2.真四角の消しゴム

 桜も咲かない、でも梅は散っている、まだ少し肌寒い三月のはじめ。多分佳鈴は、顔を真っ青にしていたのだろうと思う。

 第一志望の公立高校の入学試験、どきどきしながら受験票で席を確認して、綺麗に並んだ机から自分の席を見付けて、座って筆箱を開いた。ぱかっと口を開けた筆箱の中、どこをどう探しても、消しゴムがなかった。

 筆箱の中身を全部出して、筆箱の布を引っくり返して、けれど消しゴムは出てこない。もう小さくて丸くなってしまったから新品の消しゴムを持って行かなくちゃ、そう思って準備をしていたはずなのに。

 それなのに、忘れた。

 シャープペンシルを二本、替え芯のケースがひとつ、定規が一本。そこまでは準備が完璧なのに、消しゴムだけがない。

 どうしよう。どうしよう、どうしよう。

 学校の先生に言えば良いの。でも消しゴムなんてきっと貸してもらえない。いっこも間違えずに解答するなんて、そんなの無理だ。

 ぐるぐると思考が回り続けて、泣きそうだった。どんどん指先は冷えていくし、嫌な汗まで拭き出してくる。

 私立の合格は、ある。けれど佳鈴にとって私立は滑り止めで、本命の学校は今日のこの公立高校だ。でもこんな状態ではスタートラインにすらも立てはしない。

 コンビニに買いに行く時間なんてない。周りの子はみんな参考書や単語帳を見ているのに、佳鈴だけはじっと机の上のシャープペンシルたちを眺めて、白くなるほど両手を握りしめていた。

 どうしよう。どうしたらいいの。

 中学校三年間が、がらがらと崩れていくような気がした。高校生になるための道も一緒になってがらがらと崩れて、ただの瓦礫に変わっていく。

 夏前のテストで「この成績だと厳しいかもしれない」と担任の先生に言われたから、何としてもと机にかじりつくようにして勉強をした。それでようやく寸前のテストで点数も上がって、これならと今日ここにやってきたのに。

 どうしよう。

 嫌な汗だけがだらだらと流れていく。じゅうぶんに暖房のきいた教室の中はあたたかいはずなのに、やっぱり指先は冷たいままだった。

 がらりと崩れて、もう戻れない。道がぜんぶぜんぶ、なくなっていく。

「ねえ」

 ふと聞こえた声に、顔を上げた。

 隣の席の女の子は小柄で、つやつやの黒いショートカットの髪がきれいだった。そんなことを思ってしまったのはきっと、現実逃避だ。

「どうかしたの?」

 じわりと涙が浮かんだのは、仕方のないことだった。

 しゃくり上げ始めてしまった佳鈴に、教室の視線が突き刺さる。うるさいとか、何やってるんだとか、きっとそんな風に思われているんだろうと思うと、涙は止まらなくなってしまった。

「け、消しゴム……消しゴムが、なくて……」

 このままじゃスタートラインにも立てない。

 せっかくここまでがんばったのに。こんな些細なことで、潰えてしまうものがあるだなんて。こんなの、あんまりだ。

「はい、ハンカチ。使って。あとこれ」

 差し出された真っ青なハンカチに、おずおずと手を伸ばす。

 紺色のセーラー服に、白い幅広のスカーフ。襟のところには、白いラインが三本。首の下のところも、胸ポケットも、袖口も、あちらこちらにラインがたくさん入っているセーラー服。

 佳鈴のセーラー服とは、全然違う。佳鈴のセーラー服は襟のところに太いラインが一本だけで、他のところには入っていない。スカーフも、細い橙色だ。

 とんと机の上に置かれたのは、真四角の消しゴム。まだ角が丸くなっていない、新品の真っ白な消しゴムだった。

「え……」

「あげる、それ」

「でも、えっと」

「塾の先生が『本番には消しゴム二個持っていけ!』ってうるさかったんだ。でも、良かったね。そのおかげで消しゴム、あったよ」

 いたずらっぽく彼女が笑うと、口の端から八重歯が覗いた。

 がらがらと崩れていた音が止まって、細く長く道が伸びていく。合格したらハンカチ返してねと、彼女は――桐花は、笑っていた。

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