~夜間奇行のススメ~中
■ 三章 未来回想 Ⅰ
一日の学業が終わりを告げ、陽南高校は本日の放課をむかえた。今日も部活に精を出す様子の彩夏と絵美に別れを告げた後、改人はいつものように何気ない話をしながら逸輝と共に帰路に着く。
「改人、最近の調子はどうだ? 何か身の周りに問題はないか?」
「っ……ん、あぁ」
その言葉は時折逸輝の口から語られる、改人への気遣いの言葉だった。
その都度逸輝の気遣いには感謝しながら、多少の気がかりは問題なしにして『大丈夫だ』と返答している改人だったが、今日ばかりは一瞬言葉に詰まってしまう。
「なんだ、なにかありそうなさまだな? 構わずに言ってみろ」
「いやっ、えーと、そのだな……」
相談しようにも、未来から自宅のアパートに解放人類が時間旅行してきたなんて、どういう切り口から説明すればいいのか。しかも目の前の旧友は例外思考でありながらも極めて類まれな超高校生級の人種であって、ついにはMP結社のエージェントなんじゃないかと錯乱めいたビジョンに思考を支配されてしまう改人。そして、
「逸輝、お前ってさ……本当はMP結社のエージェントなんじゃね……?」
そんな途方もないセリフが、思わず喉元から漏れてしまう。その後ではっ、と我に返り、自分が今投げた言葉を疑いたくなる改人。すると、改人の数歩前を行く逸輝は――。
「………………いつから気付いていた? 答えろ、改人」
つかの間の沈黙の後、表情を180度変えて、改人のほうへと向き直る。表情があまりに真剣のそれなので、わずかに動揺の色を交えて言葉を返す改人。
「いや、ついさっき、なんとなく……」
「そうか……見事な推測だ改人。だが俺はエージェントの中でも目的のためならば手段を選ばない強硬派だ。正体を覚られた以上、その命もらい受ける。許せ――」
「おい、なんだよそれ、ほ、本当にエージェントだってのか……!?」
気づけばそこは閑静な住宅街の一角、周囲に人の気配はない。即座に改人の前で腰を低く据え、自身のブロンズヘアーを躍らせながら――手刀を振りかざす動作に入る逸輝。改人があまりの気迫に目を閉じた、次の瞬間――。
「――そう思ったのなら、今の演技を存分に褒め称えてくれてもいいぞ?」
逸輝は少しうれしそうな声色で、改人の左肩にポン、と右手を添えてみせた。
乗せられた肩から妙に痺れる感覚を覚え、思わず「ひゃっ」と間の抜けた声を出してしまう改人。それを見て、「ふっ」と涼しい顔で笑みを溢す逸輝。そして、
「「……くく、はははは、あーっはっはっはっはっは!!」」
どちらともなく、最後には声を大にして笑い声を上げた。冗談半分だと察しつつ、それでも改人は逸輝の演技に飲まれてしまったのだった。
改人が振ったエージェント疑惑に対し、逸輝が全力で応えてみせた一連の流れから理解できるように、逸輝には役割を演じる才能があった。まるで、その身に別の存在を降ろし宿すような、常人には理解できない回路を有する――その種の逸材。
「ったく、またすごい演技見せつけてくれちゃってよ。絶対役者の素質あるぞお前」
「はは、役者か。そのほうが百倍理に適うな。たとえ俺が解放意思なる力を手に入れたとして、エージェントになんてどんな理由からなってやるか。そんな責務に就くくらいなら、お前の参謀として国家に反旗を翻すほうが百倍ましだ」
MP保安財閥の家系でありながら、エージェントに毒を吐く逸輝。もっとも、そんな逸輝の一面を伺えるのも、陽南高校では改人くらいのものだろうが。
「おう、その時は約束だぞ? よろしく頼むな」
「俺とお前の間柄だ。万が一にでも解放意思に目覚めた際はこの俺に、遠慮なく相談するといい。じゃあ、また明日な」
ちょうど二人の別れ道にさしかかっていたことに気付き、改人も逸輝にあいさつを返す。
「おう、そうだな……また明日」
そう言って駅の改札で逸輝に別れを告げ――とうとう改人は、目を向けなければならない現実に精神を引きずり出されてしまった。
「――うあぁぁぁぁっ、帰りたくないぃぃぃぃ…………! 未来人とか怖すぎるわっ!」
正直に逸輝に相談すればよかったかもしれないと後悔したが――冗談交じりに医者を紹介される程度で済めばまだいい。逸輝の背後には本家本元のMP結社が控えており、エージェントが介入するような事態になれば、改人自身も只事では済まないようにも思えた。
どう考えても、面倒な展開しか思い浮かばない。もういっそのこと、なじみ深いベッドを手放すのは惜しいが、このまま自分の前から姿をくらまし、どこか遠くへ行ってほしいと切に願う限りだ。仮にこの目の前の現実が何らかのフィクションだったとする。物語の主人公は可愛くも超弩級の例外を宿した少女と一つ屋根の下で共同生活を送ることになったとして、自分は幸福だ、などと思うだろうか。改人が現状を当てはめて考える限り、答えは断然否だった。この日本列島は人々の思考が一つに縛られた、意思統一国家なのだ。そんな時代に解放意思という異形の力が存在していて、それは使い方を誤れば、人々の平穏を脅かしかない代物だ。時間の枠組みを飛び越えられる能力を持った少女と一つ屋根の下で暮らすことになったとしても、喜べる道理がない。
そんなこんなでアパートにたどり着いてしまった改人は、覚悟を決め勇気を振り絞り、カードキーをドアのセキュリティにかざした。
ピッと短く機械音が鳴り、ドアのロックが外れる。ドア越しに室内へ耳を澄ましてみるが、やけに静かだと感じる改人。改人はゆっくりとアパートのドアを開き、静かに身構えながら、警戒心を持ってアパートの中を覗き込んだ。中から、音は聞こえない。まだ、と表現すべきかもしれないが、中の様子を見る限り、少女は姿を現していないのかもしれない。ひとまず胸を撫で下ろして、改人が靴を脱ぎ、室内に上がろうとしたその時、
「うーん、さっぱり! いいお湯だった~♪」
玄関に立つ改人から見て左側面の、バスルームの扉がガチャリと開いた。そこから出てきたのは、髪を両手のバスタオルでわしゃわしゃかきあげ、一糸まとわぬ姿の月満優理だった。先ほどまで入浴中だっただろう彼女は、頬がほんのりと赤く染まっており、バストは衣服の上からでも予想できた通りに大きく豊かに実っていた。柔らかさを見せつけるようにそれが揺れに揺れているかと思えば、ウエスト部分はほどよくきゅっと引き締まっており、太ももの肉づきには健全な発育の色がうかがえる。脚の線もすらりと長く美しく、総評として彼女の裸体はバランスが綺麗に整っていて、つやのある柔肌が魅力的だった。予想はできていたはずだが、ゴツゴツした男の体とは全く異なるのだと改人は改めて実感してしまう。
「「……………………」」
何秒ほどが経ったのか、沈黙する両者。凄まじい勢いでアドレナリンを分泌させる頭脳とはうって変わって、改人の体は時を止めたかのようにぴくりとも動かなかった。優理自身も同じような状態らしく、ただ目と口を丸く開き固まっていた。
そして優理の頬の紅潮が臨界点を超え――ついに場の静寂を破った。
「わぁぁぁぁぁぁ!! どどど、どうしたの改人、なんでそんな所にいるのーーっ!!?」
声を張り上げながら、バスルームのドアを凄い勢いで閉じる優理。
「そっ、そりゃこっちのセリフだっ!! お前、今まで何処にいたんだよ!!!」
「ええええっと、とりあえずアパートの外出ててっ!! 私がいいって言うまで、外で待ってて!!」
「わっ、分かった!!」
言われるがまま外に飛び出すと、改人は背で扉をばたんと閉じた。驚きが幾重にも重なって、心臓がえらく高鳴っているのが分かる。
「す、凄いものを見てしまった……」
心を落ち着かせるために、目を閉じて一度深呼吸をする。しかしまぶたに焼き付いてしまった先ほどの映像は、また脳内で鮮烈に再生されてしまうのだった。
「……………………」
すると、外で待っているように指示したにもかかわらず、ほんの一分足らずで中の優理から声が返ってくる。
「……ねぇ改人、やっぱりもう入ってきてもいいかも」
「ん? やけに早いな、もう着替えて……」
そう言いながら改人がドアを半分まで開けると――そこにいた優理は、まだ何も纏わぬままだった。
「ぶっ! なんで裸のままなんだ! 目のやり場に困るだろーが!」
改人はまた、開きかけたドアを勢いよく閉じる。
「えーと、あのね? よく考えたら私、たとえ生まれたままの姿だったとしても改人の前で恥ずかしがる必要はないっていうか、いずれ見せることになるっていうか」
「だからお前は、俺をどこのかいとさんと間違えてんだよ! そのまま外に放り出されたいってんなら、喜んで手伝ってやるけどな!」
「わーそれはダメだよ、そんなことしちゃったら、改人のお嫁に行けなくなっちゃう~」
思わず血走ってしまった改人の迷言を聞くと優理は慌た様子で、どたばたと足音を立てて、入口から遠ざかっていったようだった。
「……ったく、いったいなんだってんだ……」
――理不尽だ、これはさすがに不条理すぎる。意を決して帰って来てみれば、何をのんきに人の家の風呂に入ってるのか。やはり、まだ何も知らないからこんなに理不尽な気分にさせられてしまうのだと改人は思う。改人は再度覚悟を決め直し、背を向けていた扉を正面から見据え直した。
「今度こそ、ちゃんと問い正す……どうするかは、それからだ」
髪を乾かすドライヤーの音が鳴りやむと、また足音が近づき、もういいよー、と優理が内側からドアを開いてきた。中では優理が水色のTシャツを着て、薄い緑のショートパンツをはきながら、まだ少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
「ほら改人、これなら大丈夫でしょ……?」
風呂上がりのせいもあるのだろうが、露出の度高めの服装に何か意図的な狙いを感じない気もしない改人。というのも、上下ともにサイズが少し小さめで、身体のラインが不自然に浮かび上がっている。露出している部分の素肌もまだほんのり赤く、それが妙に艶っぽい。
「……まぁいいか。それで、お前が未来から来たって話なんだけど、」
ぐぅ~~~~。
すると少女の細く引き締まったウエストから、やや不釣り合いな音が聞こえた。優理はまた恥ずかしそうに、頬を僅かに赤らめはにかんだ。
「あはは、ごめん改人。そういえば昨日から、何も食べてなかったよ……」
「あぁぁぁぁもう、なんなんだよお前ーーっ!」
その後、優理はご飯を食べないとうまく事情が説明できないと、出会ってまだ二日足らずの改人に向かって駄々をこねた。1秒でも早く話を前進させたかった改人は、自炊する手間を惜しんで、外出禁止時間のリスクも承知でコンビニまで出向いたのだった。
幸いアパートから徒歩三分のところにコンビニがあり、今日のような外出時間ギリギリの日は、わりとお世話になっている改人だ。
「あっ改人。言い忘れたんだけどあいにく私一文無しで。優理ちゃん、ゴチになります!」
そんなこんなでコンビニにたどり着くと、まるで仏を拝むように義理堅く改人の前で手を合わせ、小さくお辞儀をする優理。
「はぁぁぁぁぁ……?」
さすがの改人も、もう本当に訳が分からなくなり、それ以上返す言葉が出てこなかった。
もういい、ここまで来たら何が何でもこの未来人の素性を露わにして、自分との間に何があったのか、審議のほどを確かめてやる。やけになり、そう固く決意する改人。
「言っとくけど、好きなものあれこれ買ってやる金なんて、学生の俺にはないぞ」
「ノープロブレムだよ改人。こういうのは先のこと考えても、なるようにしかならないからっ」
「他人の金でどうにもならない展開にするのだけはやめろよ……」
改人の忠告を聞いてか聞かずにか優理は、一通り店内を見つめた後で『スタミナカルビ弁当』を手に取り、デザートのワッフルと、レモンティーを改人の持つカゴの中に入れた。改人も、安価なのり弁当とお茶をカゴの中に入れ、レジに進んだ。
「1780円です」
「………………」
なぜ見ず知らずの他人に意味もなく晩飯をご馳走せにゃならんのだ、てかデザートって何だと思いながら、改人は代金を支払う。買い物を済ませコンビニを出ると、優理は出入り口付近で何やら感慨深そうに夜空を眺めていた。
「……そういえば、もうすぐ宮代の空に大型の流星群が流れるんだよね」
こちらを向かずに夜空に呟いているようにも思えたが、自分が外に出たタイミングだったので、改人は一応返事として言葉を返す。
「そうだな、八日後のきりん座流星群だろ? 観測史上初の大型に当たる規模らしいし、みんな願い事を何にするか今から考え中だろうよ」
「……………………」
まだ物思いにふけっているのか、優理は夜空を見上げたまま静かなので、
「ほら、早く帰るぞ」
優理を追い越して帰路に就こうとする改人。
「あ、待って改人――それにしても、誰もいないねー」
折り畳み式の端末で時間を確認した後、改人は平然と答える。
「そりゃそうだろ、もう十八時四十分だ。後はもう少し経ってから、許可貰ってる大人たちが帰ってくるだけだからな」
なにもおかしくはない。この時間帯では、当たり前の静けさだ。
「いや実はね、いきなり押し掛けたりご飯買ってもらっちゃったりしたし。至るところ、ほんのちょ~っとだけ、悪いなって思ってる訳ですよ。改人さん」
至るところ募った罪悪感がほんのちょ~っとって、なら別に口に出さなくてもいいだろ、と思った改人だったが、いちいち反応していたらきりがないと、そっけなく言葉を返す。
「イヤいいよ、別に……もう変なこととかすんなよ」
「うんうん、それでね、恩義を感じた優理ちゃんがこれから改人を、『百億ゼニー』の夜景にご招待しようと思います!」
「いやお前本当に人の話を……なんだよそれ。夜景なんて、せいぜい自分ちの窓から見るもんで……」
「いいからいいから、優理ちゃんに任せなさいっ!」
「えっ、お……」
うろたえる改人に構わず、優理は改人の肩にタッチすると、胸元のベルを鳴らした。
チリンと鳴ったベルの音と共に――突如、改人の視界は一変する。今までの見慣れた住宅街の風景から打って変わって、改人の視界が捉えたのは木々の生い茂る森の中だった。
「ちょっ……どこだよここ!? なんで俺達、森の中にいるんだ……!?」
「まぁ落ち着いて。こっちだよ、改人」
優理はなだめるように言うと、戸惑う改人の背を押してさらに奥へと誘導した。優理がせかすので、改人もできるだけ平静を装い足を前へ進める。視界を支配していた木々が、徐々にまばらになっていく。
薄暗かった周囲に少しずつ、光源が差し込んでいく――。
「着いたよ改人。ほら、どう?」
