2.俵万智は我々を見ている

 それじゃあ『サラダ記念日』、読んでいくぞ! おー!


 ……の前にやっておかないといけないことがあります。立場決めです。

 別に難しいことじゃありません。海が好き山が好き、その程度のことです。簡単に言えば普段なんとなく思っていることをちょっと強調しよう、くらいのことです。

 ここで共有するのは私の立場ですので、身に馴染まないなと思う方もいらっしゃるかもしれません。まあ、そう考えているやつもいるんだなあと寛大な心で読み進めてくださると助かります。


 私は文学を芸術の一部と認識しています。短歌も文学に含まれますので、すなわち短歌も芸術ということになります。

 次に芸術の定義です。芸術とは表現するためのものである。かつ、その表現内容は大なり小なり自身に関することである。


 上記二点が今回の私の立場です。

 さあ準備が終わりました。見ていきましょう。


「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日


 不思議な歌です。これだけの言葉しかないのに臨場感があって風景が浮かびます。私は光の射す午前十時くらいのダイニングテーブルが情景として浮かびました。あたたかく幸せそうな風景です。絵画的でさえあるそれを眺めている感覚です。みなさんはいかがでしょうか。

 この手触りというか口当たりというか、そういう感性の部分も素直に短歌を楽しむためには大事ですが、今回は立場を決めて読むとしているのでその視点で見ていきましょう。つまり、表現したい何かがあるのだと思ってもういちど読んでみます。


 意外と不明瞭です。断定できる情報は日付とサラダだけになります。そのサラダもどんな野菜が使われているか途端に見えなくなります。何味で、お相手との関係はどのようなものなのでしょう。野菜のひとつでも見えればそこから含意を読み取ろうとすることもできますが、欲しいものは巧妙に隠されています。

 気付いてみると、幸福そう、という残像だけを残され、我々は『サラダ記念日』の前に放り出されてしまいました。


 ところで、優れた芸術家というのは必ず多くの視点や視座を持っています。それはある事柄に対して「こう思う人もいるだろう、いやいやまた別の見方もあるな」といった解釈の自省、一種の共感能力とも言えます。これは文学や音楽などに深みを与える要素でもあります。

 もちろん、俵万智もこの能力を備えています。それもちょっと特殊なかたちで。


 さて、この個人的な幸福に対して何ができるのか。

 なんとなくを捨てて表現したいものを読み取ろうとすると、我々は不明瞭な幸せを眺める目にしかなれないことに気付きます。なんと言ったって個人的な幸せは当人にしかわからないものです。もしかしたらサラダを食べているお相手ですらわかっていない可能性すらあります。

 言い方を変えると、誰にも触れられない幸せということになるでしょうか。そして俵万智はその幸せというものを強調しつつも、個人的なものをみごと隠し通すことに成功しています。

 私がここで思う大事なことは、彼女の個人的な幸せに触れることができない我々を認識したうえで俵万智がこちらを見ているということです。俵万智にはこの視座があります。作品に触れた我々を見るという視座が。


 次はこういう読み方をしたうえでの個人的な解釈をしていきます。

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