第21話 まどろみの中で

 唇に柔らかい感触。

 鼻に残る甘い香り。

 視界一杯に広がる、以前の彼女の顔。


「……!?」


 数秒経って、事態が理解できて来た。

 思わず彼女の肩を掴み、体を離した。


「り、リサ!? いきなり何を──」

「ねぇ、総司さん。私たち、やり直せないかな?」

「え? いや、急にそんな事言われても……」

「今度は私が、総司さんをちゃんと支える。総司さんのためなら、何だってするよ?  ご飯も作るし、身の回りのお世話もする。こっちだって──」


 そう言って、リサは指で体を這わせた。


「ちょ──」

「想像してみて。いつも通りの、私たちの生活」


 リサに言われた言葉に抗えず、頭の中にはある映像が浮かび上がっていた。




 自分の部屋で目を覚ます。

 今日は月曜日だ。新しく決まった会社に行かなくては。

 キッチンからいい匂いが漂ってくる。リビングに行くと、リサが朝食の準備をしていた。


「あ、おはよう。ご飯、もうすぐできるから」

「……」

「……? どうしたの?」

「え? あ、あぁ。おはよう」


 朝から彼女が作った朝ごはんが食べられる。こんなにうれしい事はなかった。

 顔を洗い終えて、テーブルに座るとバランスのいい色とりどりの食事が並べられた。


「ごめんね、作ってもらっちゃって」

「いいの。私がしたくてそうしてるんだし。それより、今日はいつぐらいに帰れそう?」

「あぁ。多分19時ごろには帰れるんじゃないかな」

「やったっ。私もそれぐらいに帰れるから、晩酌パーティしようよ」

「はは、月曜から大丈夫?」

「へーき。今は仕事落ち着いてるし。総司さんも、新しい仕事順調そうで良かったよ」


 新しい会社は残業は月に10時間あるかないか。年間休日は130日近くあり、在宅勤務など働き方も幅広く、給料も平均以上ある。文句なしのホワイトな会社だ。

 リサとは以前のように、いや、以前以上に親しくなり、同棲までするようになった。


 順風満帆な暮らし。

 このまま平穏に、幸せな日々が送れるのだろう。


「……」


 本当に、そうだろうか。

 何か欠けている気がする。

 過ごした時間は短くとも、無くてはならないと思えた存在。

 この暮らしの中に、はいない。


「総司さん……?」


 確かに以前までの僕は、こんな生活を望んでいたのかもしれない。

 体を壊さない程度に、適度に仕事をして、気の合う彼女がいて、あわよくば同棲、うまくいけば結婚なんて。

 だけど、僕はもう出会ってしまった。

 命を救ってくれた。

 心がズタボロになった僕を、慰めてくれた。

 こんな僕でもいいと、はっきり言葉にしてくれた。

 彼女のニンマリとした少し意地悪な笑顔が。

 彼女のゆるっとした寝顔が。

 彼女が褒めてくれる時の優しい顔が。

 忘れられるはずがなかった。

 彼女無しの生活は、もう僕には考えられない。



 霞みがかった意識が、鮮明になっていく。

 先ほどまでの光景は幻だったのだろうか。元の風景が眼前には広がっており、玄関に僕とリサがいるだけだ。


「え……あれ? な、なんで……?」


 リサ──いや、目の前の女の子はうろたえている。


「えっと、もし勘違いだったらごめんなさいなんですけど……どちら様ですか?」

「な、何言ってるの総司さん。やだなぁ、もしかして、まだ働きづめだった時の疲労が残ってるの? 私だよ、あなたの──」

「見た目はすごいそっくりだけど……違います……よね?」


 確信は持てていない。見た目はリサそのものだ。

 だけど、心が拒絶している。目の前の彼女を受け入れてはダメだと、本能が訴えかけてくる。


「……なによ」

「え?」

「何よ何よ何よ!! あなた何なのよ!? 人間如きが私の催眠魔法を打ち破るなんてありえないでしょ!?」

「魔法……っていうことは、やっぱり悪魔だったんですね。ベル様の知り合いですか? えっと、すみません。今ベル様はいなくて──」


 次の瞬間、リサの姿から早変わり。

 角と羽、尻尾が生えた女性の悪魔へと変貌していた。


「バーカ! 客人な訳ないでしょ!? それよりも、あの催眠魔法は理想の世界を完璧に再現したはずなのに……! どうして効かないのよ!?」

「あ、あれが魔法だったんですね。確かにあの生活も理想だったかもしれませんけど……ベル様がいませんでしたから。すみません。僕はもう、あの人がいない生活は考えられないみたいです」

「わ、訳が分からない……人間がこんなにも悪魔と親しく……あなた普通じゃないわ! 何か特別な訓練でも受けてるんでしょ……!? ましてや正式でもない使い魔が、こんな……!!」

「い、いえいえ」


 かなり狼狽えているので、どうにか落ち着かせなくては。

 そうだ。自己紹介をしていなかった。

 ベル様の知り合いではないらしいが、魔界からの客人であれば失礼があっては悪いだろう。


「僕は、高坂総司こうさかそうじと申します。どこにでもいる普通の人間で……今は働いてない、ですけど。ベル様──ベル・フェイタル・ゴルケニール様の、正式な使い魔です」


 名前も知らない悪魔さんに自己紹介をして、少し頭を下げた。


「……」

「あの……」

「怖い」

「え」

「怖い! もう、なんか怖い! 私悪魔なのに……全く恐れてない……! これが……人間!? うわあああああああああああん!! アスモデウス様あああああああああああああ!!!」


 盛大に泣きじゃくりながら、部屋を出て行ってしまった。


「……何だったんだろう」


 何か粗相をしてしまったのだろうか。あんなに女の子を泣かせたことなんて初めてでちょっとショックだ。

 とりあえず、次に会う機会があれば謝ろう。


「さて……ベル様、多分明日帰ってくるんだよな。献立考えておかなきゃ」


 スマホでレシピを検索しながら、ベル様の帰りを待つのだった。






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