第4話幽霊に報酬は必要か?

「なんだ?」


 事件捜査の翌日、物が雑多に積みあがった探偵事務所のホムラの私室にて。

 ずい、と水をすくうような形で差し出された血の気のない両腕を見て、ホムラは片方の眉を吊り上げながら少年をにらんだ。ぷん、と頬を膨らました少年は、指で四角形を作ることでひらがな表をホムラに要求する。

 だが、そんなものは知らんとばかりにそっぽを向いたホムラは、黒革のソファに体を預けて、持っていた本で顔を覆い隠し、自分の視界から少年の姿を消す。

 せっかく意思疎通が可能になったのに――むくれながらも、少年はホムラへと必死のアピールをする。

 先ほどのように両手の親指と人差し指で四角形を作り、それからぴんと伸ばして人差し指で紙面上を滑らせるような動きをする。あるいは抜き足差し足といった動きをしてみたり、耳に手を当てて「聞き耳を立てている」というような動きをし、はたまた「やってやったぞ」と言いたげに、自慢げに胸を張って見せる。

 本から顔を上げたホムラと、だからほら、と手を伸ばす少年幽霊の目が合って。


「……はぁ」


 小さくつぶやいたホムラは、気分を変えようと立ち上がり、コーヒーメーカーを起動してコーヒーを淹れ始める。

 濃厚なブラックコーヒーのにおいが部屋に広がる。黒々とした水面を見つめていたホムラは、湯気が立ち上るカップに息を吹きかけながらちらりと少年の姿を見る。そこには相変わらず何かを要求するようにホムラへと手を伸ばす少年幽霊の姿があった。


「……報酬なんてないぞ?」


 これまで意識して無視を――あるいは理解できないふりを続けていたホムラだったが、あえて答えるのも一興かと、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべてみせる。驚きに目を見張った少年が、「どうして」と尋ねるように首をかしげる。

 少年の背後、揺れたカーテンの先から入った太陽光に目を細めながら、ホムラはにやにやと笑っていた。


「あのなぁ、お前に報酬なんぞ渡したところで何になるっていうんだ?まさか、使えもしない金が欲しいとか、そんなこと言わないだろうな?第一これは俺が依頼をとってきて、俺が手に入れた金だ。助手のお前は、俺にこき使われていればいいんだよ」


 幽霊なんてこんな扱いで十分だ――そんなことを己の心に言い聞かせつつ、ホムラは少年の献身を笑う。無償労働ありがとな、と。

 対する少年は、キツネにつままれたような顔でホムラのことをじっと見つめ、それからフグのごとくぷっくりと頬を膨らませた。まだ幼い容姿をした少年にその動きはひどくマッチしていた。

 とはいえ少年も、いざ報酬を渡されるとなっても何を求めたらいいのか、何を自分はホムラに求めているのか、それがよくわからなかった。幽霊である自分を見ることができるホムラなら、生きているのか死んでいるのかよくわからない状況にある中途半端な自分を死後の世界へと向かわせてくれるのではないか。そんな希望は、けれど少年の中ですっかりしぼんでしまっていた。ホムラはただ幽霊が見えるだけ――そう、少年は理解していた。

 ホムラは少しだけ変わった、霊感の強い人間で、それ以上でもそれ以下でもない。だから少年を正しく冥府へと導くことはホムラにできないと考えて、その時点で少年の中からホムラへの望みは消えていた。

 そうして、少年の中にはただ働きをさせられたという記憶だけが残り、せめて何かをもらいたいという結論に至っていた。


 駄々っ子なふるまいをして見せる少年にひらひらと手を振りながらホムラは日課の読書へと戻る。けれど、落ち着かなかった。

 それは、視界の中を白い服をはためかせる少年がふわふわと漂っているからで、そして何より、ホムラの意識の中で昨日再会を果たしたあの女の姿が浮かび続けているからでもあった。

 集中できない状況で視線は文字の上を滑り、本の内容は一切頭に入ってこなかった。こんな非生産的なことをしているだけ時間が無駄だと、ホムラは思考を放棄するために寝ることを決め、本をローテーブルに投げ出して目を閉じた。


 静かだった。動きがうるさいだけの少年幽霊は、目を閉じてしまえば安眠の邪魔ではなかった。ホムラは静かに眠ろうとして、けれどやっぱり昨日目に焼き付いてしまった女の姿が瞼に移り、ホムラの精神を刺激する。

