第5話 労働の対価

「……はっ! 出勤……は、しなくていいんだった」


 目が覚めて第一声が出勤である。頭は休みだと理解しているのに、体には社畜根性が染みついていた。


「……まだ6時か」


 休職して2、3日が経ったが、未だにこの時間に起きてしまう。


 いつもなら30秒で支度を済ませるところだが、休みなのでそんなハードスケジュールに追われることもない。二度寝してもいいぐらいだ。


「むにゃ……」

「むにゃ? って! ベル様……!」


 いつの間にかベッドにはベル様が潜り込んでいた。しかも半裸。ダボっとした寝間着は胸元がガバガバでちょっとでも上から覗けば乳首が見えるぐらいだった。


「き、昨日あれだけ言ったのに……」


 僕は昨日のことを思い出していた。



「それじゃあそろそろ寝ましょうか。ベル様はベッド使ってください」

「……? 下僕くんは?」

「僕はソファとかで寝るのでいいですよ。毛布はありますし、どこでも寝れるので」


 残業がどうにもならず、会社に泊まることは珍しくなかった。

 仮眠室なんて高級な部屋は弊社にはなく、僕は普通に執務室のフロアで寝泊まりしていた。

 最初は椅子を3つ繋げて寝たり、机に突っ伏して寝たりと試行錯誤を繰り返していたが、最終的には床に寝た方がマシだという結論に至ったのだ。


「だから、ベル様はベッドを──」


 ベル様の頬が面白いくらいに膨らんでいる。

 誰の目から見ても分かる。お怒りである。


「ばかっ! 社畜っ! あんぽんたん!」

「す、すいません……。昨日寝たベッドだとお気に召しませんか……?」

「ちっがーう!! 下僕くんが体を休めないと意味ないでしょ! 下僕くんベッドに寝るの!」

「いや、主人より良いところで寝るのはさすがに……って、も?」

「うん。一緒に寝ればいいじゃん」


 一緒に寝ればいいじゃん。頭の中で言われた言葉を繰り返す。


「……いや、いやいやいや。それもマズイですよ、えぇ」

「何が?」

「主人と使い魔ですよね? 同じベッドに寝るのはちょっと身分違いというか」

「アタシが良いって言ってるからいいでしょ」


 うーん、すごい独裁者。

 将来有望な魔王になりそう。


「あ~、分かったぁ♡」


 何やらご理解いただけたようで、ベル様はニンマリと笑っている。


「下僕くん。ご主人様に欲情する気なんだ。やらし~」

「……そりゃ、ベル様は素敵な女性ですし、男としては仕方がないというか……」

「……ふ、ふ~ん。さすがアタシの下僕くん。ちゃんと分かってるじゃん、うん」


 気のせいか、ベル様の顔が赤くなっているような。


「と、とにかく! 下僕くんはベッドで寝る! アタシもベッドで寝る! そこに何の違いもありゃしないでしょ!?」

「わ、分かりましたよ……」


 違うのだ、と言いたいところだったが、可愛らしい圧に根負けしてしまった。



 というわけで、お互い毛布を被り密着を防いだかのように思えたが、ベル様は自分の毛布をゲラウェイしてこっちの毛布へと忍び込んでいたのでした。


「とりあえず、起こさないようにしよう……」


 ぐいっ。

 何かに引っ張られる感覚があった。


「むにゃ……」


 袖をがっつり掴まれている。これでは身動きが取れない。


「まいったな……」


 服だけ脱ごうかと考えたが、もぞもぞ動き回ることになりそうだし、それでベル様を起こしては本末転倒だ。


「仕方ない……ベル様が起きるまで待つか」


 再び仰向けになり、天井を見つめる。


 ベル様と契約を交わした日、ベル様から言われたことを思い出す。

 主人を養い、敬い、主人の言う事を聞く。それが使い魔なのだと。

 養う……。養う……。


「生活費……どうしよ」


 正直、一番の悩みはそれだった。

 休職期間中は基本的に給与は発生しない。ウチの会社とて例外ではない。

