50.エマ
いままで致命的な事態はいろいろあった。
けれど、ここまでじゃなかったと思う。
どんなに危険な状況でも、戦うか逃げるかの選択くらいはできた。
けどここでは、身動きすらできない。
ライラが灯した炎はあまり周囲を照らさなかった。
それこそ近くにいるエマの顔をした悪魔の様子くらいしかわからない。
ソイツは下らないものを見るような目で、あるいはつまらない出し物を観察するような目でぼくらを見ていた。
ぼくは、ただ慎重に呼吸する。
エマが灯して送ってくれた空気は、貴重なものだ。
たった一つの炎を分け合って、抱き合うようにその場にいる。
「なにが、したいんだ」
その貴重な空気を使って問いかけた。
「ハッ、言ったろ? 自由だよ、俺の思う通りにするんだよ」
悪魔は――ルツェンの怪物化したそいつは、周囲を示した。
「なんにもない、ここには何一つありはしない。ただ魔力があるだけだ。そして、ここが最奥ってわけでもない。本当に重要なもんはこの先の、上位悪魔が独占してる。許せるか?」
「その、ために?」
「そうとも、ニンゲンの中にはここまで来て、俺たちと切り結ぶような奴もいる。だったら、なあ、思うわけだ。俺だったら、俺がニンゲンを使ってやれば、もっともっと上手くやれるってな」
「つまり――」
「ああ、俺の望みは悪魔殺しだ。そのために、この身体を使う」
その顔に、入れ墨のような線が入っていた。
その線はゆるゆると伸び続けた。
それは、侵食だった。
「お前らニンゲンとしても願ったりかなったりだよな? 悪魔と悪魔が殺し合う。敵同士が戦い自滅する。その手助けができるんだ、この身体くらいはよこして当然だ、なあ?」
コイツの手口は分かっている。
こういう人は、たまにいた。
不利な部分を見せず「ぼくたちにとって良いこと」だけを言い、説得しようとしている。
利益を独占する方便として、言葉を使っている。
この悪魔が、より深い階層へと行きたがっていることはたしかだ。
けど、それは人間のためなんかじゃなくて、この悪魔自身のためだった。
こいつは都市で何人もの人間を殺して回っている。
そうやって良さそうな素体を――取り憑く価値のある人間を探した。
その終着点がエマで、取り憑きの邪魔をしているのがぼくたちだった。
いまコイツが説得してるのは、ぼくたちじゃない。
その身体の中にいまだ存在するエマだった。
「冗談、それは――」
反論しようとして、言葉につまる。
揺らめく炎に照らされたその姿、エマの姿をした悪魔のその背後に、何かが見えたからだった。
あるいは、感じ取れた。
槍を振る、はじめての手応え。
喜び。
笑って親へと見せようとする――
シャボン玉のように、泡のように、そんな光景が不意に映った。
ぞわりと、嫌な予感が背中をかける。
意味はわからない。
何が起きているか不明。
けど、それは、ちいさい頃のエマのように見えた。
事態は不明なものの。
でも、駄目だ。これは、駄目だ――
そのシャボン玉のようなものは、次々に排出される。
エマの身体から溢れていた。
ふわりふわりと浮かぶそこに、子どものエマが何人もいた。
純粋にまっすぐの目は、けれど時が経つほど段暗く沈み、上を見上げていた視線は地面へと落ちた。
いいですか?
どこか強張った顔をした女の人が、話しかけた。
当家は、決して己のために武器を使ってはなりません。我らの刃は正義のためにこそ使われるのです。
エマは素直に頷く。
けれど、心からの首肯ではなかった。
反する想いがあった、決して拭いきれない、どうしようもない衝動があった。
心情。
心。
あるいは想い。
それが、漏れている――
この第七階層に拡散されている!