そして改人の視界に飛び込んできたのは、夜の闇を光が照らす、この都市のまばゆいばかりの煌き。夜の街をこんな高所から見渡す機会などあるはずもなかった改人には、当然初めての光景だった。
「すごいなここ……夜の街って、こんな風に見えるのか」
「ここは私が時間旅行の能力で飛んできた、この街のはずれの裏山だよ」
日本国北東の地にて栄える県域、『宮代(みやしろ)』。その中枢都市となる『仙帝(せんてい)』の中でも、改人の住む南区『若葉』は、深い緑とはさほど縁のない所である。まさかこんな裏山へ来ることになるとは、改人は思いもしなかった。光り輝く夜の街並みが遠くまで見渡せ、確かに優理の『百億ゼニー』にも納得がいく。それがどこの国の通貨なのかは知るよしもないが、確かにいい景色だと改人は納得した。彼女が絶景のスポットだと豪語するだけのことはある。
「どこまでも続くこの夜の世界を、大好きな人と自由に駆け巡ること。……それが私の夢の一つなの。叶ったらなんて素晴らしいだろうって……夜空を見上げると、いつも思うの」
「確かに……その通りだ」
夜景を眺めながら思い返すように語る優理の理想が、改人の中の価値観と見事に重なる。夜空に自由を見出す優理の姿はまるで自分を眺めているようで、改人は不思議な感覚に陥ってしまう。
「さ、ご飯食べよ改人。もう減りに減っちゃって、おなかと背中がくっついちゃうよっ」
しかしすぐに表情をころりと変えて、しまりのない悲鳴を上げる優理。近くにちょうどよい高さの切り株を見つけ、すとんと腰を下ろす。善意で救急車でも呼んでやろうかと思いながら、改人は優理の隣に腰かけた。ここから伺える街の夜景はきらきら輝いていて、本当に綺麗だ。
「はいはい分かった、ほらよ」
そう答えると改人は、優理の選んだ『スタミナカルビ弁当』と、お茶を手渡した。先ほどコンビニで温めてもらったばかりの弁当は、まだほんのり温かい。
「カるカるカーるビカるっビおべんと~♪」
優理は割りばしをパキッと二つに割ると、独自のリズムに身を委ねながら、聞き慣れない謎のテーマソングを口ずさんだ。どう考えても今作っただろう、適当さ加減がある意味すごい。
「あーもう分かったから、さっさと食って、とっとと帰るぞ。規則に反していることには、変わりないんだからな」
そう言った直後に改人は、ハッと我に返った。何を言っているのだろうか、まるで今の発言は、目の前の彼女と当然のようにアパートに帰る、そんな言い回しだ。
やはり彼女は異質だと改人は思った。時間旅行の解放意思も十二分にそうだが、なぜか彼女は自分にとって、あまりにも身近に感じすぎる。出会ってまだ二日足らず、ろくに会話も交わしていないというのに、まるで何年も前から見知っていたような、そんな感覚に陥ってしまう。いや、正しくは彼女がまるで自分の友人であるかのように接してくるので、改人もそうであると錯覚してしまった、というのが正しい見解だろう。
一体この少女は何者なのか――改人の中で謎は一層深まり、一刻も早く問い正すべきという衝動に駆られた。しかし意外にも、すでにカルビ弁当を凄まじい速さでがっ込み終え、先に話を始めたのは優理のほうだった。
「もぐもぐ……ごっくん。ねぇ改人。私たちの左手の方角に、MP結社の建物があるのが分かる?」
そう言うと優理は、左隣に座っていた改人のさらに左を指さし、唐突に問いかけた。改人は首を左に曲げると、優理が指さす方角を目で追った。
「ああ、あれか。あのバカでかいビルだろ? ほかのビルと比べても、全然大きさが違う」
ここからはだいぶ距離がありそうだが、それでも辺りの大きな建物と比べて、大きさが一回りも二回りも違っていた。超の付く高層ビルに属するだろう建造物の真後ろには、大きな実験施設か工場のような建物が横長に佇んでいる。
「うん、他の皆はあそこに恩義とか、感謝の気持ちを向けるんだけど……私はMP結社には、あんまりいい思い出がないんだ」
そう言う優理の表情は、口元で笑顔を作りながらも、どこか少し悲しそうだ。
「……なんとなく予想はつくさ、まさかエージェントさまって訳でもないだろうし。お前の時間旅行が本物だとして。そんなことができる奴からすれば、あそこはろくな場所じゃないだろうな」
改人は、優理の心境を少しは察することができした。彼女ほどではないにしろ、改人も似通った思いを、今でも払いきれずにいる。
「それなら、少しは話しやすいかな……やっぱり気になるよね。私が一体何者か」
「当たり前だろ。まずそれを聞かなくちゃ、どうにも決めようがないだろうが」
「あはは、そうだよね。なんかごめんね。何しろ信じてもらえる自信なんてこれっぽっちも無かったし、私も気持を整理するのに時間が必要だったから。これからどうするか、どうやって話すか、実はずっと考えてたんだ」
そんな優理の語り尽くせないというような表情を見せられ、これから彼女が何を話すのかなど、ついに想像もできなくなった。一体この少女はその身に何を背負い、どんな思いでこの時代にやってきたのか。
「これから私が言うことは、全部真実。嘘なんてつかないから、できれば今はそう思いながら、私の話を聞いて欲しいの」
「……ああ、分かった」
改人の言葉を聞くと、優理は少し安心したように笑顔を作り、ゆっくりと語り出した。
「……まず最初に、私が何者か。私は、五年後のこの国に住む人々を定められたルールや規律から解放するために結成された、革命組織の一員なの」
「なっ……」
改人は、その発言に対して議論の意を唱えそうになったが、彼女の言葉に理解を示したのを思い出し、開きかけた口を閉じた。一先ずは見守ろう、信じるとはいっても、どう捉えるべきかは見当もつかないが。
「驚くのも無理ないよね。私達の組織はこの国が規律であふれかえる前の、半世紀前の日本を取り戻すために――この国の命運を握るMP結社と戦ってきたんだ」
改人はただその話を聞いただけで、もう唖然とするしかなかった。確かに国内では解放人類達がMPの在り方に異議を唱え、テロやクーデターが起きることが稀にある。しかし目の前の自分と歳の変わらぬ少女が、そんな物騒な組織の人間だったとは。
「私達の組織の目的はMPによって奪われた、未来を選択する自由意思の解放。その目的を達成するための手段はシンプルかつ単純に、この国内でMP結社が管理している全てのマザープログラムの機能停止だった」
「はは、びっくりするくらい正攻法だな。MPを全部ぶっ壊せば、国民はその縛りから抜け出せて、MPが普及する前の思考に戻るってか」
改人にはその狙いがすぐに理解できた。自分にMPを壊せる力があったらと、何度夢見たことか。待ち焦がれ、望んだことか。
「うん……そういうことだよ。MPはこの国に首都と同じ数だけ点在しているから……それはとても、難しいことだったけど。私たちの組織は人数こそ少なかったけれど、かなりの精鋭揃いだったよ! 人呼んで、革命組織『黒兎(ブラックラビッツ)』! 宮代県域の首都『仙帝』――この地のMPの破壊を成し遂げて、革命組織『黒兎』の名は、一躍全国に知れ渡ったの。それからも私達は時間をかけて、時にほかの勢力とも連合を組んだりしながら、いくつかのMPの破壊に成功していったんだ」
「……この宮代の、MPを……?」
改人は自分の耳を疑わざるを得なかった。MPが革命組織に落とされた話など、聞いた試しがなかったからだ。
規格外の話のスケールに、改人の思考はまるで対処しきれなかった。革命家を名乗っているだけでも十分に驚きだが、よもや未来でMPの破壊を成し遂げていているとは。
「あ、革命組織っていっても、私達は国民の未来をマザープログラムから守るための、正義の革命家だったの! 人の命を危険にさらしたりとか、一般市民に危害を及ぼすような、そういうテロリストまがいのことは全然してないよ! ここはすっごく重要ね? 今のメモしておくように! まぁ国の重要人物の記憶飛ばして、意識を赤ちゃんレベルまで落としちゃったことはあるけど……」
「えっ……いやそれ、十分酷いことしてね……?」
コイツはそんなことができるのかと、改人は背筋に少なからず寒気を感じた。その誤解を解くために、優理の必死の説明は続く。
「その、たまにね? ある分野の重要人物が失脚してくれないと、国が動けないこととかがあるんだよ。その人はなんていうか悪代官みたいに、重要な分野の権利を独占していて、なんとかしないと、本当にこの国が傾いちゃうところだったりしたんだもん」
話を聞く限り彼女は、この国の平和を願って行動していたようだ。確かにどうやら、新聞やニュースなどでたまに見かける、鋭い目をした犯罪者やテロリストたちとは、少し違ったように見える。正当性をもってしっかり物事を判断できる、まっすぐな目をしている。
「まぁ敵対するエージェントはしっかりと命狙ってきたし……私にもピンチのときは何度もあって、他の仲間達もそういう時まではどうしたか定かじゃないけど。私の所属する革命組織『黒兎』は人の命を尊ぶし、優理ちゃんの時間旅行にはそんな殺傷能力、これっぽっちもありません! ザ・世界平和! ラブ&ピース!」
右手でV字サインを作りながらそれを天高くかざして、自分の内の信念を唱える優理。そんな彼女を眺めて、まぁ害はなさそうだと、危険性については一端保留しておくことにする改人。
「で? そんなトンデモ解放人類様が、どうして五年前のこんなとこにいるんだよ?」
「あっそうか……話がそれちゃったね。私達はそうやって、いくつかのMPの破壊に成功していったの。そして終着点として私達は、遂にMPの『核』を成すメインシステムの特定に成功した……私達は、メインシステムの破壊に向けて動き出した。いくつもの大きな革命勢力と徒党を組んで、作戦名に『未来革命』を掲げた計画は、事実上の最終決戦の始まりを意味していたの……」
何だそれは、まるで想像が追い付かない。本当に国中の例外思考達の命運を決める、この国の未来を分かつ最終戦争。そんな空想の中でしか垣間見えることのできなかった物語が、この日本国で巻き起こるとでも言うのか。この現実を誰かに変えてほしいと心の奥で願っていた改人は、信じる信じないを飛び越えて、ただ英雄譚に聞き入ってしまった。
「それで、どうなったんだよ。その戦いの結末は……!」
「……うん、それはね……」
改人の問いに、優理はなかなか答えを返さなかった。すこしの間考えた後、優理は短く、物語を締めくくった。
「負けちゃったんだ、私達。革命は失敗に終わったの。それで私は自分自身の未来をやり直すために――この時代に送られて来たってわけです」
そう言うと優理はまた、ぎこちない笑顔で改人に微笑みかけた。
改人は、言葉をどうかけるべきか迷った。話のオチをはしょりすぎだとは思ったが、それ以上に今までの彼女の話を、まるで架空の物語の主人公が作り上げた、武勇伝か何かと勘違いしてしまっていた。改人はその後彼女たちがこの国に革命をもたらし、どうやって世界を変えたのかを追い求めてしまって、まさか彼女が戦いに負け、革命を成せずに物語を終えてしまうなどとは、考えることもできなかった。
「その後、この国はどうなったんだよ? それにお前の組織の仲間達とか、反抗勢力の解放人類とかは……」
問いかけられた優理は、思い出すように遠くを見つめると、笑顔は崩さず、けれど辺りの静けさに溶け込んでしまいそうな声で、ゆっくりと答えた。
「……忘れないよ、絶対に。でもできればもう、思い出したくは……ないかな」
表情から察するに、改人は彼女のタブーに触れてしまったようだった。優理の表情と言葉は、その後彼女に降りかかった悲劇の壮絶さを物語っていた。常識に、国に、見渡す限りの世界に反旗を翻すとはどういうことなのか。その一言で、表情で、改人は考えられもせずに悟ってしまった。
「……信じる信じない以前に、俺には見当もつかないな。悪い」
どう言い返すべきか考えた末に、改人が口にしたのは、そんなつまらない言葉だった。
「ううん、いいの。当たり前だよね。ルールや常識を重んじるこの世界で、そんな物語は、ただの絵空事になっちゃうものだから」
改人に映る目の前の少女からは、世界を変えようと戦ってきた人間の風格が、ひしひしと伝わってきた。信じがたいことではあるが、優理の物語を空想だと疑うことは、もはや改人にはできなくなっていた。
「で結局、お前はこれからどうすんだよ。未来の筋書き通りに、また革命を志すのか?」
またも優理は、すぐに言葉を返さない。すこし間をおいた後で、逆に改人に問いかける。
「……改人なら、どうしたい? もしも自分に自らの世界を変える程の力があるなら――世界を変えようと思う? それともその力を使って、自分自身が変わろうと願う?」
改人に飛んできた問いは、なかなかに興味深い内容だった。確かに自分の世界を変える程の力があるのなら、自分が世界に適応できる様に変わるのも難しい話ではないだろう。しかし改人は、自分の理想を、ということであれば、答えるのは簡単だった。先ほどの優理の物語に心躍らせていたのが、間違いのない証拠だ。
「……俺も同じだよ、お前と。たぶん自分の内にある正義を信じて、この世界を変えたいって願うと思う。それが本当にできるかどうかは、別の話として……」
改人はひどく久しぶりに、自分の胸の内を真っ直ぐに答えた気がした。それは目の前の少女が自分をバカにしたりはしないと、確かな確信があったからだ。
改人の言葉を聞くと、少女はまた笑顔で、にっこりと微笑みかけた。改人はまた少女の表情に、不意を突かれてドキッとしてしまった。
「改人はやっぱり、いつの時代も改人なんだね」
「ん? なんだよそれ」
意味深な言葉に、改人は疑問を抱いたが、優理は言葉を返さずに、また唐突に自分の昔話を始めた。改人の視界から窺える街の景色はもうほとんど、夜の闇が支配していた。
「……それじゃあ今度は、私がその革命組織に入るきっかけになった話をするね。私の一番昔の記憶は暗い地下の、実験施設の中だった。その頃の私は、まだ私じゃなかったの。被験体番号『S‐0021』。それが私が、私になる前の名称……」
改人はまた、身構えてしまった。暗い地下の、実験室の中。明らかに真っ当な人間の生い立ちではない。
「十歳くらいだったかな。それ以前の記憶はあったのかも、初めから無かったのかも思いだせない。私は確認できる限り世界でただ一人、時間移動のできる解放人類として、とある実験施設で、首輪に解放意思の発動を妨げる装置を仕込まれて、そこで過ごしてた」
優理の表情は、依然笑顔は崩れず、しかしどこか曇っていた。優理は、言葉を続ける。
