3 強烈で不可思議な共感

 それから女の子は、青いブラウスを着た人形を手にした。


「お姉さんも舐めてみる?」人形片手に、女の子は凛を覗いた。戸惑う凛を見て、「ちゃんと洗ってある」と女の子はいった。衛生面を気にしていると思ったのだろう。

「そういうことじゃなくて、ね」


 凛の返答を気にもせず、女の子は人形の頭を割った。その人形は青いバラのモチーフを散りばめたデザインのブラウスを着て、黒のパンツ、そして黒いメリージェーンシューズを履いていた。人形はどことなく、凛の目の前にいる女の子にも似ていた。

 人形の右目を取り出すと、女の子はそれを差し出した。


「早く」と、急かす。


 しょうがない。凛は目玉を舐めるふりをした。


「ちゃんと舐めて」


 観念した。ぺろ、っと舌先で舐めてみる。冷たいプラスチック製の目玉が凛の舌に触れた。だが驚いたのはその直後。舌を口の中に戻そうとした瞬間、脳をいきなり誰かに引っ張られたような衝撃があったのだ。脳がのを、凛は生涯で初めて感じた。それからすぐ、感情が胸の奥から一気に溢れてきたので狼狽してしまった。

 氾濫する川のように流れ出る感情。それは、寂しさ。強烈な寂しさだった。身体的な苦痛を伴うほどの。

 胸がひどく痛んだ。寂しさで息をするのもやっと、という状態になる。救いを求めるように女の子を見ると、女の子も、いまの凛と同じ感情を抱いているのがわかった。この子、寂しいんだ。そう判断する根拠はないが、なんとなく、いや、絶対にこの子は寂しがっている、とわかる。不可思議で妙な共感。

 人形の目玉を媒介として女の子の感情が凛に届いたのだろうか。だがはたしてそんなことがあり得るのか。さっき女の子は、目玉を舐めれば“お人形の気持ちがわかる”、といっていた。だとすれば、凛を苦しめるこの感情は女の子のものじゃなく、人形のものということになる。しかしそもそも人形に感情などあるのか。それに、目玉を舐めて誰かの感情が伝わるということ自体、俄かには信じがたい。ということは、これは元来自分の中にあった感覚に過ぎないんだろうか。目玉を舐めることによってそれが眠りから覚めた、というだけのことなのか。混乱する凛。


「気持ち、わかった?」女の子が訊いた。「この子、エリーっていうの」

「これは……エリーの気持ち?」少女のように首を傾げた。

「そう。わかったでしょ?」

「エリーはとっても寂しいみたい」消え入りそうな声で答える。本当に、これは人形エリーの感情なんだろうか。少しして凛は付け加えた。「あなたも、寂しいのね」


 女の子はびっくりしたような顔を浮かべ、後ずさった。「わたしも?」

「うん、あなたも寂しいはず」


 女の子がいきなり泣き出した。声を出さず表情も変えず、女の子の目からただひたすら涙が流れた。


「大丈夫。私もそうだから」と凛はいった。「私だって、寂しくなる時はしょっちゅうある。ここにいるお人形も、きっとみんな、みんな寂しいから。だから、寂しくないよ」


 女の子は涙を拭うことなく、ただ静かに頷いた。


「でもね」女の子は口を開いた。「お父さんがいるときは、寂しくなかった」

「お父さん?」

「お父さんがいなくなっちゃった。お父さんがいなくなっちゃってから、わたしはずっと、ずっと寂しい」


 そういえばこの子に初めて会った時もお父さんのこといってたな、と凛は思い出した。


「お父さんがいなくなってからなの。それからわたしも、ここにいるお人形も、みんな寂しくなっちゃった」

「そっか」かける言葉が見つからない。お父さんは死んでしまったのだろうか。もしくは、離れたところに住んでいるのか。「お父さんは、どんな人?」

「あったかかった。お人形の名前も全部覚えてたし、わたしのこと、いつも見ててくれた」

「いいお父さんなんだね」凛はいった。

 女の子は頷いた。そして、「お父さんのお部屋にいく?」

「お父さんの? 入っていいの?」

「うん」と女の子は涙を拭いて、凛の手を引き部屋を出た。


 そこは書斎だった。壁に向かって大きな机、反対側の壁は本棚で隠れている。本棚にはぎっしり本が並んでいた。女の子の部屋の人形みたいに。お人形の代わりに本、というわけだ。机の上にはデスクトップパソコン、茶色い革のメモ帳、ペンや眼鏡があった。ついさっきまで、実際に使われていたように見える。

 本棚には量子力学の本、生物物理学の専門書や、宇宙人に関する怪しげな本まであった。この子のお父さんって、どんな人なんだろう。凛は好奇心にかられ、無意識に本の背表紙を指で撫でていた。


「お父さんはなんでも知ってた」と女の子。

「そうみたいね」

「わたしのことも、たくさん。お母さんより知ってた」

「勉強とか、教わった?」そう質問しておいて、そういえばこの子、いくつなんだろうと凛はいまさら疑問を抱いた。

「算数とか、宇宙のこととか、時間のこととか教わった」

「宇宙?」

「宇宙。お父さんは宇宙が好きだった。人間の心は宇宙だよ、っていつもいってた。でもお父さんは――」女の子の顔色が消えた。「死んじゃった」


 凛は静かに頷いた。女の子は、今度は泣かなかった。


 凛は部屋の中を目で探った。どこかにこの子のお父さんの写真はないのだろうか。どんな人だったのか、見てみたい。だがどこにもない。

 もしかしたら――。凛はふと、机に散らばるペンや眼鏡を見た。この子のお父さんのもの。人形の目玉を舐めてさっきみたいなことになったように、お父さんの私物を舐めてみたら、もしかすると……。いや、そんなばかな。さっきのことは自分でもまだ信じられない。だけどあの不思議な感覚はリアルだった。抱いた感覚や感情が本物であるならば、本人にとってそれはだ。事実と真実は紙一枚、表と裏を行ったり来たりする。少なくとも主観の世界では、それらは混同され、見分けがつかない。人形の目玉を舐めて誰かの気持ちがわかるなんて、理性的な観点からすれば馬鹿げていることは明白だ。しかしながらいまの凛には、理性などノイズであった。


「お父さんに会いたい」女の子が呟いた。

「私も会ってみたかった」凛の目は机の上を彷徨っていた。「もし会えたら……」凛は夢見心地で続ける。「なにがしたい?」

「一緒に遊びたい。わたしのお部屋で、前みたいに。あそこにあるお人形も全部お父さんが買ってくれた。名前は二人でつけた」

「そうなの?」

「そう。お父さんが生きてる時は、お人形だってみんな生きてた」


 そうなんだ、となかば機械的に呟く凛の手は、机の上のペンに向かっていた。

 そしてペンをそっと口に近づけた。それを舌で迎えた。

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