ほとんど本能的にそう理解できた。
「やめろ――!」
「だめ、エマ……!」
気配、手触り――間違いなく、エマの魔力だ。エマ自身だ。
エマの記憶そのものが、この階層の圧力に耐えきれずに流出している。
「自分を保つんだ! こんなのに、負けるな!」
「ハッ、俺も知らなかった。ニンゲンってのは、こんな風になるんだな、お前らより先に、コイツが先にくたばるかもなあ」
正義が嫌いだった。
押し付けられて縛りつけるためのそれで窒息しそうだった。
日々の鍛錬だけじゃなく、行動全てに求められた。
弱者を救うのは当然であり、それを成さないものは「当家にふさわしくない」と言われた――
死んだ目で剣を振るエマの様子があった。
そこには喜びは何も無かった。
助けたソイツが卑怯で気に入らない奴かなんて、関係なかった。
周囲が判断する「正義らしい行動」を、私は取らなきゃいけなかった。
うんざりだった。
副葬品としての人形を、正義を標榜する家が持っていてもおかしくないそれを手にしながら思う。
この人形の傍にいるべき時期と場所は、せめて、自分で決めたい――
清潔な衣服を脱ぎ捨て、薄汚れたそれに着替えた。
友人といっしょに、足早に駆け出す。
半ば自棄になった様子、けれど活発に走る。目に光が灯る。
ルートはわかっていた。
それが卑怯だなんて、考えることもできなかった。
どうしようもない想いばかりがあった。
このままでは、正義に殺される、そう確信できた。
第七階層の見えない景色。ぼくじゃ認識すらも曖昧になる昏い光景。
それをスクリーンに、エマの過去が上映されていた。
ルートは、人さらいのそれで。
私は――わざと攫われた。
どうせなら、ダンジョンで戦いたいと願った。
押し付けられた正義なんて、まっぴらだ。
重圧に耐えかねた子供が、そこにはいた。
没落した家、けれどプライドばかりが高く、そのため、より一層強く子供に強制した。
自分たちに足りなかったのは「正義」であり、エマはより正しくなければいけないという強迫観念に囚われた。
「くだらんな、心底どうでもいい」
「ライラ、これ以上の火力は!?」
「これが、限界……! 魔術を発動する、隙がない……ッ!」
周囲に映像が照射される。
エマの過去が、漏れ出している。
なのに今のぼくらは身動きすらろくにとれない。
見える光景の中には、ぼくらの知っているものもあった。
最初の、第一階層。
自信満々に、好きに暴れて戦ってやるぞと意気込んで行き――失敗した。
エマの手があった。
恐怖に震えていた。
洞窟の暗がりで、短剣を持った手は持ち上がらなかった。
ただ恐怖で満たされた。
叫ぶ間もなく友達が殺された。
何もできず、何も動けなかった。
戦う。
戦う……?
これが、戦い?
知っているものとは、違った。
そこには栄光もなければ誇りもなかった。
ダンジョンには、暴力だけがあった。
正義なんて元から無かった。
誰かが、逃げろ! と叫ぶまで、私の意識は悪夢の中にいた――
女の子がいた。
ぼくが知っているエマより、もう少し幼い姿。
貴族子女が着るような衣服に身を包んでいる。
「ごめんなさい」
その子供は、謝った。
「私のせいで、友達が死んだの」
「ぜんぶ、私のせい」
「私が誘わなきゃ、生きていられた」
「私は、生きて帰っちゃいけない。家族の誰も、私の悪を許さない。私は、私は――」
ぼろぼろと涙を流しながら。
「すごく、楽しかった。二人と一緒に、戦うのが、笑うのが、おしゃべりするのが、楽しかったの。私、こんなにも悪い人なのに――だから、そんな馬鹿な私だから、失敗した――二人に嘘を教えた、偽った。知らなかったなんて、言い訳にもならない。こんな私は許されない、許されていいはずがない、私に正義は一つもない――」
パナッテイルの人形がニセモノだったことを言っているらしいとわかった。
限界ギリギリだった虚勢が、たったそれだけで崩れた。
自分は悪だと断じていた。
何いってんだ、と思う。
本当に、どうでもいい。
心底思う。
そんなことで悩み苦しむのは、水臭いなんてレベルじゃない。
言いたいことはありすぎるけど――
「ねえ」
「……」
「ねえ、エマ!」
ほとんど苛立ち混じりに続ける。
「もう忘れた? ぼくらは三人で自由になるって言ったんだ。ぼくは、エマをクビにした覚えはない」
え、というように子供の顔が上がった。
とても意外なことを言われたような表情すら、許せない。
「それともエマは、ぼくらといっしょにいたくない? このチームを辞めたい?」
「でも、けど、私――」
「けども何もあるか!」
ぼくはもう以前に言ったはずだ。
「敵は、このダンジョンだ、ぼくはこのダンジョンを許さない。このダンジョンを潰す。エマ、そのために槍を振るえ!」
小さな女の子、その直ぐ傍に浮いているものがあった。
パナッテイルの人形。
ダンジョンが作り出した偽物。
戦士を弔う副葬品としてのもの――それが、砕けで破片となった。
キラキラと周囲にこぼれる。
それは純粋魔力として展開される。
「私は――オレは――」
「ね……」
ライラが炎を手にしたまま、いつものように微笑んだ。
「燃やそう……? エマが嫌なものなんて、全部……ね……?」
物騒極まりないセリフ。
以前にも言った言葉。
けれど、嘘のない言葉でもある。
少なくともライラは本気だ。
エマは、泣き笑いに顔をクシャッと歪めた。
はは――と囁くように笑う。
その顔は、その姿は、いつの間にかぼくらが知っているエマのものになっていた。
外へと放出された想いが、周囲の魔力を纏い、エマ自身の魂魄を形作った。
そこへと向けて、そのエマ自身に向け――
「降りる?」
端的に質問する。
普通なら意味がわからない。
「いいや」
けど、エマには伝わった。
きっと今の彼女は、あの堕ちた魔術師みたいな幽霊状態だ。
彼女は手を伸ばして光を集めた。
それは、見慣れた槍の形を即座に取った。
「オレは、このチームの戦闘担当だ」
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