「実験施設で三年がたったある日、夜遅くだったかもしれない。科学者たちが何か口論をしている音で、私は目が覚めたの。科学者たちの会話を聞く限りそれは、解放人類達の起こしたテロ行為のようだったよ。私の居た実験施設は、この国の中でも一、二を争うセキュリティの高さと地下何層までも彫られた実験空間、何人ものエージェント達に守られた、鉄壁の地下監獄だった。だからここが襲撃された事例なんて今まで無いみたいって、科学者達は言っていたよ。返り討ちに合うのが関の山だって、そう思って私は強化ガラスの向こうから、外の様子を窺ってた」
コイツは本当に厳重に管理されていたんだな、と改人は思う。そしてそんな所にわざわざ乗り込むなんて、物好きな命知らずもいたもんだなと。
「けれど最初は顔に余裕を持っていた科学者たちが、徐々に表情を曇らせていくのが覗えた。何でもテロの実行者たちは、少数ながら強力な解放意思を持っているみたいだったの。侵入者たちは、依然歩みを進めていて、地下に向かっているとのことだった」
なんて凄い奴らだ。やはり一般世間にこそ伏せられているだけで、そういう裏の世界には、想像を超える程の解放人類達が、ひしめき合っているんだろうか。
「とうとう科学者たちは恐怖と混乱から、一人二人と研究室を出ていった。後に残った三人余りのエージェントが、私を死守しようと構えたの。そこに現れたのは、エージェント達の服装の白とは正反対の、真っ黒のスーツに身を包んだ二人の男達だった。かぶった帽子の色まで黒の二人の男は、一人は黒髪、もう一人は茶髪だった」
優理の表情に、僅かに笑みが戻る。
「二人の侵入者に襲いかかった三人のエージェントは、次の瞬間見えない何かに叩きつけられたみたいに、おっきな破壊音と一緒に、後ろの壁にめり込んで動かなくなった。私の体も恐怖で動かなくなったよ。火花を走らせたのを見る限り、茶髪の方が解放意思を使ったみたいだったけど、私には何が起きたのか分からなくて」
先ほどの淡々とした話し方から一気に、優理の表情に明るさが戻ってくる。
「すると今度は黒髪の方が、私に歩み寄ってきた。強化ガラスに火花が一瞬走ったかと思ったら、強化ガラスを右の手の甲でコン、と一度叩いたの。私はまた驚きを隠せなかったよ。強化ガラスがまるで雪の結晶のように、もろく、けどガラスの重さの感じられる音と一緒に、床に崩れていって……そして黒髪は、さらに私に近づいていて来たの。私はその時、死を確信したよ。この人たちは、本当に次元が違うって……!」
しかし、改人にはその先の展開が容易に予想できてしまった。優理のなんともまぁ、楽しそうな表情で。
「わたしの目の前まで来ると、黒髪は私に手を伸ばしてきた。私もあのガラスのように、バラバラにされちゃうってそう思った時、男は手の甲を返してみせると、私に向かってこう言ったの。君の世界を、変えに来たって……!!」
今度こそ優理の瞳は光り輝く。余りにも満面のそれなので、改人はお茶を濁したくなる。
「で、お前はその組織の一員になったと」
オチを言われた優理は、一瞬目を丸くして固まった後、頬を丸く膨れさせて、普通に拗ねた。
「もー、そんな薄っぺらく言わないでよー! その二人は、やっぱり革命組織のリーダーとその右腕的な人で、私の情報をわざわざ調べて助けに来てくれたの! 凄いよね!? 私に『優理』って名前までくれたんだよ!?」
「そうなのかー、うん、ほんとよかったなー」
確かにそんな人たちがわざわざ助けに来てくれるなんて、奇跡に違いないだろう。本当に凄いことだと思う。けれどその話とは別に、テンションが上がりに上がりきってしまっている隣の電波少女とは、同じ空気を共存できそうもない。
「それから私は、リーダーのパートナーとして、日本全国を飛び回ったんだよ! 凄いでしょ! パートナーだよ、パートナー! 右腕にも負けず劣らずの、そんな位置だったんだよー!!」
「ほー、すごいなー。ちゃんちゃん」
もう完全にただの自慢話だったので、改人はそれを、興味なさそうに受け流す。
「あれっ、どうしたの改人!? もっと私の話に付き合ってよー!」
「アホか、俺はお前の自慢話を聞きに来たわけじゃないんだぞ」
呆れ半分に改人は、話が済んだのなら帰ろうと立ち上がる。
「わーえっと、ほら見て改人! この、チーム服の素晴らしきシンボル!」
優理もとっさに立ちあがり、着ていた黒ジャージの上着を脱ぐと、背中のワッペンを改人に見せた。
「ふぅん、なんで兎なんだ? 妙ににこやかに笑ってるし」
そのトレードマークは満月の前を、兎が飛び跳ねるように描かれている。そして兎は首をこちらに向け、絶対こんなふうには微笑まないだろというほどディフォルメ化され笑っている。
「なんたって可愛いでしょ兎さん! 『かいと』の『と』は、兎の『と』だもんねっ!」
「……よし、じゃあ帰るぞ」
とうとうバカらしくなって、また立ちあがろうとした改人を、なんとか食い止める優理。
「あー待って、ホントにごめんなさい! 一回言ってみたかっただけだよ~。見て見て、これは私が考えた組織のチームジャージ! にこやかに笑いかけている兎さんは、全人類の調和の証! ザ・世界平和! ラブ&ピース!」
「それ決まり文句か……まぁ、お前の素姓には大方見当がついた。ああいいさ、今すぐにアパートから出てけとは言わない。まだ俺に、なんか言いたいことでもあるのか?」
この優理と名乗る少女は、確かに頭のねじが何本かふっ飛んではいるが、改人にしてみれば、その点は自分と似通っているとも言える。世界の改変を真に願った志に関しては、その実尊敬にも値すると思った。だいぶおかしな奴ではあるが、改人が何処かの誰かに願っていたことを実現させようとした意思は、高く評価できる。解放意思をむやみに使わないことを条件に、ずっととは言わないにしても本人が願うのであれば、当分はアパートに置いてやってもいいと、改人は思い始めていた。
「……待って」
そう言うと優理は、顔をうつむかせながら小さな声で呟いて、改人のブレザーの裾を軽く引っ張った。
「まだ言ってないことがあるよ、たぶん一番、重要なこと……」
そう言う彼女の表情は、なぜか初めてと見えるほどにしおらしかった。
「何だよ唐突に……言わなきゃいけないことがあるなら、早く言えよ」
先ほどのおちゃらけ感とは、また別の空気を作っている。そのギャップに、改人は多少たじろいでしまう。彼女が空気を切りかえるのに長けているのかどうかは、改人にはまだ判断がつかない。
「えっと、そのね? 疑問に思わない? 私がなんでいきなり改人のアパートの部屋にたどり着けて、しかも名前も確認せずに改人に飛びかかれたか……」
確かに、言われてみればそうだ。けれどその時は改人も自ら気に留めており、何も説明せずに消えたのはお前の方だろ、とも思う。
「そうか俺は……未来でお前と、出会ってんのか……?」
普通に考えると、そういうことになってしまう。
アパートの場所を知っていて、勝手に土足で上がり込み。改人の名を叫びながら飛びかかり、自分のことをパートナーだとそう言った。どんなに少なく見積もっても改人は、それなりの面識があったということになる。目の前の、革命家であった少女と。
そして一瞬の沈黙が流れた後、優理はまた、心の底から喋り始めた。
「出会ってるどころじゃないよ。私を助けてくれたのも。私にこのベルと、そして名前をくれたのも。私をパートナーに任命したのも。革命組織『黒兎』を立ち上げたのも。この都市のMPを無力化させたのも。互いに睨みあっていたいくつもの反抗組織を一つに束ねたのも。この国を変える為に『未来革命』を起こそうとしたのも。そして、私をこの時代に時間旅行させたのも……」
その先を言わずとも、言葉の指す意味が、改人には明確だった。心は震え、耳をふさいでしまいたかったが、体は固まったまま、指先一つ動かなかった。
「――全部、改人なんだよ……」
その真実を耳にした瞬間、改人は体中の時が停止したような錯覚に襲われた。目の前の少女が、誰のことを改人と呼んでいるのかすら分からなくなってしまう。とても信じられない。今日、彼女から聞いた話の中で、間違いなく一番の衝撃だった。
それが自分自身の未来だなんて、理解できるはずもない。自分はあと五年後の世界で、この国の命運を握る戦争をおっぱじめてしまうというのか。そんなことが――起こりうる未来など。
「嘘、だろ……」
声が震える。確かに改人は、誰かに世界の変革を願った。けれど自分でそれがしたいと、できるなどとは、一度たりとも思ったことはなかった。ありえない、そんなことは到底不可能だ。
「改人はおそらく、あと一年後の未来で解放意思に目覚める。それから反抗組織を作って、革命運動を開始するはずだよ……」
「そんなはずない……俺はっ……!」
この現実と非現実がはっきり区別されている世界で、そんなことを信じられる筈がない。
「落ち着いて改人。このままだと確かに改人には、おそらくそんな未来が待っているよ。でもね、そうなることを改人は今、ここで知った。それがどういうことか、分かる?」
改人は、混乱しそうな意識の中、必死に頭を働かせた。分かる……知っている……。
「……それを、推測できる……変えられる。未然に、防げる……?」
「その通り。改人はこの先の未来をどうするか、自分で選択することができる。そして私も……そこまで考えておそらく未来の改人は、私をここに送り届けたんだと思う」
未来を知るということは、まだ自分が、その未来を回避することができることを意味している。考えをまとめると改人は、一先ず落ち着くことができた。
「なるほどな……ならその選択肢を出されて、お前は一体どうするんだ……?」
「私にも……まだ分からない。迷ってるの。あんな悲劇は、もうたくさんだって思っている自分も、確かにいるから……でもね、私が言いたいのは別に、革命家になるとかならないとか、そういうことをじゃなくて、ですね」
優理は両手の人さし指を目の前でつんつんさせると、横目で改人の方を見つめた。こんな場面でそんな乙女チックなしぐさをする奴の、頭の中が心配になる。
「いやお前、今度は何……?」
「ここも、改人が私を連れて、見せてくれた光景なの。『未来革命』の、開戦前夜に……夜の街を飛び越えて、空を駆けて、私をここに連れてきてくれたの」
意味深に喋る優理だが、その言葉が何を意味するのか、改人にはまるで察しがつかない。
「……どういうことだよ」
「えっと……だから、そのね? う~よし、もう私、覚悟決めちゃうよ……!」
そう言って赤面しつつ、一度大きく深呼吸をする優理。そして、
「――お願いします! 優理ちゃんと結婚して、末永く幸せにしてください!」
「……………………………………は……………………………………………………?」
不可解な優理の突然のプロポーズに、改人はまるで理解が及ばなかった。改人が破顔したまま数秒程度固まっていると、やっとのこと優理は補足の説明を付け加えた。
「だからその……もう分かってるでしょ? 改人は私に言ってくれたんだよ……この革命を成功させたら、結婚しようって……!! そう言って、誓いのキスをっ……!!」
「……………………………………あぁ……………………………………………………?」
次から次へと理不尽な事象に襲われすぎて、改人はもう、開いた口が塞がらなかった。優理はキャー言っちゃったーと赤らめた頬を両手で押さえて、こういう時に使うらしいベターなポーズを取っている。
「お、お前らって、そんな関係だったのかよ……!?」
未来の自分を、お前と表現するのもおかしな話なのだが。
「えっとね、私の方は前からずっと願ってたんだけど、改人からそういう脈は感じられなかったの……でも『未来革命』の、開戦前夜に……! だから凄いよね、カップル通り越して、一気にゴールイン!! まさに大逆転なんだよ、これはー!!」
「ちょ……ちょっと待て!! それはまだ、そういう関係とは言わないんじゃないか!? だって革命、失敗したんだろ!?」
どこか勘違いをしている節があるので、改人は速やかにツッコミを入れる。
「うんそう……そうなの。だからその手前の、婚約者さん、フィアンセってことだよね♪」
改人は必死に優理の考えを否定しようとした。しかしよく考えてみると、それは二人個人の、そういう口実にとれなくもなく、介入する余地は現在の改人にはない。未来の自分は本当に、そのていで話を進めたのかもしれない。だとすれば月満優理は――改人の未来の花嫁ということになる。
「け、けど……あーー……っ、め・ん・ど・く・せー!! どういうことなのか、せめてそれくらいはっきりさせろよな、五年後の俺ぇーー!!」
改人は、五年後の自分を心から罵倒した。確かに自分の煮え切らなさを考えたら、そうであってもおかしくなどないのだ。
「という訳で。これから宜しくね、未来の旦那さん♪ ぎゅーっ❤」
月夜の明かるさに照らされながら、優理は幸せいっぱいに、今日一番の満面の笑みで改人に抱き付いて見せる。
「あぁぁもう、ほんっっっとにめんどくせぇぇぇーーー!!!」
訳が分からなくなって改人は、月に向って吠えた。雄叫びはその日、裏山中に響き渡るのだった。
■ 四章 花嫁宣言
朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り響くと、がやがやと雑談を楽しんでいた二年A組の生徒たちは、皆早々に席に着き始めた。今日もまたMPの規律に基づき、クラスが静寂に包まれる。
昨日の優理の未来回想から一夜が明けた。
優理の理不尽な花嫁宣言は改人の精神に多大なダメージを与え、しばらくの滞在も大目に見るつもりだった改人の善人者精神を、著しく低下させたのだった。
当然のことだが、現在の改人は自らが国に反旗を翻し革命のため戦争をおっぱじめる未来など、望んではいない。その運命を未然に防ぐためのカギとなる存在が月満優理である以上、改人にとって彼女との同居生活は、やはり致し方のないことだった。
あの後優理は自分の話に一段落がついたと判断するとベルを一度チリンと鳴らし、裏山から改人の部屋に何の苦労もなく瞬間移動した。飛んだ先がキッチンの手前だったので靴で床が土まみれになり、かたづけに少し手間がかかった。優理いわく、ちゃんと時間旅行する場所をイメージしないと、記憶の中に残っている場所に無意識に飛んでしまうようだった。すると優理は肝心なことを忘れていたという顔をして、改人の方へ向き直った。
『そうだった改人。大事なことを言い忘れてたよ』
そう言う優理に改人は、今日はもう十分だという表情で、彼女の言葉に釘をさす。
『……もういいって、これ以上の理不尽を押しつけられたら俺は、何を信じればいいのか分からなくなる確信があるぞ』
『ううん、改人関連の話は大方説明が済んだよ。私が言い忘れてたのは、解放意思についての話。この時間旅行のことを、話しておこうと思って』
