私と結婚してくれる? それともこの国ひっくり返す?
にしき
~夜間奇行のススメ~上
■プロローグ 始まりの夜
「さぁ、行くぞ優理。この夜が続く限り――この夜の終わりまで、俺たちの今日は終わらないからな」
「ふふっ、望むところだよ改人。未来のフィアンセを、しっかりエスコートしてね?」
「誠に残念なお知らせだが、そのあたりの話は当分の間保留だ。俺達には果たさなきゃいけない使命があるだろ」
「もー、こんなにロマンス満載な夜景が広がってるんだよ? ムード重視で行こうよ、ムード重視で」
「嘘はつけないからな、俺が、そんなに小回り効くやつに見えるか?」
それでも、今実現できる夢くらいは叶えてあげたいと改人は思った。彼女は自分の運命を変えてくれた、恩人であるのだから。そう思って改人は、優理の前に自分の右手を差し出す。
「不器用な改人も、私は好きだよ♡」
そう言う優理の左手をとって改人は、裏山の急斜面を蹴り、大きく宙に飛び出した。異能が行使されたことによって、足は空をとらえ、月下の夜空はどこまでも広大なダンスホールと化す。目前に爛々と輝く観客たちは、この大都市の摩天楼に違いない。
「ほら改人っ、テンポを合わせて、ワンツー、ワンツー!」
「はいはい、満足そうで何よりですよ、っと」
改人の手を引いて滑走していたかと思えば優理は、その手を放し、改人の頭上で一回転。そして再び改人に手を伸ばしてきたので、改人も直感でくるりと一周し、タイミングを合わせてまた優理の手を取った。
「うん、息ぴったりだね私達っ。それじゃあ次は、アン・ドゥ・トロワ!」
「おいおい、今度はバレエかよっ」
天を駆けるのは、ただ一組のペアのみ。夜空は今も静かに二人を見守っていて――ゆえに作法も、流儀もなし。ただ自由に、存分に、背に羽が生えたように宙を舞う二人。
時間も使命も忘れ――ショーの幕が下りるのは、きっと世界に陽が射すころ。
■一章 再会
錆びれた鉄橋の下、空から降り注ぐ雨を避ける。目の前の河川は流れを変えることなく、荒々しい轟音を立てている。それは一人の男の、野望潰えし最期の時。
死に際の意識の中、頭から鮮血を垂らして――それでも男は、満ち足りた心境だった。
『……改人! しっかりして改人!』
結果として訪れた己の最期は、きっと愚者以外の、何者でもないだろう。
『ダメだよ、死なないで……生きて改人……! こんな、こんな最後なんてっ……!』
けれど、できることは全てやった。死力を尽くしてこの国の、新しい明日を願った。その果てに訪れる結末がこの今なら……悔いはない。彼は、そう自分自身に言い聞かせる。
『改人…………改、人っ……!』
何よりもこれまで共に命を賭して戦ってくれたパートナーが、最期の時に傍に居てくれる。己自身には、もう何も望まない――それでも。改人は、朦朧とする意識の中で口を開いた。
『最後じゃないだろ……優理。確かに俺はここまでだけど、お前は、まだ……』
この刻に、果たすべき使命がある。目前で悲しみにくれる――愛すべき彼女の為に。
改人は弱々しくも、彼女が首から下げたベルを手のひらで握る。すると悪天の薄暗さの中に火花が一瞬鈍く光り、チリン、と一度ベルの音色が鳴り響いた。
『っ、改人……!』
次の瞬間、青白い球体のベールが雨を遮り、彼女の体を包み込んだ。
『そんな……いやだよ私! 改人を置いてなんて行けない!』
拒み、訴えかける彼女の瞳から、大粒の涙が流れる。それでも、改人の意思は揺るぎない。これが最期の最善策なのだと、心の内で強く思う。
(そんな顔するなよ……これでいいんだ。お前の未来に幸せを願えるなら、希望を託せるのなら。これまでの俺たちの選択にも、きっと意味はある。だから――)
次の瞬間、彼女を包むベールに一筋の火花が走る。
『やめて、そんなことしなくていい! 私は……!!』
『ここから先は……お前自身で選ぶんだ。お前が望めば、きっと――――』
「お疲れさまです、篠崎改人(しのざきかいと)さま。測定が終了しました」
「………………………………………………」
「篠崎さま?」「――あぁっ、はい」
一人の女性スタッフから声がかかり、夢から覚めるとともに、検査の終わりが告げられた。改人は不意に、この場所が資質的パーソナリティの解析を務める調査施設であることを再確認する。では、なぜ彼が今まで機械の椅子に背を預け、馴染みのない交響曲を耳にしていたのかといえば、それは通う高等学校の義務であり、適性検査だからだ。
頭部を視界まで閉ざす解析型ヘッドギアを付けながら、聞きなれないバイオリンの音色に聴覚を委ねなければならないのはこれまで通り。
(まさかこんなとこで寝落ちするなんてな、それに……)
それは自分の死に際の夢。妙な生々しさだったような、と改人は感じた。
「……あの、ご気分が優れませんか?」
しかしまた隣を振り向けば、今しがた声をかけてくれたスタッフが心配そうな様子でこちらをうかがっているので、
「いや、ちょっと考え事しちゃって。すみません」
そう言いながらできるだけ手早く学校指定のブレザーに身を包み、サンバイザーのつばをいつも通り45度右にずらしてかぶる。
「まぁ、気にしても仕方ないか」
改人はそう呟きながら静かにため息をついて、その演算室を後にした。
彼、篠崎改人がいつも頭に赤のサンバイザーを付けているのには理由がある。それは透明無色な自らの存在に特色を付け足した申し訳程度の意思表示であって、目印のサンバイザーがなければ改人は、自身の個性を示すことが酷く困難に思えてしまう。しかしその唯一を示すサンバイザーでさえも、つばを右にずらしてつけるという酷く締りのない被りかただから仕方がない。
当の改人自身が醸す雰囲気は、群衆に放り込まれたとたん、すぐに見分けがつかなくなってしまいそうな、没個性の男子。その印象をきれいに裏切らず表向きは、これといった特徴のない、ただの高校生だから仕方がない。脇役、モブキャラ、縁の下――そんな言葉は改人の身に沁みこんだ、憂い自虐の言葉だ。
ゆえに改人がサンバイザーの赤色を選んだ理由など――語る日は来そうにもない。
「あっ、改人ってば~! またたい焼き、尻尾から食べてるよっ?」
すぐ横で奇行を目にした彩夏は待ってましたとばかりにツッコミを入れ、
「ふふっ、ほんとですね。それは見事に、パックリと」
その隣で絵美は、はにかんだ笑顔を作った。
「あー、またやっちまったのか俺……うん、もう仕方ないよな」
思考メモリの定期更新を終え、とあるたい焼き屋台に立ち寄った直後、もう何度目かと改人は後悔した。たい焼きを尻尾から食べていいのなんて普通は、小学校低学年までだ。
日向井彩夏(ひむかいさやか)と画乃絵美(かのえみ)。二人は改人の通う学校のクラスメイトであると共に、彼の数少ない理解者だ。
艶のある黒髪をポニーテールで纏める彩夏は体育会系のスポーツ少女で、テニスの実力は全国レベル。さっぱりとした性格で改人を含むそこいらの男よりもよっぽど頼りになり、現テニス部の部長を務めている。
かたや肩の上で揺れる二本の三つ編みと眼鏡が印象的な絵美は、穏やかで控えめな印象でありつつも、油絵を描かせれば校内で右に出る者はいない芸術センスの持ち主だ。幼いころから受賞してきた絵画の数も、少し前に二十を越えたらしい。
自分と比較すると多少複雑な気分になる改人だが、どちらも長所が際立つ自慢の友人だ。
そんな彩夏と絵美は、見るまでもなくたい焼きを正しく頭からかじっている。
「あはは、今日も見事なボケかましてくれちゃって」
「いやいやいや」
笑いに走ったつもりはないのだが、と微妙に複雑な思いの改人。
「改人君にはいつも周りを楽しませてくれる、そんな魅力がありますね」
「今そんな称賛はいらないぞ、絵美?」
たった今、なぜ改人がたい焼きを尻尾から食べた事実に苛まれているのかといえば、それはこの国の細かいルールの一つに違反してしまったから、ということになる。
この国には、大きく分けて二種類の人間が存在する。正しくルールを順守できる一般人と、ルールに適応することのできない非常識人間――彼らは例外思考と呼ばれる。
後者側の改人にとってこの規律国家『日本』は、生活のハードルがなかなかに高く思える。とはいえ国民達が常にルールを守るため意識をすり減らしているわけではない。大抵の人間は、なんの不自由もなく規律を自然と守れてしまう。頭がいいからルールを守れて、バカだから守れないという訳ではなく、無意識下でルールを守れるのが当然で、守れない奴は例外なのだ。
『さて、日本国民の未来を示す電脳演算機器、マザープログラムが世に普及して、今年でちょうど半世紀となる訳ですが――』
三人が街中を歩いていると、とある企業の情報を映し出した広告塔の配信映像が改人の目に留まり、その歩みを止める。
『半世紀前のこの国は、極めて大きな混迷期の只中にあり、その打開策としてマザープログラム――MPを世に普及させたのがMP結社と歴史が語っております。これらの見解について、詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?』
知名度の高い熟練キャスターが、その道の評論家なる人物に解説を求める。
『はい、半世紀前この国は、未曾有の暗黒時代として様々な問題を幾つも抱えていました。協定国からの返済不可能なまでに膨れ上がった借金、生み出される経済不況、留まることを知らない国民の高齢化……改善すべき多くの課題を抱え、答えを見失って永い人々は、対話の果てにようやく一つの答えを導き出します。人が物事を決める時代を終え――機械に決定権を委ねよう、と。そうして生み出されたMPは人々の心から迷いや不安を取り除き、この日本国は規律と調和を尊ぶ国家へと姿を変えたのです。全ての人々に最良の未来を示す機械、マザープログラムを産み出したMP結社の功績は極めて大きなものと考えられるでしょう』
『全ての国民の幸福を約束する存在――それがまさに、母なる機械と言われる所以ですね。さて、九日後の十月九日は夜空に観測史上最大となるきりん座流星群が観られ――』
「……人生謳歌してんだろうな」
改人がわざわざ足を止めた理由といえば、司会役のベテランキャスターの様子が気になったから、ということになる。MPが開発されて半世紀と語ったそのキャスターの年齢はざっと六十代後半といったところで、MPが世を統治するまでの人間の苦悩を知っていたはずである。果たして、その人は時代の変革期にどんなことを思ったのだろうか。キャスターの表情から迷いや悩みの感情はうかがえず、嬉々とした表情で司会役を務めている。
「どうしたの改人? あー、あれって」
「50周年の記念配信ですよね。何か気になるお話でもありました?」
「あぁ、いやたいしたことじゃない。悪い」
「MP結社はMPの管理役だけじゃなく、反社会への対抗戦力も備えてるからね? ちゃんとMPのルールを守らないと、捕まるぞ篠崎君」
「へいへい。以後気をつけますよ、彩夏教官」
なにやら楽しげに物を言ってみせる彩夏に、改人は視線を反らしながら空返事を返した。