 怒りに燃える心が、復讐に高ぶる心が、ホムラの精神状況を悪化させる。


 しばらく眠ろうと格闘を続けた結果、ホムラは一層目がさえてしまい、ぱっちりとその目を開いた。

 白い天井を見上げるホムラの視界に、のぞき込むように自分を見ている少年の顔が映った。


「くそ、お前ら幽霊はどうしてどいつもこいつも俺に面倒を持ってきやがるんだ」


 やってられるかと告げたホムラは、素早く外出着に着替えて――といっても彼の鎧でもある白衣をまとうだけだったが――玄関の外に広がる世界へと一歩を踏み出した。


 特に目的地もなくぶらつくホムラと、その背中を追う少年幽霊は気の赴くままに街を散策する。

 目的もなく進んだ足は、だからこそか通いなれた場所へとホムラをいざなった。

 寂れたアーケード商店街。閑散とした左右の軒は半分ほどにシャッターが下りていて、店番をしている老人は客引きをすることもなくのんびりと新聞の文字へと目を凝らしていた。最も、客を呼び込もうにも人がいなかった。目に見える範囲を歩いているのはホムラ――と一般の人には見えない少年幽霊だけ。

 ずいぶん前に飾られてそのまま放置されていただろう色褪せた七夕飾りが、屋根の鉄骨に括り付けられてもの悲しく揺れていた。


「おや、ホムラちゃんじゃないかい!」


 そんな寂寥に満ちた空気は、けれど威勢のいい女性の声によって容易く吹き飛ばされた。恰幅のいい女性が店の一つから顔を出し、ホムラを手招きする。おー、と軽く手を上げて、ホムラは女性の方へと進路を変えた。


「せっかくの男前なのに、相変わらずそんなだらしない白衣を着てるのね。もったいないわぁ~」


「楽でいいだろ?毎日服装に悩み苦しむ奴が理解できないんだよ。白衣で全て隠してしまえば同じ……悩みの少なさは人生をゆるく生きるためには欠かせないからな」


「あら、ひとは悩みによって輝くのよ?」


「女は、じゃないか?まあ腹に一物抱えた奴らが放つ危険な香りに引かれる阿呆が多いからな」


「それが淑女のフェロモンってやつよ」


「誘蛾灯のごとく人を呼び寄せる匂いを放つ淑女とかおかしくないか?」


「自然の摂理は万人に対して平等なのよ。子孫を繋げるか繋げないか。全ては本人の行動にかかっているの。ホムラちゃんも自分の容姿に自信があるうちにいい相手を見つけておいた方がいいわよ。じゃないと徳留さんみたいに行き遅れるわよ」


「わしゃあ行き遅れたんじゃないわ!愛ゆえに身を引いたんだって言ってるだろう⁉」


 来やがったわね商店街の不死鳥が――貫禄ある女性は、ひょろりとした壮年の女性を睨む。しわが深くなりつつある女性は、けれど老いを感じさせない軽やかな足取りで店から飛び出し、ホムラと女の前に立ちはだかった。

 その手には、丸々としたナスが握られていた。何を隠そう、やせぎすの女性は八百屋だから。

 力士のごとき体格をした女性もまた、その手に図太いお化けキュウリを握っていた。ちなみに、彼女は八百屋ではなく時計屋であり、その手に握るキュウリは今日の朝庭で収穫した鮮度抜群のものだった。


 にらみ合う両者。埃を乗せた風が吹き荒れる。

 おろおろと手を動かす少年幽霊が、険悪な様子を隠しもしない二人を止めようとおろおろともがくが、暖簾に腕押し――そもそも暖簾を押すことすらかなわない。

 止めようと伸ばした時計屋の女性の体を突き抜けた少年は、そのまま体勢を崩して空中で一回転した。

 パリ――ほっそりとしたきゅうりをかじりながら、店先の椅子に座ったホムラが頬杖をついて二人の戦いを見守る。


「おお!今日も徳留のばあさんと平のおばちゃんが戦うぞ!」


「であえであえ!我らがおかみの台頭だ!」


「なんの、我らが食卓に彩を与えてくれるベジババアの神の手に勝とうなんざ百年早いってんだよ」


 気づけばどこにこれだけの人数がいたのかと思うほど大勢の商店街の住人たちが集まり、にらみ合う八百屋の徳留と時計屋の平を取り囲んでいた。

 颯爽と走る老人はにらみ合う二人の前へと素早く戦いの場をセッティングする。テーブルに、包丁とまな板、七輪、カセットコンロ、鍋にフライパン、菜箸、お玉――キッチンセットがそろい次第、二人の女性は勢いよくその腕をまくる。