『解放意思……か』
解放意思に関連する情報の大半は、日本国が機密事項として扱っており、改人たち一般人に情報が開示されることはほとんどない。ゆえに、聞く価値のある話ではある。
『解放意思には脳の活動範囲と許容限界が綿密に関係してるの。私の時間旅行もいつでも無限に使える訳じゃないし、飛び越えられる時間の枠にも限界があるから』
『……まぁそりゃそうか。確かに何の制約もなく自由に時間を飛び越えられるなら、革命家なんてやる必要もないだろうな』
『そう。私の時間旅行の場合、ベストコンディションで一度に飛び越えられる時間の値は半日、最高で12時間。それで飛び越えた分の時間だけ、自分の時間軸にまた戻らなくちゃいけないから、12時間戻るのに能力を使って、そしたら脳の活動限界なの。寝るとか休んだりして、脳を休ませなくちゃいけないよ。一日に飛び越えられる時間の合計の数量が24時間。それ以上は自分の時間軸に戻ってこれなくなっちゃうから、飛び越えちゃいけない数字なのです』
優理は何やら聞き覚えのない単語を交えあれこれ解説してみせたが、改人自身心境に余裕などかけらもなかった為、たいして理解をしようともせずに、何となく話を合わせる。
『へー……じゃあ自分の時間に戻るときに一分一秒でも誤差があったら、もう一人の自分と鉢合わせしちゃうのか? よくわかんないけど、それってやばいことなんだろ』
改人にも、その程度のことは分かる。普通に考えて時間の飛躍や逆行は、犯してはならない禁忌に当たる行為だ。
『うん、それは絶対的にタブーだよ。だからこそ、これが生きてくる訳なのです!』
優理は首から下げたベルを、右手でひょいとつまんだ。ベルは依然、時間経過を感じさせることなく輝いている。どうやら優理が時間旅行を行う時にしか、音は鳴らないようだ。
『改人に助けられた幼い当時の私は、まだ戻ってくるときの時間をコントロールできなかったの。だからその頃の私にしても時間旅行は、とっても危険な解放意思だった……そんな私に改人がくれたのが、このベルだったんだ』
優理は自らのベルを眺めながら、楽しそうに説明を続けた。
『このベルには、最初の場所から時間旅行をしたときの時間を記憶して、戻ってくるときの時間を調整して合わせてくれる力があるの! これで私は、安心して時間旅行をすることができるようになったんだ。まー最悪、改人の未来に決定的な変化を与える過去改変をしたとしても、今とか未来の改人が消滅したりはしなくて、自分の時間軸に戻った時、私達の立つ世界はパラレルワールドとして扱われるから、パラドックスなんてことにはならないの。だから安心し――あとは話すと長くなるから以下略っ!』
『自分で説明始めといて以下略ってそれアリか……? まぁいいけど』
ベルの機能がとても便利なものだと思いつつも、確かに後半の補足説明辺りから話についていけず混乱しかけていた。腑抜けた顔で思考を停止する改人。
『でもおかげでこのベルを鳴らさないと、もう時間旅行できなくなっちゃったんだけどね。あとさっき裏山に飛んだ時の時間に干渉しない移動は、瞬間移動みたく普通に使えるよ!』
時間の跳躍にリスクが伴うとは言っても、結果的に瞬間移動の上位互換。やはり超が幾つも付くような、高性能すぎる能力になる。
『なんだちゃんと決まりっていうか、制約みたいなのがあるんだな……ん? だったらお前は結局、どうやってこの五年も前の世界に時間旅行できたんだよ?』
『……うん、それはね。改人の考えた、私への保険だったんだ』
『保険? 万が一の時の為の……ってことか?』
『そう、もしも戦いに敗れて、自分自身と、組織が壊滅してしまった時の為にって……未来の改人が考えた私への救済措置。そのおかげで私は、今ここにいられる。改人が命と引き換えに私の時間旅行の制約を一時的に外して、この時代に飛べるようにしてくれたの』
そう言う優理の表情はやはり、できるだけ笑顔で、といった様子。改人は五年後の自分が解放人類ということを認識し直して、自分の能力がどんなものか少しだけ気になった。しかしその未来を未然に防ごうと考える自分が今ここにいる訳で、疑問は自分の目的と矛盾していると考え、そのまま喉の奥に飲み込んだ。そして多少、今の優理に気を使った。
『ふぅ、それじゃ大方の説明を終えた所で、一緒にお風呂に入って、一緒に寝よっか』
『……俺がそのままうなずくと思うか?』
話を締めくくると優理は、背伸びをして表情を誤魔化すように部屋へと進む。
優理が昔話をする時、たまに見せるさびしそうなそぶりは、恐らく自分の気のせいではないと思う改人。しかしだからと言って一緒に風呂に入って、寝てやる気など毛頭もないが。全ては己の未来を守るため――改人は自分に強く言い聞かせる。
『――あっ、そういえばお前……! 俺のベッド、どこに持ってって……ん?』
そう言った矢先に変化に気づき、返答を待たずに居間の寝具スペースを確認する改人。改人のベッドは、昨日の消失が嘘のように、普通に元の場所に戻ってきていた。
『あっうん、ありがとね改人! 改人成分もばっちり補充できたし、優理ちゃんは大満足でした! まぁ、ちょっとほこりっぽかったけど』
確かによく見れば、布団のすみやベッドの脚などになどにほこりがみられる。不思議に思う改人。
『……? お前、いったいどこで寝てたんだよ』
『えっと、たぶんこのベッドの真上くらいかな? 』
『真上ってお前……屋根裏かよ! ったく、なんてとこで寝てくれてんだ……』
『あはは……優理ちゃんは寝入りと寝起きに暴虐無人が出てしまうときがあるのです』
その後、ベッドのほこりを払いはしたものの、なんだかほこり臭さがぬぐい切れず、寝つけがイマイチだった改人。一方ロフトの寝袋に包まれ眠った優理は、昨夜の改人の残り香を覚え、その晩も満ち足りている様子だった。
担任の笹原先生がクラスに入ってくると、今日の日直が号令をかけ、皆席に着いた。
「おはよう皆。急な話で悪いんだが、今日からこの陽南高校で新しく学業を共にすることになった、転校生を紹介します。それじゃあ、入ってきてくれ」
クラスが一斉にざわつく。普段なら、先生の話を姿勢正しく聞く二年A組だが、この不測の事態には皆、もの珍しくざわつく。もちろんそれは、改人も等しく同様だった。しかし改人の場合、内にこみあげてきたものは、周りの生徒のような期待感からではなく、まさか、そんなはずは、といった悪寒が迫りくる感覚だった。
がらがらと、教室の戸が開く。そして改人の予感は、見事に的中してしまう。
「こんにちはっ! アリメア共和国のラスベグスから転向して来ました、月満優理です。日本には、花嫁修業に来ました! 皆さん、宜しくお願いしますっ!!」
突如改人の視界に入り込んできた優理の服装は、陽南高校指定の紺のブレザーではなく、深い緑を基調とした、仕切りの高そうな校風の学制服だった。一体全体どういうことだ、ていうかなんでこいつは帰国子女だとか、花嫁修業だとか、訳のわからんことを口に出しているのかと、改人はつっこみたくなる気持ちをなんとか抑え込む。気付けば改人は机に前のめりになりながら、頭を抱え小刻みに震えてしまっていた。初めに男子達が、次に女子一同がさらに、ざわざわと雑談を始める。
「――ねぇ、ちょっと、あれ! 改人、どういうこと!?」
改人の左隣の席に座る彩夏も、例外なくその輪の中に入っており、当分静まる気配は見られない。クラスの騒がしさのおもな要因は、帰国子女だったり、花嫁修業の単語のせいだったりもするのだろうが、それを除いたとしても、優理の外見は初めて見る人の視線を一心に奪うものに違いない。改人は、優理を初めて見たときの心境を思い出す。確かに良く整った顔立ち、見慣れぬ金髪、上々のスタイルの等身、口を閉じていれば煌びやかなオーラをまとったままの彼女が、クラスの視線を釘付けにすることは仕方のないことのように思えた。すると彩夏が優理に、興味本位で質問をする。何も起きることなく終われと心の中で強く懇願した改人だったが、その思いはとうとうクラスに届きはしなかった。
「はい、質問したいです! 花嫁修業ってことは、将来を誓った男性が、月満さんにはいるんですか?」
それは奇しくも、今改人の脳裏に浮かんだ、最も回避したい問いだった。優理は多少興奮しているせいからなのか、三秒後には甲高い声で言いきってしまう。
「――はい、私の未来の旦那さんは! このクラスの、篠崎改人くん! です!!」
頬を赤くし目を見開いて、とんでもないことを宣言する優理。テンパっている分、尚更たちが悪い。クラス中に女子のキャーッという甲高い声が響くと、次に男子勢の視線が、矢のように改人めがけて飛んできた。彼らの負の念からか、改人はまるで石になったように固まって、言葉も出なくなってしまった。
「はい、皆静かに。騒ぎたくなる気持ちは分かるが、間もなく授業が始まるからな。それで、月満の座る席なんだが……」
見れば窓側の隅に、無人の机が置かれていたことに改人は気付いた。この優理の襲来を予測できた生徒が、はたしてクラスに何人いたのだろう。
すると廊下側最後尾の改人の隣の席の彩夏が、
「はい先生、私列を左に一つ移動するので、月満さんの席を、改人くんの隣にすればいいと思います!」
気前よくそんなことを言って、改人の左隣の席を譲ろうとしてしまう。都合よくクラスの最後尾には、改人と彩夏の席しかない。
「い、いや不要です先生! ごく自然に、彩夏の隣に席を配置してください!!」
すぐさま彩夏の意見を否定した改人に笹原先生は、何だ冷たいやつだな、お前知り合いなんだろ? 先生もそうするつもりだったぞ、とこういう時だけの妙なノリのよさを発揮してきた。
「はーい先生、ぜひそれでお願いします! 隣でフィアンセが助けてくれると、私とっても心強いです!」
優理が手を挙げながら答えた賛同の意見が決定打となって、優理の席は改人の左隣に決定してしまった。下手に拒否するとクラス全体の反感を買いかねなく、改人はそれ以上拒むことができなかった。空気を読んで(あるいは全く読まずに)席を一列左に移動した彩夏は、隅に置かれていた無人の机と椅子を自分と改人の席で挟む形に配置した。その後で、月満さんどうぞ、と笑顔で優理に語りかける。笹原先生にそれじゃあ座ってと声を掛けられると優理は、ありがとうと彩夏に笑顔を返して、嬉しそうに改人の隣に座った。
「これからよろしくね改……どうしたの改人、なんか顔色悪いよ?」
もはや言葉も返さずに、改人は深くため息をついた。もう何がなんだか、訳が分からな過ぎて頭が痛い。一体全体、自分がどんな悪事を働いたと言うのか。
笹原先生が教室を出ると、すぐにクラスに一時限目の授業を告げるチャイムが鳴り響き、数学の授業を取り持つ別の先生が入ってくる。日直が号令のあいさつをかけて、すぐさま授業が始まった。
「……おい、なんでこんな所にいるんだよ……!」
「喜んでくれた? 改人をびっくりさせたくて。未来の旦那様に、優理ちゃんとの幸せな学園生活をプレゼントだよ♪」
「くっ、お前ってやつは……」
改人は今すぐに、大声でわめき散らしてしまいたかったが、そんなことを授業の最中にできるはずもなく、ただただ一時限目を耐え忍んだ。優理とこれからの学園生活を送るなど、問題が山積み過ぎて、とても授業に集中するどころではなかった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、日直が号令を終える。改人は一目散に優理の手を引っ張り、無人の学習指導室に入りこむと、両端の出入口に鍵をかけて部外者の侵入を拒絶した。
「いきなり手を引いて無人の部屋に女の子を連れ込むなんて……大胆だね改人❤」
「アホか、なんで学校にいるんだよ! どうやって入学できた、お前は未来から来た人間だろ! ……てか、それ以前に解放人類なんだぞ! もしもそこらへんの秘密が、学校にばれたら……あとその浮きまくってる制服とか!」
「まぁまぁ改人、落ちついて。私もこれから花の学園生活を送る上でつじつまを合わせるべく、いろいろ自分で画策してたんだよ」
そう言って優理が制服の右ポケットから取り出したのは、『設定ノート』と書かれたオレンジ色の、いかにも地雷原になりそうな怪しいメモ帳だった。
「……月満優理、ぴちぴち花の十七歳? 帰国子女……転向前の国……アリメア共和国のラスベグス……学校……私立セントバーニャード学院(超お嬢様学校)……父の仕事の都合で十歳の頃アリメアに飛ぶ……ってなんだよこれ!」
優理の話によると、私立セントバーニャード学院(超お嬢様学校)はアリメア共和国のラスベグスに実際に存在する学校らしく、着ている制服は組織の任務で潜入した時の思い出の品のようだった。五年後改人の『優理救済措置計画』として、秘密裏に暗躍するスパイさながら、書類の編入手続きや国籍の証明書など――もろもろの優理が日常に溶け込むために必用な手段は、しっかりと工作されているらしい。改人と共に裏山で夜景を見渡した時にはすでに学校への入学手続きを終えていたらしく、ひとまず状況を理解した所でチャイムが鳴り二人は急ぎ足でクラスに戻った。言うまでもないが、クラスの空気は絶対的に落ち着きがない。
休み時間のたびにクラスの女子たちは一斉に優理に群がり、二人はどういう関係? 何処までいってるの? と完全に注目の的だった。逸輝や絵美も驚きながら、詳しい説明がほしいとか、そんな話聞いたこともありませんでしたとか、改人も訳が分からず好奇の目を向けられた。そして優理の作った設定と食い違いすぎるのもよくないと考えて、勘違いだ、あいつとは幼いころの顔見知りだとひとまず弁解した。しかし既に誓いのキスを済ませ、改人からのプロポーズも貰っており、後は結婚するだけだなどと隣で優理が女子たちに大ダメージを叩きだすので、話は炎上する一方だった。中でも彩夏へのウケはよく、優理も彼女と話をしている時は、とても息が合っているように見えた。
結果として優理は、転向初日にもかかわらず結構なクラスへの適合率を見せていた。明るく気さくに誰とでも話をすることができるのは、優理の長所なのだろう。とてもこの国に戦いを挑んだテロリストには見えないと、そんなことを思う改人なのだった。
「よし、それじゃあ今日はこのメンバーで、優理ちゃんの歓迎会を開きたいと思いまーす!」
放課後の教室で学生としての任を解かれ、一先ず力を抜いた改人、逸輝、絵美に彩夏は、今日の優理を両手で扇ぎながらそんな提案をした。
「いや別に、紹介することっていっても特に……」
改人は聞こえるか聞こえないかという程度にそんなことを呟いてみるが、
