第4話 君の家、僕の家
「……いいの?」
少女は口元に両手を持っていき遠慮がちに口にする。
どう答えることが正解なんだろう。そもそも正解なんてあるのだろうか。答えがないものを解いたことのない僕には、その導き方がちぐはぐで、未知数で、星の数だけ答えがあるように思えた。きっと僕にはそのどれもが間違えに思え、もし時間を無制限に与えられたら選ぶことのできない。解いたとしても満足できない。映画館のシートで一人ポップコーンを食べながら、ああすればよかったと物語にケチをつける、自身のことを評論家だと思う一般人のように、危険を起こすことなく安全のところから口を出すだけの人間になって満足していただろう。
でも、視覚という投影機から映し出された彼女は本物で、映画と違い座ってみているだけなんてできない。自分で考えて、選んで、掴んだ先に、まだ誰も見たことのない景色を僕は映し出そうとしていた。
「自分がしたいからしてるだけ、それに学生証を拾ってくれたお礼だってまだしてないし……その……なんていうか、気にしなくていいよ」
「うん……わかった」
彼女の細い腕が首にかかる。ミルクのような甘い匂いと、自分の体温より高く、白く短い腕が僕の肩に抱き着くように回される。背中に預けらた体重の羽のような軽さに驚き、まだ肉付きの少ない太ももに手が触れる、
「重くない?」
耳元でさえずる不安げな声に、僕は笑みをこぼして返事を返した。
「ぜんぜん、むしろ軽くて驚いているよ」
「本当?」
僕が彼女を背負い直すと彼女のランドセルの中の教科書が音を立てて鞄の中でぶつかるように動いた。
「ほんと、ほんと」
「よかった……」
安堵する彼女の腕が先ほどよりもぎゅっと僕の肩を抱きしめ、まだ発育のない胸を僕の背中に押し付けた。僕の右肩に彼女の頬の感触が伝わってくる。息遣いも、鼓動も、その全てが僕にとって初めてのことなのに、その感覚にどこか懐かしさを覚えた。
あぁ、そうだこの感覚は……
まだ僕が幼稚園生の時、遊び疲れて眠くなった小さい僕をよく優子さんは背中におんぶして、夕暮れの河川敷の土手を、真っ赤に染まった大きな太陽が川にかかる橋を照らしながらゆっくりと沈んでいく、僕は彼女の背中に赤い頬をくっつけて、口に親指を入れながら、眠気と闘うように瞳を瞬かせ、一日が終わるその瞬間、彼女が歩くその歩幅のリズムを子守歌のように耳を澄ませて、聞こえてくる息遣いと優しい声、橋の上を走る電車の音、そして彼女の心臓の動きを瞑った瞳の奥に感じた。
あの時の僕はされる側だったけど、こうして自分がする側になると、彼女の気持ちが少しわかるような気がした。ちょっと力を入れれば壊れてしまいそうな、か弱くて繊細で、傷をつかないように守るには少し大きくて、羽ばたく鳥のように自由に駆け回り、見るもの全てに希望が満ち溢れた、大人の苦労なんて知るはずもない小さな鼓動を近くにいるはずなのに僕はどこか遠くに感じた。
「背中……おっきい」
彼女がボソッと呟いた言葉に僕は反応するように言葉を返す。
「まぁ、高校生だから……」
「ふふふっ……そうだね」
彼女がどうして笑ったのかわからなかったけど、僕の胸の奥で張りつめていた緊張が少しほぐれたような気がした。落ち着くような声色、まるで初めて話したようではないような安心感が、どこから来ているのかわからなかったけど、さっきまでのぎこちないない空気が、キャンプの焚火にくべられたように、暖かい炎を二人で囲むような自然な会話ができることになった。
「家はどっちの方?」
「あっち」
彼女が指差す方がちょうど僕の家と同じ方向なことに驚いた。
でも僕の学生証を拾ったのだから、帰り道が同じ方向なのは珍しいことではないだろう。
今まで気づかなかっただけで、意外にも僕の知らないだけで近くに住んでる子なのかもしれない。
「ここ」
しかし、彼女が指差した家は僕の予想をはるかに超えすぎていた。
「えっ……ここ?」
僕はその家を知っていた。
隣に建つのは僕の家、徒歩五分もしない距離に玄関がある。小さい頃によく僕が遊んだ優子さんの家だったからだ。しかし、柊と表札がついた隣の家には、今は彼女の両親である
「本当にここなの?」
背中を降りた彼女は、戸惑う僕を見上げて、頬がはじけんばかりの笑顔を見せて頷いた。
「うん!」
まだ少し肌寒い空には一番星が輝き始め、誰がつけたかわからない街灯の明かりが音もなくチカチカ輝き始めた。遠くには夕日の橙色が、青く深い海の星空に飲み込まれるように沈んでいった。蛍光灯の白い光に照らされて僕は自分の家に立ち尽くし、黒い柵の扉を開けて敷地にに入っていく彼女を何も言わず見ていた。
「恵斗」
彼女の帰宅とともに、玄関にパッと暖色のライトがつき、少女の手に対して大きい扉を開けて彼女は振り向いた。
「送ってくれてありがとう」
扉の隙間から覗かせた彼女の顔はまるで僕のことを初めから知っていたかのような親しみを込めた笑みだった。いたずらをしたような、僕のものを黙って取ったようなそんな笑い方に、僕は何か大切なことを見落としているような気がした。
「……まだ、名前……教えてないよな」
パタンっと閉まる扉を見つめて僕はしばらく立ち止まる。彼女が降りて軽くなった背中には、まだ密着した体温のぬくもりと肌の感触が残っていて、遠ざかっていくその感覚に気づかないまま、僕の肩からズルっと紺のスクールバックが腕のひじほど落ちた。
初めてのはずなのに初めてではない、その間隔に戸惑いを覚え、落ちたスクールバックを肩に背負い直すと、自分の部屋の反対側の部屋に、明かりがついたことに気づいた。外は日が落ちて、夜の静かな車道を走る車の雑音が耳に響き、バイクのライトが排気音を立てながら背後を通り過ぎた。僕はポケットにしまっていたカギを取り出すと、きぃと音を立てる黒い柵を開けて中に入る。そして玄関までの階段を上がり、出迎えの照明が付かない自分の家の扉に鍵を差し込んで開けた。
「ただいま」
明かりもなく暗い玄関。
誰もいない家は静まり返り、僕の挨拶に返事は帰ってこなかった。
わかりきったことだ。
僕は薄暗い玄関の明かりをつけないまま靴を脱いで家に上がると、そのまま2階にある自分の部屋に向かう。
薄暗い階段を上がって行くと左側にある自分の部屋の扉を開けて中に入った。カーテンを閉め切っているはずのその部屋に、何年振りか、向かいの部屋からこぼれるわずかな明かりが、窓と隔てる垂れ下がる布の隙間から抜け出して顔をのぞかせていた。
僕は部屋の明かりをつけないまま、肩からスクールバックを下し、机の横に置いた。デスクライトをつけると、黒いボディのオフィスチェアを机から引き、足元についている4つのキャスターがクルクル回って動いた。僕は座りすぎて座面が固くなった青の布地の上に腰を下す。
ベットと机、クローゼット、本棚の中に数冊入った漫画、帰っても寝ること以外あまりすることのない僕は、テストの範囲を勉強しようと、紺のスクールバックから教科書とノートを机に出して、シャーペンをカチカチと押し出し、机に向かった。ザッザっと黒鉛が削れる音と教科書をめくる擦れるわずかな音が部屋に響き、誰もいない静かな時間が流れた。
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