MP結社は、日本国各地の首都を中心に無数に点在している。この国の領域内で、規律の監視から逃れることは、そう容易な話ではない。
――この日本国において、未来とはただ一つのものを指す。その一つとは、MPが演算し導く未来に他ならない。
「あっ、このタコス味おいしい! 絵美、そっちはどう?」
「はい、この焼きそば味もおいしいです! MPって、ほんと凄いですよね。自分の味の好みまで演算して当てちゃうなんて。改人君のはどうですか?」
絵美に話を振られて、はっと我に返る改人。一瞬躊躇して、自分に言い聞かせる言葉を探す。
「あ、あぁ。俺の味もたぶん美味し……いや、美味しい……のか?」
困惑しながら狼狽し言葉に詰まってしまう改人。なぜなら改人が口にしたたい焼きは、恐れ多くもおでん味だ。
「くっ、なんだこの虚しさは……普通におでん食べさせてくれよ」
正確に言えば、元はおでんの具だっただろう素材たちが、かろうじて原型をとどめている程度に細切れにされ、たい焼きの中に詰め込まれてる。
「改人ったら、また変な意地張ってるの? MPが演算した答えなんだから、間違ってるはずないでしょ?」
「改人君の好みを演算したはずなんですが……どうも改人君とMPの回答は、馬が合わないみたいですね」
不思議そうな表情をする絵美と彩夏。しかし今に始まったことではないと諦め半分に、改人はたい焼きおでん味を一気に胃袋に押し込んだ。どんな事情があれ、食べものを粗末にするのは、作ってくれた人に対して失礼になってしまう――だが、考えてもみて欲しい。おでんにタコスに焼きそば。これは至って真剣な、たい焼きの中身の話だ。たい焼きとは本来、もっと甘味に応えてくれる食べ物ではなかったかと。
改人はおでんという食べ物が特別嫌いなわけではないし、出てくれば何の危惧もなく食べられる程度に好きだ。しかし、こんがりと焼けた小麦生地の甘さとおでんの具を口の中で融和させる方向性を、改人はぎりぎり受け止めきれなかった。
できれば平和にクリームかこしあんが食べたかったが、彩夏の突飛もない発言に絵美が応えてしまったのが事の始まり。各自の持つ携帯端末(改人のみ折り畳み式)に搭載された『思考メモリ』で、好みの味を演算することになったのだ。『思考メモリ』が先ほど演算局にてバージョンアップされたばかりのものだということも、この味覚の冒険に恐らく一役買っている。
MPの演算結果第一項目から、改人はおでん、絵美は焼きそば、彩夏はタコス味を選択。
予測はできていたが、改人はMPに未来の選択を委ねると、いつもろくな目に合わない。それは改人がMPを信用しないことの、十分な理由だった。
「ま、俺は世間様ほどMPを信仰しちゃいからな」
「もー、私と絵美の相性演算の数値見てみなって。どっちも改人に90パーセント台の適応値だよ? こんなことめったにないんだから。現に私たち、クラス一緒になってから仲良くやれてるじゃん」
「そうですね、私、お二人と知り合えてから毎日が楽しくなりました。このことには今も感謝しています。まさしく、母のお導きといえますね」
「まぁ、それを言われると……確かにお前らと出会えなかったら、俺の高校生活はもっと灰色まみれだったろうなぁ」
しかし改人のような一部の例外を除いて、MPの演算能力は驚異的なまでの的中率を誇った。国の命運を握る大きな決定や、身近な所では人一人の能力、性格、資質から導き出される個人の未来の選択まで、限りなく適任とされる選択を導き出し、道を踏み外すことを避けるシステム。その電脳機械は当初、人々が過ちを犯さないようにとの思いから作られた存在だった。MPの登場に最初の十年間ほどは慌てふためいていた国民だったが――MPの演算精度は十中八九間違うことのない、最良のものだった。結果人々から多くの信頼を勝ち取ったMPは、いつの間にか未来演算による決定権を獲得し、母どころか女神のような存在にまで昇華してしまった。
「――さて、今日演算局で受けたMPの資質調査、どうなるでしょう」
絵美が意見を求めるように話題を振ると、彩夏は神のみぞ知る、といった様子で空を見上げる。
「どうだろうね、前回も、前々回も希望の職種は出てこなかったから、今回こそは……って思いたいけど。基本、未来演算の候補からMPが言いたいことは、親の職種を継げ、手本に取れ、だからね」
改人は先ほどの、希代の偉人が奏でただろう交響曲を思い出す。今回の調査結果が分かるのは、来週末くらいだろうか。
資質調査とはマザープログラム端末機(チルドレンプログラムとも呼ぶ)を用いて個人のパラメータを読み取るもので、測定結果は数値的なグラフにして表される。ヘッドギアを被り機械の椅子に座っているだけで、MPは人の脳へ干渉する電気信号を巧みに操り、その人の脳内人格や思考のパターン、潜在意識を読み取ることができてしまう。今回改人たちが行った『適性職種』の資質調査で言えば、人格や長所、短所、能力値を演算した上で、一万八千種の職種の中から適任とされる候補を、上位五つまで提示する。基本的に学生は示された選択肢の中から未来の選択を考慮することになるため、必然的にこれが極めて重要な情報源となる。
「いや、そんなテンプレ通りでいいのかよお前ら。彩夏は七歳のころからテニスのラケット握ってんだろ? 絵美だって油絵で何度も入賞してんだぞ。凡人の俺と違って、お前らには夢中になれることがあるじゃんか」
「まぁ、それはそうなんだけどさ」
「はい、結局は……仕方ありませんよね」
二人は苦い笑みを浮かべながら、互いに顔を見合わせる。
「考えてもみなって改人、未来を演算できるこのご時世。画家もテニスプレイヤーも、相当な資質判定が無い限り目指す人はいないと思うよ? 交差点の赤信号で手を上げて、横断歩道をわたる、みたいな」
「大方の未来が分かっちゃうせいで、みんな安泰を求めますから。まぁ、相当に自信がある人は目指せるんでしょうけど」
大抵の人間は資質調査の演算で、候補にない職種を選んだりはしない。そもそもたいていの場合、社会がそれを許さない。『大抵』の枠から外れる人間は、やはり改人のような例外思考を持つ者に限られる。
しかし、演算というのは所詮確立の提示であって、高い可能性でそれが適任であるという情報でしかない。信じきっても必ず成功する保証などどこにもなく、本当に未来を約束してくれるわけではない。前提条件として適性が無ければ誰も振り向いてはくれないが、それでもMPを信じ切ってしまって、本当にいいのだろうか。
「要するに、MPの言うことに従ってれば、何も問題ないってわけ」
そう言って彩夏は、少し寂しそうにはにかんだ。
「まぁ……例外の意見なんてあてにはしないほうがいいか」
それでも、改人は素直に納得できなかった。彩夏がテニスを、絵美が油絵を、どれだけ好きなのかを、改人は知っていた。
「そういえば改人君は、希望の職種とかあるんですか?」
絵美の質問に、改人は前回の資質調査から導き出された自分の演算結果を思い出す。
「えっと、俺は――」
「あたしもそれ、すっごく気になるかも」
面白そうに様子をうかがう彩夏を細目で見据えた後で、改人は一応まともそうな自らの進路を思い描いてみることにした。
改人の通う私立高校は偏差値70程度、学力が高いことで有名だった先輩がどこぞの名門大学に受かっただとか、そんな話もたまに聞く、一応は進学校だ。中学の成績が並より少し高い程度だった改人が入学できたことは奇跡に近いと今でもそう思っており、現に入学後のテストの順位はいつも下から数えたほうが早い。そんな改人からMPが読み取ったステータスはやはり平凡的なものだったが、それらから導き出された前回の適任職種は、順に次のとおりだった。
第一職種 トレジャーハンター 適応率98%
第二職種 マグロ漁師 適応率78%
第三職種 ルゴブロック投資家 適応率44%
第四職種 ゴルフボールダイバー 適応率32%
第五職種 ホットドッグ売り 適応率14%
大抵の学生の演算結果が両親の職種か、関連のある中間企業の社会人と提示される中、改人の前回の演算結果は混迷を極めていた。改人の両親についても、そんな個性豊かな職業についた経験はいっさいなく、第一職種から五種までの職業との関連性は皆無。改人へのMPの演算結果が毎度のことすさまじいのは有名な話で、担任の先生もこの件にはいつも終始頭を抱えている。前前回の第一職種が『ひよこ鑑定士』だったことにも脈絡のなさに悩まされてしまったが、今回の一位にあえて思慮を凝らすとすれば、トレジャーハンターの適応率98%という数値は驚異のパーセンテージで、お宝を発掘することに生涯を費やせと天啓を受けているようなものだ。仮にそれを志すと仮定して、右も左も分からない改人は、この日本国内でその道の専門家から探索の技術を学ばなければならない。しかし改人の知人にトレジャーハントを生業とする人間など当然おらず、それどころか日本国内でその職業人の話を聞いたこと自体がないので、思い切り渡米でもするか、白旗をあげるほかない。
「無難にホットドッグ売りか……」
「えっと、改人君……?」
そんな改人の呟きに、絵美は両目を丸くしている。
「ねぇ改人、前回の演算結果教えてよー。次のが分かるんだから、もうそろそろ時効でしょ? 一緒に演算受けに行く仲じゃない」
「いいや、俺はこの件を黙秘して墓までもってくことにした。なぜなら俺の前回の演算結果を彩夏が知ったところで、かける言葉はみつからないだろうからな」
考えてはみたものの、やはり答えは出ない。大抵の学生は適応率の高い職種を選んでその道の先に興味を持つが、MPが改人に示した未来絵図は、いずれも常人の物差で測るには危うすぎるものばかりだ。それこそ、未来を選ぶことがばかばかしく思えるほどに。
「誰でもない何かになりたいよ、俺は」
「それにはもう、なってるんじゃない?」
「そりゃよかったな……はぁ」
改人は弱々しく彩夏の冗談にため息を返した。自分のことになると、とたんに姿勢が前のめりになってしまう――それが篠崎改人という人間だった。
「でも、もしかすると改人くんみたいな少数派が一転してMP結社の守護士陣営に選ばれたりするのかもしれません。改人君、諦めるにはまだ早いです」
「はは、エージェントか。奇跡が起きれば、そんな選択肢もあるのかもな」
「そうだよね。改人も人間離れしたすんごい力に目覚めれば……あれってどうなってるのかな? エージェントになる条件が、解放意思(ジェネレイト)を扱える解放人類(ジェネレーター)であること、だもんね」
エージェントの成りたちを不思議に思った彩夏が、絵美に問いかける。
「その辺りは守秘義務に掛かり、詳細が公表されていませんからね。ですが、わたしは解放意思の能力の異質さと例外思考とされる人達の存在は、どこか特異的な共通点があるようにも思えます」
絵美が何を言いたいのか、改人にはすぐに分かった。つまりMP結社を守る栄誉の存在エージェントには、改人のような例外思考の者がなれる可能性が高いだろうと。
「いつの間にか人類は、新たな段階に駒を進めちゃってたわけだ。ま、そもそも解放意思なんて簡単に拝めるものじゃないだろうけどさ」
