第3話 絆創膏と大きな背中

 追いかけてきたから物怖じしない子だと思ったが意外だった。案外、彼女は人見知りなのかもしれない。

 そのせいか、こんな子が僕はどうしてこの子が僕の後ろをついてきたか少し興味が湧いてきた。



「ちょっと、足を見せて」



「……えっ」



 僕は屈んで膝を地面につき彼女の足を持って怪我の具合を見る。傷は深くないが皮膚がむけて血がひざを伝い垂れるように白い靴下のところまで落ちていた。



「キズは大したことはないけど、ばい菌が入らないように消毒して絆創膏を張っておこう」



「えっ、でも……あの……迷惑じゃないですか?」



 彼女は口元に両手を合わせて遠慮がちに震えた声で呟く。「迷惑だ」って僕が答えたら泣き出しそうなくらいか弱い声で必死に声帯を震わせて絞り出していた。



「確かに、付いてこられて最初は驚いたけど今は君の傷の手当のほうが大切だよ」



 消毒液を垂らしたテッシュで傷から流れた血を綺麗に拭き取り、傷口も新しいテッシュで同じように拭いていく。



「ーーっ!」



 消毒液が染みたのか少女は少し眉をひそめた。

 エタノールが泡立つように傷に蓋をし、僕は飾り気のない無地の絆創膏を傷口に貼った。自分の足と比べて枝のように細い足は、力加減を誤ると持っているだけで折れてしまいそうで手を添えてゆっくりと地面に下す。そして僕は彼女の顔を見上げて義もに思っていたことを口にした。



「どうして、僕の後についてきたの」



「それは……」



 唐突な質問に彼女は戸惑ったように口ごもり視線をうつむかせた。



「……これを渡したかったから」



 そう彼女がランドセルの中から取り出したのは僕の顔が写った学生証だった。高校の校章が刻まれた紺色のプラスチックのソフトケースに入っている、全校生徒に携帯が義務付けられた身分証明書だ。



「あっ……」



 その時に僕は始めて自分の制服のポケットに入っていたはずのものがなくなっていることに気づいた。



「道で落ちていたから拾ったの、届けようとおもったけど、なかなか声をかけられなくて……ごめんなさい、勝手に持っていて」



「いやいやいや」



 僕は今まで少女の健気な善意を無視をしていたことに気づき、罪悪感で胸が絞めつけられる。彼女は別に僕に好意を持っていたわけでも、何か悪いことをしようとしていたわけでもない。親切に僕の落とした学生証を、まだ何色にも染まっていない清らかな心でただ僕に届けようとしていただけだった。



 それを僕は勘違いして……



 彼女の好意を無下にしただけでなく、怪我をさせて、おまけに少女に頭を下げさせて謝らせてしまった。

 


「僕のほうこそごめん! ついてきていることに気づいていたのに、気づかないふりをして……」



 学生証を受け取ると、僕は頭を下げて謝った。怪我をさせたこともそうだが、精神的にも自分はこの子より未熟であることを痛感する。

 何が僕が好きかもしれないだ。自信過剰も過大妄想も大概にしろ。

 僕はそう自分に言い聞かせると、改めて彼女の姿を見た。

 低学年にしてはずいぶんと落ち着いた印象を受ける。言葉使いもそうだが、物腰の柔らかさにも目を見張るものがある。



「今年で何年生?」


「一年生です」


「……年中かと思ったよ」



「よく言われます」



 こんな小さな子が簡単にできる、人を警戒しないで親切にすることが僕には難しい。

 小さい頃は僕にだって素直にできたはずなのに、今は他人に好意を寄せるよりも自分の殻に閉じこもって傷つかない安易な選択をしている。



「僕には君のように見ず知らずの他人に優しくするのは難しいよ」



 ため息を独り言に変えてをつぶやくように口にする。



「私も見ず知らずの怪我した女の子に絆創膏を貼ってあげるのことは難しいです」



 彼女はブランコを漕いでまるで背中に小さな白い羽をつけた天使のような無垢な笑みを見せると、そのまま飛降りて手を後ろで組んでくるっと振り向いた。



「おあいこですね」



 家の陰に沈み込んでいく夕日が彼女の背後から差し込み、美術館に飾られた一枚の絵画を見ているかのように、目を細め、頬を赤く染め上げ、その小さな唇を釣り上げて露出した白い歯を僕に向ける。一瞬、時が止まったような錯覚が僕を襲った。どこか、遠くで見たことがある表情に、思わず釘付けた視線が無意識に唇を動かした。



