第3話解決は鮮やかに

 危険な人達が集まる建物へとたった一人で足を踏み入れる――そんな恐怖は、建物の中にあっさり侵入できた時点で、少年の中から霧散していた。

 少年は、自分がたいていの人から見えないことを思い出していた。例外は今のところホムラだけ。彼以外には自分が見えないのであれば、怖がる必要などなかった。

 何より、肉体を持たない幽霊は、どれだけ相手が怖い存在だとしても、傷つけられることも死ぬこともないのだから。


 すでに死んでいる幽霊ほど、潜入調査に適した存在はなかった。


 そうして、少年は犯人が存在すると思しき、暴力団青枝組の建物の中を飛び回り、殺しを自慢げに謳う男の姿を見つけ出した。






 帰還した少年は、身振り手振りで犯人と思しき男の名前を表現する。被疑者の名前はカニエ、そう呼ばれていた。だから少年は、蟹の動きをまねて両手のピースを形作る二本の指を開閉し、それからおそらくは「江」の字を表現するために、海の波が揺れる動きを全身で表現し、それが陸地に入り込むさまを動きで示した。

 霊能探偵ホムラは、少年の身振りを理解して頷く――はずがなく、やっぱり腹を抱えて笑い転げた。


 どうしたのですか、と心配げに駆け寄った女性警察官アヤネに、あろうことかホムラは少年幽霊のへたくそなパントマイムについて語って見せた。

 少年は恥ずかしさで顔がほてるのを感じながら、両手で天を衝くようにして抗議の姿勢を示した。


「幽霊のパントマイムですか……先生がそれほど面白がる動きを見ることができないのが残念です」


 心の底から残念ですと告げる部下を見て、遠藤は深い、深いため息を吐いた。これ以上幽霊を見ることができる面倒な存在――ホムラ二号が表れてたまるかと、そんな思いを抱いて。

 ホムラによってもたらされた遠藤の心労に、新たに部下のアヤネの教育問題が加わった。


「はぁ、さっさといつものあれを出せよ。面倒くせぇ」


 やってられるか、と遠藤が首を振る。それじゃあつまらないだろ――ホムラは遠藤に肩を竦めながら、少年を見てにやりと笑った。

 さて、とつぶやきながら懐を漁ったホムラは、胸の内ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、勢いよくその場に広げて見せた。

 そこには、汚い文字で書かれたひらがなが並んでいた。

 五十音表――それもただの表ではなく、どこかの儀式で使うような、「はい」と「いいえ」の文字、男と女の字、0から9の数字、それから赤い鳥居が見える表だった。

 こっくりさん――少年の脳裏に、そんな怪談の話が思い浮かんだ。

 なんでこれ?そう物語る少年を見て、ホムラは鼻で笑った。意味などなく、あえて言えばそのほうが幽霊たちの反応が面白いから――そんなホムラの内心を見抜くことは、少年にはできなかった。その心の中を理解してしまった遠藤は、再び、ホムラにいじられないように小さくため息を吐いた。

 そんな頼りなさげな上司の姿を見て、アヤネはどうしようもないとばかりに首を振る。


 さっさと犯人を教えろと急かすホムラに従って、少年は紙面上の文字を指で追っていく。

 そうして、事件の犯人は警察に知られるところとなった――が、この場で唯一浮かない顔をしている少年は、まるで冷や汗を流すような面持ちでじっと紙面上を指差し続けていた。

 その不審な様子に気づいたホムラは、何があったかと少年の顔を見て――


 少年の指が、動き始める。ホムラは、少しだけ慌てた様子で紙面上をたどる指が指し示す文字を目で追う。

 『ひ』『さ』『し』『ぶ』『り』『ね』『ほ』『む』『ら』――指が次々と文字を示しては移動する。

 ホムラは再び少年へと視線を向ける。少年は、必死に指を振る。自分じゃないと、恐怖すら浮かべたその表情に、ホムラは嘘を見いだせず、そして。


 ぶわりと、生暖かい風が吹き抜けた。夏の夜風のような、湿ったぬるい風。それは、生きとし生ける者たちを恐るべき恐怖へと追いやる。顔を蒼白に染めたアヤネがゴクリと唾をのんだ。風を感じることができない少年幽霊は、不思議そうに首をかしげてホムラたちを見ていた。

