第11話 リサ

「はぁ……」


 会社のデスクでため息をついている女性がいた。

 背は平均より低めで、明るめなベージュ色のポニーテールが彼女が項垂れるのに合わせて揺れていた。


「どしたんリサ? 調子悪い?」


 同僚から声がかかった。実際リサの心境は決して良いものではなかった。


「あー、うん。ダイジョブ。何でもない」

「何でもないって顔じゃないけど……話聞くよ? 今日飲み行っちゃう?」


 優しい気遣いが今は素直に嬉しかった。

 ここはお言葉に甘えることにした。


「ん。ありがと。さっさと仕事終わらせちゃお」

「よしきた~!」


 こうして、リサの新しい日常は順風満帆とはいかずとも、今日も緩やかに時を過ごしていた。



 リサたちは仕事を終わらせ、しっかり定時に帰宅することができた。

 行きつけの居酒屋に行き、個室に腰かける。


「で? で? 何があったの? 最近は新しい彼氏ができたーって言って幸せそうだったじゃん」

「う……いや、まさにその事だったりするんだよね……」


 リサは1カ月ほど前、1年間付き合っていた元カレ、高坂総司こうさかそうじに見切りをつけ、新しい男と恋人関係になっていた。


「付き合って1、2カ月って、まだまだ全然楽しい時じゃないん? ほら、前の彼氏の時は全然会えない~ってよく愚痴ってたじゃん」

「ん~、確かに総司さ──元カレとは違って時間は取ってくれるし、恋人らしいことはできてるんだけどさ……」

「けど?」

「その……女慣れしすぎてるっていうの? なんか私に対してだけの特別感があまりないっていうか……」

「う~ん、例えば?」


 店員から注文してた飲み物が渡され、ひとまず乾杯。

 店の雰囲気やアルコールが少し入り、口も饒舌になりつつあった。


「その、さ。前ホテルに行った話になっちゃうんだけど」

「うわ~、今から惚気られちゃう感じ?」

「も~違うって。その、ホテルに行ってした後、すぐに素っ気なくなっちゃうっていうか……スマホいじったり、眠そうにしたり」

「普通じゃない? 私の彼氏もそうだし」

「でも、ずっとだよ? 返事もあー、とかん-、とか。最初会ったころとは全然違うっていうか……」

「あ~、ずっとはキツイかも」

「それでさ……。偶然画面見えちゃったんだよね。多分女の子と思うんだけど……その子と連絡してたみたいで」

「え、マジ……? 普通に浮気じゃんそれ」

「やっぱそうだよね……」


 正直なところ、リサ自身も彼が浮気をしてるんじゃないかと疑う瞬間が何回かあった。

 スマホの画面を見られるのを異様に嫌がること。

 休日にデートを誘っても断られること。

 夜の営みが段々と雑になっていくこと。


「この前なんか名前呼び間違えられたりしてさぁ」

「うわっ! 一番ダメな奴じゃん!」

「やっぱありえないよね……! ん~、最初会った時は全然そんな感じの人じゃなかったんだけどなぁ」

「ん~、1,2カ月でそれは確かに女慣れしてる感あるわ。いくつだっけ、彼氏」

「25。二個下だね」

「25かぁ。全然イケイケな年齢だよね」

「そうなの。だからまぁ……許容してあげなきゃなのかなって……」

「まぁ見切りつけてまた新しい彼氏探すのもありじゃない? ほら、今日は飲も飲も! 飲んで嫌な事忘れちゃえ!」

「ん、そうする」


 結局、その日は色々と同僚に愚痴ってストレスを発散し、飲み屋を出た。

 ストレスは発散できたが、不安の解消には至らなかった。



 駅について、スマホをいじりながら電車を待っていた。

 電車が来たので乗り込み、適当な座席に座る。

 ふと顔を上げると、対面のホーム。そこにリサの前に見知った男がいた。


(あ、翔太……?)