エージェントの話を今日も目を輝かせて喋る絵美に、楽しそうに言葉を返す彩夏。
「改人君もエージェントみたいに、白いスーツと黒のサングラスを着用すれば、いつか解放意思に目覚めて、エージェントに抜擢されるかもしれません……!」
「よし、それじゃあさっそくそこの通りの紳士服店で……うん、やめておこう」
彩夏と絵美に別れを告げた後、改人は一人で河原沿いの砂利道を歩く。今の改人は先ほど話題に上がった例外思考とエージェントの話題が無性に気になり、それにずっと思考を凝らしていた。本当にエージェントになれるのなら、例外思考に生まれてきたこともよかったと思えるかもしれない。けれどそれはどこまでが真実で、どこからが嘘なのか。
「けど、たぶん違うよなぁ。結局俺がやりたいことっていうのは……」
自分の気持ちに素直になってみた改人だが、自分はこの今を保ちたいのではなく、変えたいのだと気が付く。改人はこの国に永遠の平定を願うのではなく、日常の束縛を打破するような、規律の改変を望んでいて――それは秩序を守るMP結社のエージェントよりも、叛き抗う革命家の思想に近かった。
「はは、俺もついに悪者の思考回路になっちゃったか」
夕日をバックに、笑えない小言をつぶやく。まぁ実際には、明日も同じように学校に行って周りの意見に思考を合わせつつ、音沙汰のない日常を繰り返す。そして決めるべき時が来たら、嫌でもマニュアルに沿った未来の選択をするんだろう。きっと、そんな変凡な日常を繰り返すように己が運命は決まっているんだと、改人は自分に言い聞かせる。
そう、大抵の選択が――一国規模に向かうにつれて、答えは一つに定まって行く。それは人の意思というよりも、掟で、秩序で、ルールで、概念で。未来永劫解けることのない、目で見ることのできない鎖で。人の選択を縛り続けるのだ。しかしそれは、改人が内に秘める特異な意見であって、その他大勢の人達からすれば当然の、悩む必要のない常識でしかないのかもしれない。
改人はたまに、漠然とした不安に思考を苛まれることがある。この国は何か、とても大切なことを忘れてはいないだろうか。自分たちの行く先は本当に、これでいいんだろうか。
しかし、そんな疑問もおそらく日々の生活の中に薄れ、答えを見つけることなどついに叶いもしないだろう。いや、そもそも答えなんて存在しないのかもしれない。それは改人の例外思考としての、常識の外側の疑問なのだから。そんなことを思って、改人はおもむろに空を見上げる。季節はもう十月の半ば。頭が冴えるような、心地よい冷たさの風が流れる。そんな今日の日の夕焼けに改人は珍しく――瞳を焼かれてしまうのではないかという錯覚を覚えた。見覚えのあるありふれた橙色などではなく、間違いなく今年一とすべき赤。これは何か起こるんじゃないかという期待が、平凡を染み込ませた改人の胸の鼓動を高鳴らせる。そんなものは、日常に刺激を求める一高校生の錯覚でしかないのだが。陶酔気味に空を見上げた改人はしかし次の瞬間――本当に、視線を奪われ動けなくなった。
なんと赤く染まった空の下、河川をまたいでかかる改人の視線の先の鉄橋へ、空間を裂いて――女の子が飛び出してきた。
年はおそらく改人と同年代で、金色の短髪の両脇を、短いサイドテールで結んでいる。黒のジャージを着て、黄色のミニスカートを履いた格好の少女は鉄橋に着地すると、周りをきょろきょろと見渡した直後、一瞬で姿を消してしまった。
気がつくと改人は、その場で数分間立ち尽くしていた。紅の夕焼けから、空を切って飛び出してきた少女の姿に、思考がマヒしてしまっていたのだ。少しして我に返った改人は、まず自分自身を疑った。何かの間違い、目の錯覚ではないのかと。
しかし改人の脳裏に焼き付いた先ほどの記憶が、それを偽りではないと証明していた。にわかには信じがたいが、これを確かな現実と捕えると、答えは一つしかなかった。
「解放人類っ……!」
今現在、この世界には確かに魔法のような奇跡の技が存在する。それは言葉を言い換えられて、解放意思と呼ばれるのだ。解放意思を扱える存在が解放人類、まさに現在社会の魔法使い。そうとしか考えられない。数える程度見たことはあるが、あれは確かにその類だ。自身や飛ばしたいものを、瞬時に好きな所へ飛ばせる、瞬間移動(テレポート)に属する解放意思。そうに違いないと、改人は確信した。
解放意思は国内にマザープログラムが普及した後に人が目覚めた極めて特殊な異能力で、人間の脳波と何らかの関係があるらしいが、まだ詳細が解明されていない未知の代物。
その後、どうにか我に返った改人はそういえば、と自身の携帯端末で現在時刻を確認しようとするが――いつもあるはずの右ポケットにそれがない。改人ははっ、と先のたい焼き屋台に携帯端末を置き忘れたことを思い出す。
「まずいよなぁ、そろそろアパート帰んないと」
MPの定めたルールの一つ、夜間外出禁止法の未成年条例に基づき、夜十九時までにアパートに戻らなければ、もれなく保護者への通報と罰金が科せられてしまう。もう、警官たちは目を光らせてパトロールを始めているはずだ。しかし悩んだ挙句、携帯端末の安否が頭から離れず、一目散に南街へと戻る改人なのだった。
鉄橋付近の河原から、小走りで急ぐこと十五分。そこは南街の、様々な大型店舗が店を構えるアーケード通りだ。
「あーよかった。なんだかんだ、なくなると不便だからな」
見当をつけた場所で無事携帯端末を取り戻した改人は、一呼吸した後、目前の電子掲示板に視線を向けた。掲示板は、社会情勢のニュースの速報を告げていた。そしてその内容は改人にとって、決して他人事ではなかった。
「例外思考に対する社会制度の規制……? 要監視対象とする政府の動き……!?」
それはいわば歴史の過去で協定国が行っていた、人種差別のようなもの。政府が直々に公表しているだけに、尚更たちが悪い。失業率のパーセンテージこそ限りなくゼロに近いとはいえ、その陰には確かに常人と例外思考の格差が存在している。
再びため息をつきながらうつむくと、改人の隣でもう一人、足を止めている人物の存在に気が付く。改人が横目で様子を窺いなら顔を上げると、その人は中年の男性で、生えかけの無精ひげを残したまま、浮かない表情で掲示板を覗き込んでいた。
「君、このニュースに固まっていた所を見ると……例外思考を持っているね。そうだろ?」
同類の空気を読み取って話かけてきた男性に、改人も自然と言葉を返す。
「はい、本当にシャレになりませんよ……君もってことは、そういうことですよね」
「あぁ、僕も例外思考さ……これでも家族を養うため身を削る思いで働いてきたんだがね。その末、働き口からはお払い箱にされて、妻と娘にも見限られてしまったよ。まったく……救いようのない話さ」
砕けた口調で話をしているがおっしゃる通りで、改人は言葉に詰まってしまう。現在の日本国の総人口一億五千万人の内の、二桁台の失業者。改人はその一人に出会ってしまったことになる。
「……いいのさ、起きてしまったことはどうしようもない。けれどおかしいとは思わないかい? この国は全ての事柄を、MPの決定に委ねてしまっている。僕たちに張られた例外思考のレッテルすらも、MPが勝手にそうだと決めつけたものだ。それがあまりにも、理不尽すぎると僕は思う」
男性の例外思考としての意見に、改人は無性に強い共感を覚えた。そして賛同の意志を持って、男性にまとまらない思考のまま言葉を返す。
「はい、俺も……おかしいと思います! 対等じゃないっていうか……答えがぜんぜん適格じゃなくてっ……!!」
「そう、そうなんだ。MPがこの国の全てを狂わせてしまっている……この国から、MPは消え去るべきだ」
「そうです、本当にそうですよ! 俺が何度、そうであればと願ったことか……!!」
言い切った後で改人は、自分の発言に違和感を覚えた。MPを避けてこそいる改人だが、この国の人間の大半が母の機械に支えられていることも、もちろん理解している。本気でこの国から消し去りたいかと問われても、簡単に断言はできない。しかしこの男の考えには、何故か賛成したくなってしまう自分もいて、改人は混乱してしまった。そんな改人の狂信に似た意見を聞くと、男は微かに救われたような笑みを口元に浮かべて、
「そうか、君になら是非もない。俺たちの作戦の、協力者となってもらうとしよう……!!」
次の瞬間、表情を狂気に歪め、大きく見開いた二つの眼球で改人を捕える。男の双眸が微かに火花を散らし、それが解放意思だと理解したのを最後に、改人の意識は光を失った。
次に改人がまどろみから意識を取り戻したのは、鋭く響く二度の銃声によってだった。それは天井の壁にめり込む弾丸の音で、フィクションではない、現実の発砲音。虚ろの中改人が認識できる限り、そこは確かに銀行だった。しかし日常めいた感覚は微塵も残ってはおらず、空気は完全に凍りついてしまっている。誰一人言葉を発する者はいない――テロリストである、彼らを除いて。
「我らは革命組織『逆犬(リボルト・ドッグ)!!』この日本国の秩序に反旗を翻す者!!」
改人の意識を奪った中年の男は手に持つライフル銃でカッと音を立てて地を叩くと、響き渡る声でその名を宣言した。中年の男の他にも三名ほど構成員がいて、皆全身黒の戦闘服に身を包み、頭には等しく黒のベレー帽を被っている。戦闘服の背には『逆犬』の組織を象徴するように、ベレー帽を被った黒の猟犬がサーベル剣をくわえて身をひるがえし、主に背かんばかりの勢いを放っている。
「我々の目的は日本国家のMP政策の廃止及び撤去である! 計画遂行のためこの銀行には、活動資金を援助して頂こう!!」
早い話が銀行強盗。恰好よく革命家などと名乗ってはいるが、テロリストと言い換えたほうが的を得ているに違いない。なぜなら彼ら逆犬は、罪のない一般市民を恐怖に陥れているのだから。本当にこの状況は、悲劇以外の何事でもない。
「ふ……ふざけるな! この銀行の金銭は全て、お客様の財産として信頼の証に成り立っているもの……! お前たちに渡す金なんて、一銭たりともありはしないぞ!!」
奥から出てきた初老の男性(この銀行の支店長だろう)は、この状況では効果など期待できないような威勢を張って出る。すると司令塔である中年の男は初老の男性を鋭く睨み返して、ライフルの銃口をかざすと何の迷いもなくドン! ドン! と、二発の銃弾を発砲した。銃弾は男性のギリギリ横を飛び抜け、奥の壁にめり込む。
「なにか勘違いしてるみたいだなおっさんよぉ……俺たちは無駄な時間を省くためにお前らを生かしてやってるだけだ。そのまま突っ立てると大切なお客様の命が一つ残らずけし飛ぶぞ? 分かったら早く金を用意しろ。なに、そんなぶっ飛んだ額じゃねぇ。二千万だ……今すぐ現金二千万をかき集めろぉ!!!」
すでに改人と話した時の穏便さを微塵も残さない中年の男たる司令塔は、窓口にジェラルミン製のトランクケースを投げ込むと、銀行員たちを恐怖でつき動かそうと、また天井に銃声を何度か響かせた。誰も抗う術を持たない。ざっと十人弱程度の銀行員たちは必死の形相で札束を集め始め――現金二千万が集まるのには、五分と時間がかからなかった。
