語りえぬ恋についての物語

押本 詩

第1章

 

 ――溺れることが、窒息から逃れるたった一つの方法だった。


     *


「え、会長、来ないんですか?」


 捨て犬のような表情を浮かべて、後輩が肩を落とした。今日の会議が終わって、のんびりと雑談をしていた最中のことだった。

 いずれこの話になるのは分かっていたから、わたしは至って自然に、申し訳なさそうな顔を作って応じることができた。


「ごめんね。どうしても今日中に片づけないといけない仕事があるの」


 我ながら親しみやすい声だと思う。いかにも優しそうだ。おかげで、みんなに慕ってもらえる。今も、わたしが一人残ることに残念そうな顔をしている子ばかり。

 浅葱ヶ丘高校の生徒会長として、だからわたしは幸せだ。

 その立場を、ちくりと胸を痛めながら濫用する。とっくに今日の仕事を終えていても、わたしが忙しいと言えばみんな信じてくれるのだ。


「会長とカラオケ、楽しみにしてたのになー」

「わたしも行きたかったんだけど……」


 その気持ちは本当だ。うちの生徒会は仲がいい。アットホーム、というとブラック感が出てしまうだろうか。けれど、そんな言葉がぴったりな場所だ。

 そんな生徒会だから、今日もみんなでカラオケに行くことになっている。けれどわたしは、嘘をついてまでドタキャンした。


「次は絶対ですからね!」


 笑って許してくれたその子を、「人に指をささないの」と言って隣の後輩が軽くはたく。「べつにいいじゃんかよー」と、はたかれた後輩が抗議する。微笑ましい光景だ。

 副会長の家名くんも、そのやりとりにほっこりした様子だった。苦笑しながら、


「大変そうなら俺も残ろうか?」


 と言う。家名かめいくんは一応わたしの彼氏でもあって、いつもポイント稼ぎに余念がない。隙あらばわたしを助けようとするし、実際それで助かることもあるのだけれど、今だけはありがた迷惑というやつだった。

 仕事なんかない。

 この後片付けないといけないのは、もっと私的なことだ。


「ううん。わたし一人で大丈夫なことだから。それに手伝ってもらえるようなことじゃないしね」


 メガネの位置を直しながら、「了解」と納得した素振りを見せる家名くんは、けれど内心残念がっているのがバレバレだ。わたしと二人きりになりたかったのだろう。


「家名くんは今回の主催なんだし、ちゃんと自分の仕事に集中してください」


 お姉さんぶってそう言うと、今度は少し嬉しそう。家名くんは、わたしに年上彼女のようなものを求めている節がある。お姉さんぶるのは得意だ。


「会長また明日ー」

「次は一緒に行きましょうね!」

「無理はしないでくださいね」


 帰り際に挨拶してくれるみんなを、わたしは笑顔で見送った。けれど、たった一人にだけ、全く別の視線をむける。


 ――ちゃんと戻ってきてね。


 そう念じた時、その相手と目が合った。スマホでメッセージも送っているし、気付かないということはないだろう。そうでないと困る。あんなことをしておいて、あんなことを言っておいて、何事もなかったかのように過ごさないでほしい。

 やがて一人になって、外の暗闇をはっきりと意識させられた。すでに大半の生徒が下校している時間で、灯りが点いている部屋はまばらだろう。屋内にいるからこそ、そんな学校の雰囲気を不気味に感じた。

 不気味さの中、一人でどれくらい待っただろう。五分だろうか。十分だろうか。苛立ちながら時間を確認しようと思った時、一人の女の子が戻ってきて、扉をあけた。


「来ましたよ、さくら先輩」


 そう言ってから、女の子は――霜月真冬しもつきまふゆちゃんは扉をしめた。左側に束ねた髪がチャームポイントの、愛らしく、けれど不思議と恰好良さも共存している女の子だ。

 さくら先輩。わたしのことをそう呼ぶのは真冬ちゃんだけだ。他の後輩は単に会長とか桐咲きりさき先輩とか。なんとなく、名前+先輩呼びは真冬ちゃんの専売特許みたいになっている。