「優子さん……?」



「えっ?」



 口から自然にこぼれた言葉が彼女の鼓膜を伝って前を向いた彼女を振り返らせる。



「…………」


「…………」



 目が合って数秒、まるでそれが数分のように思え、僕の乾いた口が開く前に、彼女の声が耳に響いた。



「私の名前は陽菜ひな……ですよ?」



「陽菜……あっ……ごめん、つい笑い方が知り合いに似てて」



「そうなんだ」



 彼女は僕に背中を向けて、ランドセルの肩ひもを両手で掴み、公園の入り口に向かって歩幅を大きく開いて歩き始めた。土を蹴る度に僕との距離も物理的に遠くなり、その距離が普段なら当たり前のはずなのに、僕にはどこかその小さな背中が眩しく思え、眠っていた感情が目を覚ますように湧き上がった。そして気が付けば彼女のことを知りたいと目で追っていた。モノクロに見えていたはずの桜の花びらがひらりと色づいて落ちていく、あの時、子どもだった僕が病室で見ていた当たり前の景色が再開した。



「それじゃぁ、またっ」




 振り向いて手を上げた彼女の腕がピーンと上に伸びた。暗闇の中でまるで空の光を掴むように振られたその手に、僕は少し勇気を出して小さく胸の前で振り返す。きっと明日になれば忘れてしまう、そんな関係だとしても、いまこの時だけは彼女のとの繋がりを感じていたかった。

 そうして走り去ろうとしていく彼女の背中を見送っていると、突然カクンッと少女の絆創膏を貼った膝が曲がった。そして、そのまま上半身から落ちるように地面に尻もちをつく。



「いったたたた……」



「大丈夫?」



 僕は彼女の元に走るペース配分を考えないで急いで近寄ると、少し息が上がったまま少女に手を伸ばした。彼女は一回り小さい手で僕の手を掴み、僕に腕を引かれると立ち上がる。



「大丈夫、大丈夫。ほら、この通り!」



 そう言って彼女は、その場で元気よく飛び跳ねたが、足が地面につくたびに目元を少しゆがませた。その痛みを隠した表情から、僕をこれ以上困らせたくないという思いが伝わってきた。だから僕はしゃがんで彼女に背中を向けた。



 「乗って」



「えっ…………迷惑じゃない?」



 屈んだ僕の視線は、眉尻を下げた彼女の表情を下から見上げ、目線が交わると彼女の存在が間近に思え、その起伏する胸の息遣いまで瞳で感じ取れる距離まで近くにいた。夕日が建物の陰に完全に隠れて、茜色の空に浮かぶ雲と影に染まった電線が僕たちを見下ろし、遠くに線を描く飛行機雲が小さく見えた。時間という風が肌をなぞって過ぎ去っていき、どちらかが踏み出さなくては、この場は止まったまま動き出さない。そんな夕闇時、乾いた唾が喉に引っ掛かり、緊張で声帯を締め上げ、上ずった声で、僕は最初の一歩を踏み出した。



「足痛いでしょ……家まで送って行くから」



 どうしてこんなことをしているのか頭が混乱して、体中の毛穴から冷汗が出る。この場しのぎの当たり障りのない言葉を口にするだけで、経験したことのない宇宙そらから地球に向けて落ちていく宇宙飛行士の緊張した気持ちが伝わってくる。まるで心臓を握られているようにバクバクっと耳に響くほどの鼓動が聞こえ、自分の意志では制御できない運命の流れに逆らって足を踏み入れていることに気づいたときには遅かった。僕の肩に彼女の手が乗り、この先の未来を推理するはずの俊敏な思考が現在に釘付けられた。

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