「是非もない機会だ。改人の連れというのなら、なおのこと」
「そうですね、これを断る理由はありません」
快諾する逸輝と絵美に、そんな言葉が聞き届けられる筈もない。
「さすが改人のお友達さん! みんないい人ばっかりだよー!」
歩くこと徒歩五分、ファミレスに着いた改人達は、大盛りのフライドポテトとドリンクバーを注文した。
優理が自らの自己紹介を軽快な口調で語り終えると、周りのメンバー達は自分の趣味や、得意なこと、そして将来についてを語り合った。やはり優理は、初対面の人間と打ち解ける能力に長けているようで、会話は途切れずに皆一丸となって、にぎやかな談話を交わし合った。時折優理がうっかりと禁句を口にしてしまいそうになり、改人は何度か唐突なタイミングで歯止めに入らなくてはならなかったが、歓迎会は上々の盛り上がりを見せ、優理はとても楽しそうだった。
相変わらず優理と出会ってからの疲労感が三割増しな改人は、優理より先に入浴を済ませ、その日の憂いや滞りもできる限り洗い流した。その後で就寝服を身にまとい、ベッドへと崩れ落ちる。
「あっー、また先にお風呂入っちゃったの? 今日こそは優理ちゃんが、お背中流してあげようと思ったのにー!」
優理が崩れ落ちた改人の前で立ち止まり、不満の表情を作る。
「早く風呂入って寝ろよー」
「もう、改人のいくじなし」
「………………」
今日の疲労感が優理によってもらされたものだと考えると、改人はとうとう言葉を返す気力もなくしてしまう。どうやら要所要所でこちらを誘いこむのが彼女のスタンスのようだが、誘惑に負け優理に応えてしまっては、いよいよ未来に何が待つか末恐ろしい。
優理は改人から返答がないことを確認すると、諦めて部屋を出て行った。少しして聞こえてきたシャワーの音で、優理が入浴中だということが分かる。妙な妄想を掻き立てさせるシチュエーションではあるが、できるだけ考えないようにする。カチリと部屋の照明を消して、さっさと寝ようとする改人。しかしその日の改人は寝ようと思えば思うほど――神経が研ぎ澄まされてしまうのだった。
そもそもフィアンセやら嫁やら言っているが、未来のシナリオを知ってしまった時点で現在の改人と未来の改人は、すでに別人のような存在である。優理は未来の改人と婚約の誓いを立てた訳であって、今現在の改人にしてみれば、そんなの知った話ではない。
言ってしまえば未来の自分がやったことの責任を、今現在の改人が取る必要などどこにもない。その立場が逆のものであるのなら、背負う責務も十分に生まれてくるのだろうが。
なぜそんな簡単なことに今まで気付けなかったのか。次に優理がその件に触れてきた際には、言い返してやろうと考える改人。この国の未来を左右する戦い――『未来革命』の首謀者の席など、本当に願い下げだ。
思うことと願うことには、近いようでとても大きな差がある。どれほどの歳月、幾千の月日が経とうと、自身が革命家として奮起するビジョンなど、見えてはこないと思う改人だった。
ぺたぺたと、床を歩く優理の足音が聞こえてくる。改人がつまらないことを考えているうちに、優理は入浴を終えて部屋に戻ってきた。いいかげん寝てしまおうと改人が思っていると、またしても優理は、改人の前でその歩みを止める。
「…………ねぇ改人、もう寝っちゃった?」
「………………………………………………」
当然のように寝入りを決め込む改人。優理なら何かとと理由をつけて、就寝前を狙ってくることも十分に考えられる。
「――うんうん、これで寝込み襲い放題。願ってもない、ビッグチャンスの到来だねっ」
「……早く寝ろって言っただろ。これ以上好き勝手やってると、マジで出入り禁止だぞ」
自らの貞操の危機を感じた改人は、優理の言動に釘をさす。全ては未来が筋書き通りに進んでしまうシナリオを覆すため――その決意を胸に、改人は優理に背を向ける。
すると優理は少しさみしそうな声色で、
「……分かった、寝るよ」
意外なほど素直にそう言って――空いた布団の右半分のスペースに、その身を傾けた。
「なっ、お前なんでここに……ちゃんと上に寝巻があるだろうが」
「お願い改人。なんにもしないから、今夜はここで……改人の隣で寝させてくれないかな」
「なんだよお前、いきなり…………」
優理がまた急にしおらしくなったので、改人はとたんに焦ってしまう。向かい合わせの背中で、改人に触れ合う優理。
「……笑っちゃうよね、あれだけ好き勝手やっておいて。実はただのやせ我慢でした……なんて。あは……」
どうも、この時の優理は扱いに困る。そう思った直後、改人は当たり前に悟ってしまう。優理の体が、僅かに震えていることに。
「優理、お前……」
「やっぱりたまに思うんだ。私だけこんな風に、助かって良かったのかなって。だってあれだけのことしたんだもん。数えきれないくらいの、犠牲を出しちゃったから……」
「けど、今ここでそんなこと言っても……」
「一人だけなんでこんな所にいるんだろう、私も潔く諦めるべきだったんじゃないかって」
「……それは…………」
改人は今この場に直面して、優理の存在を再認識した。この国の未来を大きく分かつ原則と例外の規律戦争――未来革命。その例外サイドの総指揮を務めた男を支え続けた最愛のパートナー、それが月満優理という存在。
彼女は、自身の肩書を忘れさせるほどに自由奔放で、無計画で、調子がよく、行き当たりばったりな電波少女だ。ただそれだけのように、改人は錯覚してしまっていた。しかし真の局面での彼女は凄まじいまでの因果のほぼ中心で、途轍もなく大きな運命を背負う役目を担ってきた人物なのである。その中心にいた人物が未来の自分自身だということはこの際除いておくとして、優理の立ち位置にいるのがもし自分だとしたら、全てを諦め命を絶っていても、何も不思議ではない。改人は自分と優理を照らし合わせ、そして思った。いつ心が折れてしまってもおかしくない苦境の中でも、彼女は常に全力で生きている。迷いながらも諦めずに、答えを探して前に進もうとしている。月満優理は――強い志の持ち主なのだと。
「……いいじゃんか。いくら辛いことがあっても、どんなに苦しいことが続いても。迷ってどうすればいいか分からなくなっても、諦めず進み続けられる……それは、凄いことだと思う」
「改人……?」
「もっと素直に生きろって言う連中はきっと大勢いる。でもそう言ってる大概の奴は、楽な道を悩まず選んでるだけだ……お前は辛くて苦しい道を進む勇気を持ってる、だからお前は凄いんだ。胸を張れよ。その方が、絶対いいに決まってる……お前には、それができるんだからな」
「……いいのかな、それでも……」
「誰がダメだって言うんだよ。きっとお前のお仲間さん達は、みんなお前の幸せを願ってるだろうよ。だから――っ!?」
「ありがとう、改人」
いつの間にか優理は、背を向けていた姿勢をこちらに返して、改人の背に触れていた。柔らかくも弾力のある感触は――優理の胸部に違いない。とっさのことに改人は、焦りを露わにしてしまう。
「ちょっ、お前、さっき何もしないって言って……!」
「ごめん改人。少しだけこうさせて……改人がそれでいいって言ってくれれば、私もいいって思えるから。私を救ってくれるのは、いつだって改人だったから……」
彼女にとって五年後の改人は、本当に心の支えとなる存在だったのだろう。今の自分にはその断片も見当たりはしないと思って、改人は不甲斐なさから優理の言葉を否定する。
「……お前の言う五年後の俺と、今の俺は別人だぞ。俺にそんな信頼を向けても……ただ幻滅するだけだ」
「ううん、そんなことない。私にとって改人は、いつの時代も改人だよ……」
「………………………………」
改人は返す言葉を失って、二人の間につかの間の静寂が訪れる――その後で優理は、先ほどまでの弱気がまるで嘘だったかのように、力強く改人の体に抱き付いた。
「あはっ、ぎゅーーーっ!」
「はうっ!? な、何すんだお前っ!!」
「決めたよ改人、私決め直しました! 優理ちゃんは改人のお嫁さんになる! ぜったい、ぜったい、ぜーったい、改人のお嫁さんになるよーー!!」
「なっ、こらお前、離れろ! お前が嫁なんて、俺は絶対認めないぞ!!」
「ふふ、改人ったら照れちゃって。素直じゃないんだからー! やっぱり今夜は二人で、愛の営みを育もうじゃありませんか」
「お前なっ……結局そうなるんかい!! 断固拒否するからなーー!」
起き上って優理から距離を置き、身構える改人。優理も素早く起き上がると、楽しそうに改人と同じ態勢をとった。穏やかな夜のムードもそっちのけで兎のごとく改人に飛びかかる優理と、それを受け流す改人。死闘の果て、改人が眠りに就いたのは、それから一時間後のことだった。
時刻は同日の二十一時五十九分――MP結社、仙帝支部最上階。その局長室で男は、座っていた重量感のある黒革の椅子から立ち上がると、窓の外に映る仙帝の都市の、どこまでも広がる景色を見渡す。この街の秩序と安寧の全ては、自分の手に委ねられているのだと、自らに言い聞かせる。
予定通りのタイミングでコンコンと、扉を叩く音が鳴る。男は、短く「入れ」と告げる。
「失礼します、シュバルツ様。今日も一日、お疲れさまでした」
秘書役の女性が、深く一礼し、中に入ってくる。男もまた、秘書役の女性に振り返る。
「君もお勤めご苦労……時に、もうじき宮代の空に流星群が観られるだろう。君は何か、願い事などあるのかな?」
すると女性は悩むそぶり一つ見せず、そんなこと決まり切っているという風に、
「流星が流れ落ちる時、すでに私たちに願いはありません。その時こそ我々MP結社――そしてシュバルツ様の悲願の時なのですから」
意見を返された後でシュバルツは、ふふっ、と一度静かに笑みを溢した。
「なるほどそれもそうか。私としたことが、一本取られてしまったようだ――さて、例の件はどうなっている? 未来からの来訪者……月満優理の一件は」
「今のところ、目立った動きは見られないと。作戦を担当しているランスロット様は、そうおっしゃられています」
「そうか。では、ランスロットに繋げてくれ。直接、彼の話が聞きたい」
男は極めて忠実に、秩序の守護に執着する。規律の統治が自らの使命に違いないのだから、たとえどんなに些細な歪みであっても、災いの火種を生む可能性を秘めているのなら、迷わず摘んでおくべきだと。揺るがぬ意志のありのままを、その権力に携えて。
■五章 定められた答えたち
「はい、あーん優理ちゃん❤」
「わーいありがと彩夏ー❤」
昼休みの教室で優理は、彩夏と絵美に挟まれて、楽しそうに昼食をとっている。
改人はその対面に座り、一歩距離を置いて女子三人の会話のやり取りを眺める。
「うーん美味し~~。いつ食べても最高だよ、彩夏の作った卵焼き~~!」
彩夏お手製の卵焼きを食べさせてもらい、満足そうに口をもぐもぐさせる優理。
「やった、ありがと優理ちゃん! もう私がお嫁さんにしたいくらい!」
「ふふ、お二人ともお似合いのカップルですね」
彩夏が無邪気にはにかむのを見て、絵美が微笑む。時の流れのなんと早いことか、優理が陽南高校に転校してきて、今日で一週間が経った。優理はその明るさと愛着の湧く親しみやすさで、またたく間にクラスに浸透していった。
型にはまらないキャラクターで男女問わず人気があり、特に彩夏とは、まるで古くからの友人だったような、そんな風にさえ見て取れた。
「よし、今夜はちょうど流星群が観れるしな。俺は二人の末永い幸せを願おうと思う」
そんな本日十月九日は、MPが演算で導いたきりん座流星群、その観測日に当たる。
「ちょっと改人、そこは自分と優理ちゃん、でしょ?」
「うーん、優理ちゃんへの焼きもち作戦、失敗ですね。そういえばお願い事、なににしましょうか」
史上類を見ない大規模な流星群が観測できるということで、今日の機会には多くの人が期待をしているに違いない。この宮代県域でも、大多数の人が星に願いを捧げるだろう。
「あ……流星……」
しかし、せっかくの機会だというのになんだか乗り気でない様子の優理。そういえば以前も流星の話をしていたが、うつ向かない様子だったような、と改人は少し昔を思い出す。
今日の逸輝がなぜ不在なのかといえば、何週間かに一度発生する家柄の都合ということで、本日は休暇になっている。
「『二年A組篠崎改人くん、二年A組篠崎改人くん、笹原先生がお呼びです。至急、職員室まで来てください』」
突如アナウンスで自分の名が呼ばれ、改人は一瞬途惑う。
「あれっ、今度は何しちゃったの?」
「なんで再犯扱いなんだ。茶化すなよ彩夏……」
「あっ、待って改人、それなら私も――」
「いや、大丈夫だろ。構わず彩夏といちゃついててくれ」
優理の提案を振りきって一人で教室を出ると、改人は職員室を目指した。
「失礼します、二年A組、篠崎です」
「来たか、篠崎。さぁこっちに来なさい」
笹原先生はどちらかというと嬉しそうな、明るめの声で改人を呼んだ。しかし当の改人の表情は、歩みを進めるほどに青くなっていってしまう。心臓の鼓動がかつてないほど、はち切れそうに高鳴っているのが分かる。酷く息苦しい。しかしそれでも足は前に出さなければならず、左の隅にある笹原先生の机の前までなんとか歩み寄る。改人が目の前まで近付くと笹原先生は、今年一番ともとれる嬉しそうな表情で、改人に話かけた。
「どうした、緊張してるのか? せっかくMP結社からエージェントの方が、わざわざお前を尋ねに来てくれたんだ。もっと嬉しそうな顔をしていいんだぞ? びっくりしたよ、まさかお前に声がかかるなんてな……!」
職員達は皆、こちらの机の一角を、祝福ムードのようなものを漂わせながら窺っている。しかし改人とそれを見守る教師の温度差は、対極にすらあった。本当になんという因果か。一度目の出会いには心の底から感謝をした。しかしこの二度目の出会いには――絶望しかない。
「また合うとはね、上から指令がかかった時には俺も驚いたよ……まさか君とは。同じことを考えているかな? 篠崎改人くん」
これまでが最初から運命だったなら、後はもう乾いた声で笑うしかない。笹原先生の右横に立ち並んでいる純白のエージェントは目元のサングラスを外しこちらを見据えると、以前には窺えなかった真剣な眼差しを改人に向けた。その人物はよりにもよって、第一級・皇室守護者――アラトだ。
改人は直感で、来訪の理由は優理に関連していると悟った。改人がいい意味でMP結社に引き抜かれる要因など、自慢できることではないが一つとして見当らない。自分のもとにエージェントが訪れることは、改人の中で死亡のフラグを示していた。
