ゲームにおいてのシナリオ

 ゲームにおいてシナリオを読む人と読まない人とで衝突があるので思ったこと。



 結論を先に言うと、ゲーム部分とシナリオ部分を分けて考えているかどうかの差。

 文章を読むことに抵抗がなければ自然とシナリオを含めてのゲームだと捉えるし、抵抗があれば分けて考える。



 例えばゲーム性を重視していても、シナリオに沿った敵やギミックが出てくるのだからシナリオを理解していなければゲームを百パーセント楽しめないのは当然のこと。

 シナリオを楽しめる人にとっては、「読まなければ十全に楽しめないし、読まない手はない」という理屈が存在する。


 だけどシナリオを読まない人は多い。

 理由は様々だけど、結局根底にあるのは読んでも楽しめないということだと思う。

 これを言うと「時間がない」などと反論する者が現れるけど、これこそが最もあり得ない反論。


 何故なら、真に時間が無い人間なんていない。それならば、そもそもなぜ「ゲームをする時間がある?」という話。

 ゲームを楽しむためにシナリオを読むのだから、ゲームをすることとシナリオを読むことは同義。

 これを区別している時点で、「シナリオは別物。かつゲーム部分より下」と認識していることは明らか。


 別にこれ自体が悪いことじゃ無い。

 好みや考え方など様々だし、区別するならば優先順位は付けて当たり前。仮にその人にとってゲーム部分が九割、シナリオが一割などとなれば、一割の部分など切り捨てて当たり前。

 ゲームだけやれば満足な人などいくらでもいるし、そっちの方が多いくらいだと思う。


 でも読むこと自体を楽しめる人にとっては、関心のある面白そうな事柄についてはとりあえず読むのが当たり前。

 時間が無いなら作る。それでも無いならゲーム自体をできないという話であり、シナリオ”だけ”無視することはしない。

 無理やりゲームだけするのならば、「私は中途半端なことをしている」とはっきりと自覚する。何か文句を言われれば、自己嫌悪と共に謝罪をするくらい。


 結局、読むのが当たり前の人にとってはゲーム部分とシナリオ部分を含めて一つのゲームと認識しているのに対し、読まない人はゲーム部分とシナリオ部分を分けて考えているだけ。


 両者の当たり前をぶつけてバトルしたところで不毛でしかない。互いに当たり前だと認識しているのだから、変える気など最初からない。

 当然どちらが正しいのかという話でもない。それぞれ個人でやりたいことをすれば良いだけ。



 少し話は変わるけど、「時間が無い」という言い訳は本来良くないと思っている。

 先ほど言ったように、真に時間が無いということはまずあり得ない。みな平等に一日は二十四時間。例えブラック企業勤めで自由になる時間がなかったとしても。


 どこまでいっても、優先順位を付けているだけでしかない。


「優先順位が低いからやっていない」を「時間が無い」と言い換えているだけ。

 前者の方が角が立つ言い方になるからこれを回避して後者になっているだけなのに、その自覚を持たない人がいる。

 そしてその事柄の優先順位が高い側からすれば意味不明でしかない。


 素直に、「私にとって優先順位が低い」と言われればとても分かりやすい。

 とはいえ現代は角が立つ言い方はとことん避ける傾向にあるから、むしろ絶対に言わないようにしていると思う。場合によっては本人にとって他の優先順位があまりにも高いせいで、相対的に低くなっているだけ。他の優先順位が下がればやるかもしれないのに、低いという印象を与えたくはない。


 好意的に見られようとするネット社会の弊害にも思えるけど、こうして角を丸くし曖昧にすることで互いに多くのストレスから逃れられることも事実だと思う。

 ただしその丸み部分に疑問を持ってしまえば、衝突はまぬがれないとも思う。


 そしてその衝突は無駄でしかない。

 ネット内かつ娯楽の範囲であるならば、気に食わない人物に出会ったら即座にブロックなりをして無視が一番。

 そんなことで言い合うのが優先順位の高いことなのか。叩き合うのが幸福なのか。

 互いに違いを認識したら、以降は無視。それで終わりの話だ。



……それが難しいんだけどね('ω')

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なのったの日記 @nanotta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る