第5話 クッキーとホットミルク


 別に僕は勉強が好きなわけではない。

 かと言って嫌いなわけではない。



 でも、時間と言うものは退屈している時ほど長く感じる。だから早送りしたい現実をスキップするために、将来これが本当に役に立つか分からない学習を、大人の言われるがままに行う。テストでいい点を取りたいとか褒めて欲しいとかそんなことはない。いや、本当は褒めて欲しいのかもしれない。だけど満点のテストの答案紙を両手で抱えて、見せたい人はもういない。頭を撫でて「がんばったね」と耳の鼓膜を優しく震わす声は、何回も再生されて擦り切れた僕の記憶にあるビデオテープの中にしか残っておらず。ザァーと細切れに、飛ばし飛ばし途切れて変わる心に残る情景はもう本当の声さえ正確には思い出せない。



 たとえその時の音が思い出せなくても、窓から差し込む夕日の光が机に向かう彼女の背中を照らし、木製の列車をフローリングの上で転がして遊ぶ僕にとって、勉強に集中する彼女は憧れで、そんな優子さんの邪魔をしないように僕は時折、遊ぶ手を止めて彼女の後ろ姿を見上げる。もしかしたら、そんな憧れた彼女になりたくて僕は同じように机に向かうのかもしれない。



 セーラー服に身を包み、長い黒髪を朱色のゴムで縛った彼女の後ろ影が僕の心を強く惹きつけ、無邪気な僕は早くその隣に立ちたいと実現できない夢を叶うと信じて疑わなかった。



 消しゴムのカスが机の隅に小さく山を作り始め、気づかないうちに1時間が立つ。英単語の忘れていたところに青の蛍光ペンで印をつけてなぞるように口にして覚え直し、壁にかかった時計がコチッ、コチッと時を刻んだ。そうして時間をシュレッダーにかけるように消費していると、カーテンを閉め切った窓ガラスが不意にコンコンっとノックされた。



 僕はバッと首を窓のほうに振り返り、何事かと目を向けた。2階にある部屋の窓をノックすることなんて、普通は不可能である。でも、できないわけではない。10年前も同じような方法で優子さんがこの部屋を訪れたからだ。



 僕は入口近くの壁にある小さく棒状に淡く緑に光るホタルスイッチを押して部屋の電気をつけた。チカチカっと円盤状の室内灯が光って明かりがつくと、またコンコンっとノックの音が聞こえた。


 誰かいる。


 僕はカーテンを開ける。シャァーとカーテンレールに吊るされた厚手のカーテンの車輪が擦れる音が耳に響き、もう何年も開けていなかった窓と僕は対面した。



 夜のベールに包まれた外は、明かりがついたまま窓が開いて、レースカーテンが揺れる隣の部屋が見える。しかし、そこにいると思っていた少女の姿はなく、僕は狐につままれたような気がして、再びカーテンを閉めようとする。するとまた、コンコンコンっと窓ぶちの下のあたりから音がした。僕はベットに上がり、窓を上から見下ろすように外を見ると、窓ぶちの下に黒い髪の小さな頭を見つけて思わず「あっ」と声が出た。


 陽菜だ。

 黒い瞳と目があった。


 彼女はもう一度、窓をノックする。そして『い・れ・て』と声を出して口を動かした。スカートの裾にがヒラヒラとしたフリルがついた白いワンピースを着ており、お風呂上りなのか、少し髪が濡れて、朱色に色づいた頬が室内と外の寒暖差を物語っている。