「ご協力感謝します。後はこちらで直接、改人君と話をさせていただきます」
「はい、篠崎のことを、どうぞ宜しくお願いします」
「……それでは、行こうか篠崎くん」
そう言うとエージェント・アラトは、改人の肩へ軽く右手を乗せた。手のひらから肩へと微弱な電波が伝わってきたと思うと、改人の視界は一変し、そこは校門の前だった。校舎に背を向け解放意思で飛ばされた改人は、校門前に一台の白いリムジンが停車していることに気付く。
「さぁ、中であの方がお待ちだ。ひとつだけ、ささやかなアドバイスをさせてもらう。……素直に自白して、大人しくあの方の指示に従ったほうがいい」
アラトの口調は重々しく、以前のような軽快さはほとんど感じられない。それはイコールで、今の改人が危険極まりない状況にあるということ。改人は自分の体が、凍ったようにみるみる固まっていくのが分かった。アラトがリムジンの扉を、ゆっくりと開く。
中に入っていたのは、エージェントのイメージの純白スーツではなく、それを取って変えた全身超黒色のスーツ、『規律』を体現したような鋭い視線を放つ、三十代半ばほどの男だった。どう見ても常人とは一線を画した、権力者の風格を放っている。加えて車内には護身のエージェントがもう一人、アラトの相方、不機嫌面のイルスだ。男と向き合って対面の座席に座る彼女の表情も、アラトと同じくかなり険しいものである。改人はイルスの隣に座らされ、はさむ形で乗り込んだアラトがリムジンの扉を閉じる。
「……出せ」
男の冷たい指示で運転手がリムジンを走らせる。どう考えても歓迎の空気ではない。対面している改人の顔色を少しの間伺った後、脚を組んだ膝の上でゆっくり手を重ね、男はその後ようやく口を開いた。
「こんにちは……篠崎改人くん。私はMP結社宮代支部の局長を務める、シュバルツという者だ。ありていに言って、この宮代全域のMPの指揮を任されている。さて、君を呼んだ理由は……大方目星がつくと思うが、いかがかな?」
「っ………………」
親玉は口元ににやりと笑みを浮かべながら、不敵に改人に語りかけた。改人は混乱の状態が極まって、もう何も考えることができない。
「沈黙や膠着の状態は、時に言葉よりも多くの情報を漏洩させるものだ。君は今こう思っている。絶体絶命。もう逃れようがないと。そうだね」
問い詰められた改人に、用意できる言葉などありはしない。
「確かに今君は、とても危うい状況に陥ってるよ。このままでは間違いなく、解放意思を扱うものを匿った罪で、光ある未来を失うだろう。ふふ……だがね。今回君と話したかったのはそんな状況だからこそ、君にしかできないことをお願いする為なんだよ」
改人は疑問と不満を混じらせて、俯いていた顔をシュバルツに向けた。
「――君に、救済措置を与えようじゃないか。なにしろ解放人類には――」
学校で間もなく予鈴が鳴り始める頃、優理は自分の席で忙しなく、根拠のない不安に駆られていた。
「改人、一体どうしちゃったんだろう……」
それを隣で見守りながら、彩夏は優理をなだめる。
「心配ないよ優理ちゃん、きっとただの連絡だよ」
彩夏の気遣いにありがとうと言葉を返す優理だったが、嫌な予感はおさまらない。女の感と言ってもいいのだろうか、何らかの良くない感覚が優理の内を駆ける。
「あっ、優理ちゃん! ねぇ、もうB組の噂話聞いた?」
同じクラスの女生徒が目の前でがらがらと扉を開き、目の前にいた優理に話しかける。
「噂? 一体何があったの?」
優理は素早く振り向くと、すぐに女子生徒に問いかけた。
「なんでも隣のB組の子が、MP結社の人が職員室に入っていくところを見たみたいなの。その数分後にアナウンスで改人くんを呼ぶ声が聞こえたから……改人くん、エージェントにスカウトされたんじゃないかって、噂になってたよ。だとしたら凄いよね!」
「えっ改人が!? ほんとすごい……やったね優理ちゃん!!」
驚きながら跳ね上がる彩夏の表情は明るい。しかし優理は直感で、その意味を理解した。優理は瞬時に、がたんと音を立てて席から立ち上がった。
「ごねん彩夏! 私今日は、諸事情で早退するよ。笹原先生に宜しく、お願い……!!」
「えっ、優理ちゃん……??」
驚く彩夏をよそに、優理は早退だというのにかばんも持たず――ダッシュで教室を飛び出した。無我夢中で廊下を走り、階段を駆け下り、昇降口を抜ける。しかし校門を出た所で改人の行方など分かりもせずに、優理は下唇をかんだ。
(油断してた……よりによって改人を、危険な目に合わせちゃうなんて……!!)
優理は周囲に人がいないことを確認すると、胸から下げたベルをチリンと鳴らして、その場から姿を消した。
「………………っ」
シュバルツと対話した後で改人は学校へ戻れる訳もなく、適当な場所でリムジンを下りると、気付けば自身のアパートの前に帰ってきていた。震える右手のカードキーで部屋のロックを外し、中へと入る。
思えば分からないはずもない――宮代県域局長、シュバルツ。この県域の秩序を定めるMPの最大の代行者にして、宮代に存在する全てのエージェントを傘下に従える者。それが、あのシュバルツという男だ。法と政策すらもMP結社が主導権を握る現代にて、表舞台にこそ姿を現さないが、彼は実質この宮代の支配者ということになる。ここから先の選択を間違えると、日本国の全ての正当性を敵に回さなければならなくなる。間違えてでも、改人が相手をすべき存在ではない。そしてその男から聞かされた言葉には――改人がこれまでの生をすべて否定したくなるような真実があった。
すでにその身に込める力も残ってはおらず、ふらふらとした足取りで部屋の奥へと進む。テーブルの前で力なく崩れ去ると――ふとテーブルの上に、一冊のノートが拡げられていることに気付く。そこには短く優理の字で、彼女の居場所が記されていた。
『通学路の途中の、あの鉄橋付近の河原にいます。 優理』
思えば何もかも、問い質すべきことだらけだ――扉を閉めることも忘れて改人は、全力で河原へと走り始めた。
喉が枯れている。息は荒く、心臓が痛いくらいに高鳴る。空はうっすらと夕焼け色に染まっており、間もなく外出禁止を促す音声が鳴り始めるに違いない。それでも目的の河原まで辿り着いた改人は公道の上から、斜面下の河川付近に立つ、彼女の背中を見つけた。この一週間余りで一番身近にいた彼女の姿を目で捕える。優理は、出会った当初の黒い兎ジャージをはおって暮れなずむ空か、もしくは橋のずっと向こう側の風景を見つめ立っていた。改人は、河川敷の斜面を忙しなく下る。優理は依然、変わらず遠くを見つめている。
「……優、理っ…………!」
改人が背後一メートルまで近付き、かすれた声でその名を呼ぶと、ほぼ反射で優理が振り向く。
「っ、改人……!!」
彼女は大きく目を見開き声を震わせると、表情を崩しながら、改人に抱き付いた。
「よかった、改人にもしものことがあったら、私、私っ……!」
優理はぎゅっと、苦しいほどに改人を抱きしめる。改人はとても複雑な気分だった。優理の両手を、ゆっくりと振りほどく。
「俺は、お前に聞かなきゃいけないことがある。マザープログラムの……真実についてだ」
優理は改人から離れ、改人の表情を不安げに見据えると、言葉の意味を悟ったように目線をそらした。
「……それは……」
「校内アナウンスで呼び出された後、俺は待っていたエージェントに促されて、リムジンに乗せられた。その車内でこの宮代のMP結社局長……シュバルツは言ったんだ。解放人類には、一般人と違ってMPの洗脳が効かないから、捕まえるのには苦労するって……どういうことだ優理、マザープログラムは、人間を操ってるっていうのかよ……!? 考え方も、正しさも、価値観も……じゃあ俺が……!! 間違いだと思っていたことは、全部っ…………!!」
それはこの国で、自分が例外だと。真っ当な人間ではないのだと。好きでいたかったことも否定しなければならなかった、改人を否定し続けてきた社会の規律の矛盾だった。こみあげてくるただ一つの疑念が、改人の内側を駆け巡る。間違っているのは自分ではなく――この世界の方ではないのかと。
「混乱すると思って話さなかった。だってそんなこと突然言われても、受け入れられるはずないから。その真実は今までの改人の生き方を、考え方を全部壊してしまうものだから……」
優理は改人の心境を悟り、下をうつむく。
「いいから答えろ優理……!! 本当にMPは人を操ってるのか……!? 答えを、正しさを、全部束ねられて……俺たちは、運命を定められて今を生きてるっていうのか……!! ならなんで俺や、お前にそれは効かないんだよ……!!!」
いっそ自分も一般人と同じく操られていれば、どれだけ幸せだっただろうと改人は思った。そうであったなら改人は、今こうして心の内を酷くかき乱されてなどいないのだから。
「……分かった、全部話すよ。それは改人も、覚悟を決めたってことだよね? もう何を聞かされても、取り乱さないって約束できる……?」
優理のその問いに、改人はゆっくりとうなずいた。そんな自信はなかったが、首を縦に振らなければ、彼女は絶対に答えてなどくれない。
「改人はMPが、今からどれくらい昔にできたか知ってる?」
「……そんなこと、今どき小学生でも知ってる。マザープログラムがこの日本に導入されて、今年でちょうど半世紀だろ」
改人は答えを急ぐ。しかし優理は、焦ることなく真剣に改人を見つめ、淡々と語る。
「そう、半世紀。始まりの創世紀にMPは、物事の答えを限りなく一つに絞った。人々の思考から迷いを消し、意思統一大国をその旗に掲げるまでにかかった歳月は、MP導入からわずか十年たらず……おかしいと思わない? 確かにその時代は混乱や論議もあったけれど、争いや反乱も大きなものには発展しなかった。その十年間で人々は数えきれない、把握もしきれない夥しいルールの数々を、間違わず完璧に身につけてしまったんだよ」
MPの定めたルールに人々が定着するまでに、その程度の時間を要したことは、改人も知っていた。しかしそれはほとんどの国民達が、難なくルールを順守している訳であって、いわばそれが道理なのだと。改人のような例外思考は除いたとしても、ほとんどの人間が疑問など抱かなかったに違いない。改人は言葉もはさまず、ただ優理を見つめて、彼女の言葉の続きに耳を傾けた。
「そもそもこれから機械が全部のルールを決めるから、人間はその規則に従ってくださいって言われた所で、納得できるわけがないよ。そしてそんな星の数ほど存在するルールを、狂いなく順守することも。この国の人達は、本当の人の姿を忘れてしまってる……MPが規律を統治する以前のこの国は、今の常識ある人達なんかじゃなくて、私や改人みたいに疑問や迷いを抱えて、間違って、それでも前を見て進んでいくような、そんな不完全な存在を人って呼んでた。今の間違いを犯さずに、迷いもしないこの国の国民とは、まるで別の印象を抱くかもしれないけど……その不完全さが、本来の人の在り方だよ」
優理が述べた言葉は改人にとって、仮説や空論などではなく、確信めいた真実に映った。
「やっぱりそういうことなのか……!! でもどうやったら、人間の思考なんてもの操れるんだよ……!? しかも、この国の国民全員だぞ……!?」
「よく聞いて改人。人間っていうのは全部、脳が命令を発信して、体を動かしているよね。思考……考え方も頭が、脳が全部の始まりを動かしている」
「何を今さら……まさかMPが、人の脳を操っているとでも言いたいのか……!?」
その改人の問いに優理は確かに一度――こくりと小さくうなずいた。
「そうだよ改人……人の脳っていうのは、些細なそぶり一つにも、全部電気信号が絡んでいるの……その脳の電気信号に介入して思考を束ね、常識を書き換えて国を統治するのが、MPの本当の役割……端末機械の演算で人間の本質を読み取れて、操れないはずがないの」
「そんな……そんな人の思考を操る機械が、完成してるっていうのか……!? 俺達の、この日本国で…………!!」
改人はその言葉を疑いたくて仕方なかったが、いまさら優理が嘘をつくはずもない。
「人間の意思を束ねるっていうことは……一人一人の意識を奪っていくってことでもあるの。今は、MPの存在を人々に認識させた後の、計画の第二フェイズ。国民に意志統治のプログラムを理解させ、浸透させていく段階だよ。MPの目的は、この国の人間の完全な意識の統治……改人にはもう、MPが次に何をやろうとしているか、理解できるんじゃないかな」
そして改人が痛感したのは、MPの理不尽なまでの優しさ。改人は全国民の母の思惑を知らされ、ひどい嫌悪感に精神を苛まれてしまう。誰がそうしてくれと頼んだのか、誰がその世界を願ったのか。かつてこの国に憂いを抱いた、歴史の旧支配者だろうか。
「MPは……俺たちを機械化しようとしているのか。人間の、意識を全部一つに統治して」
「その通り、全部の人間が同じ時に同じことを考えて、願って、行動する、一つの歪みもない世界。それがMPの最終到達地点とする、この国の姿なの。このままだと私たちの日本は、その運命を辿っちゃうことになる」
また新たに改人は、優理がこれまでたどってきた革命活動の外観を幾ばくか思い知ることになった。それはMPと例外思考との、意識の存亡を賭けた戦い。
「――今夜宮代全域で観測される、きりん座流星群」
唐突に流星群のワードを挟んでくる優理。しかし表情は真剣のそれなので、関係しない話のはずがない。
「きっとほとんどの人が夜空を見上げて、流れ星に祈りをささげる。その時MPは、本来干渉の難しい人の潜在意識にまで干渉して、一つの認識を送りこむ」
改人は先ほど優理が言った『計画の第二フェイズ』のワードが気にかかっていた。つまりそれは、洗脳がまだ完全ではないということ。
「MPの導きに従っていれば、全てのことが上手く進む。そうすれば、間違いはない――その認識のもとに、宮代の人たちの意識は完全なMPの支配下に落ちる。それが計画の第三フェイズにして、洗脳の最終段階」
「落ちるってそんな……それが今までとどう違うんだよ」
「MPのルールに適応している常識人にも、厳密にはまだ『選択をする意思』が残ってる……彩夏がテニスプレイヤー、絵美が画家への夢を振り切れないように。でもMPに意思を掌握されてしまったら人は、もうMPの最善策にしか理解を示せなくなる。MPの命令にしか、従うことができなくなる。それが、人間の意思の機械化」
「それが今夜、流星の流れるときに起こるっていうのか……?」
優理は改人の問いかけに、静かにこくりと頷いた。
「MPは私たち例外思考を表舞台から降ろそうとしてる。もしも宮代の意思がMPに掌握されてしまったら……きっと彩夏や絵美は私たちを正しく人として認識できなくなる」
