第6話 同じマグカップとなり同士


「おっと……」



 階段でミルクをこぼさないように慎重に上がって自分の部屋へと戻っていく。



「お帰り」



 すると扉のドアノブを持って、部屋から廊下を覗いていた陽菜と目があった。

 まるで早くこっちに来てほしいように口元をにんまりと笑みを浮かべて待つ彼女の表情を見て、僕は少し嬉しい気持ちなった。

 彼女が僕に近づくたびに、部屋の明かりが背後から照らして陽菜の顔に影を作った。その暗闇の中でも彼女の笑みはかき消えることなく、笑いえくぼに引かれて僕は急いで近づきたい魔法にかけられていた。

 


「扉を閉まらないように持ってるね」



「ありがとう」



 陽菜に通されて自室に入ると、彼女は扉を閉めて、僕のベットに勢いよく飛び乗って座った。その隣に僕が腰を下ろして、一回り小さい手にマグカップを手渡した。



「はい、どうぞ」




「ありがとう」



 両手でマグカップを持って、彼女は「ふーっ、ふーっ」と息を吹き込んでミルクを冷ます。そんな陽菜の姿を横目に僕は彼女が持ってきてくれたクッキーの包みを開けてトレイの上に広げた。



「食べていい?」



「うん! 食べて食べて!」



 マグカップを持ったまま、鼻を高くし胸を張る彼女の姿に、僕はあまり期待をかけないでクッキーを口に運んだ。

 ザクッっとした歯ごたえとミルクの風味、そして少し甘いチョコの味が僕の味覚を静かに刺激した。期待した通りのなんの変哲もない控えめな甘さ。



「どう……かな?」



 不安げに僕を見つめて尋ねる陽菜に、僕は言葉を返すことができなかった。



 どうしてこの子が優子さんのクッキーの味を再現できるのだろうか。



 瞳の奥が熱くなって不意を突くように僕の頬を涙が伝った。



「大丈夫……?」



「あぁごめん、なんでもない」



 僕は涙を腕で拭くと、心配そうに見つめる彼女に笑顔を見せた。



「おいしいよ。とっても……僕の好きな味だ」



「……よかった」



 陽菜は手の指先を合わせて三角にして少し嬉しそうに口角を上げて笑った。

 僕の思い出の味と重なった懐かしい味。どうして彼女がその作り方を知っているのかわからなかったけど、優子さんの母親である清華さんと一緒に作ったから、たぶん

この味になったのだろう。



「もっとたくさんあるから食べて」



 陽菜はクッキーの包みを僕の方に押しやって勧めてきた。

 勧めてきているのに、彼女の少し自信がない感じが庇護欲をそそり、たくさん食べなくてはという使命を僕は感じた。

 そうしてクッキーを頬張った僕の隣で陽菜はマグカップの取っ手を持って、左手で底を支え、ふちに口をつけてコクコクと飲んだ。



「君は……どうして僕のこと知ってるの?」


 

 口いっぱいに頬張ったクッキーを飲み込み僕が質問すると、陽菜は「ちょっと待って」と立ち上がって窓ぶちに手をかけると屋根の上に降りた。そして僕の家から向かいの彼女の家に飛び移ると、自分の部屋の中に入る。そうしてしばらくすると一冊の本を片手に持って戻ってきた。その本は少し色あせていて古いものだった。僕はまた両手で彼女を抱えあげ、部屋の中に下す。



「これに書いてあったから」



「それは……日記?」



 青い背表紙で『Diary』と表紙に書かれた本に僕は見覚えがあった。



「うん、ここに書いてあったから惠斗のことすぐにわかった。向かいに住んでる男の子って」



 陽菜が手にしていたものは優子さんが使っていた日記だ。昔、僕が小さいころに見たことがあるから間違いない。だから僕のことを知っていたのかと納得する一方、疑問に思うことがあった。



「学校の校門で待ってたのは? その日記には今の僕のことは書かれていないと思うけど……」



「それは今朝、向かいの窓から学校に行く惠斗の顔と制服を見てたから……」



 陽菜は日記に顔を隠すようにつぶやいた。思いのほか、顔が赤くなっているのは気のせいだろうか。



「だって日記には小さくてかわいいって男の子って惠斗のこと書かれていたのに、実際にあったらすごく大きくて大人っぽいだもん」



「そうかな……」



 自分では身長が伸びたこと以外変わった感じはしない。



「そうだよ。だからすごく意識しちゃったじゃん」



 陽菜は小さく何かをボソッと呟いた。



「えっ? 何か言った?」



「何も言ってない」



 陽菜は手を合わせ日記を抱いたまま半分ほど指を組み合わせると目尻を下げ口元を緩ませて嬉しそうに笑った。その姿が記憶に中の優子さんとそっくりで、思わず目を丸くした。



「ちょっと、冷えてきたかも……お手洗い借りてもいい?」



「いいよ」



 ベットの上で足をぶらぶらと振っていた彼女は、ぶるるっと肩を震わせて、座っていたベットから立ち上がると、部屋の扉を開けて廊下に出ていった。その姿を僕は見送ると、トテトテと小走りで廊下を走って遠ざかっていく行く足音を耳にし、1人で残された僕は肩の力を抜くように後ろに手を伸ばして姿勢を崩すと、彼女が置いてった日記に手が触れた。