「くくっ、上出来だ。最初からそうすりゃ良かったんだよ。……もしもし、こちら実行隊だ。準備はできているな? ……よし」
次に司令塔の男は、手に持ったトランシーバーで別所の構成員と連絡を取り合った。そして準備が整っていることを確認すると、
「よし、いくぞお前ら。それと」
そこで初めて司令塔の男は、改人に向かって言葉を投げた。
「立って歩け。お前は俺たちの捕虜兼、人質兼、構成員候補だ。一緒について来い」
「……………………」
司令塔の男が告げると、改人の身体は意に反して立ち上がり、男の背後に付き従ってしまった。勝手は全く分からないが、どうやら先ほどの解放意思で意識を奪われてから、男の操り人形と化してしまっているらしい。今にもおかしくなりそうな意識の中、抗うこともできず改人は、完全に男の手駒と化してしまった。
逆犬の構成員たちが姿を消した直後のあおば銀行南街支店の人員達は、一先ずの危機が過ぎ去ったことへの安心感からか、皆一斉に床にへたりこんでしまった。その中で唯一支店長たる初老の男性は、奪われた二千万円を取り返すべく、すぐに一つの回線に非常時の緊急用ダイヤルをコールする。
「も、もしもし! こちらあおば銀行南街支店だ! たった今、野蛮なテロリストどもに現金二千万円が奪われた!! い、今すぐにとり戻してくれ!!」
『あーはいもしもし、ひとまず落ちついてください。あおば銀行の南街支店ですね? テロリストたちはどこへ向かわれましたか?』
「奴らはさっき、鍵の掛った扉を銃で壊して店の階段を上がっていった!」
『階段で上へ……なるほど、逃走経路は空か。分かりました、あおば銀行ですね。まぁ、少々お待ちください』
「君は今どこなんだ? 到着するまでにどれくらいかかる!? 早くしなければ奴らが逃げてしまう!! 早急にっ……」
『落ち着いてください、何も心配いりません――五秒でそちらへ向かいます』
目的の二千万円を手に入れた革命組織『逆犬』は人質の改人を引き連れ、建物の屋上へと歩みを進める。扉を開くとすでに上空では、ヘリコプターのプロペラで勢いよく風を切りながら、逃走係が同志の到着を待っていた。準備は万全、抜かりはない。司令塔の中年男は手に持ったトランシーバーでヘリを操縦する構成員と連絡を取り合う。
「よし、そのまま降りてこい。捕虜一名を加えて、この場を離れる」
ヘリコプターは指示を受けて徐々に降下を始める。改人がどうすることもできず、諦めかけたその時――。
「あぁ、残念、残念。計画は、あと一歩のところで失敗だ」
突如背後から聞こえてきた声色は、その場の視線を余すことなく釘付けにした。
突如姿を現した茶髪の男は、全身白のスーツ、両手に着けたラム革の手袋も純白のそれで、目元は黒のサングラスによって隠されている。その正体は一目瞭然――MP結社のエージェント。二十代前半ほどの男の目元からときおり見え隠れする瞳はまるでコバルトブルーの宝石のようで――絵に描いたような凛々しさの美男子だ。
「さぁイルス、仕事の時間だぞ」
イルス、と呼ばれた改人と同世代の風貌の少女は、改人よりも小柄で、髪は赤く短いツインテールのくせ毛、表情はムスッとしていて機嫌が悪そうな印象を受ける。ジト目のまま表情を変えることなく、サングラスのエージェントを見据えている。
「アラト先輩、いつでもいい。準備はできてる」
直後、アラトと呼ばれた男が解放意思の火花を散らしたのち、二人は改人の視界から姿を消したかと思うと、構成員の一人、トランクケースを持った男を前後からはさむ形で再び姿を現した。その能力は奇しくも、先ほど改人が鉄橋の上で目撃した謎の女の子同様に、瞬間移動の解放意思とみて間違いないようだ。後方のアラトが右手で男の持つトランクケースに触れると、それはアラトの左手に瞬間移動で持ち変えられる。期を同じくして――イルスの右の拳が男の腹部にありえないほど強烈にめり込んだ。
「うっ、がぁっ!」
それは本当に、わずか十秒程度のできごとだった。二人の磨き上げられた技のコンビネーションは、解放意思が奇襲の火花を散らした後、瞬く間にトランクケースを奪還。構成員一名を無力化し、瞬間移動でまた一定の距離をとって離れた。
「とりあえず金銭の確保は完了、っと」
そう言ってアラトは、挑発するように見せつけたトランクケースをその場から消して見せる。おそらくは、下の窓口にでも送り返したのだろう。トランクケースを奪還された逆犬の構成員たちは、アラトの挑発気味の態度も相まって、二人を叩きのめそうと勇猛果敢に襲いかかる。向かったのは、司令塔の男を除いた、胴長と巨漢の二人の構成員だ。
「らぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
初めにひょろりとした胴長の男が、アラトにむけて何かを振りかざすべく構えた。しかしその手に武器は見受けられず、改人には男の意図が理解できない。
「っ!」
アラトは瞬時に、胴長の男から距離を取って離れた。しかし判断が一瞬遅れたため、見えない攻撃がアラトの右肘を微かにかすめる。切れた白スーツの部位から、鮮血がにじみ出る。傷口の形状からおそらく、男の得物は真剣だろうと思われる。
「なるほど、物質を透明化させる解放意思という訳だ。ん? ならなぜトランクケースを透明化させなかった?」
その質問に、胴長が答える道理はない。見えない武器で身構え直し、じりじりと間合いを詰める。
「あ、そうか、透明にしないんじゃなくてできなかった。武器くらいしか透明にできない、程度の知れたレベルの解放意思な訳だ。いやぁ、残念、残念!」
アラトの見解が的を得ていたのか、胴長の男は表情を酷く険しいものに変えて、右足を一歩踏み込み左方からアラトの胴めがけて切りはらった。しかし常に一枚上手のアラトは、振り払った胴長の男の背後にすかさず瞬間移動し、隙だらけの男の背に右手で触れる。
「ま、物騒なものは全部飛ばしてしまいましょっと」
次の瞬間、胴長男が身につけていた所持品は、急所を隠すブリーフ一枚を除いて全てどこかに消え去ってしまった。代わりに男の首元には、赤、青、黄色のカラフルな鉄の首かせが付けられていた。
「どうだい、おしゃれな首輪だろ? そいつは身に付けた奴の解放意思を無力化すると同時に、遠隔操作式の小型爆弾だ。いつでも好きな時にその首から上を吹き飛ばせる。せめて命が惜しいなら――積みだ」
その言葉を聞いて胴長の男は、一瞬固まった後、音もなく地面に崩れ去った。しかし、
「ぐるううう……!」
次にアラトより二回りは大きいだろう巨漢の構成員が手に持っていた鉄バットを自身の解放意思でその体格を上回るほど巨大化させ、今まさに必殺の一撃を繰り出そうとしていた。
「うおおおぉぉぉぉーーっ!!!」
「ハハッ、ずいぶんと凄んでるじゃないか?」
振りかざされる刹那、受ければひとたまりもないだろうが、アラトは逃げるどころかその場から動こうともしない。
ガァンン!!! と重く大きな衝撃音が周囲に響き渡り、改人は思わず視線を横にそらした。そして恐る恐る視線を戻した時、改人の思考は驚きを隠せなかった。折れ曲がり半壊状態となっていたのは、巨漢の男の、巨大化した鉄バットの方だった。
「…………油断しすぎ。かわせたはず…………」
巨漢の鉄バットを半壊させたのは、なんとイルスと呼ばれる少女のか細い拳の一撃によるものだった。いたいけな彼女がそれをやったのだと説明しても、恐らく誰も理解できないだろう。視覚で認識できても、頭では到底理解が及ばない。
「……おとなしく、寝てろっ…………!!」
次に打たれた彼女の一撃も、とても巨漢の男を打ちのめせるようには思えなかったが、
「ぐっ……!? がはっっっっ…………!」
理解不能な衝撃音と共に巨漢は表情を歪めて、意識を失い崩れ去る。
「はっは、どうだイルス。先輩の粋な計らいで、胸が熱くなってきただろう? 俺ばかり活躍しすぎてお前の出番がなくなるのもつまらないからな?」
「…………余計なお世話…………」
そんな部下の可愛い小言を聞き流しながら。アラトは上空のヘリを指さして、最後にこう呟いた。
「――さぁイルス。ラスト・オーダーだ」
細長と巨漢の同志がエージェント二人を迎え撃っている隙に。司令塔の中年男は改人をヘリの後部座席に乗せ、逃走を図っていた。
「く、完全に想定外だ、相手が悪すぎる……!! このまま空から逃げるぞ……!」
もうほとんど屋上の者達は、米粒程度にしか見えない。元いた銀行からはすでにかなり距離を取っていて、中年男は半ば安心しきっていた。いかにMP結社の精鋭、エージェントであっても、この距離を追うことなどできないはずだと、確信を抱いて安堵した。
「甘い、甘いね。移動系能力者(テレポーター)相手に空から逃げようなんて」
しかし、またもや背後から聞こえてきたその言葉に、男は戦慄を隠せない。反射で後ろを振り向くと、改人の肩に腕を伸ばして寄りかかりながら、アラトが男を見据えていた。
「この子は返してもらうよ。学生を人質に取るなんてほんと、趣味が悪いな」
アラトはまたバチリと火花を散らせると、改人と共にその姿を消す――と同時に、中年男は自分の視界の先が著しく変わってしまっていることに気が付く。その場がどこかは一目瞭然、初めに飛び立ったはずの屋上の上空だ。
「な、初めの位置に戻されてっ……!?」
中年の男はすでに司令塔としての役目など果たせずに、混乱しきってただ慌てふためく。すると今度はガン!! と甲高い音と共に上からヘリに強い衝撃が加えられる。操縦席の同志はたまらずに、中年男に外の状況を確認する。
「っ、今のはなんだ! 上から何かぶつかったぞ!! おい、一体――」
操縦席の男は、繰り返しかけたその言葉を、途中で止めてしまった。司令塔たる中年男が状況を理解できないはずもない。外で全てを諦めるしかなくなった中年男の表情を見て、操縦席の男も、同じく言葉を失った。
屋上でアラトがラスト・オーダーを決め込んだ直後、瞬間移動によりイルスは屋上からその上空1000メートル付近に飛ばされた。その間にアラトは捕虜の改人を奪還すると同時に、屋上から飛び立ったヘリコプターを元の着地点の位置へと配置。その後で降下してきたイルスの両脚にヘリのプロペラを破壊させるという、曲芸集団も顔負けのパフォーマンスを、望んでいるかも知れない改人に披露したのだった。ヘリの真上に無事着地できたことに安堵した後で、イルスはアラトの先導に無駄な遊び心を感じながら、そのか細い右手を天にかざし、全力で振り下ろした。
「……………………落ちろ……!」
直後――ヘリコプターが理不尽なまでの衝撃を受け、そして屋上に叩きつけられる様を改人は見逃さなかった。直後、体表で微弱な火花が生じて、感覚的な体の自由を取り戻す改人。
「っ、体に自由が……!」
「あぁ、やっぱり君なにかかけられてたな。奴らが人質を取る時によく使う手段さ。おそらく君を操っていた奴が気絶して、君の洗脳も解けたんだろう」
改人がひとまず胸を撫で下ろすと、その横でイルスと呼ばれる少女がヘリの残骸から片足ですとん、と着地した。すると、
