第10話 晴れて無職

 僕がベル様と出会って、休職で仕事をしなくなって1カ月になろうとしていた。

 起きる時間は働いていた時とは大きく差はないものの、睡眠時間は確実に増えている気がする。

 おかげで体の調子もいい。

 洗濯でもしようかな、と起きてテレビをつけた。


『今週は雨模様。傘が手放せない1週間となるでしょう』


「うわ……困ったな」


 天気予報はずっと曇り、または雨マーク。

 これでは洗濯物を外に干すことはできない。

 今使っている洗濯機に乾燥機能はついていない。こういう時ケチらずにもっといいものを買えば、となんど後悔したことか。


「2、3日ならまだしも……1週間はキツイなぁ」


 既に洗濯物タワーが高さを増し始めており、完成されようとしている。


「仕方ない、コインランドリーに行こう」


 そう決意した、曇天の朝であった。



「おあよ~」


 のっそのっそとベル様が起きてくる。

 椅子を引いてやり、ゆっくりと座らせる。この動作も慣れたものだ。


「ん~、ありがと~」

「いえいえ。それで、ベル様。今日は少し出かけてこようと思います」

「えぇ……ほんとぉ……? 外雨降りそうだよ……? 死んじゃうよぉ……」

「さすがに雨では死にませんよ」


 まだ寝ぼけているのか、飲み物を持つ手もユラユラと危なっかしい。見ていられないのでスプーンですくって飲ませてあげる。

 パンも小さめにちぎって食べさせる。

 こうしているとまるで赤ちゃんである。

 あまり甘やかすのは良くないよなぁ、と思いつつも、にへらと笑う顔につい負けてしまう。


「んひひ……幸せぇ」

「どういたしまして。さっきの話の続きですけど、出かけると言ってもすぐに戻ってきますから」

「10秒くらい?」

「いやさすがに秒では帰れませんが……コインランドリーで洗濯物を乾かしたいんです。ほら、そびえ立っているでしょう、洗濯物タワーが」

「んー、最近雨続きだったしね……」

「今週はずっと雨みたいですよ」

「うへぇ……頭痛くなっちゃうよ……」

「ベル様は天気で体調変わる体質ですか?」

「ん~、雨はあまり好きじゃないんだよねぇ。体はだるいし、頭は痛いし、魔法の調子は悪くなるしで散々だよぉ」

「はは……確かに会社の人でもいましたね、雨の日とか天気が悪い日は死にそうな顔の人」


 まぁ僕は雨だろうが晴れだろうがいつも死にそうな顔をしていたけれども。


『こちら駅前です。今ちょうど雨が降り始めまして、道行く人は傘を差して歩いています』


 テレビでは街頭の中継映像が流れていた。


「やっぱりみんな死にそうな顔してる……人間は働きすぎだよぉ」

「うわ……もう雨降ってきてるのか。降り始める前には済ませたかったんだけどな」


 そんな会話をしていると、ベル様が食事に満足したようだった。寝ぼけまなこも治ってきている。


「ん、ごちそうさま。ふわぁ……。下僕くん。今日はやめとこうよ」

「う~ん、でも今日ぐらいが限界ですよ、あれ以上積みあがったらタワーは崩れますよ」

「じゃあ、タワーから引っ張り出して着ればいいじゃん。そうすれば一生洗濯しなくてよくなるよ? アタシって天才~♡」

「止めましょう。踏み込んでいけないラインを一線越える気がしてます」

「ちぇ~、下僕くんのオカン」


 言われたことない文句を言われたが、実際どうしようか悩んでいた。

 雨はまだ本降りではない。

 行くとしたら今がベストな気もする。


「やっぱり行ってきます」

「むぅ……しょうがないなぁ、アタシもついていく」

「え、でも洗濯物回してる間はたぶん何もやることないですよ? ベル様は部屋でゆっくりしてもらっても──」

「いいから行くの。また下僕くんの調子が悪くなったら大変だからね」

「……ありがとうございます」


 正直、絶対にそんなことはないとは言い切れなかった。

 それに、ただ待って時間を過ごすより、ベル様と話して時間を過ごす方がずっといい。


「それじゃ、行きましょうか」



 コインランドリーに着いた。

 平日の時間なので人はおらず、洗濯機も普通に開いていた。


「へぇ、初めて来たけど、こんなところで洗濯するんだね」

「毎日じゃないですけど、量が多い時とか、今日みたいな雨の日は使ったりしますね」

「ふ~ん。あはは、服がいっぱいぐるぐる回ってる。なんか新鮮~」


 ベル様は興味深そうに洗濯機をじっと見つめていた。


 外はまだ雨が降っている。

 まだ本降りという感じではないが、急いで帰るに越したことは無いだろう。


「……」


 外を見ると、スーツを着た人が傘を差しながら歩いている。

 こんな雨の日に大変だな、そう思っていると、その人と目が合った気がした。


 思わず目をそらした。

 自分がいけないことをしているような感覚がしたからだ。