「美味いのを頼むぞー」


 ひらひらと手を振るホムラが、喧騒の中で平に声援を送る。


「まかしときな!」


「ひょろひょろは黙ってな!」


 力こぶをパァンと叩く平と、唾を飛ばす勢いで怒鳴る徳留。

 二人の戦いが、幕を上げた。






「うん、こっちだね」


 指し示されたナスの煮びたし。勝利を勝ち取った徳留が両こぶしを天へ伸ばす。


「しゃおらー!」


「くっ、私のキュウリだって美味かったはずよ!」


 鋭い目でにらんだ平は、キッと私の方が上のはずよ――そう言って、徳留作の煮びたしを口にして、動きを止める。その顔が、敗北にゆがんでいく。

 敗北を認めた平へと、徳留が不敵に笑う。


 こうして、商店街の男前「ホムラ」を取り合う二人の戦いは、今日も平の勝利に終わった。


 目を白黒させる少年幽霊は、一体何が起きていたのかと、先ほどまでの戦いを思い出しながらホムラへと視線を向ける。

 そこには、テーブルに残されたきゅうりの味噌炒めへと視線を向けるホムラの姿があった。

 どうしたのか、と少年が視線で尋ねて。


「……温かいきゅうりって冬瓜みたいで嫌いなんだよ」


 ふてくされたように視線を逸らすホムラ。わずかに赤みを帯びたその頬を見ながら、少年はやっぱりよくわからないと首をひねった。





 またおかしな事件があったら頼むよ――小腹を満たしたホムラはおよそ商店街に棲んでいる住民総出の見送りに後ろ手で手を振りながら喧騒冷めやらぬアーケードを後にした。


「この世にはどういう訳か幽霊が生まれやすかったり、おかしな状態が発生したりしやすい、空気の流れがよどんだ吹き溜まりみたいな場所があるんだ。その一つがあそこだ」


 どうにも言い訳じみた口調で、ホムラはふわふわと頭上を漂う少年へとそんなことを話していた。

 突然の話に、少年はくるくると目を回していた。ホムラの周りをぐるりと回り、空中で逆さになって、もう遠くなった商店街へと視線を向ける。


「さっきお前が見てた平のばあさんな、あいつ幽霊だよ」


 はて、と首をかしげて。それからぎょっと目をむいた少年が、つかみかかるようにホムラへと手を伸ばす。

 当然、その手はホムラをつかむことなんてできなくて。すり抜けた手はホムラの胸元に突き刺さった。

 まるで心臓を握られているようだ――真正面にある少年の顔をいやそうに見つめながら、ホムラは思った。


「平のばあさんの他にも、あの場所には複数の幽霊が……人に見えて、人と話せて、人と何一つ変わらない状態で生活してる。そういう特異点が、この世界にはたまに存在するんだよ」


 じゃあ僕は――そう言うように少年は自分の顔を指さした。ホムラが静かに首を振る。

 無理だ。

 ホムラの言葉が、期待に胸を震わせていた少年の思いを叩き落す。あの場所にいれば自分も人の社会の中で生きていけるんじゃないかと、少年は思っていたのだった。


「あの場所は、あの場所で生まれ育って死んだ者のためにある。その輪に入れていない幽霊は、やっぱり誰にも見てもらえずにひとりだぞ?」


 そうして、消えていくんだ――ホムラが、少し雲のかかった空を見上げながらつぶやいた。

 コンクリートの隙間から除く青と白の空はまぶしくて、けれどどこか儚げに少年の目には映った。


 空へと、手を伸ばした。

 その天の上に、引っ張っていってほしいと。このどっちつかずな幽霊の状態から、開放してほしいと。


 子どもみたいに純真に願いながら手を伸ばす少年を、ホムラはじっと見つめていた。


 こいつもいつか、ちゃんと帰れるはずだ――心の中でつぶやいたホムラの目は、奈落のように光のない漆黒をしていた。


 商店街を出たホムラと少年は、街をさまよい、そしてあっさりとくたびれて事務所に帰ることを選んだ。出不精なホムラにしては珍しかった行動。それによってくたびれたホムラは、けれど長年の探偵経験で培ってきた勘が警鐘を鳴らしているのを確かに聞いていた。

 それは、事務所に近づくほどに大きくなっていった。

 さっさと休みたい、けれど帰りたくない――だんだんと遅くなっていく歩みに気づいて、先を進んでいた少年が不思議そうに振り返る。

 ひらひらと手を振って呼びかける少年に、ホムラは苦い笑みを返した。

 汗ばんだ白衣はじっとりと湿っていて、ひどく不快だった。


「お前らはいいよな……歩かずに移動できるとか、最高だ」


 きょとんとした少年は、それから怒ったぞ、と言わんばかりに頬を膨らませてホムラの前まで浮遊する。

 ばたばたと両手を動かし、ホムラの足を指さし、心臓に手を当て、拳を振り上げる。

 その行動が指し示すところが、ホムラにはわからない。


「ああ?」


 不審げな声を漏らすホムラへと、少年は一層苛烈に体を動かし、自身の怒りを、あるいは文句を表現する。

 わたわたと動き回る要領を得ない身振り。けれどそのうちに、たびたび指し示される互いの足を見て、ホムラは「あー」と納得の声を上げた。


「つまり、足があるのが自分はうらやましいと?はっ、そりゃあ生者の特権だからな。自分の足で歩き、自分でこの世界を進んでいく。……世界からあぶれた幽霊には、どうあってもできないだろうな」


 これ以上無駄話に付き合ってられるか、俺は足が重いんだ、ホムラはそう心の中で吐き捨てた。

 自分の足で歩けるという恵まれた状況を理解しようとしないホムラに嫉妬し、少年は頬を膨らませる。

 ひらひらと手を振って背を向けるホムラを追いかけて、少年は慌てて空中を漂い始めた。

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