「…………え、あっ……! わ、わぁ~~~~………………」
突如足元の床が崩れ、イルスは遠のく悲鳴と共に一つ下の階に落ちていってしまった。
「はっはーまたやっちゃったか、解放意思の解除を忘れてたんだな。あいつの能力は固い物ほど壊れやすく物質の強度を変えてしまうんだ。『硬度溶壊(ハードデソリュート)』、恐ろしい能力だろ? けどあいつドジで能天気だからよく物壊して怒られるし、おまけにいつも不機嫌面なもんだから俺くらいしか面倒見てやれる奴がいなくてあっはっはー」
イルスが下の階に落ちたのをいいことに、彼女の悪口を楽しそうに告げるアラト。彼女のジト目を思い出すと改人は少し後が怖くなってしまう。
「まったくもったいない奴さ、それだからいつまでたっても二級の秩序守護士(オーダーガード)なんだよなぁ。俺と肩を並べてくれるのは、いつになることやら」
改人はアラトの白スーツの右襟に輝く、エンブレムに目線を向ける。それはこの国を守るMP結社直属のエージェントの証であって、本人同様に簡単には拝めない代物だ。彼のエンブレムカラーの金の盾。その中に輝く右翼の色は赤、一級エージェント・皇室守護者(ロイヤルガード)その人であった。
予想はできていたが、改人が道案内をしたアラトなる人物はやはり生粋のスペシャリストだったということになる。その下には銀盾に青右翼のエンブレムの二級・秩序守護士(オーダーガード)、銅盾に緑右翼の三級・生命守護士(ライフガード)と続く。言うまでもなく、階級が上がるにつれて能力と実績を認められた高位のエージェントという扱いになる。
「ははっ、さて あれでも可愛い俺の部下には変わりない。そろそろ助けてやるとす……」
「…………ア・ラ・ト~~~~!!!」
イルスと共に崩れていった床の真下から、地獄からのようなうめき声が聞こえてきたかと思うと、アラトの足元でゴン! と下から叩きつける鈍い音が聞こえた。突如アラトの足場は崩れ去り、楽しげな悲鳴と共に彼は下の階へと落ちていって、改人はそれをただ見守るのだった。
その後、白のスーツを落下の事故で薄汚れさせたアラトとイルスから、簡単な取り調べを受けることとなった改人。九死に一生を得た後の些細な事実確認に過ぎないのだが、改人にはこの後の展開が予想できてしまい、また落ち着かなくなってしまう。
「はっはぁ……篠崎改人くん。君は、例外思考持ちなのか」
「…………人並に生きる。………人生、平凡が一番」
例外思考の項目に目を向けた後、複雑そうな視線を改人へ向ける二人。そんな彼らに改人は、念のため、申し訳程度の配慮を行う。
「は、はい、その……助けてもらってありがとうございました。本当に、心の底から感謝してます。してるんですが、それとは別に、最後まで個人データを確認しないといけませんか? 話をややこしくしてしまうことになると思うんですが……」
「それはどういうことだろう? 一応決まりっていうか取り決めだから、身の潔白を証明するためにも協力してくれるかい?」
「……はい、それはそうですよね、分かりました……」
当然の成り行きなので、仕方がないとうなだれる改人。この後の二人の反応が分かりはしても、改人自身が用意できる受け答えがない。それは本当に、限られたごく一部の人間しか知りえない、篠崎改人最大の秘密。
「あぁ、これかい? 思考の非適応数値――なっ……!!?」
「……? どうしたの、アラト」
表情を一転させたアラトに反応し、改人の個人データベースのデバイス画面をのぞき込むイルス。そしてアラト同様に、驚きながら改人の非適応数値をのぞき込む。
「非適応数値……さっ、327!!? 嘘、100越えだって県域に一人いるかどうか……それに指定領域Zって、こんなの見たこと……アラト、これどういう……!」
「いやその、俺昔からMPへの非適応数値が異常に高くて。本当にそれだけの、ただの高校生なんですけど」
しかしその数値の高さとは、篠崎改人一個人にとって、当然只事で済まされる問題ではない。この現代において、誰もが判断基準とする未来演算における多種多様な取り決めの数字、それを改人は一切信用できないことになる。それだけで済めばまだよし、第三者から見ても判断基準としての適性を正しく読み取ること自体が不可能なため、改人はこの先も、信用問題として、正しく社会と繋がりを築いていけるか怪しかった。
「……なるほど、君の伝えたい意図が分かった。無作法ですまない――これ以上の取り調べは不要だ。協力に感謝するよ」
「……取り乱してしまった。ごめんなさい」
改人が度を超えた例外思考者だということに気付くと、二人は揃って感慨深い表情をして、おおらかに忠告を促した。革命家、テロリストを名乗って国の秩序に逆らった者に、真っ当な明日はやってこないと。そんな選択をすることは、本当に愚かだと。
余談としてアラトは、自分達がこの県域に配属されるのは初めてのことで、経路をろくに確認せず飛んできたものだから助かったよ、と改人にそんなことを語った。辺りはすでに夕闇に落ちかけていて、夜間の外出禁止法に触れていることは言うまでもない。
「さて、身の上話もこれくらいにしておこう。改人くん、今夜は一人で寝れそうかい?」
時刻にして十九時四十七分。改人はエージェント・アラトの心遣いをうけて、自身の住むアパートへと瞬時に帰宅した。
「行先の途中のルートだったからね。それじゃあ元気で、篠崎改人くん」
そう告げた後で改人が短く感謝の言葉を返すと、アラトはすぐに瞬間移動で姿を消した。
少しの間、意味もなくただ立ち尽くした後で改人は――アパートのカードキーをスキャンして、ドアのロックを解除した。
「なるほどそうか……篠崎改人くん。彼が、あの」
イルスの元へ帰ってきてすぐにアラトは、ぽつりと真顔で彼の名をつぶやく。
「アラト……まだ何か知ってるの? 情報の共有は、ちゃんとして」
「いや、こちらへ来る前……小耳にはさんだ程度だがね。非適応数値300超えの少年が現存すると、この宮代界隈では有名な話らしい。彼は間違いなくこの県域で一番……いや、おそらくは、この日本国における最大級の例外だろう」
それは、例外思考者個人の脳波がどれほどMPの演算の解析に適していないか、その度合いを示す非公開の値。表向きとしては――そういうことになっている。
「そんな目に見えきった例外、マザープログラムが見過ごすはず……」
「あまり大きな声では言えないが……彼はこの宮代においての指定領域Z、つまり特異監視対象だ。そのことからかここ仙帝はかの零級、その守護を受けているとも聞く……あの少年はあくまで自分の非適応数値が度を超えていることしか知りえないだろうが」
「零級……? それって、この国に十人しかいない皇女守護者(インペリアルガード)の」
イルスがまるで幻を見たかのようにぼそりと口ずさんだ直後、アラトは背に突き刺さるような視線を感じ、思わず背後を振り返った。しかしながら当然のごとく、二人の背後に人影はない。
「……少し話しすぎたな。零級の情報の公言は、MPの禁則に触れてしまう。俺たちは常に、あまり喋りすぎるべきじゃない。だが……」
アラトの胸の内の、妙な胸騒ぎは収まらない。数奇なめぐりあわせからか、例外の最たる少年と邂逅を果たしてしまった今日の日には、懸念を振いきれないだろうと思うアラト。
(仮にあの少年が目覚めてしまった日には……願わくば、もう出会わないことを祈ろうか)
その直後にアラトは、淡く光りを放つ光源のようなものがすぐ横を通り抜けていったような気配を感じたが、できるだけ考えすぎないよう自分を律し、イルスとともにその場を後にした。
アパートの中へと入り扉の鍵を内側から閉めてから改人は――思わずドアの前で、力なくへたり込んでしまった。改人は、壮絶だった今日一日を振り返る。
「はぁぁぁぁ……人生、終わったんじゃないかと思った……」
結局、エージェント・アラトの話によると、MPが危惧した未来とは革命組織『逆犬』のテロ行為に間違いないようだった。二人のエージェントがあの場に駆けつけていなければ、自分は本当にどうなっていただろうか。そのことについて、改人は本当に救われたと思っていて、思い返すと今でも生きた心地がしない。命の恩人のアラトとイルスには、ただ感謝するしかない。
しかしその後で、まだ心境の内に解消されていない気がかりを感じ、それが何だったか思い出そうとしながら改人は、我が家へ足を踏み入れる。靴を綺麗に並べ、トイレ、バスルーム、キッチンと通り過ぎ、改人は部屋のガラス戸を引き開けた。するとそこには――。
その後ろ姿を、改人が見誤るはずもない。改人は、まだ自身の中に潜んでいた気がかりの正体を見つける。彼女は改人の部屋の中で、改人に背を向け立ち尽くしていた。
黒のジャージの背中にはよく見ると、トレードマークです、と言わんばかりに飛び跳ねながら笑顔でこちらを向く黒いウサギのマークが描かれている。
改人に背を向け立っていたのはなんと、赤く染まる夕焼けを突き破り現れた、あの謎の少女その人だった。少女も自然とこちらを振り向き、改人と視線が重なる。
改人が目を大きく見開き、口をあんぐりと開けて、なにも考えられず固まっていると、改人を見ながら同じく立ち尽くしていた少女が、消えそうな声でつぶやいた。
「……改、人…………?」
彼女は表情をぐしゃりと歪ませると、瞳には大粒の涙を浮かべて、ゆっくりとこちらに向き直った。そして何の迷いもなく――月夜を駆ける兎のように。後のことなど考えず、全力で改人に飛びかかった。
「改人――――――っ!!!」
その声はとても大きく高らかに、アパート中に響き渡るのだった。
■ 二章 二つの例外
「うぁぁぁぁぁっ!!」
少女に全力で飛びつかれた改人は、バランスを保てずそのまま後ろに崩れ落ちた。
「わぁぁぁぁーーん! 改人改人改人っ、本物の改人だ、ちゃんとピンピンしてるーーっ!」
フローリングの床から大きなダメージを受けた改人だったが、無我夢中の少女に抱き寄せられたまま、頭部を覆い隠さんばかりのふくよかな胸部の未知の感触に、痛覚は麻痺してしまう。
「フガフガ、んー、んーー!!」
「うんうん、言葉に出来なくても改人の伝えたいこと、ちゃんと私には分かるよ、だって私達は唯一無二のパートナ……」
「むぐ、んぐ、んっ、んんん……」
少女のあまりの胸の柔らかさ、そして圧迫感に息ができなくなり、改人は少女に身を呈して危機を伝えた……が、どうやら三途の川が近そうだ。
「あっ……ごめん改人。体が勝手に動いちゃったって、まさにこのことだね」
ついついと照れながら起き上がる少女。彼女の言葉に気を止める余裕もなく、頭を押さえて起き上った改人は驚きと警戒心を持って目の前の彼女を見据えた。そして相手が何者か分からないので、念のためかしこまりつつ、必要最低限の言葉を選ぶ。
「あの、一体どちら様……?」
MP結社のエージェントかとも考えたが、初対面の人間にいきなり飛びかかってくる所を見ると、規律と常識を厳守しているMP結社のイメージとはほど遠い。
(てかコイツ、さっき俺の名前大声で叫んでたよな……なんで俺のこと知ってんだ……!?)
