第15話 そうだ、旅行に行こう

「ベル様……」

「ど、どうしたの下僕くん、そんな泣きそうな顔して」

「いや、そこまででは無いと思いますけど……」

「いやいや、ちょっと泣いてるじゃん。ほらほらどしたの、話してごらん?」


 今日もベル様は優しい。

 僕は今日一日、何があったのかを説明した。



「それじゃベル様、出かけてきますね」

「遅くなる前に帰ってきてね~」


 髪が伸びてきたので、髪を切ることにした。

 その後に買い物でも済ませればいいか、とその時は気楽に考えていた。


 美容師さんに髪を切っている時の事だった。

 髪を切ってもらっている時あるある、美容師さんから何気ない会話が切り出された。


「高坂さん、今日はお仕事お休みなんですか~?」

「あ、いえ……ちょうど仕事を辞めてまして……」

「あ……っスゥ~。ま、まぁ景気良くないですしねぇ~」

「そ、そうなんですよね~」

「……」

「……」


 会話のキャッチボールならぬ、デッドボール。

 その後、美容師さんが雑談をしてくれることは無かった。



 気まずい空気のまま美容院を出て、スーパーで買い物している時であった。


「あれ……キャベツってこんなに高かったっけ……」


 先月は150円ぐらいで変えていたキャベツが、今見ると300円。二倍近い値段になっていた。

 なぜ……と疑問に思っていると主婦たちの声が聞こえてきた。


「あら、キャベツ高いわねぇ」

「なんでも気候のせいで値上がりしたんだとかニュースで言ってたわよ」

「いやねぇ。旦那の稼ぎは変わらないのに物価だけあがって(笑)」

「ほんとよねぇ~(笑)もっと働いて欲しいわぁ~(笑)」


 なんだろう……。心が痛くなってきた。



 こんな具合に、物価の上昇やら何もしてない事からくる焦燥感があまり精神上よくなかったりした1日であった。


「気にしなくていいのに」

「さすがに気にしますよ。大学卒業してからずっと働いてきたわけですし……それにいつまでも貯蓄があるわけじゃないですから」

「そこはほら、私の──」

「そ、それは無しの方向で」


 懐に手を伸ばしたので即座に止めた。

 止めなければ札束を目の前にドンと置かんばかりの勢いだったからだ。


「やっぱりすぐにでも仕事を始めなきゃ……あぁ、でも仕事先をまず決めて……それから履歴書を……」

「ていっ」

「あたっ!?」


 思い悩んでいるおでこにデコピンをくらい、視界に一瞬火花が散った気がした。


「下僕くん、焦りすぎ。焦って仕事決めてもまた後悔することになるよ?」

「そ、それはそうかもですけど……」

「いい? 下僕くん。今の下僕くんの見てる世界は、こんなに狭まってるんだよ」


 そう言ってベル様が両手でメチャクチャ小さな隙間を作って見せた。

 さすがにそこまで狭くなってることはない……と思いたい。


「それじゃあどうすれば……」

「ん~、そうだねぇ」


 ベル様の視線が自然とテレビの方に向いた。

 そこには綺麗な青空。それに花畑が映っており、旅行の観光地として取り上げられていた。


「これだ!」

「へ?」

「旅行行こっ、下僕くん! いつもとは違う世界を見て、世界はこんなに広いんだ~って見てくるって言うのはどう!?」

「旅行ですか……」


 元々旅行はたまに行っていたぐらいだが、社会人になってからというものの一度も行ってなかったかもしれない。


 仕事を休んでいて時間が有り余っている今だからこそ、行くべきなのかもしれない。


「いいかもですね」

「決まりっ。それじゃ行こっか!」

「そ、そんな急に──え?」


 そう言ってベル様が取り出したのは、スマホだった。画面に映し出されているのはストリートビューだ。


「ベル様、これは……」

「え? ほら、いつもとは違う景色が見れるでしょ?」

「あ……そういう……」


 思っていたのと少し、いや、かなり違う。


「な~んて、冗談冗談」

「そ、そうですよね。さすがに画像を眺めてるだけじゃ旅行とは──」

「YouTubeで検索すれば動画は出てくるよね~」

「結局行かないんですか!?」

「え~、だって寒いし……下僕くんが満足できるならこれでもいいかなって」

「ま、まぁ旅行気分は味わえなくないかもですが……」

「……あ~、そういうことかぁ♡」

「な、なんですか?」

「下僕くん、そんなにアタシと一緒にお出かけしたいんだぁ。もう、そういうことなら早く言ってくれればいいのに」

「え? えぇ、まぁ……」