 翔太。

 リサの今の彼氏だった。

 スーツ姿で爽やかな笑顔を浮かべている。

 電話でも掛けようかと思ったが、彼があまりに楽しそうに笑っているので思わずためらってしまった。

 それも、その笑顔は自分にではなく、見知らぬ女性に対して向けていた。


「え……?」


 相手は大学生ぐらいだろうか。

 自分よりずっと若く見える、女性というよりも女の子という表現が適しているような可愛らしい子だった。


 電車が動き出し、彼と女の子がゆっくりと視界からフェードアウトしていく。


「見間違い、だよね……」


 その日はうまく眠れず、夜を過ごした。



 次の日、さりげなく翔太に対してメッセージを送ってみた。


『昨日の夜、21時ぐらいって駅とかいた?』

『いたよ~、普通に帰るとこだった』

『そうなんだ~、偶然! 昨日私も駅にいて翔太っぽい人見かけたからさ~』

『まじ? 声かけてくれてよかったのに』

『いや、誰かと話してたし邪魔したら悪いかなって』

『あ~、大学の後輩。昨日偶然会ってちょっと話してたんだよね』

『そうなんだ!』


 思いのほかあっさりと答えてくれて、正直ほっとしていた。

 下手に誤魔化されて言い訳をされるよりもずっといいと思えた。


『今日会える?』

『いいよ~』


 やった、と心の中で喜ぶ。

 今日のタスクである事務作業はいつもより少し多いが、彼に会えるという喜びから仕事へのやる気もかなり上がっていた。


「よし、なんとか定時で終わらせるぞ~!」


 伸びをして、目の前のタスクに取り掛かった。



 それから大急ぎで仕事を終わらせて、定時を迎えようとした時だった。


「あら、随分早く仕事が片付いてるじゃない」

「あ……主任」


 主任だった。

 主任との関係はお世辞にもいいとは言えなかった。主任から声を掛けられるときは、大抵面倒な仕事が割り振られる。

 その予想は、虚しくも当たっていた。


「それならこれもお願いね」

「えっと、すみません、私用事が……」

「ん~、でも月末でみんな頑張ってるし、リサさん最近定時上がり多かったじゃない? 少しぐらいは協力的になってくれると嬉しいんだけど」


 口調を優しくしているつもりだろうが、リサからしてみれば鬱陶しく煽られているようにも聞こえた。


 こういう場合、逆らうと後が面倒なのだ。今よりもっと理不尽に仕事を押し付けられると思うと、NOと意思表示する事が躊躇われた。


「……分かりました」

「そう? 助かるわ」


 結局、仕事を引き受けてしまった。


 主任が離れて即座に、スマホで翔太にメッセージを送った。


『ごめん、仕事押し付けられて今日メチャクチャ遅くなっちゃう~!』


 心のどこかで、心配してくれるのだろうと期待していたが、帰ってきた返事は実に淡白なものだった。


『まじ? じゃあ今日はパスだね』


 それだけだった。


「ちょっとは心配してくれてもいいのに……」


 思わず口に出して呟いてしまった。

 そういえば、総司さんは自分がどれだけ忙しく大変な思いをしていても、こちらを気遣うような事を言ってくれたり励ましてくれたっけ、と今更になって思い返していた。


「……はぁ」


 昨日と同じく溜息を吐きながら、やる気がだだ下がった状態で押し付けられた仕事を進めるのだった。



「お先に失礼します」


 そう言って仕事を終えたのは、終電間際の時間だった。

 エレベータに乗り、1階のボタンを連打する。


(いや、ありえなくない!? っていうか主任先に帰ってるし、何なの!? 全然お先にじゃないし!!)


 内心ブチギレていた。

 仕事を押し付けられた挙句、押し付けた本人は先に帰る始末。


「はぁ……ホント最悪」


 スマホを取り出し、LINEを開く。

 翔太からのメッセージはない。


『今仕事終わったよ~。メチャクチャ疲れた~(泣)』


 送信したが、既読にはならず。

 帰る1時間ほど前にも送信していたが、その内容も既読にはなっていなかった。


(翔太も忙しい……んだよね?)