 1人で何とかやりくりするならまだしも、2人分となるとかなり厳しい。悪魔であるベル様が人間の貨幣を持ち合わせているとはあまり考えられない。


 ベル様に生活費の事を相談するしかないだろう。


「情けないけど……しょうがないよな」


 申し訳なさを感じながら、ただただ天井を見つめるのだった。



「ふわぁ……」

「おはようございます、ベル様」

「ん、えへへぇ、下僕くんじゃん。おはよ~」


 結局、お昼である。平日にこんな時間までベッドの上にいたという事実に罪悪感が、と思ったがベル様のフニャフニャした笑顔で気は紛れた。


「ちゃんと休めてるじゃん、えらいえらい」

「いや、休みすぎな気が……」

「いーの。お腹空いちゃった。ご飯食べよ?」

「はい、準備しますから、顔洗って待っていてください」


 起き上がって部屋を出ようとすると、今度は服の裾を掴まれた。


「な、なんですか?」

「ん、起こして~」


 両手を広げて、抱っこ待ちのベル様がいた。


「いや、それぐらいは……」

「ん」

「お、起き上がるだけですよね……?」

「ん~」

「……今日だけですからね」

「んへへ~」


 柔らかな両手に触れ、起こす。


「ん、ありがと~」


 ふらふらとしながら、ベル様は部屋を出ていった。


「さて、準備しますか」


 昨日コンビニであれやこれやと買ってきたパンがまだ残ってる。

 いくつかテーブルに並べ、飲み物を用意しようとしたとき、ふと思った。


「コーヒーは……ベル様飲めるのか?」


 インスタントのコーヒーしかストックがない。

 悪魔とはいえ、見た目の年齢は大学生ぐらいに見える。コーヒーが苦手と言われても不思議ではない。


「ん~、良く寝た~」

「おはようございます、ベル様」

「うんうん。今日も良く敬ってくれるねぇ、えらいえらい」

「ど、どうも」


 それだけで頭を撫でられるのもかなり恥ずかしいのだが……。


「あの、ベル様。飲み物がコーヒーしかないんですけど……」

「ん? いいよ~? 砂糖10杯ね」

「良かった。今飲み物がインスタントのコーヒーしかなくて……ん? 10杯?」

「ほら、はやくはやくぅ~」

「あ、あぁすみません」


 ということでコーヒーと砂糖をテーブルに置いた。砂糖10杯と言われたが、聞き間違えだろう。


「どうぞ」

「ありがと~」


 ベル様は砂糖の蓋を開けた。

 1杯、2杯、3杯、4杯、5杯……。


「ちょ、ちょっと待ってください!?」

「ん? どったの?」

「お、多すぎません……?」

「え~、だってこれぐらい入れないと苦いよ?」


 会話しながらも次々と砂糖が投下され、10杯入れたところでストップした。

 そして何の躊躇いもなく、グイっとコーヒーという名の甘味飲料を飲んでいた。


「ん~、おいしっ」


 うーむ……悪魔も虫歯とか糖尿病になるんだろうか……。

 とりあえず、コーヒーを飲ませるときは気を付けようと思った。



 さて、食事も終わり、本題に入る。もたもたしてるとベル様はすぐに寝てしまうので、可及的速やかに話さなくては。


「あの……ベル様」

「ん? なぁに? 一緒に寝る?」

「い、いえ。それはまた別の機会に……。あの、こんな事言うのは申し訳ないんですけど、お金がですね……」

「お金? あ~、給料! 忘れてたね、ごめんごめん」

「え?」


 給料? 支払われるの? 使い魔ってまさかの給与制?


「そうだよね~、下僕くんもお金無いと生活できないもんね~」


 何かベル様の近くで異空間らしきモヤモヤが開いとるように見えるんですが……。

 その空間をゴソゴソと漁って数秒後、ついに出てきた。


「ほい、これが1カ月分の生活費、私の分も含めてだけど、足りるかな?」


 ドン!

