4 凛、お父さんになる

 一緒だった。

 頭の奥のほうを急激に引っ張られたような衝撃のあと、自分のものではない強烈な感情が突如爆発するのを凛は感じた。

 でも今回のそれは、寂しさとはまったく別種のものだった。

 それは、愛だった。目の前の女の子に対する深い慈しみ。豊かで、多幸感に満ち、だからこそ脆く、喪失の不安や恐怖と表裏一体のその愛は、凛にとっては息苦しくさえあった。子供を持ったことのない彼女は、突如湧きあがった激しい愛に怖気づいた。


「りお」という声が聞こえる。女の子の声ではない。しばらくして、自分の声だ、と凛は気づいた。自分の意志とは無関係に発話していた。

 女の子はびっくりして、凛をまじまじと見ていた。女の子は、凛が自分の名前を知っていることに驚きを隠せなかった。


「りお、寂しくなんかないよ」また口が勝手に動いた。ただ、凛の自意識はかろうじてあった。彼女は傍観者になっていた。「エリーを買った日を覚えてるかい?」

「……お父さん?」女の子は凛の目を覗き込んだ。

「そうだよ」と笑いかけた。その笑みもまた、凛のものではない。声帯や唇と同じように、凛の意識とはまったく別のところで顔の筋肉が動いたのだった。


 何秒間か静寂があり、それからりおは喋りはじめた。


「エリーを買いに行ったのは、雨の日だった。お父さんとはじめて海の近くのおもちゃ屋さんに行った日」

「そうだ。お人形を買ったのも、あの日が初めてだった。いまはたくさんあるけどね。あの人形は、あまりにりおに似ていてかわいかったから買ったんだ」

「うん。帰り道、車の中でお父さんと相談して、エリーって名前をつけた」

「エリーはちょうどその日のりおとおんなじ靴を履いて、おんなじ服を着ていた」


 りおは自然と笑顔になった。凛は初めて、りおの子供らしい表情を目にした。


「そういえば、あの日車で約束したのを覚えているかい?」

「覚えてる」とりお。

「お母さんを絶対に怒らせるな」二人は声を合わせた。


 りおはまた笑った。


「あの前の日だ。お父さんはお母さんを怒らせちゃって大変なことになった」

「そう。わたしは、お父さんとお母さんがしちゃうんじゃないかって、すごく心配した」

「離婚も何も、結局僕は死んじゃったからね」

「死んじゃった」

「死んじゃった。でも、りおと僕は離れてない。ずっと近くにいるよ。たとえば――」

「エリーみたいに?」

「そう、エリーみたいに。ケイティやジンジャーやエイミー、かわいそうなピザみたいに、ぼくはりおのすぐそばにいて、りおを見つめてる。りおが寂しい日も、楽しい日も、部屋にいる時も公園にいる時も、お母さんとダイナーにいる時も、どんな時だって僕はそばにいるんだ」

「でも、エリーもメアリーもエラも、みんな死んじゃった」

「だからどうだっていうんだ?」凛――りおの父親――はおどけたような表情を浮かべてみせた。

「だって、だって……死んじゃったら寂しい」

「たしかに、寂しい。手をつないで歩くこともできないし、りおが怖い夢を見た時、一緒に横で眠ることもできない」


 りおは黙った。また、大人のような顔に戻ってしまいそうだった。


「でもね、りお」と凛はりおの背の高さに合わせて屈み、りおの目を優しく覗いた。「心が離れてしまうことはないんだよ。お父さんはいつも、りおのすぐそばにいる」

「本当?」

「そうさ」と、りおを強く抱きしめた。


 それは奇跡のような瞬間だった。まるで映画のワンシーンのようだ。親子の愛が、その瞬間だけ恐怖や不安、孤独に打ち勝ったのだった。抱きしめている間凛は、自らの意識が引き潮のように、ゆっくりと静かに消えていくのを感じていた。

 奇跡の時間は長くは続かなかった。凛はりおから手を離した。まだいわなければいけないことがある、とりおの父親は思った。


「お父さんがなんで死んだか、りおは知らないよね」

「知らない」りおが答えた。


 りおの父親は躊躇するそぶりを見せたが、やがて話し出そうとした。その時、下の階で音がした。

 いきなり正気に戻された。


「りお?」りおの母親の声。


 凛はすっかり自分自身に戻っていた。この部屋から出なきゃ。焦った。いきなり、根拠不明の罪悪感が降りかかってきた。部屋から出ようとする凛を小さな手が阻んだ。振り返った。


「ほんとは、知ってる」りおがいった。

「なにを?」

「お父さんがなんで死んじゃったか」

「りお? どこにいるの?」りおの母親――ダイナー店主の声がする。

「ほんとは知ってるのに、いえなかった」とりお。

「りお?」と下の声。

「そうなの?」

「お母さんが殺した」

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