 僕はどうしてこんなところに? と思うと同時に勝手に手が窓のレバーに触れて鍵を開けていた。



「危ないよ」



 僕の心配する声をよそに彼女は手に持っていたものを差し出した。



「……これ、家まで送ってくれたお礼に渡したくて」



 ちょっと目線を伏せて、彼女から手渡されたのは、布のような手触りのピンクのラッピングシートが、金のラインが入った黄色いリボンで口を縛られている包みだった。



「クッキーをママと焼いたの。それでよかったら恵斗に食べて欲しくて……じゃぁ、私、これで行くね……今日はありがとう」



 踵を返すように立ち去ろうとする彼女を僕は包みを右手に持ったまま呼び止めた。



「待って……」



 部屋に戻ろうと窓から離れた彼女が振り返り僕を見た。



「あれから足の痛みは大丈夫?」



「……あっ、うん。もう大丈夫、ほらこの通り」



 そういって彼女は屋根の上でくるりと一回りした。

 その瞬間、雲がさえぎっていた月が顔を出し、青い光が差し込んだ。彼女の黒い髪と白い肌が光に照らされてキラキラと輝き、まるで暗いステージにスポットライトが当たったようにその姿が際立った。



「ね?」



 彼女は後ろに手を組んでそう僕に笑みを向ける。赤く色ずいた頬、笑った口元から見える白い歯、細められた目じり、そのどれも、僕の知っているあの人にそっくりで、僕しか知らないはずなのに、まるで生前の彼女がそこにいるように思え、僕は息を飲むように口にした。



「あの……君が迷惑じゃなければ……よかったら上がっていく?」





「えっ……いいの?」



 手を合わせて彼女が少し首を傾けると同調するように黒い髪が肩から流れ落ち、すだれのように垂れ下がって、その隙間から屋根を反射した青白い月光が海面を反射するようにキラキラと、彼女が動くたびに髪の間から顔を覗かせ、そうして近づいてくる彼女の姿に僕は息を飲んだ。



「どうせ、僕しかいなし、よかったらホットミルクを入れるよ。今日はまだ寒いしっ」



「ふふっ……それじゃぁ、ごちそうしてもらおうかな」



 陽菜は戻ってきて僕に顔を近づけると窓ぶちに手をかけた。そして窓を飛び越えて上がろうとする。



「あれ……あれ? 変だな」



 足は窓枠まで上がるが、背が小さいせいか身体が持ち上がらない。僕は彼女の脇腹を掴むとその小さな身体を持ち上げた。

 陽菜はじっとしていて、まるで抱えあげられた猫のようにきょとんと、ビー玉のような瞳でじっと僕のことを見つめベットの上に降り立った。



「惠斗……力持ち」



 彼女はそう呟くと桜色に染まった耳が黒い髪の隙間から覗き見え、赤くリンゴのように染まった頬が目に留まって、僕も同調するように身体がむず痒く熱くなった。



「そうでもないよ。運動音痴だし」



「へぇ……そうなんだ……」



 どうしてだろう。なんか気まずい……陽菜が僕の方を見ないから、何かしてしまったのではないかとソワソワする。もしかして、何も言わず身体に触るのが良くなかったのかもしれない。



「ホットミルク入れてくるからここで少し待ってて」



 「うん……待ってる」



 陽菜は返事を返すように少しだけ伏目がちにベットの上から視線を僕に向ける。そんな彼女を残して、僕は一階に降りて行った。

 階段を一つ、一つ下りるたびに、暗い廊下に開いたドアの隙間から明かりを漏らす自分の部屋に、自分以外の誰かがいることが信じられなくて、心臓がバクバクと大きく音を立てた。


 

 そうして僕は暗い廊下から、リビングにあるレースカーテンから覗く月明りを頼りにキッチンに向かうと、3人家族にしては大きい冷蔵庫を開けて、オレンジの明かりが照らす中で1ℓのパック牛乳を取り出し、扉を右ひじで閉めた。



 そして昔からある2つのマグカップにミルクを注ぐとレンジで温めた。ブゥーンと音がなり、暗いキッチンの中を電子レンジの明かりが輝く。牛乳が温まる少しの間、ゆったりとなった時間の流れを肌で感じながら、早鐘を打つような鼓動が、徐々に落ち着いてくる。夜の静寂、壁に背中を預けて室内を見渡す。何もない時間が溶けるように過ぎていき、興奮が冷め始めた頭でボーとした何かを考えようとしたが思い浮かかばなかった。そうしているうちに電子レンジがピーピーと鳴り、僕は電子レンジの中から2つの取っ手を持ってマグカップを取り出すと、木製のトレイの上に置いてレンジの蓋を閉めた。 

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