 つまりはそれくらい、わたしと真冬ちゃんは仲がいいということ。

 順位をつけるのは良くないけれど、たぶん誰よりも大事な後輩だ。真冬ちゃんと目が合っただけで嬉しいし、その甘い声で名前を呼ばれたら幸せを感じてしまう。

 けれどその魅力が、今はわたしの神経を逆なでする。


「遅かったね」

「えー。さくら先輩がめんどくさい呼び出し方するからじゃないですかー」


 自然と険を帯びた声に、真冬ちゃんは動じなかった。それどころか、わたしが苛立っていることにも気付かない――ふりをしている。やたらと間延びした口調だったのはそういうことだ。


「……真冬ちゃんと話し込んでるって知られたくなかったの」

「誰も不自然に思いませんよ。仕事を手伝ってもらうとか、昨日みたいに言えば良かったのに」

「いやなものは、いやなの」

「あー忘れ物したーとかバカみたいな小芝居する身にもなってくださいよ。まあいいですけどね。それで、何の用なんですか?」

「何の用って……」


 分かっているくせに。昨日のことを忘れたとは言わせない。どういうつもりなのか、問いただしてやらないと。


 ――さくら先輩って、分かりやすいですね。


 昨日、生徒会室で言われたこと。

 そして、されてしまったこと。

 鮮明に刻まれた記憶に引きずられ、知らず指で自分の唇を撫でていた。

 それを見て、真冬ちゃんはさも今気づいたかのような顔をした。


「あれ、まだ昨日のこと気にしてるんですか? ちょっとキスしただけなのに」


     *


 昨日の出来事が脳裏によみがえる。今日と同じ真っ暗で、わたしと真冬ちゃんの二人っきりの夜だった。真冬ちゃんの言う通り、わたしの残業を手伝ってもらっていたのだ。

 今日と違って、本当に仕事が終わっていなかった。一人で片付けるにはそこそこの仕事量が残っていて、若干の眩暈を覚えたのだけど、そんな時に手伝いを申し出てくれたのが真冬ちゃんだ。

 真冬ちゃんは、わたしが困っているとよく気付いてくれる。周りをよく見ているのだろう。

 二人で取り組んだおかげで、覚悟していたよりずっと早くに仕事は終わった。完全下校時刻まで、まだ三十分以上余裕があった。

 ここまでなら、なんて健全な残業だろう。

 使ったファイルを棚に戻しながら、帰りに何か奢ってあげなきゃ、とコンビニの肉まんや自販機の缶ジュースを思い浮かべていた時だった。


「さくら先輩」


 後ろから呼びかけられ、「なあに」と振り向いた途端、唇に何かが押し当てられた。

 最初、それが何か分からなかった。ただ、柔らかい、ということを感じていた。

 二秒くらいだろうか。その何かが離れてやっと、それが真冬ちゃんの唇だったことをわたしは理解する。


「さくら先輩って、分かりやすいですね」


 想定外の衝撃にやられた脳みそは、そう言われて以降の記憶をあまり保持していない。


     *


 言ってしまえば、確かに真冬ちゃんにされたのはそれだけだった。

 二人きりになった生徒会室で、ほんの一瞬だけ唇を奪われたにすぎない。女の子なら友達同士ふざけてやることもある。

 だから致命的なのは、わたしがそういうおふざけをできない人間であり、真冬ちゃんがそのことに気付いているという点だった。


「それとも、さくら先輩」


 真冬ちゃんが一歩こちらに近づいて、じいっとわたしの目をのぞき込んでくる。

 見透かしたようなその瞳のせいで、わたしは後ずさることさえ許されない。


「私のことが好きだから、そんなに動揺してるんですか?」


 …………。

 うまくやっていれば、ごまかせたのだろうか。突然キスされたことに動揺せず、「なにするの、もー」とでも言えば良かったのだろうか。

 けれどできなかった。できるはずがなかった。だってわたしは女の子が好きだから。ライクではなくラブだ。恋愛対象として、わたしは女の子が好きなのだ。

 そういう女がとてもかわいい、白状すれば前から好きだった子にキスされて、すました顔で冷静に対応できるだろうか。真冬ちゃんと目が合ったら嬉しいのも、甘い声で名前を呼ばれて幸せを感じるのも、全部がこの心臓の高鳴りのせいなのに。


