5 誰の真実?

 凛は催眠術にかかったみたいに、りおの目に釘づけになった。


「知ってる。わたし、見たから」

「なにを?」

「お父さんが死ぬのを」

「……からかってる?」


 りおの様子を見ればわかる。残念ながらふざけてなどいない。りおは完全に、大人の顔に戻っていた。


 りお?と階下で母親が捜す声が聞こえる。


「知るならいましかない」りおは使命感にかられた聖者のような仕草で、人差し指を差し出した。

「知るって?」

「指を舐めて」

「え?」とはいったものの、りおの意図はすでに理解していた。

「さっき、お父さんのもの舐めたでしょ?」たじろいでいる凛に向かって、「だからお父さんになれた」


 返す言葉がなかった。

 今日はずっと変な夢を見てるような気分。子供の頃に見た悪夢の感覚。悪酔いの記憶。

 選択肢はない。凛は舐めた。

 りおの脳内の光景が、凛の中にありありと移植される。それは倍速で視聴する映画のようだった。時間は短縮され、感覚は凝縮されている。りおのトラウマ体験が塊となって押し寄せてくる。


 りおの小指が離れた瞬間、凛は危うくのけぞりそうになり、慌てて態勢を整えなければならなかった。

 目撃してしまった、と思った。

 人が殺される様を見てしまった。死にゆく男性の姿を見て、凛にはすぐにそれが、りおの父親だとわかった。父親の写真を目にしてはいないが、幻視には、視覚以外の情報も含まれていたからだ。

 だが、殺した人間には見覚えがあった――ダイナーの店主だった。

 この子を救わなきゃ。咄嗟に女の子の小さな手を握った。しかし何をすればいいのか。どこへ行けばいい? 誰に助けを求めればいい?

 その時部屋の扉が開いた。


「りお!」母親が咎めるようにいった。


 思わず凛は叫んだ。犯人の顔がすぐそこにあった。手を握る力を強め、部屋から出ようとする。そこに母親が立ちはだかった。


「どうしたんです?」状況に反して、落ち着いた声だ。

「私、見たんです」対照的に凛は、声量を制御できなかった。

「なにを?」

「人が殺されるのを」

「はい?」

「見たんです。あなたが、この子の父親を殺す姿を」

「はい?」


 凛はりおの手を離さなかった。りおは無口だった。ただ、罪人を告発する目撃者の目で、母親に厳しい視線を送っていた。小さな手が強張るのを、凛は手の中に感じた。

 母親はゴールキーパーのように二人の前に立ちはだかっている。凛はそれを突破しようとした。すると、なんなんですか?と母親は先ほどよりは少し緊迫感のある声を出した。


「夫を殺すようなあなたと、この子が一緒にいては危険です」

「どういうことですか? そもそも、夫は死んでなんかいません」

「え?」

「別のところに住んでいるだけです」

「そうなの?」意に反し、拍子抜けしたような声が出てしまった。凛はりおに訊く、「お父さんは死んでないの?」

「お母さんは嘘ついてる」

「またお客さんをからかったの?」と母親。


 凛は混乱した。

 りおの父親は生きてるのか? だとしたら、私は小さな子にからかわれていただけってことになる。そもそも、今晩起きたことのすべてが偽物じみているじゃないか。何が正しい? 誰を信じればいい?

 あ、そうだ。


「舐めさせてください」凛はきっぱりといった。

「はい?」

「あなたのもの、舐めさせてください。そうしたら、すべてがわかるので」

「はい?」

「もしくは、あなた自身でもいい。あなたの指でもいい。とにかく、私に舐めさせてください」

「何をいってるんですか?」

「お願い。とにかく舐めればわかるんです」

「やめてください」

「舐めさせて、ほんとに。いや、ほんと、ちょっと舐めるだけ……」


 凛は店主に近づいていき、彼女の手に触れようとした。店主はひるんだ。


「すぐ終わるから」

「ちょっと! なんなんですか?」

「舐めたら全部がわかるんです。あなたの嫌疑も晴れるかもしれない」


 店主は素早く飛びのいた。顔には恐怖の色。それでも凛はめげずに、店主を舐めようとする。


「なにやってるの?」店主の背後から声が聞こえた。凛の上司だ。

「この人、変なんです」店主は助けを求める。

「ちょっと、なにがあったの?」と上司。

「ひと舐めするだけでいいのに、舐めさせてくれなくて」

「え?」

「この子のお父さんが殺されて、犯人はいまのところこの人で……。でもこの人がいうには父親は死んでなくて。私がこの人を舐めればすべてがわかるはずなんだけど」そこまで話しながら、凛の理性が徐々に戻ってきた。