 という音と共に置かれたのは、札束二つ。


「ふぉ!?」


 思わず変な声が出てしまった。アニメとかドラマでしか見たことない、紙でまとめられている札の束。もちろん1万円札である。


「ありゃ、足りなかった? ちょっと待ってね、今取り出して──」

「いやいやいやいや! 十分すぎますって! というかこんなに貰えませんよ!」

「え? 人間っていつもお金欲しい~って言ってるから、これぐらい必要かと思ってたけど……」

「そりゃあるに越したことはないですけど……そもそもこのお金本物ですか?」

「失礼だなぁ、ちゃんと本物だって。魔界の模倣技術──じゃなかった、ちゃんと働いて手に入れたからね、うん」

「はっきり模倣って言いましたよね……?」


 目の前に広がる大量の偽札。今は驚きより捕まるんじゃないかという不安感の方が大きい。


「……やっぱりこれは貰えませんよ」

「え~、どうして?」

「えっと……お金っていうのは何かを成したことで貰える報酬だと僕は思ってます。だから、何もしてないのに報酬を貰うのは──」

「下僕くんはアタシの傍にいてくれるじゃん。それだけで成してるとアタシは思ってるんだけど?」

「い、いや。それは全く釣り合ってないというか……」

「もう、ワガママだなぁ」


 やれやれと言った具合にベル様は片方の札束をひっこめた。


「じゃ、アタシの生活分だけ下僕くんに任せる」

「あ、ありがとうございます。お預かりします……」


 これでも十分すぎるくらい多いのだが、これでベル様の満足いく暮らしを実現しろという事だろう。


 ベル様の生活分は何とかなったが、給料が発生しない僕は──。


「でもさ、さっきの下僕くんの理論は説得力がないかな」

「え……? それはどういう……」

「だって下僕くん、あんなに働いたのにお給料、全然貰ってないんじゃない?」

「な、何で知って……」

「にひ、図星かぁ」


 ベル様の言う通り、僕の理論は僕に当てはまっていない。

 終電は当たり前。土日働くのも当たり前。そして、努力に見合う給料が出ていないのも当たり前だった。


「おかしいよねぇ。あれだけ働いて、何かを成してるのに報酬はゼロ。これってどういうことなんだろ」

「それは……」

「ね? 間違ってるよね?」

「……はい。間違ってます」


 返す言葉も無かった。


「良かった。じゃ、その間違い正しておいたから♪」

「え……?」

「ふわぁ……眠くなってきちゃった。ちょっと寝るね」

「あ、はい……」


 ベル様が何を言ってるのか理解できなかったが、ベル様の眠気が限界だったらしい。すぐに床にコテンと横になり、寝てしまった。


「せめてベッドで寝ましょうね……」


 僕はベル様を抱えてベッドに寝かせた。



 異変に気付いたのはその数時間後。

 自分のスマホで通帳を見て気が付いた。


「なんだ……これ……?」


 いち、じゅう、ひゃく……。

 見たことない額のお金が自分の口座に振り込まれている。

 振込していたのは、ウチの会社だった。


「な、何がどうなってるんだ……?」


 給料? ボーナス?

 いや、明らかに普通の振込ではない。


「ふわ……下僕くんおはよ~」

「うわぁ!?」

「にひ、びっくりしてて草~。どったの?」

「い、いや。僕にもまだ良くわからなくて……ただ、僕の口座にお金がすごい入ってまして……」

「あ~、やっと来たんだ。意外にかかっちゃったね」

「え……?」


 ベル様は全然驚いてないどころか、むしろ当然みたいな反応だった。


「も、もしかして、これ、ベル様が……?」

「うん、そうだよ」


 これまたさも当然、といった顔で答えた。


「だ、ダメですよ! 会社のお金を勝手に……それは横領って言って立派な犯罪で……!」

「下僕くん……何か勘違いしてるみたいだけどぉ……それ、下僕くんのお給料だよ」

「きゅ、給料? いや、休職してるのに給料なんか──」

「じゃなくて。今までの未払い分ってこと」

「え?」


 今までの、未払い分?


「結構苦労させちゃったかもだけど、アタシの知り合いに調べてもらったんだよね。下僕くんの勤怠とか、仕事の様子とか、過去の記録。そしたら残業代未払いだらけだもん。びっくりしちゃった」

「もしかして、これ……」

「そ。残業代、休日出勤手当、深夜残業手当、後は……何だっけ、とにかく下僕くんが貰うべきものを今貰ってるだけだよ」

「……」


 誰に。

 どうやって。

 どうして。


 聞きたいことはいっぱいあったが、踏み込んではいけない気がした。


「対価はきちんと貰わないとね♡」

「は、はは……そうですね」


 一つだけ分かったのは、ベル様は非常にしっかりしているという事だった。




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