「しょうがない。下僕くんを慰めるためにも、一緒にお出かけしてあげる♡」


 そんなこんなで、急遽旅行に行くことになった。



 急に決めたこともあり、日帰りにしようという話になった。

 荷物も最小限。スマホと財布ぐらいだ。

 行先はベル様に任せてある。

 昼過ぎだというのに、やけに混雑している駅にたどり着いた。

 ベル様は器用に人混みに潜り込み、スイスイと先を進んでいく。


「下僕くんがはぐれないよう、お手手繋いだげるね♡」


 完全に子ども扱いだ。使い魔としてこれでいいんだろうか……。

 しかし不思議なもので、こうして手を引かれてベル様の後をついていくと、自然と人にぶつからずスムーズに改札までたどり着いた。


 そういえば、電車に乗るのなんて仕事の時以来かも。


 そう考えると思い出されるのは苦い記憶。

 電車に乗って会社に向かうときも、電車に乗って家に帰る時も、頭の中は仕事の事ばかり。

 納期までに仕事が終えられるか不安に駆られる日々。

 満員電車の人の波と、上司からのプレッシャーに押しつぶされそうになっていた毎日。


「下僕くん、ほらこっち」

「あ──」


 そんな嫌な記憶はすぐに消え失せた。

 温かく、柔らかい手が僕を引っ張ってくれる。


 あぁ、本当に、この人には、いや。この悪魔様には助けられてばっかりだ。



 電車に揺られながら、青々とした景色が流れていく。


 普通電車で都心から離れるので、人も少なく普通に座れた。


「……はは」

「ん? どうしたの?」

「いや……前までだったらこっちの方には絶対行かなかったなって……。こんな自然豊かな景色が割と近くにあったなんて、知りませんでした」

「そうだよ~? ちょっと横道を歩けば今までと違った景色が広がってるんだから」

「ベル様はこっちの方に来たことあるんですか?」

「ん~。あったようななかったような。忘れちゃった。それより見て下僕くん。あれが──」


 そう言ってベル様は外の景色を指さしながらツアーガイドさながらの解説をお披露目してくれた。

 自分の知らない植物の名前や、山や川の名前。全て当たり前のように教えてくれた。


「ベル様って物知りですよね」

「そうかな?」

「そうですよ。だって色々な事知ってるじゃないですか」

「ん~。知ってるだけだよ。さっき教えたことは、今の人間界ならネットでいくらでも出てくるしね」


 そう言って、ベル様はどこか遠い目をしていた。


「でも、こうして実物を見たのは初めて。下僕くんが一緒だから、見る気になったんだよ」

「……あ、ありがとうございます?」

「にひひ、お礼を言うのはこっちのほう。最近、毎日が楽しいの。下僕くんが朝ごはんを作ってくれて、一緒に遊んでくれて、一緒に寝てくれる」

「寝てあげてるわけではなくてですね……ベル様がいつの間にか僕の寝床に潜り込んでるんですよ」

「そだっけ? ともかく、アタシは下僕くんに感謝してるって事」

「そんな。僕の方こそベル様には感謝してもしきれないぐらいで──」


 その時、トンネルから抜けて、見晴らしのいい景色が広がった。


「わぁ~! ほら見て下僕くん!」


 眩しく、無邪気な笑顔。

 思わず見とれてしまった。


「綺麗だねっ!」

「……はい、そうですね」


 まだ目的地には着いていないが、今朝のモヤっとした気持ちは、完全に消え失せていた。



「着いた~!」


 ゆっくりと電車に1時間ほど揺られて、たどり着いた。

 降りたことのない駅だったが、つい最近どこかで見たような気がする。


「……あ。テレビでやってたとこか」

「そうそう。割と家から近かったし、人も多そうじゃないからいいかなって」


 今はシーズンから外れていることもあってか、駅を降りる人は少なかった。そういえばテレビでも穴場だとか言っていた気がする。


「ほら、見て下僕くん」

「え?」


 ベル様が指さした先には、おじいちゃんおばあちゃん。だけではない。年が同じくらいのカップルや、どこか気品のある男性女性もいた。


「ね? 平日の昼間でも、いろんな人がいるんだよ」

「は、はぁ」

「だから、別に気にしなくていいの。分かった?」

「あ……」


 イマイチ何を言いたかったのか分からなかったが、ベル様なりに励まして、気を紛らわしてくれてるのだと分かった。


「ほらっ、行こっ!」

「は、はいっ!」


 ベル様に引っ張られるようにして、歩いていく。

 珍しくベル様も体力が有り余っていたのか、ぐんぐん先を進んでいく。

 そして目的地にたどり着いた。