 私は一体何をしてるんだ。訝る上司の姿を見て不安になりはじめる。上司は明らかに不審者を見る目をしてる。

 会社に戻ってから変な噂が立ってしまうかもしれない。この子、レストランの店主を必死に舐めようとしてたのよ、なんて。私はまた居場所を失ってしまう。

 ふと、職場の空気が思い出された。昼間でもどんよりとした、掃き溜めのような社内。すぐ隣に大きなビルが建っているせいで、凛のデスク脇の窓は塞がれていた。青空だってろくに見えやしない。それに社内の自動販売機の飲み物も、もうとっくに飲み飽きた。

 転職すれば人生が好転する、と考えていた自分の浅はかさに気づくのに、転職して二週間も必要としなかった。

 上司と店主を前に、凛は魔女狩りを思った。きっと、処刑される魔女はいまの自分みたいな気分だったに違いない。村人から魔女扱いされ、迫害される。出る杭は打たれ、変人は排除される。これが世の中だ。どんなに技術が進歩しようが槍がラップトップになろうが、人間が形作る社会なんてろくに変わらない。

 私はいまここで、完全に異質な存在になっている。

 変わり者だけにはなりたくない。これまで凛は、ずっとそう思って生きてきた。両親のいうなりになり、学校の教師やクラスメイトに気をつかい、上司の顔色を窺って。自分の内なる声に耳を傾けたためしなんてない。心の叫びが胸の内から漏れ出そうになると、その声に力づくでフタをした。自分の欲望、自分の考え、自分の真実なんて、どうだっていい。変わり者にならないためには、自分を縛りつけなくちゃいけない。そうしなければ私は社会で。本来の自分は少し異質な人間であると、本当は子供の頃からわかっていたのだ。だからこそ、そんな自分を抑えてきた。

 二人の痛い視線を感じながら、凛はりおの様子を窺った。りおはいた。りおの中で、“子供”と“大人”がせめぎ合いをしているようだった。戦況は“大人”に傾いているみたいだ。大人のりおは馬乗りになり、子供のりおの息の根を止めようとしていた。


 この子、このまま成長したら、きっと私みたいになる。


 私の中の子供の私は、もうほとんど息をしていない。青白い顔をして子供部屋――灰色の廃墟の世界――の片隅で、涙も枯れて壁にもたれかかっている。

 誰かの望みのために自分を抑え、輪を乱さないように息を殺し、他人の理想の人物像のふりをした。

 そうやって自分に嘘をついて、何になったっていうんだろう。私は一体、何になりたかったんだろう? 何がしたかったんだろう。

 この子を私みたいにしちゃいけない。純粋な子供心を自らの手でぶち壊して、真実を捻じ曲げて、その結果生きる喜びすら忘却した大人――私みたいにしちゃいけない。


 そうだ。舐めるまでもない。

 りおの母親を舐めるまでもない。すでに心の目で真実を目撃したではないか。

 私はりおでエリーで、メグでメアリーでジンジャーでエラでエイミーなんだ。この子達を救ってあげられるのは、私しかいない。

 いくよ。

 りおの手が冷たい。

 凛は小さな手をしっかりと掴み、上司と店主二人の関門を突破しようと体当たりで突進していった。大人達二人はよろけ、壁に衝突した。その姿を振り返る余裕もなく、凛は息を切らせて階段を下り玄関を抜け、夜の闇へと掛け出た。

 冷たく、鮮麗な外気。意識が研ぎ澄まされる。

 二人は走った。

 これからは自分の思うままに生きよう。人生を無駄にするのはやめよう。りおに、新しい景色を見せてあげるんだ。ピンキーもケイティも、生き返らせよう。いっぱい楽しいことをしよう。これまで我慢していた、あんなことやこんなこと。してみたいことはたっくさんある。そう、

 私にはなんだって出来る。

 だっていま、生きてるんだもん。

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キャンディ 道上拓磨 @t-michigami

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