出会って三分足らずの少女を心の中でコイツ呼ばわりしながら、改人はやはり困惑した。金髪の時点ですでに、心当たる知り合いは一人もいない。
「うん、そう、それだよね。うーん……なんて言ったらいいのかなぁ……」
少女はどこか複雑そうな面持ちで、思わせぶりに表情を濁す。
(考え出したぞ、なんか……)
「うーん、ふーむ」
目の前で腕組みし、考え出した不法侵入中の少女。改人の思考は彼女に対し、即座に一つの懸念を抱かせた。
(こいつはヤバい。関わったらきっと、大変なことになる……!!)
だってそうだろう、勝手に人のアパートに上がり込み、どこぞの誰かと勘違いして容赦なく飛びかかる。その末、お前は誰だと聞かれると、どう説明したものかと考え出すのだ。きっと次の瞬間、ろくでもないことを言い出すに違いない。
「お待たせしました、まとまったよ改人!」
「……どうぞ」
(ずいぶん呼び慣れてるな……一体どこのかいとさんと間違えてるんだよ)
改人がどうやって追い出したものかと考えていると少女は、今度は声のトーンを少し抑えて、改まって話し始めた。
「はじめまして改人、私の名前は月満優理(つきみゆうり)。五年後の日本から現在に時間旅行(タイムトラベル)してきた、いわば未来人というわけです」
「…………は?」
「私は月満優理! 五年後の日本から時間旅行してきた、未来人だよ!」
少女は、はきはきとした口調で繰り返しながら、右手をぎゅっと握りしめた。
「いや聞こえなかったわけじゃないぞ!? 自信ありげにガッツポーズすんな!」
言葉が聞き取れなかったのではなくそれは――理解できるはずのない自己紹介のせいだった。改人は、一瞬思考が停止してしまった。
予想外すぎる所から矢が飛んできたが、やっぱりそれ見ろ、完全な電波女じゃないかと、改人は引きつったまま口が戻らなくなった。
もちろんこの時代に、タイムマシンなどあるはずもない。確かに機械に任せてしまえば大抵のことはできるし、知りたいこともわかる。しかしそれらは、全て常識の中の、可能な範囲までのことだ。
真っ当なこの国の人間なら、そんな常識を理解していて、初対面の人間に未来から来ましたなどと、自信を持って明言できるはずがない。常識を重んじるこの国の人間にとって、今の発言は明らかな例外の区分だ。
「よし、お前の言いたいことは分かった。お巡りさん呼ぶから、後は警察署の方で話を聞いてもらってくれ」
できるだけ自分を冷静に保ち改人は、折り畳み式の携帯端末をパチンと開き、1、0、0の順にボタンを押す。
「わーっ!! やめて改人、優理ちゃんは全然怪しい者じゃないよーっ!?」
優理と名乗る少女は、通報を阻止しようととっさに腕にしがみつくが、改人の意思は固い。もし部外者百人がこの状況を見ていたら、全員が通報を推すはずだと、すでに改人には確信があった。
「怪しすぎるぞ、なんなんだお前っ……!!」
携帯端末を固く握ったまま、素性を暴いてやろうと、甲高い声で言い放つ改人。
「私は未来のっ、五年後の改人と志を共にした……パートナー……!!」
少女は改人から携帯電話を取り上げようと必死になる。そうはさせまいと腕を天高く掲げて、改人は質問を続ける。
「やっぱり訳分かんねーぞお前、五年後の未来からなんて、どうやって来れるんだ……! まさか五年後に、タイムマシンができたなんて言うのか……!!」
「……違うけど」
少女は体制を戻すと一端息を整え、そして確かに言い切った。
「私には時間を飛び越える力があるの。それが私の解放意思、時間旅行(タイムトラベル)」
(……解放意思だと……!?)
そう来るとは予想できず、改人はまた固まってしまった。確かに解放意思ならば到底不可能な望みにも、その手が届く。並みの人間には叶わない、不可能を可能にできる。しかし、人の未来を、その先の歴史を改変しかねない程の強大な解放意思の存在など、改人は聞いたためしがない。まぁ、凡庸な一高校生のありふれた情報力はこの際省くとしても、時間旅行とは概念、あるいは秩序の外側にある存在だろう。そんなものをこの国が、あるいは世界中が、野放しにして見過ごしてくれるはずがない。現に彼女の話が全て本当なのだとしたら、やはり彼女は時間回帰という名もなき大罪で時を遡り、ここで五年前の人間と会話をしていることになる。
セオリーとして答えを一つしか持たないこの国の国民に、そんな凄まじいイレギュラーを信じろということ自体が、そもそも困難な話だ。信じられないことは信じないようにできている。それが当たり前の一般市民にとって、彼女の発言に対する返答はこうだろう。
『あり得ない。そんな解放意思は、存在しない。あなたは、頭がおかしい』
よって、彼女が時間を遡った術についての回答は、例外思考の肩書を持つ改人からしてみても、やはり信じがたいものだった。何が何でも、摂理に反しすぎている。
普通の一般人ならここまで、それ以上相手にすることなどあるはずも無く、あとは携帯端末の発信ボタンを押して即通報だろう。
(…………けど、まぁ……なんというか……)
しかし――己の行く末を見失って乏しい現在の改人にとって、少女の放ったパートナーという自身の未来がチラつく発言と、時間を飛び越えられると言った時の真剣な表情に、改人は己を御しきれなかった。彼女の姿はいくら大衆に間違っていると意見されても、自分を捨てなかった――幼き頃の自分と、どこか似た空気さえ感じた。
「隙ありーーっ!!」
一瞬動きの止まった改人の持つ携帯めがけて、優理は素早く手を伸ばした。携帯端末は、改人の手を離れ、優理に奪われてしまう。
「あ、危なかったーっ、これで優理ちゃんの首の皮が、なんとか一枚つながったよ……」
よっぽど身の危険を感じていたのか(確かに通報する気は満々だったが)、こちらに背を向けつぶやく少女に少しだけ考えを改め、改人はまた問いかけた。
「……証明できるのかよ。お前が五年後から来たって、俺に認めさせることのできる確かな証拠は」
優理の真っ直ぐな瞳に多少警戒を緩めた改人は、心境を表情には出さずに、なおも疑い深そうに尋ねる。
「しょうこ? 証拠証拠…………えーと、えーと……」
少女は肩から下げたオレンジ色のポーチの中や、ジャージのポケットの中を探った後、表情を明るくしてそう答えた。
「あっ、あるよ改人! これ以上ないって証拠が……!!」
首から下げていたベルを外すと優理は、腕を伸ばし改人の目の前に垂らして見せる。目の当たりにした改人は、自分の目を疑いざるを得なかった。そうしなければ彼女の先ほどのあり得ない自己紹介を認めなければならないような、それは改人にとって、とても思い出深いものだった。
それを改人が父から貰ったのは、小学三年に上がる手前の、春休みのこと。改人の父は国際事業関連の会社に勤める企業人で、たびたび海外に飛んではお土産と、改人に変わった品を持ってきた。その日渡されたプレゼントは青く輝く、ブルー・メタルのベルだった。時間とともに薄れ錆びると思いきや、改人の手に託されたベルは酸化防止を施されている最新鋭の金属だそうで、金や銀にも負けずに強く光り輝いていた。優理が確証を持って改人に提示したのは、それと瓜二つのベルだった。色も形も、見事に改人の記憶と一致する。
父に貰ったベルを改人は気に入って、長く傍らに携えた後、小学校卒業の時、机の引き出しにしまったことを思い出す。改人は足早に部屋の隅の机に駆けより、引き出しの中から自分のベルを取り出す。内部には確かに改人のイニシャル、K・Sの文字。それは幼き日の改人が、コンパスの穂先で自ら掘り起こしたものだった。
「……見せてもらうぞ」
次に改人は、月満優理と名乗る少女が持つ、彼女のベルの内側を恐る恐る確認した。信じられないことに、優理のベルの内側にもまた、同じ字でK・Sが刻まれていた。
「……俺が掘った字だ……」
「わーベルが二つ! そっかこの頃は、まだ改人が持ってるんだもんねー!」
軽快に言い放つ少女の声にも、偽りは感じられない。
「ほんとにお前、未来から来たのか……」
顔が青ざめ、声を震わせながらも、改人はなんとか言葉を口にした。
「もー、最初からそう言ってたでしょー! 危なく警察署でデカさんに、かつ丼ご馳走されるトコだったよっ! …………してくれるよね? かつ丼……じゅるり」
かつ丼をご馳走してくれるかどうかなど知ったことではないが、改人はできる限り落ち着いて、今起きている不可解な事態を、頭の中で整理しなくてはならなかった。
信じたくなどない、何かの間違いであってほしいが、確かにこの優理と名乗る少女は、時間の軸を飛び越えて、未来から現在の改人の元へやって来ている。どんなに否定したくても幼き日にベルに刻んだイニシャルK・Sが、そう判断せざるを得ないと告げている。
「ふぅ……さて」
体中の震えを隠せずに改人は、何から質問したものかと考える。聞きたいことなどあり過ぎて訳が分からないが、まず初めに問いただすべき事柄は、目の前の少女がなんのために時間の軸を飛び越えて、五年前の現代に来たかだろう。そして改人の目の前に現れたということは、相応の使命を帯びてやって来たとも取れる。
一体何を言い出すのか、はたまたどんな目的があるのか。改人は考えをまとめ、いざ意を決して、その重い口を開く。
「……聞かせてもらうぞ。お前はこの時代に、何をしにっ……」
「ふあぁ~~……」
しかし改人の覚悟の言葉は、割って入った優理のあくびによってかき消されてしまう。
「っ、おいっ……!!」
「むにゃ……ごめん改人……今日はちょっと、限界みたい…………」
「いや、何の話だ」
「時間旅行で五年も時間の枠を飛び越えちゃったから、脳が活動限界でー……」
「ちょ、訳わかんないこと言ってないで、質問に答え……」
少女には改人の言っていることなど耳に入らず、ふらふらとする足どりで改人のベッドの上に倒れる。