 平日の午前中。

 サラリーマンからすれば働いている時間帯だ。

 あの人は、今の僕を見てどう思っただろうか。

 羨ましがったのだろうか。

 鬱陶しく思ったのだろうか。

 浅ましい人間だと思われたのだろうか。


「──くん」


 やはり自分は、今の生活に甘えているだけなのではないだろうか。


「──僕くん」


 明日、いや、今日にでも会社に電話をして、働ける意思を示さなければ、社会人として失格──。


「下僕くん!」

「っ!? す、すみません。どうかしましたか?」


 どうやらベル様にずっと声をかけられていたらしい。全く気が付かなかった。


「下僕くん、仕事の事とか世間体とか考えてたでしょ」


 ドキッと心臓が跳ねた。心を見透かされてるようだった。


「やっぱり。お休み中にまで仕事の事なんか考えなくてもいいのに」

「……ベル様はなんでもお見通しですね。もしかして魔法──」

「使わなくても分かるってば。下僕くん明らかに顔色悪くなってるし」

「そ、そこまでですか……」


 仕事に明け暮れている時は全く気が付かなかったが、今こうして一歩距離を置いて考えてみると、自分がいかに過酷な労働環境で働いていたのか実感できる。

 その証拠に、仕事の事を考えただけでこの有り様だ。


「下僕くん」

「はい、何で──」


 ぽんっ。


 何ですか、と言い切る前に、体が押され、ランドリーにある椅子に座らされた。

 そして、至近距離に顔を近づけられる。


「ベル……様……?」


 頬を両手で包まれ、顔を背けることすら許されなくなる。


 長いまつ毛。

 吸い込まれそうなほど綺麗な瞳。

 くらくらする甘い匂い。


 視界の全てが、彼女で埋まっていた。


「ねぇ、下僕くん」

「は、はい」

「下僕くんの、本心を聞かせて?」

「ほん、しん?」

「そう。アタシは、下僕くんの、高坂総司こうさかそうじの本当の声が聞きたいの」

「きゅ、急にそんなこと言われても……」

「じゃあ、聞くね」


 一呼吸おいて、ベル様は僕に問いかけた。


「会社に戻りたい?」


 簡潔な問いかけ。

 イエスかノーか。それを答えるだけの問いかけ。


「それは、会社に戻らないとみんなの迷惑に──」

「アタシは、下僕くんがどうしたいか聞いてるの」


 目をそらそうとしても、それをベル様は許さない。


「下僕くんの心の声なんて、魔法を使えばすぐに分かる。でも、アタシは下僕くんの意思で、下僕くんの口から聞きたい。そうでないと、アタシはイヤ」

「……」

「聞かせて? アタシは魔法を使わない。今日は雨だから使うのもメンドクサイの。だから、下僕くんから、ね?」


 優しく、諭すような声。


 自分はどうしたいのか。

 あの目まぐるしい生活に戻りたいのか。

 寝て起きて食べて、会社に行って仕事をして家に戻ってきて食べて寝て。

 あの頃は幸せだったか。

 ベル様は言ってくれた。

 自分の本心を聞かせてくれと。

 周りのことは考えない。

 自分の事だけを考えて。

 自分はどうしたいかを考えて。

 本当は、僕は──。


「あの会社には、戻りたくない」

「うん」

「仕事のやり方はメチャクチャで、仕事と食事と睡眠だけの、何も面白くない生活に、戻りたくない、です」

「うん」

「周りの迷惑とか、社会人としての責任とか、そういうのは全部抜きに考えて」

「うん」

「僕は……もう二度と……あの会社には、行きたくないです」


 はっきりと、自分の口から言えた気がする。

 建前ではなく、本音で。

 口に出してしまえば、社会人としてダメだと思っていた。

 だけど、言った。いや、ベル様のお陰で口に出せた。


「ありがとね、本音で話してくれて」

「……いえ。すみません。こんなみっともない姿……」

「にひ。人間は弱いんだから、みっともなくて当然。それに、下僕くんはみっともなくないよ。今まですっごく頑張ってきたんでしょ? えらいえらい」


 優しく頭を撫でてくれる。

 本当にこの悪魔は、どこまで自分を甘やかしてくれるのだろう。

 このまま何も考えず、身を委ねて、ゆっくり眠りたい──。


 ピー! 運転が終了しました。


 その時、機械的な音声が響き渡った。

 洗濯が終わったのだ。


「あ、せ、洗濯終わりましたね。僕、取ってきますんで」


 堕落しそうな感覚をなんとか抜け出し、洗濯物を回収した。


「もう……。もうちょっと甘えてくれてもよかったのに」


 後ろから聞こえた声にドキドキしながら、せっせと作業を進めるのだった。



 それから、どんよりとした天気が予報通り一週間ほど続いた。

 外に出ようにも雨なので、そもそも出ようという気にはならず。

 ベル様は気を紛らわすためにゲームしよ、と言ってくれたり、動画一緒に見よ、と隣に座ってきてくれたりと、インドアの過ごし方の極意をみっちり教わった。