「中にどんなことが書いてあるんだろう……」



 目に留まったその青い背表紙の中身に僕は興味を示し、手元に取り寄せた。



 読みたいような読んだら悪いことが書いてありそうで読みたくないような。



「優子さんはあの頃、僕のことをどう思っていたんだろう」



 ぽつりと呟いた言葉は部屋の中に浮かび、消えていく。

 小学1年生なんて二十歳の大人から見れば子どもで、そんな男の子の好意なんて、子どもの無責任な発言だと思われてじゃないだろうか。年下の僕の面倒を見て迷惑していたじゃないだろうか。嫌だと思っていたんじゃないだろうか。そんなことが頭をよぎり、日記をめくろうとしていた手が表紙の手前で止まる。



「やっぱり、勝手に読むのは……」



 もうここにいないとしても、僕は優子さんを裏切りたくない。綺麗な思い出を汚したくない。そんなエゴで、独りよがりな理想を今も優子さんに押し付けていた。



「どれだけ、好きなんだよ。僕は……」



 座っていたベットに仰向けに倒れこみ、顔が熱くなる。心の奥底にしまい込んでいた彼女への思いが蘇り、それがもう叶わないと思うと、頬に涙がこぼれた。

 16歳になった僕は今でも彼女のことを好きで、そんな彼女を夢に見る。あの病室で最後の最後まで懸命に生きようとしていた彼女を、僕に目じりを下げてほほを緩ませ屈託ない笑みを向けていた綺麗な瞳を、そんな彼女に恋をして叶わないとわかるから胸が押しつぶされそうに苦しくなる。



「しっかりしろ、もう高校生だろう。もう何もできない子どもじゃないんだ」



 涙を白シャツの袖でふくと起き上がった。

 こんな姿、好きな人には見せられない。



 僕が起き上がると膝の上に置いてあった日記帳が滑ってドサッと床に落ちた。

 


 僕はベットの下に落ちた日記帳を拾おうとした。その時、開いたページが目に入った。



「白紙……?」



 少し黄ばんでいるが真っ白で使われた形跡のないページ。拾いあげた日記帳をめくると、どのページにも筆跡がなく、使用した様子がない。



「どうして……何も書いてない?」



 陽菜の話だと、彼女はこの日記帳を読んで僕のことを知ったと話していた。だけど、日記は白紙だ。それじゃぁ、あの話はどう言うことだったのか。もしかして陽菜は僕に嘘をついたのか?



「なんで……?」



 どうして僕に嘘をつく必要があるのだろう。

 そもそも彼女は何ものなんだろうか。

 考えると背中が急にぞわっとする。廊下の先にいる彼女が何者なのか僕にはまだわからない。



「あれ、最後のこのページだけ」



 最後のページをめくろうとしたところ1ページだけ裏表紙とくっついていた。



「あっ……外れそう」



 ぺりぺりっと音を立ててはがれていくそのページに僕の目は引き込まれた。その後ろには何が書かれているのか気になった。優子さんが僕に向けて何かメッセージを残したじゃないかと期待し、目が張り付いて離れなかった。しかし、その高揚感は廊下をドタドタと走る足音ともに走り去り、僕は日記帳を元あった位置に戻した。



「お待たせ! ……どうしたの?」



 猫のように背筋を伸ばす僕の格好を見て、陽菜は物珍しそうに見つめていた。



「ちょっと、背伸びをしたくて……」



「ふーん、そうなんだ」



 陽菜は僕のそばまで近づき、目と目が合う距離になると、ベットの上に腕を組み、にこにこ笑みを浮かべて顔を横にして僕の顔を覗き込むように見上げた。



「何か隠してる?」

 


「何も隠してないよ」



「本当?」



「ほんと、ほんと」



「うーん、怪しい。何か隠してるでしょ」



 彼女はじっと僕の瞳の奥を見つめて、問い詰めてくる。

 しかし、壁にかかっていた時計の針を目にすると、彼女はバネではじかれたおもちゃのように勢いよく立ち上がった。



「もうこんな時間! 早く帰って宿題やらなくちゃ!!」


 

 陽菜はベットの上に置いてあった本を手に取って窓へと近づいた。



「ちょっと待って!」



 僕は窓ぶちに手をかける陽菜を呼び止めた。

 彼女は顔だけ振り返ってその丸くて大きな瞳で僕を見据える。



「君はどうして野木さんの家にいるの? なぜ優子さんのことを知ってる?」



 僕の問いかけに、彼女は瞳を細めて言葉だけ置いて、窓ぶちを飛び越えた。



「秘密だよ」



「えっ?」



 頬を上げたいたずらな笑みを僕の瞳に残し、彼女は窓枠の上から消える。

 窓をのぞき込むと、屋根の上を馴れた足取りで、羽が生えたように向かいの家の屋根へ飛び移り、そして窓枠に手をかけた。



「またね」



 そう言って胸の前で小さく手を振って、部屋の中に降りた黒くて長い髪を僕はいつの間にか目で追っていた。

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