3.推測の芸術
前項では立場を決めて『サラダ記念日』を読みました。その末尾に書いたとおりに本項では解釈をしていこうと思います。
誤解のないように先に言っておきますが、解釈とは提示されたものに対して個人が独自に受け取ることを指します。よく「作者はそんなこと考えてない」とか言われることもありますが、それはちょっと的外れだとご理解ください。
「芸術における共感の難しさ」または「他人との厳密な感覚の共有の不可能性」。これが私が『サラダ記念日』から受け取ったものです。
特別に目新しい意見だとか深い考えだというわけではないのですが、ぱっと出されたらわかりにくいと思われますので分解しつつ見ていきましょう。
「芸術における共感の難しさ」については意外と簡単です。前項でこの作品は情景が浮かびやすい、みなさんはどうですかと私に浮かんだ情景を説明しましたが、まったく同じ光景が浮かんでいた方はいないのではと思います。もしかしたら家の中での出来事ですらない、ピクニックだ、という方もいたかもしれません。描写が甘いと思われた方だっていたことでしょう。同じことを言われたってどう受け取るかは違ってくる。そんなの芸術に限らないかもしれませんが、芸術分野においてはより顕著だということを言いたいわけです。
もっとかみ砕くなら、同じ音楽を聴いてどこそこがいいというのにズレが出ることでも根本は同じです。そもそも好き嫌いで違ったりもしますからね。
では次の「他人との厳密な感覚の共有の不可能性」。言ってること同じじゃないかと思ったあなた、鋭いです。共通どころか大筋では同じと言ってもいいかもしれません。どれだけ語り合っても自分の持つ“感じ”をわかってもらえなかったことが誰しもあるはずです。ここではこのことを言っています。悲しくもありますが、優秀過ぎる脳という器に生育過程という複雑な液体を注ぐ以上、厳密な感覚の共有は不可能なのです。
では注目すべき違いとなっている点は何か。「他人」です。この場合、比べるのは読者Aと読者Bではなく、作者と読者です。
『サラダ記念日』では俵万智の個人的な幸せが描かれ、我々はそこに厳密に共感をしようとしたら失敗しました。なぜか。我々が俵万智ではないからです。
そりゃそうだろう、アホかと呆れられてしまったかもしれません。しかし想像以上にここには深い溝が口を開けています。
短歌という形式はたしかに文字数が少なく、だから情報が足りなくてじゅうぶんに読み取れないのだと見る向きもあるでしょう。間違っているとまでは思いませんが、しかし、たとえ言葉を尽くしたところで個人的な幸せを完全に共有できるところまで到達できるのでしょうか。単位をつけられず計量のできない幸福度を把握し、当時の本人しか理解し得ない別の混じった感情を推し量って、そうして作者本人に向かって一〇〇パーセントわかってあげられるよ、と抱きしめてあげることができるものでしょうか。
私にはどうしてもそれが可能だとは思えません。私はこう読むのだ、というふうに傲慢にはなれても、誰かの心を完全に理解したと言い切る傲慢さは持てません。
これらのことを俵万智は、実際にはもっと多くのことだと思いますが、短歌という小さな規格のなかに収めて表現してしまいました。意図しているかどうかについては議論の余地が残っているかもしれませんが、私は意図しているものと捉えています。なぜなら前項で触れたように具体性を取り除いた作品に仕上げているからです。
この作品は偉業です。人と人とのわかり合えなさ、芸術と向き合うことの難しさを日常の幸せというパッケージで表現しています。誤解を恐れずに言うなら作品鑑賞をしている我々を巻き込んだうえで完成としているわけです。なんだか現代芸術みたいな話になってきました。
深読みだと言われればそうかもしれません。ですが、これが『サラダ記念日』から私が受け取ったものです。
『サラダ記念日』という世界に入り込もうとしたときに降ってきたこの断絶は私に衝撃を与えました。そしてその向こうに俵万智の顔を見た気がしたのです。思い込みなのかもしれません。でも文学はその断絶の向こうで戦っている。これまでの読書の奥でくすぶっていたものに、ひとつの回答を与えることができたように思います。
文学とは推測の芸術です。伝えたいなにかと不完全な理解との暗闘がずっと続いてきたものです。ですが残念なことに、その根源的なところに触れてくれる人も作品もそれほど多くはありません。なぜならわかっている人にとってはそんなものは前提でしかないからです。
私の表現能力では取りこぼしたところも多くあるかと思いますが、読んでくださった方の読書の一助となれば、という思いと『サラダ記念日』への感謝をもって本論の締めとさせていただきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
『サラダ記念日』を読む 箱女 @hako_onna
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