「うん……と、ね……おやすみ改人……また、明日…………」
優理がそうつぶやいた直後――首から下げ直したベルが一度、不可解にチリンと鐘の音を鳴らした。すると次の瞬間。優理自身と改人のベッドは、目の前から突然姿を消してしまう。
「は…………」
本日何度目かも知れない驚きに、音もなく崩れ去る改人。しかし今度はすぐに自分を現実に引き戻し、何処に消えたかも分からない少女に、ただ叫ぶ。
「ちくしょー戻ってこいー!! 何なんだお前!! 何しに来たんだー!!」
最後に、自分の部屋のぽっかりと空いたスペースを見下ろしながら、
「ベッド泥棒って……なんだよそれ……」
途方に暮れたまま、虚しさをつぶやく。テレビの上の壁にかけてある時計を見ると、時刻はちょうど夜の九時を回っていた。
「……………………はぁ」
今日は本当に、気力を全て持っていかれた。とくに今しがたのオチが、意味不明すぎて頭が痛い。今日はこのまま寝てしまうべきじゃないだろうか。うんそうだ、そうしよう。
今目の前で起きた現象に理解が及ばず、自分自身に言い聞かせる改人。改めて自分のベッドが物理法則を無視して消失してしまったことを理解し、真上のロフトを見つめる。そこには、高校で使う教材もろもろの他に、予備の寝袋もあった。不測の事態に備えるための保険だが、今がそのときなのは考えるまでもない。すぐに結論を出すと改人は、制服から就寝服に着替えると、入浴も晩ごはんも放棄して、ロフトの布団に潜り込んでしまった。
『……意外とやるじゃん。てっきり、口だけのやつだと思ってたぜ』
『おまえの方こそ。改人って言ったか……案外見込みがありそうだ』
そこはMP結社の息のかかった、例外思考の児童を集め再教育するための更生施設。
例外思考にとって鬼門とされる小学校卒業の際に、改人は更生施設で一年間の寮生活を義務付けられた。そこで求められたのは、普通の人間なら誰しもこなせる、MPの常識を帯びた生活。しかし集められた例外思考の子供たちにとって、それは困難極まりない難題だった。なぜなら例外思考にとってMPのルールとは――何故従うべきか分からない、己の自由を奪うものだったのだから。
集められた十人弱の子供たちが、泣きじゃくりながら観念して一人二人と教官たちのルールに従って行く中、最後まで介入を拒んだのは改人と、もう一人の少年だった。
幼くして頭の切れる頭脳派だったその少年に改人は初め、いけすかない奴とどこか険悪なオーラを放っていた。少年の方も敵意を感じ取ってか、改人にライバル心を燃やしていたようだった。ある日二人は些細なことで取っ組み合いのケンカをし、その末に頭を冷やしていろと指導室で二人そろって正座のまま放置された。つかの間の沈黙の後――なんと少年は不敵な笑みを浮かべて、改人に一つの提案をした。
『なぁ改人、俺と手を組まないか? せっかくの機会だ、俺たちは同志になれる。俺はこの場所で、俺たちの存在意義を証明したい』
『ははっ、それ、なんか面白そーだな……!』
少年の作戦に大いに賛成だった改人は、少年と二人で様々なことをした。物置の屋根裏に二人だけの秘密基地を作ったり、教官たちを出し抜くためのミッションを決行したり。
一番楽しかったのは、皆が寝静まった真夜中に二人だけで施設の外へ飛び出したこと。深夜の外出は極めて大きな禁則で、夜間は施設の至るところに鍵が掛けられるのだが、少年は鍵のかかりが弱い場所を早々にリサーチ済みだった。興奮気味に施設を抜け出すと外の世界には――木と水田と虫のさざめき、そして長く闇に消えてゆくアスファルトの道路だけがあった。すると、なんと不運なことか、二人は警官が自転車に跨りパトロール中の所へ偶然居合わせてしまった。とっさにギリギリのタイミングで、二人は木々の影に身を隠す。直後、警官は改人たちが隠れた辺りを腰から下げていたライトで何度か照らしたが、野生の獣と判断して自転車をこぎながら闇の中へと消えていった。
『『……………ははっ、』』
夜間外出禁止法の『全年齢版』、それは大人子供関係なく、許可を得ていない住民の深夜零時から翌朝五時までの外出を禁止するルール。これに触れることは大変なご法度で、零時を回ってから外へ飛びだした二人からすれば、捕まった際にどんな罰を受けるのかなど想像もつかなかった。
『『――はははははっ、あーーーーっはっはっはっはっはっ!』』
いつの間にか焦りと緊張は興奮と歓喜の叫びへ移り変わり、あとは木の下の草原へ寝転がり何をしゃべっても笑い転げた。自分たちの狂った行いがおとがめなしに成立し、互いにそれが痛快で仕方がなかったのだ。
『くくっ、なにを笑ってる改人、今の俺たちはMPのルールに反逆した重罪人なんだぞ?』
『そりゃあこっちのセリフだって、ぷっ、早く静かにしろよ、戻ってくるぞ?』
しばらく戯れを繰り返した後、多少の平静を取り戻して少年は、夜空を眺めながら当時の改人には聞きなれない、興味を引く言葉を口にした。
『それにしても、とんだ奇行に走ったな、俺たち』
『ん? き……こう?』
『夜間のこんな時間に外に出るなんて、奇行以外の何事でもない。言葉どおりの意味だ』
その意味をすぐに理解した改人は、寝転がっていた草原から飛び起きて、今度は少年の言葉に歓喜した。
『やかん、きこう……! いいな、それ!』
『ん? どうしたんだ、改人?』
『俺たちの今日の作戦! 作戦の名前は、『夜間奇行』だ!』
『『夜間奇行』――作戦名か! ははは、なんだそれは!』
そう言いながら少年も、愉快に笑い声を上げる。そして改人を認めた少年は不敵に微笑んでから、自身の内に秘める願望の存在を改人に告げた。
『お前となら、できるかもしれない。俺には、まだ誰にも言っていない野望がある』
『野望……? 奇遇だな、野望なら俺にもある! 俺も、まだ誰にも言ってない! ――っていうか、お前と仲間になってからできたんだけどな』
『ははっ、なら大方、共通の野望か。――改人、いつの日か二人で――』
「――――っ!!」
そしてはっと目を見開き改人は、目覚めの朝を迎える。見ていた夢は、過去の記憶の一ページ。改人の内に強く深く焼き付く、まだ自分が自由だった頃の――一番の思い出。
「ふぅ、あの夢か……」
朝の陽射しがまぶしい。小鳥たちが一日の始まりを告げる様にさえずる。
昨晩は早く寝たこともあって、体は軽く、とてもすがすがしい一日の始まりだったはずである。しかしその身とはかけ離れ、心と脳が織りなす改人の精神状態は、酷く険悪なものだった。改人は今起きたロフトから、真下の様子を窺う。やはり改人のベッドのスペースは、がらんと空いたままだ。
「………………」
これが夢ならどんなによかったことかと改人は懇願した。夢の中に出てきた女の子は、胸の豊かなかわいい女の子で、ちょっと得した気分で終わらせることができたのに、と。
当の本人がいないことも、改人の現実逃避に拍車をかけていた。あの優理と名乗る少女がいれば、話の経緯を追求して、少しは現実的な話ができたはずだった。
それから改人は十分に入浴をして、いきつかない心境に何とか歯止めをかけると、隙っ腹になっていた胃に、オーブンで焼いたトーストを(マーガリンとジャムを塗って)三枚ほど詰込んだ。そして家にいるのが妙に落ち着かず、いつもより三十分も早くアパートを出たのだった。
昨夜の一件は、考えるとまた頭が痛くなりそうだったので、極力頭から取り除いた上で、いつものように通学路を歩いた。道中、改人は今朝の夢の続きを思い出していた。あの楽しかった、施設での日々の続きを――。
『なぁ、改人の家はどの辺りにあるんだ?』
施設での卒業審査が間近に迫った頃、少年は改人にそんなありふれた質問をした。
『俺はえっと……北区だな。お前は?』
『……そうなのか。俺は南区だ』
少年は残念そうに、悔しそうにつぶやく。
『ってことは、ここ出たら中学は別々か……』
その頃にはもうすっかり、二人は気の合う親友だった。
『なら高校、高校は何処へ行くんだ?』
『高校? まだそんな先のこと、全然考えてないな……』
少年の先駆けられた考えに、改人は多少たじろいでしまう。
『俺は高校は南区の陽南ってところに入る。だから改人も高校は陽南に来い』
なんでも少年は、それなりにいい所の家柄の人間らしかった。そのせいで常人よりさらに強固なルールにうんざりしていて、家を出たい、といかにもな表情で語った。
『よし分かった! じゃあ俺も、高校はそこに入るよ!』
『約束だぞ改人、忘れるなよ!』
『ああ、絶対、約束だ!!』
そう言って二人は遠い先の、覚えているかもわからない約束を拳を合わせて誓い合った。
その後改人と少年は、はたから見れば何があったんだと驚くほど、施設のルールに従った。改人はたまに間違ったりしたが、少年のルールに忠実に従う姿勢はほとんど完璧だった。やればできるのに、全くやろうとしなかったのだ。改人はそれを見てライバル意識を燃やし、自らも積極的にルールを守ろうと頑張った。
二人は、無事に更生施設を卒業した。その後改人は北区の、通う予定だった中学校に二学年の転校生として編入する。一学年の学業は施設で勉強させられたので、それなりに何とかなった。しかし、学校の集団生活での問題は、当前のように改人の思考を戸惑わせた。学校の隅々に散りばめられたルールは、改人をまたたく間に見えない鎖で縛りあげた。
校舎に入る前には泥除けのマットで靴の汚れをしっかりと取る。
学校で先生に会ったときはその度に誠意を込めて挨拶をする。
校舎の中を走ってはいけない。
給食に出た食べ物は残さず全て食べる。好き嫌いはしない。
授業開始五分前には自分の席に着く。
ほかにも挙げればきりがないが、身近な学校のルールから生徒としてあるべき姿など、ほかの生徒たちはしっかりとその規律を遵守し、生徒としての責務を全うしていたのだ。