「……だったら、どうするつもりなの?」

「んー。さくら先輩はどうしてほしいです?」


 言いながら、真冬ちゃんは背負っていたリュックをおろした。コートを脱ぐと、紺のブレザーがあらわになる。それ目当てで浅葱ヶ丘高校に進学する子も多い、かわいくて恰好いいデザインの制服。この学校の誰よりも、真冬ちゃんはその制服が似合っている。

 その綺麗な容姿の奥で、いったいどんな考えを巡らせているのだろう。人の秘密を握って楽しそうにして。

 あんなに仲の良かった真冬ちゃんが、何を考えているのか全然分からない。

 真冬ちゃんは、こちらを見ずにパイプ椅子に腰をおろそうとしている。じっくりと、わたしの反応を楽しむつもりだろうか。

 体から、サーッと血の気が引いていく。


「気持ち悪い」


 突然、そんな声が聞こえた。幻聴だ。分かっていても、その声は鳴りやまない。それどころか音が教室中で反響し、大勢の人がわたしを罵倒しているように感じた。罵倒の声は次第に勢いを増し、多種多様になっていく。


「気持ち悪い」「私のことそんな目で見てたの?」「ありえないんだけどー」「レズ」「学校来んなよ」「変質者」「死ねばいいのに」「ねえ、謝りなよ」「だましててごめんなさいって」「謝れよ」「あやまれって」「しゃっざい! しゃっざい!」「泣けばいいと思ってんの?」「被害者はこっちなんだけど」「犯罪者に人権とかないから」「きもい」「は? 触んな」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」


 それらが全部

 真冬ちゃんの口から発せられたような気がして

 気付けば、体が勝手に動いていた――


「ちょっ、先輩っ?」


 カシャーン、と鋭く大きな音がした。


「なにするんですか、やめてっ、やめてくださいっ、さくら先輩っ!」

「うるさいっ! 真冬ちゃんが悪いんだからっ、真冬ちゃんがっ 真冬ちゃんがっ」


 揉み合った末に、真冬ちゃんの顔に苦悶の色が広がる。膝でお腹を押さえつけらた上に、力の限り首を締めあげられているのだから、苦しくて当たり前だ。

 構わず、わたしはさらに力を込めた。幻聴はいつまでも鳴りやまない。このまま真冬ちゃんの息を止めれば、むやみに大きな声が消えてくれるだろうか。そのためには、どれくらいの力がいるだろう。まだ足りないのだろうか。首を絞める時は、確か頸動脈を押さえないといけないんだったか。掌だと時間がかかる、という薄っすらとした知識だけがある。難しくて、いらいらした。早く、この声を止めたい。ああ、うるさい。うるさいな。早く消えてよ。耳が痛い。耳が痛いんだよ。

 真冬ちゃんは両手を使って、わたしの腕を引き剥がそうとしている。けれどその力はとても弱々しい。それが抵抗だとすら感じなかった。


「せんぱ、い、おち、つい、てく、ださ、い、せんぱ……」


 じたばたと、真冬ちゃんが全身を使って暴れ始める。まだ声を出せるのは、わたしの絞め方がへたなせいだろうか。パンっと背後で小さな音がした。きっと、脚をばたつかせた勢いで真冬ちゃんのスリッパがそのへんに飛んでいったのだろう。