改人は自分の胸のあたりをズキンと締め付けられたのを感じた。完成された社会――それはきっと、全てのマイナスを排除した先にある合理的すぎる世界なのだろう。
「人間は本来、そんなによくできてなんかいないんだよ……もっと弱くて、立ち止まって、迷ってばかりいる生き物……だけどある日、そんな人間の弱さを危惧し、恐れ、強く正そうと考えた人達が現れた……それがすべての始まり。本質的にMPは、人類を救済するための装置なんだと思う。だけど言いかたを変えれば、個人が持つ選択の自由をかき消して、答えを一つに縛るプログラム……」
もう優理の言葉のたびに、いちいち驚いている暇はなかった。改人にはまだ、問わなければいけない疑問がある。
「MPが思考を操ることのできる機械で、国民を支配しようとしてることは分かった……けどじゃあなんで俺はMPに従おうとしないし、お前はこの国に革命を願えたんだよ!?」
「それは……」
優理が言葉を続けようとしたその時だった。鉄橋付近の街灯に付けられている拡声器から、耳に響く音楽と共に、MP結社の全国放送が流れる。
「『こんばんわ。間もなく時刻は、午後五時を回ります。未成年の皆さんは、速やかにおうちに帰りましょう。この放送は、マザープログラム結託事業社が全国放送でお送りしています。繰り返します、間もなく……』」
「もうそんな時間なんだね、そういえば辺りも暗くなって……」
薄暗くなった空を見て、優理はつぶやく。
空が曇っているせいだろう、視界から時間の流れは計りにくい。
「……話の途中だろ、どうして……」
「――私はね、革命を成し遂げられたら改人と夜の空を、また心ゆくまで飛び回りたい。それが私の、夢の一つ」
「今はどうでもいいだろ、そんな話」
改人は話を戻そうとしたが、優理はぶれることなくまた夢の続きを語っていく。
「ううん、ちゃんと関係あることだよ。改人も、私に負けないくらい夜の大空が好きだもん。だから夜空の自由を取り戻すことも、私達の共通の野望だよ」
確かに改人は幼き日の夜間奇行を未だ忘れることができない程に、夜の静寂と自由に満ちた開放感を愛している。しかし今この状況で、その話に耳を傾けるつもりなどない。
「お前な……」
優理の表情に、僅かに笑顔が戻った。改人があきれ果てた所で、優理は脱線していた話を本題に戻す。
「MPは人の脳に答えを、強制的に植え付ける機械。でも私達が、夜間外出禁止法が定められているにもかからず夜の街を自由に駆け巡りたいっていう、その意思が失われずに残ってるのはどうしてだと思う?」
「それは俺とお前が例外思考……周りの人間とは違う考え方を持ってるからだろ」
「そう、それはつまり、MPの洗脳が効きにくい、思考の統治に抵抗を持つ人間だってこと。私達はMPの制約に正しく干渉されない特別な人間、例外思考なの」
微かに穏やかさが戻った表情で語る優理に、改人は真っ向からその存在を否定した。
「それのどこが嬉しいんだよ。定められたルールに脳が適応できないせいで、俺たちは社会からずれてると思われるんじゃないか」
「うん。確かにそのせいで、周りから浮いちゃうこともあるよ。けどね改人、例外思考の人間には、一般社会から隔離された真実がある。彼らは内にある規律への抵抗意識とともに、洗脳を完全に解き放つ可能性を秘めているの」
「洗脳を……解き放つ……??」
「洗脳から解き放たれるのは例外思考の中でも、この国のルールに大きな疑問を持つ人々。その人達は思考の大多数を、MPへの疑念に向けることができるの。そして疑問や不信の感情が思考の80パーセントを超えると、MPの洗脳は完全に効かなくなる」
「そんな情報知るよしもないし、確かに凄いと思うけど。だからって、それのどこが……」
「本題はここから。MPの洗脳から解かれた例外思考は、脳の一部のリミットが外れた状態になる。そして妨げられていた願望への強い意志の力で、常人には不可能な『異能』に目覚めるの」
優理の表情は真剣そのもの。改人も、優理の言葉に思わず耳を疑わせながら驚く。
「っ……まさか、それが……!!」
改人はまさにその時、絵美がいつかに語った、解放人類についての憶測を思い出した。
「――例外的思考がMPの洗脳から解き放たれた存在。それが私達、解放人類……!!」
例外思考が秘めた可能性を説かれ、改人は言葉を失ってしまった。まさか社会に不適合とみなされた存在が、解放人類へ生まれ変わる可能性をもっていたとは。その力を手に入れた者は、今までの世界が一変し、人生の逆転劇を知ることになるだろう。
「それこそがこの国の支配階層によって極秘事項で隠ぺいされている、マザープログラムの真実……その答え」
「……けどそのせいで俺は解放意思を手に入れて、革命を起こそうと考えてしまうんだろ」
考えてみれば、やはり嬉しいことなどではなかった。そうして改人はMP結社と命がけの死闘を繰り広げ、末に目的を果たせず死にゆくシナリオになるのだから。
「そんな……そんな力を持っていたからお前は幽閉されたし、それこそ結社になにされるかなんて、分かったもんじゃないだろ……!」
「……確かにそうかもしれない。でもね改人、私は自分が解放人類であることを、誇りに思ってるよ。この体に流れる異端の血は奇しくも、この国がMPで溢れかえる前の、本当の人々の意思だもん。私が私のままでいることが、これまで歩んできた道への、決意の証だよ」
改人の迷いで溢れ返った表情とは対極的な決意の瞳で、優理は改人を見つめる。その時、今にもというように曇りきっていた空からぽつりと、改人の頬に雨粒がつたった。
「……っ、なんでそうまでして貫けるんだよ。同じ例外思考のくせに、お前は俺とぜんぜん違う……!」
これが日本国の新世紀を目指した革命家の瞳か。思わず改人は優理のその、今の自分には似ても似つかない表情から、視線をそらした。
「改人、私の言葉を、決意を聞いて欲しい。私、決めたよ。純粋に一般の生徒として学校に通うのは初めてだったけど……私嬉しかった。学校のみんな……彩夏に、絵美に、逸輝に……そして今の改人と出会って、私はやっぱり、大好きな人達の、幸せを願ってることに気付いたよ。その為に私にできることは、この国からマザープログラムを消し去って、人の未来を縛る鎖を断ち切ること。そのためにはやっぱり、改人の力が必要だよ。この国の国民の、未来への選択権を取り戻すために、私と一緒に戦ってほしい……!」
雨粒がまたぽつりと、頬を伝う。空から降り注ぐ雨は、徐々に強さを増していく。改人は怖くなった。一見無謀としか取れない、またこの国の行く先を想う優理の強さが。何一つ持たない、無力な自分の弱さが。何をどう言った所で、自分は所詮、ただのさえない学生なのだ。
「何言ってんだよ。俺はお前とも、五年後の篠崎改人とも違う……この国を変えたいとか……みんなの未来をとり戻すとか……そんなこと……願ったって、分かってたって……!」
雨は改人の憂いを世界に伝えようとするかのように、激しさを増していく。
「――どうすることも、できないんだよっ……!!!」
改人は優理を見つめることもできずに、ゆがんだ地面を睨みながら、自分の無力さを吐き捨てた。たとえ真実を得たとしても、答えを縛られたこの世界に、選択肢など存在しない。せめてその現実を伝えるため、改人の言葉は喉を伝い、二人の世界に響き渡った。
「……改人……」
改人にかけようとした優理の言葉は、雨に洗い流され消えてしまう。既に痛いほどの土砂降りの中、二人はそこから動けない。
「条件がある……お前には俺の力が必要なんだろ。だったら……お前のそのベル、俺に渡せよ。それがある限りお前は、どこへでも逃げ放題だ。都合が悪くなって一人で逃げられたら、たまったもんじゃない……」
そう言って改人は震える右の手のひらを、優理の前に広げる。
「……そっか」
顔を上げた改人の目に映った優理の表情は――悲哀の感情が混じった、断念の笑顔だった。それは微笑みにもかかわらず、これまでで一番、改人の心情をえぐる目をしていた。それでも優理は迷わず両手を首の後ろに回すと、チェーンのフックを外して、ベルを改人の手のひらへと乗せた。改人は自分で要求しておきながら、自らの目を疑った。手のひらに置かれたベルを見つめて、それが彼女にとってどれほど大切なものなのか、容易に想像することができた。
月満優理は時間旅行と呼ばれる、秩序の理を壊しかねないほどの解放意思を持っている。しかしその能力は、五年後の改人が能力をかけたという、青色のベルを鳴らさなければ発動することができない。よってベルを手放すという行為は無防備に、己を世界にさらけ出すことに他ならない。時間旅行が数々の危機をくぐり抜けてきた術であろう彼女は、ベルを失ったとたん、反旗をひるがえすこの世界に、容易に捕ってしまうように思われた。何よりもそのベルは、命をかけて共に戦ってきた、最愛のパートナーの形見に違いなかった。それでも彼女は、まるで運命を悟ったかのように、改人の手のひらに自らの命にも似たベルを差し出したのだった。
改人は刹那に悟る。目の前の彼女が、今の改人の言葉の意味を、理解していることに。ベルを渡せと言った改人の意図を汲み取ってなお彼女は、そのベルを差し出していた。
時を隔てても二人を、パートナーと呼ぶことはできるだろうか。二人は互いにその表情で、心の鏡で、決意を映し合っていた。
彼女はただの言葉やはったりではなく、真に覚悟を決めている。いついかなる時、どんなことが起こり、突如命を失おうとも、構うまいとして生きていた。今思えれば運命がどう転ぼうとも、後悔を残さず生きるという信念が、彼女を自由にさせていたのだと改人は悟った。いっそのこと今すぐベルを鳴らして、一人でこの場から逃げてくれればどんなに楽か。けれど優理が今ここから消えることによって改人にどんな処置が下されるのかも、優理には想像ができるのだろう。革命に失敗し、仲間たちを失い、そして自分だけが生き延びた彼女の心境を考えると、再び逃げることはもうできないのかもしれない。結論として優理は、ベルを改人に差し出した。その行為が何を意味しているのか――もはや改人には、考えるまでもなかった。
優理はここで自分の運命を、終わらせることを選んだ。それは彼女の運命を定める、とても大きな選択だった。彼女の瞳は身を強く打つ雨の中、それでも覚悟で澄みきっていた。
――本当に、これでいいのか。
改人は優理の瞳を見て、自分の目的を見失ってしまった。全ては目の前の少女が原因、そのせいで自分が被害をこうむることなどまっぴらごめんだったが、なら自分はなぜ、彼女を受け入れたのか。全ては一途に、自分にはできるはずもない、この世界を変えようと願い戦ったその意思に惹かれたのだ。彼女の思いがこの世界を鮮やかに染め変えるのなら、それはどんなに素晴らしいことだろうかと。そんな、希望のまなざしで彼女を見ていたかったのだと、改人は今この瞬間に、自らの本心に気づいた。答えへと、辿り着いてしまった。篠崎改人はああだこうだと文句を垂れ流しながらも、自分の持つ正しさに向かって突き進んでゆく月満優理を見ていることが、あまりにも痛快で仕方がなかったのだ。
ここで終わってほしくない――たとえ一度、己が野望に敗れたのだとしても。未来の筋書きを知ってしまっていても。彼女がここで終わることなど、改人は決して願わない。優理に習い自分の本心を述べるなら、それが改人の答えだろう。しかしそのために支払わなければならない代償は、あまりにも大きい。これは、本当に正しい選択なのだろうか。何が正しくて、何が間違っているのか。改人の中で、価値観たちが暴れまわる。正しさとは何か、答えを求め駆けめぐる。優理がこの時を決断したように、自分も今この瞬間に、大きな選択をしなければならないのだと。改人は自覚し、思い悩んだ。これほどまでの葛藤は、間違いなく人生で初めての経験。それでも、決めなくてはならない――今この刹那に。そして改人は震えるその身に、心に、これで良かったのだと強く刻み込んで、選択を言葉に変えた。
「――逃げるぞ優理!」「え……?」
改人は瞬時に、その手に握ったベルを優理の前に差し出した。優理は驚いて、一瞬思考が停止する。すると突如、二人の背後一メートルほどの距離に二名のエージェントが姿を現す。言うまでもなく、アラトとイルスだ。
「――結社に叛くのか、改人くん!!」
シュバルツが改人に与えた救済措置とは、彼女を無力化することだった。改人の口から優理の弱点が自らのベルにあることを聞きだしたシュバルツは、改人に優理捕縛への助力を求め、成果として改人の罪を白紙に戻すことを誓った。その過程で他にも、例外思考の秘密などが断片的に耳に入る形となった。
アラトとイルスは改人に付けた盗聴器によって、別所から状況を窺っていた。アラトは改人の手の中のベルにその右手を伸ばす。
「…………その選択、愚か!!」
共に現れたイルスは瞬時に間合いを詰めて、優理を攻撃するモーションに入る。
「そいつはヤバい! 避けろっ!!」「っ!」
改人に反応して、アラトよりも先にベルを取り時間旅行を発動する優理。移動したのは、隙が生まれたイルスの側面。瞬時に優理のその手が、イルスに触れる。
「………………~~っ!」
優理の手のひらが火花を散らした直後――イルスはその姿を消す。その事態が指す意味を、アラトは瞬時に理解した。優理はイルス自身を、戦闘から離脱させてしまったのだ。かつてのアラトと同じやり方で、邪魔となる障害を排除した。瞬間移動と時間旅行。その二つに時間が干渉するかどうかの大きな差はあったとしても、役割として違いはない。その能力は、対象を別の場所へと送ることだ。アラトは月満優理によって、イルスが戦線離脱を強制させられたことを瞬時に知る。
「……イルスを、どこに飛ばした?」
「命を奪うつもりはないよ。けど今は、消えてもらうしかないもん。都市はずれの裏山で、風景でも眺めてるんじゃないかな」
「――ふっ、それなら!!」
彼女がベルを取り戻してしまった以上、その逃走経路を断つ方法はただ一つ。彼女と同じように、こちらも人質を確保する。アラトは、素早く改人にその手を伸ばし、そして確信する。このコンマ数秒の駆け引きの中で、優理が改人を救う手立てがないことを。イルスの隙を突くため移動した位置からでは、どうやってもアラトより先に改人に触れることは叶わない。改人をここではないどこかへ飛ばし、人質として立て、彼女を真っ向から降伏させる。人権を無視する行為に当たるが、彼女には初めからこの策で打って出るべきだったのだ。アラトは改人の肩に手を触れて、瞬間移動を発動する。アラトの手の甲から、バチリと一瞬火花が弾け飛ぶ――これで積みだ。