 それでも、頭の片隅では仕事の事がチラついてしょうがない。


 会社を辞めると伝えるのはいつがいいのか。

 そもそも誰に言えばいいのか。

 言えたとして、辞めさせてもらえるのか。


 そんな不安がどうしてもよぎってしまう。


 それでも時間は進み、やがて雨が止み曇り空に変わった。

 時刻は午前10時。

 ベル様はまだ寝ており、テレビをボーっと眺めていた時ふと思い出した。


「あ、そういえば」


 郵便ポストをここ一週間全く覗いてない。

 いつもは部屋を出るときについでに確認していたが、部屋から出ることがほとんどなかったため見ていなかったのだ。


 ホントの最低限の身だしなみを整えて、部屋を出る。

 1階の郵便ポストを除くと、広告が何枚か、それと封筒が入っていた。

 一気に回収し、部屋に戻って中身を確認する。


「誰からだろう」


 差出人を見てギョッとした。


 なぜなら、自分が働いている会社だったからだ。



「な、何だろう……」


 嫌な汗が出てきた。

 何の知らせだろうか。

 休みすぎて戦力外ということで解雇通知? それとも、出社命令か。


 前者ならまだいいが、後者だった場合最悪だ。

 しかし、あの会社なら十分にあり得る。


 深呼吸をして、封筒の中身を開いた。


「……え?」


 ゆっくりと文字を追っていく。

 文字は頭に入っている。

 しかし、理解が全くできていない。

 落ち着いて、もう一度1枚目の紙の概要を呼んでみる。

 何度見ても、内容は同じだった。


 『倒産する運びとなりました』


 要約すると、紙にはそう書かれていた。


「と、倒産……? 倒産って、あの会社が潰れることの倒産?」


 封筒の中身には、倒産する経緯となったことや、今後の給料の支払い、いつまでに荷物をまとめなければならないかなど、詳細に書かれていた。


「……いや、いやいやいや。倒産なんて、そんなまさか、ははは」


 これは夢だろう。そうに違いない。

 きっと会社に戻りたくないとばかり思っていたから、こんな出来の良い夢を見てしまったんだ。

 現実感を取り戻そうとテレビをつけた。


『続きまして、パワハラ、セクハラなど様々なハラスメントが横行し、加えて給料の未払い、勤務実績改ざんをしていた会社が告発され、倒産されたとのことです』


 ニュースでは、聞きなれた会社名。

 そして、何度か見たことのある社長が苦悶の表情を浮かべながら何度も頭を下げる映像が流れていた。


「ほ、ほんとに……?」


「下僕くんおはよ~」


 ベル様は変わらずいつも通り起きてきた。あまりにいつも通りだったので現実感が少し戻ってきた気がした。


「べ、ベル様……」

「ん? どしたの下僕くん。顔がひきつってるよ?」

「あの、こ、これ……」


 僕はテレビに指をさした。

 ベル様が目をこすりながら、テレビを見た。


「え~、ひっどい会社だね。わ、ほら見て。200時間超えの残業でも手当つけず、だって~」

「あ、あの、この会社、僕の──」

「知ってるよ」

「え?」


 今、ベル様は知っていると言った。

 なぜ知っているのだろう。どこの会社にいたかなんて、話した記憶がない。


「ごめんね下僕くん。正直に言うとね、こうなることは知ってたんだ」

「え、知ってた、って。どういう、ことですか?」

「んっとね。アタシの知り合いに人間界の法律とか、そういうのに詳しい悪魔がいるの。その人に頼んで、下僕くんがいた会社の事調べてもらったんだ。社員証、勝手に見ちゃってごめんね」


 社員証は通勤カバンの中に入っているので、僕が買い物にでも行っている時に見られたのだろう。


「下僕くんがいた会社がどれだけひどいのか、調べるたびに分かってきたの。アタシの下僕くんがあんなところにまた行っちゃって壊れていくなんて、絶対にイヤ。だからアタシはあの日、聞いたの。ホントに戻りたいかって。下僕くんは言ったよね。戻りたくないって」

「そ、それは……」

「安心して。あの時は本当に魔法なんて使ってないから。下僕くんのお願いを、アタシが叶えてあげた。それだけだよ」


 それだけ。

 言葉にしてみれば、それだけなんだろうが、目の前の彼女は会社を一つ潰して見せたのだ。

 それだけ、というには済まないほど、ベル様は強大であることが身をもって味わった。


 しかし、恐怖は無かった。

 戸惑いこそあるものの、今まで僕が抱えていた大きな不安の種を、ベル様は取り除いてくれた。


「ん~、いい天気だね、下僕くん」


 ベル様と、雲一つない青空が背後に見える。

 本当に、今日はいい天気だった。




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