じゃあ改めてわたしの気持ちを伝えます。さくら先輩、私と付き合ってください」


 唐突に、真冬ちゃんがそんなことを言った。


「え、」

「私もさくら先輩と同じなんです」

「えっ」

「私も、女の子が好きなんですよ」

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