「――!? なっ……!!」
一体何が起こったのか。アラトの瞬間移動は確かに発動したにもかかわらず、対象とした改人が消えることはなかった。とっさに距離を取り、間一髪でアラトの手から逃れる改人。アラトもさすがに、驚きを隠せずにはいられない。
「なんとかなった……! とっさの思い付きだったけど……やってみるもんだね……!」
アラトが優理の声に振り返ると、なんと優理はアラトの背に触れながら、時間旅行を発動していた。優理の手からはチリチリと、まだ微弱な火花が生じている。
「――バカな、何をしたっ……!?」
アラトは今度こそ声を上げて衝撃を受ける。それは幻ともいえる時間旅行の解放意思を知り得なければ、理解することのできない現象だった。
優理が咄嗟にやってのけたのは、アラトが改人を瞬間移動させる場所のイメージを、彼の記憶を撒き戻し白紙にすることだった。いかに瞬間移動を発動しても、移行先のイメージがなければ能力は効果を果たさない。優理の土壇場の思いつきによりアラトの瞬間移動は、結果不発に終わった。
「背中の隙は、移動系能力者(テレポーター)の恥だよっ……!」
アラトはエージェントとして第一級・皇室守護者の位に恥じない実力を兼ね備えている。磨き抜かれた瞬間移動の能力はその速度、距離、イメージ共に最高の水準を満たしている。皇室守護者として同系統の能力者には一歩も引けを取らないと自ら自負している――しかし。そんなアラトに目の前の優理はこう映る。彼女には移動系能力者として、類い稀な力があると。もちろん時間旅行という規格の全てを無視した能力ではあるが、その強大な解放意思を掌握するスペックを持つ優理をアラトは、認めずにいられなかった。そして同時に、傷つけられたアラトの自尊心が憤る。移動系能力者として背後を取られた事実はやはり、失態以外の何事でもなかった。
「――なにを、まだっ……!!」
アラトが怒りを身に宿し、優理に次の一手を仕掛けようとしたその時。優理が戦線離脱のため改人に手を伸ばした刹那、
――不測の事態が、突如その場を支配した。
「っ!? ……なんだ、これ……!!」
「……そん、な……! 身動きが……取れない……!?」
突如三人の体へ強力な重力の負荷が掛り、一切の挙動が取れなくなってしまう。全員が、立つこともままならず地に這いつくばる。
「……っ……この、桁違いの念動力(サイコキノ)はっ……まさか……ランス、ロ……」
「――全員、その場から動くな」
確認できない第三者の声が、激しく地面を打つ雨の音の中に、高く、鋭く響き渡った。目線の少し先、鉄橋下付近から聞こえるだろう声色に改人は、どこかで聞いた覚えがあり、疑いたくなるような混乱に陥る。
「だ、だが……この場でベルを奪わなければ、彼女を捕える機会は……」
アラトが、まだ視認不可の鉄橋下の存在に、怖れを交えながら意見する。
「……彼女は時空間能力者だ。その気になれば、お前を次元の彼方に送ることも訳はない――そうだろう、月満優理……?」
橋の下から、まばゆい光の粒子が輝きを見せ、それらは集約したかと思うと、またたく間に存在を形成していき、そして人の姿を織りなした。橋の下からこちらへ向かってくる男の容姿は、辺りの薄暗さと鉄橋の影ですぐに窺うことは叶わない。しかし、次第に明るみに出るエージェントが身に纏う白のスーツ、一般人ならば浮いてしまうその服装が驚くほど絵になるルックス、茶髪、その全身から醸し出されるエリートの空気、そして蘇るほどに鮮明で、気取ったクールなしゃべり口調。
改人は自らの目を疑うと同時に、吐き出す言葉を失ってしまった。改人がこの現実をすぐに受け入れられる精神の持ち主なら、世の中のおおよその不条理など、さほど問題にはしないだろう。突如姿を現したエージェントは、目元を銀装飾の仮面で覆っており、その素顔を完全に伺うことは叶わない。しかし改人は、直感で間違いようもない確信に駆られた。ここになぜ彼がいるのか――改人は現実を受け入れ、許容する術を持ち得なかった。
「……いつ……き…………?」
震える声で、改人はかろうじて言葉を吐いた。本当に、なにも考えられない。雨が体を打つ冷たさも、すでにどこかへ消え去ってしまっている。
(……聞いた話と一致する。やはり……あれが零級)
アラトは一度のみ、そのエンブレムの情報を耳にしたことがある。一見すると銀に見間違えてしまう白金の盾の中に黒曜石の右翼――それがこの国で十個人のみが成せるという、皇女守護士の証。この国の命運を分かつ特異点にのみ現れる、幻の存在だという。
「……指の一本も動かすな。指示した以外の行動をとれば、五体の満足は保証しない」
そう告げると逸輝であろうエージェントは、三人に与えていた念動力の重圧を解く。しかし改人は依然変わらず、まだ衝撃に心を支配されたまま、本当に指の一本も動かせない。
「……篠崎改人。まずは彼女の持つそのベルをこちらに渡せ。拒否は認めない」
逸輝らしき仮面の人物は無表情のまま気迫を放ち、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「なんで…………なんでお前が、エージェントの恰好なんかして……!!」
「…………それ以上の発言も許可しない。ただ愚直に、指示に従え」
「冗談が過ぎるぞ! どうして、なんでお前が……答えろ逸輝!!!」
改人が反旗を翻した世界で、予想だにしない不可解に思考を苛まれる中、銀仮面のエージェントは、静かに、冷徹に――まるで、他人事のように。改人へ淡々と、自らの存在を告げる。
「……御ヶ条逸輝ではない……俺はエージェント・ランスロットだ」
「どういうことだよ、何も答えになってない!! お前は……!」
「そんなこと、今はどうでもいい……!! お前は間違った選択をしようとしている! お前自身の意志で! そのベルをこちらに渡せ!! そうすれば、まだ助かる……!!」
しかし仮面のエージェントは次に自らが逸輝であることを肯定するように声を大にして改人へと言葉を返し、この件についての、事態の深刻さを露呈させる。
「それに従ったら、どうなるんだ優理は!!」
「彼女の安否は保障できない、彼女は存在自体がこの規律国家にとっての大罪だ!! 処分を決めるのは上層部の役割だ……!!」
やはり優理は保護の対象に含まれていない。逸輝に違いないだろうランスロットは、改人にのみ救いの手を伸ばしている。
「何を迷う改人、選択肢はない。分かるだろう、答えは常に一つだ……!! 手遅れになる前にベルをこちらに渡せ!! 俺にはお前を救う使命がある!!」
「でも……それでも俺は……!」
ランスロットの言葉に、改人は従うことができなかった。改人の中に芽生えた意思の歯車は、すでに優理を助けるべく動き出していた。
「お前は何も理解していない……その選択はこの国で、全てを失う未来へと繋がっているんだぞ!!」
改人の手の震えが、ベルを握る優理の手の甲に触れる――優理は言葉もなく、その意味を理解した。
「――優理っ!!!」
逸輝の言葉を振りきり、改人と優理はその場から姿を消した。運命は筋書きを変えることなく、むしろ歯車の動きを加速させて、改人に反旗の時をもたらした。
「……改人……お前は…………」
後に残された逸輝は、雨の降りやまぬ空を見上げながら表情を歪ませて、憂いを一言つぶやいた。
依然雨は降りやまない。人の気配は感じられず、地面を強く打つ雨音だけが、その静寂を支配する。優理と改人は、時間旅行で飛んできた先の見知らぬ路地裏で、降りしきる雨をよける。
これからどうすべきかなど見当もつかなかったが、改人の心を困惑させていた要素の大半は、突如強大な解放意思を持つエージェントとして現れ、目の前に立ちはだかった逸輝の存在だった。なぜ、そうでなくてはならないのか。ずっと俺達を監視して、真相を探っていたということか。どうして逸輝が敵なのかと、心を真っ二つにへし折られ、改人は膝から静かに崩れ落ちた。土壇場で結社に抗う覚悟を決め、自分自身の意志で優理への助力を決意した。しかしよりによって自分の最も親しい友が、ここ一番で頼りになるはずの存在が、敵対組織の人間として現れてしまった――逸輝を敵に回すことになるシナリオなど、改人には見当がつくはずもなかった。重要な局面での逸輝は、自分の中で一番に頼れる存在だと、改人はそう信じて疑わなかった。その逸輝が、敵対組織の人間だった。
優理は、ほとんど放心状態で地べたに座り込む改人に、自身も同じくしゃがみこんで、そして優しく抱きしめた。二人の雨で冷えきった体へと、互いのぬくもりが伝い合う。そこに言葉はなく、ただ静かに優理は改人を抱き寄せる。
「……改人が結社に私を差し出しても、私は改人を恨んだりなんてしなかったよ……」
優理は改人のそばで、消えてしまいそうなほど小さな声で、静かにつぶやく。
「だって全部私が抱えて来た問題だもん。悪いのは全部、私だもん。いつどうなって、私が命を落とすことになっても、覚悟は決めてるつもり……悔いなんて残さないよ」
優理は感情を両手に込めて、さらに強く改人を抱きしめる。
「……だけどありがとう。改人がこの未来を選んでくれたから、私は改人を抱きしめられる。改人のこの温かさを、今も感じられるよ」
「俺は……俺はどうすればいい……優理、逸輝は……逸輝がたった今、俺の敵になった」
改人はただ二人きりの世界で、嘆きの声を上げる。
「……よく聞いて改人。まだ私、改人に言ってなかったことがある。改人が私を選んでくれたなら、これは言うべきことだから……」
もう何を聞いても驚きはしない。この雨の冷たさすらも、既にどうでもいいことだ。改人はただ、そう思った。優理は声のトーンを変えずに、なおも静かに語った。
「私が改人と革命を起こすためにこの国中を駆け巡った日々。その中で共に戦った黒兎の屈強な同志達……逸輝は。御ヶ条逸輝は、その同志の一人だった」
「……え……」
改人は我に返り、優理の瞳を見つめる。優理は、今の言葉を繰り返す。
「――逸輝は未来の世界で、私達の同志。そして改人の、右腕だった人…………!!」
優理の言葉はいい意味で、改人を驚かせた。改人が何かを告げるよりも早く、優理は言葉を続ける。
「……私が改人を連れて裏山で未来を回想した時のこと……施設に隔離されていた私を改人が助けてくれたって話を覚えてる……? その時に改人ともう一人、右腕に当たる人と二人組で私の前に現れたって言ったよね。その右腕の人が、逸輝だよ」
改人の瞳に、光が戻る。
「御ヶ条逸輝は革命組織『黒兎』で、篠崎改人の参謀だった男。きっと逸輝は私達に、力を貸してくれるはずだよ……!!」
「逸輝が……俺たちの仲間……!」
新たな未来の真相で、改人は一気に自分を取り戻した。未来で逸輝は、共に命を賭して戦った同志だった。その未来の形は、現在の改人にとっても十分な光明だった。
逸輝はMP結社の一員でありながらやはり心のどこかで、世界の改定を望んでいる。自分と同じく、変革を願っている。そう思うことで改人は、自分を取り戻すことができた。
「そうか……そうだったのか……ありがとう優理。俺はこれから、何をすればいい??」
改人が己を取り戻したのを確認すると、優理はその抱擁を解いた。そして、決まっていたようにその手段を語る。
「改人はまだ、解放意思を扱う術を持たない。けれどその素質を持っていて、解放人類になる未来を私は知っているよ。それなら一つだけ、今の改人が解放意思を手にする方法がある」
「…………! 本当なのか……!? いったいどうすれば……!」
改人は言葉を疑った。今すぐに解放意思を手に入れることができて、優理に解放人類として助力ができるのなら、それがどんなに微々たるものでも構わないと、改人は今まさにそう思った。
「――時間旅行で改人の意識を、未来の改人の記憶と繋げる」
優理の表情は、真剣そのものだった。改人にも、気迫がひしひしと伝わってくる。
「もし成功すれば、それは改人自身の未来の記憶で、脳は記憶と共に解放意思を扱うすべを得られるから、能力を使えるようになる可能性は極めて高いよ」
「そんなことができるのか!? だってそれは、五年後の自分の記憶なんだろ……!?」
「うん……できる。私が改人と共に送ってきた未来だから、私自信の記憶で補強をすれば可能だよ。でもこの方法には……一つ大きなリスクがある」
「……リスク……??」
「……送ることはできる。でも、飛んだ先の五年後の記憶……そこは長く膨大な時間の先にあるものなの。だから五年後の記憶に、改人自身の意識が取り込まれてしまうおそれがある。もしそうなったらこの現実世界へ……戻ってこれなくなる」
優理はとても険しい表情で、危険性を語った。
「……戻って、これなくなる……?」
「本当だったら、こんな荒療治なやり方はしたくない。でも……」
数時間後、夜空に流星が流れるとき――宮代の意思は、MPの完全な支配に落ちる。改人は一瞬体に震えを感じたが、それは雨のせいだと自分に言い聞かせる。もう改人は一分一秒でも、無力でいる時間が惜しかった。自分自身を変えたいと、強くそう願った。
「……優理、もう覚悟はできてる。これ以上、何もできないままでいるのはごめんだ……!」
「改人……」
優理は一瞬、心配して改人の表情を見つめたが、改人の覚悟を無駄にはすまいと、その表情に決意を灯した。
「分かった、改人……目を閉じて、意識を、心を落ち着かせて……!」
改人は、優理の指示に従った。目を閉じて、できる限り無心になる。雨の音も、現在の改人の決意に助力する。
「今から改人の意識を、五年後の精神世界に送り届ける。そこには改人が解放意思を手に入れる為に必要な、記憶の手がかりがあるはず。それを持ち帰れば、改人は解放人類になれる……! 意思を強く持って、絶対に……帰ってくることを忘れないで――行くよ!!」
「――――っ!!」
チリンと鐘の音が響いた刹那、それまで多少こわばっていた表情から、スウッと感情が流れ落ちるように、改人は意識を失った。優理はその体を抱きかかえ、ただ一途に、改人の帰還を願う。確信など持てずに、一握りの予測、仮定、希望を込めて、優理は頭の中でこの先の改人に訪れるはずのシナリオを思い浮かべた。五年後の、ベルに細工を施した彼ならば――この事態をも予測しているはずだと。
「お願い改人、力を貸して……! 改人を未来に導いて……!!!」
身を打つ雨を忘れて、優理は神様などでなく、五年後の最愛の人にその奇跡を祈った。
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