 ふと昨日の光景が頭をよぎる。


 いやいや、まさかそんな。


 そう言い聞かせて会社を出た。


 駅に向かう帰り道の途中、何件かラブホテルの前を通る。

 普段は大通りを進むのだが、こちらの方が近道なのだ。今日は早く帰りたい思いが強く、自然と近道を進んでいた。


 2件目のラブホテルを通り過ぎようとした時だった。


「え──」


 見知った顔が、建物から出てきた。


 1人は自分の彼氏である、翔太。

 そしてもう一人は、昨日翔太と楽しそうに話していた女子大生っぽい女の子だった。


「……あー」


 向こうもリサに気付いたようだった。

 一瞬気まずそうに視線をそらしたが、開き直ったように、何事も無かったかのように背を向けて立ち去ろうとしていた。


「ま、待って!」


 思わず声をかける。


「誰? 知り合い?」

「あー、ちょっとね。前一緒に仕事する機会あってさ、そんな感じの人」

「あ、そうなんだ~。え~、ちょっと妬いちゃうかも~」


 目の前で肩を組み、これでもかと体を接触させている。


 どうして?

 なぜ、恋人だって言ってくれないの?


 そう思っても口には出せない。目の前の状況に頭の理解が追い付いていないからだ。


「えっと、あの──」

「あんなオバサン、興味ないって。ほら、行こうぜ」

「うんっ」


 そう言って、2人は立ち去ってしまった。


 寒い、寒い、寒い。


 しばらく立ち尽くしていたが、気温の寒さと独り身に戻った孤独さに耐えきれなくなり家に帰ることにした。


 何も考えられない頭のまま、電車に乗り、最寄り駅で降りて、いつの間にか家についていた。


「……ばっかみたい」


 そこでようやく、涙が溢れ出た。

 そして、これは罰なんだと思った。

 彼に愛想を尽かし、浮気した自分を神様は良く思わなかったのだろう。

 まさか自分も同じ目に合うなんて、悲劇を通り越して喜劇とさえ思えた。


「……総司さんも、こんな気持ちだったのかな」


 何も考えられなくて、お腹も全く空かない。

 こんな深い絶望を与えてしまっていたのなら、自分はなんてことをしてしまったのだろうと思った。


 誰もいない部屋で、罪悪感だけがまとわりついていた。



 次の日、リサは仕事を休んだ。

 とてもではないが、今は出社できるような顔ができていない。


「う……」


 起きてからとてつもない空腹感が襲う。昨日帰ってから何も食べず、すぐに寝てしまったのを思い出した。

 髪もボサボサで、肌も化粧を落としていないのでゴワゴワしていた。


「はぁ……」


 何とか体を起こし、顔を洗って髪も適当に整えた。

 冷蔵庫にあった牛乳とシリアルで朝食完成。

 食べながらボーっとテレビを見ていると、思わず手と口が止まってしまった。


『続きまして、パワハラ、セクハラなど様々なハラスメントが横行し、加えて給料の未払い、勤務実績改ざんをしていた会社が告発され、倒産にまで至ったという事です』


 それは、聞き覚えのある会社だった。

 忘れるはずがない。


「嘘……これ、総司さんがいた会社……」


 忘れようとした罪悪感が、膨れ上がって一気に押し寄せてくる。

 日頃からこんなひどい仕打ちを受けていた彼に、自分はなんてことをしてしまったのだろう。


「うっ……うぅ……っ!!」


 涙を流すことしかできなかった。

 LINEで謝罪のメッセージを送ろうかとも考えたが、もし、返信が無かったら。返信できるような状態じゃなかったら。

 そう考えたら怖くてできなかった。

 全てに嫌気がさして、身を投げ出していたとしても、おかしくない。

 自分だったら、そうしてしまうかもと思ってしまったからだ。


「ごめん……ごめんなさい……」


 もう一度、会えるのなら。

 会って、彼に直接謝りたい。

 その日は一日中、泣きじゃくることしかできなかった。


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