「せん、ぱ……」


 縋るような声が零れる。それを、真冬ちゃんの最後の声にするつもりだった。

 けれど、


 ――やだっ、やだっ、たすけてっ、さくらちゃん、さくらちゃんっ、さくらちゃんっ。


 罵倒の群れが突然、たった一つの声に上書きされて、わけが分からなくなった。


 ――いやだぁ……あぁ、ぁあ、やめぇ、あ、ぁ、うぁ、うあぁぁぁぁ…………


 記憶。これは、記憶。さっきまで聞いていた罵倒と地続きの、思い出したくない苦い記憶だった。あの子は泣いていた。苦痛と恐怖と絶望に顔を歪めて。

 過去の記憶と目の前の現実がグラデーションとなって、脳内をかきまわす。今何をしているのか、何がしたかったのか、自分を構成する様々な形が音を立てて崩壊していった。


「――さくら、せんぱい?」


 また、真冬ちゃんがわたしを呼んだ。それで、はっと我に返る。その声からは、さっきまでの苦痛の色が薄れていた。

 現実感が徐々に戻ってくる。壊れかけていた認識の形が元通りになる。そこではじめて、自分がいつの間にか、真冬ちゃんの首から手を離していたのを知った。

 それでも、真冬ちゃんの表情に苦痛の色が残っているのを見て、氷水を頭から被ったような感覚に陥る。

 視界が揺れて、真冬ちゃんの顔がぼやけた。


「うぁ……」


 無様に泣く自分の声は、幻聴ではなかった。


     *


「今は多様性の時代ですから、色々な人を尊重してあげなければいけません」


 小学三年生の授業で、担任教師が神妙な顔でそう言った。

 道徳の時間――LGBTの概念をテーマとした一コマだった。

 偉そうなことを言えば当時から賢かったわたしは、担任教師の話を内心鼻で笑いながら聞いていた。その授業はお世辞にも練られているとは言えなかったからだ。「多様性の時代じゃなければ差別していいのか」とか「尊重してあげるとかいうよく分からない上から目線はなんなんだ」とか、とにかく授業としてはレベルが低かった。

 そんな授業にも価値はあった。

 先生に意見を求められ、「差別はいけないと思います!」と次々に発言していく子どもたち。質はともかく、「差別はいけない」という感想はこの上なく正しいので、あの担任教師も最低限の役割は果していたと言えるのかもしれない。

 その授業風景は、実際わたしにとっても有益に思えた。

 他ならぬわたしが女の子を好きな女の子であり、当時すでにその自覚があったからだ。

 自分の性的指向を周囲に明かしたことはなかった。いくら多様性を叫ぶ時代だろうと、差別がなくなるわけではなく、受け入れられるかは時と人と場合次第。

 そのことを理解できる程度に小学三年生のわたしは賢く、自分の性的指向については黙っているのが賢明だろうと思っていた。

 そんな賢さは、確かに残っていた幼い愚かさにあっさり塗り潰されてしまう程度のものでしかなかった。

 差別はいけないと口々に言うクラスメイトたちを見て、もしかしたら打ち明けてもいいのかもしれない、と思ってしまったのだ。

 だから昼休みの終わりに


「あのね、実はね――」


 そう話し始めたのが自分ではないことに驚いた。

 わたしが口を開くよりほんの少しだけ前。タッチの差でしかない未来の分岐点は、わたしという人間の醜悪さをあらわにした。

 当時の親友だった女の子が、お友達グループに自分のことを一生懸命説明する。何度も言葉に詰まりながら、それでもちゃんと伝えようと必死に。

 素直な子だった。綺麗な心の持ち主とはこの子のことを言うのだろうと思うくらい純粋な。ちゃんと話せば大丈夫だと疑いもしていなかった。

 わたしとは大違いだ。わたしの心は汚かった。自分より先に告白したあの子が受け入れられたら、実は自分もと言って流れにのるつもりだったのだから。賢さと愚かさが混ざった、その時のわたしらしい発想だった。

 結果は惨憺たるものだった。

 事態が明るみに出て、あの子が転校するまで続いたいじめ。

 人間扱いされているとは思えないほどの凄惨。

わたしは最後まで、その光景に対して見て見ぬふりを貫いた。

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