>「芸術における共感の難しさ」または「他人との厳密な感覚の共有の不可能性」
ここが良いですね!
はじめまして。
(*^_^*)
初コメントなのに、
ようさんへの返信を見て、つい語りたくなってしまいました。
以下↓
サラダ記念日には、色々と突っ込みたいところがある。
けれども、それは詠み手の自己満足の世界なのだから、
そっとしておけばいいと思う。(つまりはそうやって、通り過ぎたい。)
読み手がいかに思おうが、詠み手が満足しているなら、それでいいんじゃない?
読み手の好みに合う合わないは、互いの相性の問題なのだから。
……なんて言ったら、乱暴かしら?
※ご不快でしたら、ごめんなさい。
作者からの返信
はじめまして。コメントありがとうございます。
その考え方でもいいんじゃないでしょうか。
ただそれは受け手側の見方かな、とも思います。
作品を発表する以上、作者は受け取ってもらいたいと思っているはずです。
そのうえで「合わなかった」ならまさにおっしゃる通りですよね。
編集済
失礼いたします。
御作、非常に興味深く拝読させていただきました。わたしも同じような疑問を持っていたのでとても面白かったです。
わたしは「この味がいいね」という部分にずっと引っかかっていて、それはサラダの味ではなくてドレッシングの味ではないか? と疑問に思っていました。そこから、この作品は人工的な創作物(体験から詠まれたものではない)と感じておりました。
ということで、こういう解釈を書いてくださる方に出会えて嬉しくなりコメントさせて頂きました。
長々失礼いたしました。
作者からの返信
感想いただきありがとうございます。
似た感覚を持っている方が他にもいるとわかってうれしいです。
やはり注意深く要素だけを抜き出してみると議論の余地がありそうな部分が出てきますよね。そこが味であり誘い口なのだと思います。
他の方の解釈もぜひ聞いてみたいものです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
編集済
はじめまして。とっても楽しく読ませていただきました。
《気付いてみると、幸福そう、という残像だけを残され、我々は『サラダ記念日』の前に放り出されてしまいました。》
「まさしく」と思いました。すごく素敵な一文ですね。
そして、大江健三郎が『新しい文学のために』という作品で『サラダ記念日』についてちょこっと書いていたのを懐かしく思い出したりも。
大江は《小説や詩は、日常・実用の言葉の意味と音を生かしながら、文学表現の言葉独特の鋭さ・重さを発見し、定着させる作業だともいえる》という立場において、好例として『サラダ記念日』を挙げ、《数知れぬ家庭での生活の場で、日常・実用の言葉として、「この味がいいね」という発言は、毎日のように繰り返されているにちがいない》としたうえで、《ところがそれを歌として読む際、僕らの心に「この味がいいね」という言葉はとどまる。この言葉は、横すべりするようにして僕らの意識の表面を通過してゆくかわりに、数秒間にして、タテに沈みこむように、意識のなかへ入って来る》と書いていました。大江健三郎は「遅れてきた構造主義者」として論を展開していくわけで、それゆえにいささか形式的なわけですけれども、それでもしみじみなるほどなあ、と思ったものです。
ながながと引用、失礼いたしました。
作者からの返信
はじめまして。コメントありがとうございます。
あらためて歌人・俵万智に恐れをなすばかりです。
大江氏の表現もさすがというか、隙がありませんね。
前後の文がないから全体像はつかめませんが、引用された部分については非常に明快に伝わってきます。口語が持つ武器というわけです。
当時が文学の形態の変遷過程にあったのでしょう。
立場にもいろんなものがありますね。