かつて例外思考と判断され施設での生活を経験したことのある生徒はほかの学年にも何人かいたが、いずれも改人の目に映ったのは、間違ったり戸惑ったりしながら、真っ当な生徒になろうと、必死にルールに適応しようとするひたむきな姿だった。更生施設の中で出会ったあの少年のような子供は、一人としていなかったのである。
それからの改人は、無茶をしていた頃の面影など見せることもなく、まるで牙を折られ、翼をもぎ取られたかのように。周りの人間に意見を合わせ、意思疎通が乱れないよう、自分の考えは極力出さず――自分を信じずに、今日高校生活に至るまでを過ごしてきたのだ。
まぁ、だからこれといったとりえもなく、なよなよな草食野郎になってしまったんだと、改人は自分自身を解読し尽くしている。
「これでもバカだった頃はやんちゃだったんだよなぁ……いや、バカだったからやんちゃだったのか……」
改人はどこまでも広がる青空を眺め、まだ自らが自由であった幼少期に思いを馳せる。真っ先に思い出すのはいつも、施設にいた頃の、あの少年と決行した夜間奇行。自分達の意志で規律の鎖を断ち切った、あの夜の日。
このルールに縛られた世界で、あれ以上に痛快な体験など、この先二度と味わえはしないだろう。そんなことを思いながら改人は、この定められた鎖の日々を、今日も平静を装いながら送る。すると今日も学生としての義務を果たすべき学び舎『南陽高校』が視界に入り、改人は浮ついた思考のピントを現実に合わせた。
昇降口前の掛け時計に視線を飛ばすと――時刻は7時15分。足取りが忙しなかった為か、改人は早々に学校へ到着してしまった。自分の足音だけが廊下に鳴り響き、今日はクラスへ一番乗りだと見当をつける改人。しかしいざ教室に着いてみれば、中には改人のよく知るクラスメイトが一人。机に座り七、八百ページはあるだろう、けっこうな厚さの経済学書を、すました顔で読んでいた。
「何だよ、やけに早いな……逸輝」
「それはこっちの台詞だ、改人。先ほどまで俺は穏やかな朝の日差しに包まれて、日本経済のさらなる発展に思いを馳せていたんだぞ?」
そのクラスメイトは、言葉を返しながら経済学書から改人の方へと視線を移し、口元に笑みを作ってみせた。造形美を思わせるほどよく整った顔立ちの二枚目マスクが、朝の陽ざしに照らし出される。この男にクラスの女子が片っ端から心を奪われたという事実を聞かされて、いったい誰が疑うだろうか――付いた二つ名が、輝羅(きら)の貴公子。
「あぁそうかよ。お前は今日も相変わらず、気取る気満々だな」
対する改人も、冗談を交えて言葉を返した。
御ヶ条逸輝(ごかじょういつき)。彼もまた改人と同じ例外思考側の人間で、改人にとっては数少ない、旧友に当たる人物だ。
『約束だぞ改人、忘れるなよ!』
『ああ、絶対、約束だ!!』
その誓いを違わず信じきった改人は、中学三年の冬に陽南高校の受験を受けると、見事合格を手にし――入学式の当日を迎えた。すると驚くべきことに、少年も五年越しの約束を覚えていて、二人は陽南中学校にて見事再会を果たした。その再会を果たした少年こそ何を隠そう彼、御ヶ条逸輝(ごかじょういつき)なのだ。
再会を喜び合った二人だったが、互いに失ったもの一つ、すぐにそれに気付いてしまう。
『改人……お前どこか落ち着いたな。あの頃と今とを比べるのも、おかしい話だが』
そう言う逸輝の表情も、二人でバカをやっていたあの頃に比べると、ずいぶんと落ち着いて見えた。幼少期の頃と比べるのがおかしいという点には、改人も納得であったが。
『そりゃあ違うだろ、あの頃と今とじゃあ』
『思い知らされたせいだろうな。あれから、色々と……な』
お互いにそれ以上、昔と今の自分達を比べはしなかった。言葉には出さなかったが、そのそぶりと表情で逸輝も改人と同じく、この世界に根付く何かしらのルールに、自身を更生させられたことは明白だった。それはおそらく経験しなければ分からない、経験した者にしか理解できない感情に違いない。
自分達の理想郷が、存在してはいけない世界だった。おそらくはそんな所かもしれない。
彼を良く知る改人から見ても、御ヶ条逸輝は明らかなチート・キャラクターだ。横から見ているだけで頭が痛くなるような厚さかつ、見慣れない専門用語オンパレードの経済学書。それを涼しい顔で読んでいた逸輝は、学校での筆記試験の際には順位が必ず不動の一位。加えて体育会系の行事でも恵まれた運動能力を十二分に発揮するだけでなく、チームをまとめるそのカリスマ性にも、口を出す者は誰一人としていない。勝負事を勝利に導くのがどこぞの部長やキャプテンではなく、帰宅部である逸輝という超展開も、すでに改人には見慣れた光景だった。そんな逸輝の功績あってか、同じく帰宅部の改人は、どの部活にも属していないことが無駄に誇らしかったりする。そんな超ハイスペックのポテンシャルに、クールな美系二枚目キャラときたもので、当然女生徒たちが彼を放っておくはずはない。ここまででもう同性である改人はおなかがいっぱいなのだが、ここからさらにと付け加えなくてはならず、彼の家元はなんと――MP保安財閥、御ヶ条グループなのだ。
御ヶ条グループとは、この国におけるマザープログラムの研究と秩序の保持に莫大な資金を提供している大企業、その支柱の一角を示す。この陽南高校のように例外思考者へ理解のある学校に少なからず基金を援助する団体でもあり、そんな組織の力が働いてか(聞いていないので定かではないが)高校入学から二学年目に至る現在まで、改人はずっと同じクラスで逸輝を見てきたことになる。彼は間違いなくこの学園一の有名人であって、その友人として傍らにいれる改人は、本当にそれが数少ない自慢話なのだ。
もともと逸輝は、幼いころから御ヶ条家の家柄のせいで星の数ほど存在した堅苦しい規則やルールをめっぽう嫌い、(もちろん守ろうと思えば守れたらしいが、おそらくそれは守れないと言う)拒否を続けた結果、父親直々に施設に送り込まれていた。
改人自身、逸輝のことを気取った奴だと比喩することはよく言ったものだと、自ら勝手に自負している。改人は自分と逸輝のスペックが天と地ほども開いていたため、一度開き直って尋ねてみたことがあった。『お前って人間は、一体どうやってできてるんだ? それだけなんでもできたら、さぞかし人生楽しかろうよ』と。すると返ってきた言葉は、改人にはおそらく到達しようもない、理解の及ばない解答だった。
『……俺もなんてことの無い普通の家に生まれていたら、お前みたいになれたのかもな』
その時の逸輝の表情を、改人はよく覚えている。無表情にわずかに憂いを残しながら、目の前の完璧エリート人間はよもや、改人のような凡人として生きたいと答えたのだ。
やろうと思えば大抵のことは何でもできる。ゆえに達成することに興味などないが、家元の視線と自らの能力値から、よくできた、優秀な自分を周囲に見せつけなくてはならない。そんな己の意思に反する実力と周囲の期待を帯びて、おそらく逸輝は今日も、前へ進もうとしているのだろう。もちろんそのために何か自分にできることがあるのなら、助力は惜しまないと思う改人なのだった。
「つーかなんだよ、その本」
逸輝が手にしている書籍には、『次の時代の経済白書』の文字が、金字でがっしりと書かれていた。
「家の人間が読め読めうるさくてな。父の得意先のプロジェクトチームで研究して出したらしく、読み終えて感想を聞かせろときたものだ。まぁ、多少なりとも興味はあるんだが」
そう言うと逸輝は体裁よく、一度ため息をついた。
「けどわざわざこんな早く学校来て読まなくてもいいだろ。家で読んでこいっての」
「いや、こう見えて俺も案外忙しい身でな。一人で集中できるのも、こういう朝の教室くらいなものだ。あと少し読み進めれば、適当な個所で区切りがつけられるんだが?」
そう言うと逸輝は、経済学書を読み進めながら改人の反応をちらりと伺ってくる。
「はいはい。それじゃ、何か飲み物でも手配しましょうか?」
すると逸輝はそうだな、と財布から出した百円玉で、机の上にパチリと音を立てた。
「ミックスオレを頼む」
「ミックスオレって、確か隣の校舎の実習塔にしかないやつだろ」
手間のかかる注文だと、改人は逸輝に意見してみた。行って帰ってきて、十分程度はかかる距離にある。
「大方その程度で、きりのいいカ所だ」
「そうか、分かりましたよ、と」
そう言うと改人は、ぶらりとした足取りで、実習塔に向けて背を翻す。
「おい改人、代金はいいのか?」
逸輝が出した百円硬貨は、机の上のままだ。
「ああいーよ。なんか今朝ここに来て、妙にいい気分だ」
「……だったら昇降口前の、適当なやつでもいい」
「いや、俺もなんだかミックスオレが飲みたくなった」
「まったく、面白い奴だな。お前は」
「いやいや、朝イチで教室来て分厚い経済学読んでるヤツには負ける」
「はっ、そうか……?」
そして逸輝は、また『次の時代の経済白書』に姿勢を戻し、読書を再開した。
改人は、やけに気分が良かった。それは暖かい朝の陽ざしのせいであったのかもしれないし、もしくは今のやり取りに、小さなルール破りが何気なく成立していたからかもしれない。常識的に考えて、他人に飲み物を買って来てもらうのに、お金を預けないなんて考えられない。そして逆に行かされる方からしても、お金を受け取らないなんてことはない。それが親と子ならまだしも、学生間にルールが遵守されないのはやはり例外なのだ。それが何の問題もなく行われた先ほどのやり取りは、改人にとって、そして逸輝にとっても、お互いが変わらず例外であることの証明に違いない。
今日もまた一日が始まる。何も変わらない、いつもと同じ日常が。下校のチャイムを聞いて下校時刻を迎えるまで、あの非日常を呼ぶ少女のことを、記憶の奥にしまい込んで。
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