「おぉ……!」


 辺り一面、綺麗な花畑だった。

 一種類でなく、色とりどりの花が植えられており、幻想的な風景とさえ思えた。

 こんなに間近で花を見たのは久しぶりかもしれない。


「綺麗だね……」


 風でなびく髪をおさえながら、ベル様はそうつぶやいた。

 そんなベル様が、花に負けないぐらい綺麗に思えた。


「……綺麗だなぁ」

「……ん?」


 そして、思わず口に出ていた。

 花畑を見て言ったのならまだ誤魔化しようがあったが、がっつりベル様の方を向いて口に出してしまった。


「あ……! いや、今のはえっと、その……!」

「にひひ。下僕くん、意外とロマンチストだねぇ」

「す、すみません……」

「謝らなくていいよ。今すっごいいい気分だし」

「そ、それは良かったです、はい……」


 は、恥ずかしすぎる……。

 思っていたのは事実だが、まさか口にまで出しているとは思わなかった。

 まさかこれも魔法なのでは……。


「~♪」


 ベル様が鼻歌交じりに先を歩いていく。

 そんな様子を見て、喜んでもらえたなら何でもいいかと思えた。


 そして、ベル様の鼻歌にどこか懐かしさを感じていると、聞き覚えがあることに気が付いた。


「その曲、懐かしいですね。というか良く知ってますね」

「え? そんなに懐かしい?」

「はい、僕が小学生の時流行った曲ですよ、確か」

「20年ぐらい前ってこと? そんなに昔じゃないじゃん」

「はは、自分にとっては結構昔ですけどね。20年って」

「へぇ、そうなんだ。アタシにとってはつい最近に思えちゃうな~。あっという間だよ? 20年」


 人間と悪魔では時間の感覚が大きく離れているのだろう。

 不思議とベル様がいつもより大人びて見えた。


「でもね、最近はもっと、もーっと。時間の流れが、早く感じちゃうかも。どうしてだろうね」


 嬉しそうに、困ったように、ベル様は笑った。


 ベル様は、一体何歳なのだろう。いつ人間界にやってきて、どれぐらいの時を過ごしたのだろうか。

 そう考えると、僕はベル様の事をまだまだ全然知らない。

 使い魔として、もっと知っておくべきではないだろうか。


 ……いや、それは言い訳だ。

 僕は、一個人としてベル様のことが知りたいのだ。


「……僕もです」

「うん?」

「僕も、最近時間の流れは早いなって、よく思います。気が付けば朝になってたり、かと思えば夜になってたり。……って、それは前も一緒か」

「あー、また仕事の話ー?」

「ち、違います違います。前までは、時間の流れが速くても何も思いませんでしたよ。むしろ、もっと早く、早くって。それこそ、働かなくて済む年齢まで早く過ぎてくれって思ってました」


 朝起きても仕事。家に帰っても仕事。夜寝るときまで仕事の事を考えていた。

 早く定年が来ないかな、なんて思ったりもした。


「けど、今は──今みたいな時間が、ずっと続けばいいのにって、そう思ってます」

「……にひひ。そっか」


 社会的な目線で見れば、僕の時間は止まってしまっているのだろう。

 だけど、止まった時間の中でしか得られない幸福を、今こうして感じられる。

 ベル様がいなければ、こんな幸せを感じることなど無かったと思う。


「ふっふ~ん。これもう勝ったも同然かなぁ」

「……? 何がですか?」

「だってぇ~。今の発言ってぇ、アタシの使い魔でいる時間がずっと続いて欲しいって言ってるようなものでしょ~?」

「あ、あぁ~……」

「にひひ。後1カ月なんて待たずに、今ここで正式に承諾しちゃった方がよくな~い?」


 ベル様のニヤニヤ顔が止まらない。どことなく悔しい。


「……いえ、契約は契約ですので。きっちり、期日まで待ってください。答えはちゃんと出しますので」

「ちぇ~、出し惜しみするなぁ。契約変えちゃおっかな」


 変えようと思えば変えてくるのだろうが、ベル様はそうしない。これはベル様なりの流儀というか、プライドなのかもしれない。


「暗くなってきたし、そろそろ帰りましょうか」

「うん。あー楽しかった。じゃあ、はい」

「え?」


 ベル様が両手を広げる。この流れは既視感しかない。いつもの、というやつだ。


「疲れたから、おんぶ♡」

「……今日だけですからね」

「やったー♡」


 何度目かの”今日だけ”を許容し、ベル様をおぶる。

 後1カ月。答えを出す日と、クリスマスが近づいていた。

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