 そして、少年の目にもはっきりとわかる変化が、現象が、そこに生じた。

 まずは、吸い付くように紙面に向かっていた少年の指が、解放された。そして、その人差し指の爪先から、かすかな光が飛び上がった。

 まるで渦巻くように集まった風が、光の球を包み込み、風全体がゆっくりと淡い白の光をまとい始める。それは次第に人影を作っていき、陰影が生まれ、そして白と黒の美しい人の姿を生み出した。

 妙齢の女性。腰まである長い黒髪が美しい、白いロングワンピースを身に着けた女性。その衣服はあるいは、少年が身にまとう死装束と同様のものに見えた。光のない漆黒の瞳が、眼窩でゆっくりと動き、ホムラの姿を捉える。すべてが白と黒からなる女の、唯一色を宿した血のように赤い唇が吊り上がる。

 楽しそうに笑った女を見て、少年はホムラへと視線を移し、息をのんだ。短い付き合いとはいえホムラのことを見てきた少年が知らない表情が、そこにあった。腹の底から湧き上がる、煮えたぎる憎悪に包まれた表情。吊り上がった目は充血して赤くなっており、怒りに唇は震え、顔全体が高揚に、高ぶる感情は目に涙すらにじませていた。

 強く握りしめた拳は、今にも振りかぶられそうに震えていた。

 身を焼き焦がすような怒りにとらわれながら、ホムラはじっと女をにらみ、引き結んでいた口をゆっくりと開いた。


「……どうして、このタイミングで現れやがった?」


 女は答えない――否、答えはしても、その言葉はホムラには届かない。ただ、女がひどく嗜虐心に満ちた、ともすれば醜悪とも受け取れる顔をしているのを、その場の誰もが理解した。

 この場に「こっくりさん」を呼ぶための紙があるにも関わらず、女が文字を指さすことはなかった。まるでまだ教えるのは早いとでもいうように女は笑い、再びその体を光と変えて空中へと溶かしていく。


「待ちやがれッ」


 金縛りから、あるいは身を滅ぼしそうな激情から少しだけ解放されたホムラが、握った拳を振りほどきながら女へと手を伸ばす。

 その手は何もつかむことなく、ただ光の粒子だけが周囲に散っていく。


 くそ――もう一度口汚くののしったホムラは、しばらく呆然と虚空を眺め続けていた。呆然としているように見えたのは、外面を取り繕う余裕もないほどに高速で思考を働かせていていたからで。

 今のはなんだという遠藤の呼びかけにも答えずに、ホムラは深く考え込んでいた。


「先生、先生⁉」


 焦燥のにじむ声をしたアヤネがホムラの肩をゆする。それによって思考の海から舞い戻ったホムラが、「ああ」とおぼつかない声音で返事をする。まるで悪夢から目覚めたばかりのような、あるいは今もなお夢を見ているような、そんな浮世離れした空気をホムラはまとっていた。

 尊敬するホムラがどこかへ消えてしまうのではないか――そう心配したアヤネが、大丈夫ですかと尋ねる。

 その言葉に対する返事はなかった。

 ホムラは勢いよく首をひねり、少年をにらむ。

 翻った白衣の裾が、少年の死装束と交わる。大きな目を瞬かせる少年の胸ぐらをつかむようにのばされたホムラの手は、当然というべきか少年の体にも衣服にも触れることはかなわず虚空をつかむ。

 所在なさげに宙を漂う手を下したホムラが、鋭い眼光で少年をにらむ。


「お前、さっきのあいつを知ってるか?」


 ふるふると少年は首を横に振る。

 少年の記憶に、恐怖を覚えるほどに美しい先ほどの女性に関する記憶はなかった。それも当然のこと。少年は生前の一切の記憶を失っているのだから。あるのは知識ばかり。少年は何も知らず、けれど首を振ってそう示して見せても、ホムラが信用することはなかった。

 嘘を言ってるんじゃないだろうな――虚空をにらみながら叫ぶホムラの視線の先を追いながら、アヤネと遠藤は首をかしげる。

 それは、相変わらずそこにいるであろう幽霊が、二人の目には見えなかったからで。

 だからこそ、先ほど二人が目にした――二人が見ることができた女の異様さが明らかにされた。霊感など持っていない二人にも見えるおそらくは幽霊の類である女。彼女はいったいどれほどの力、あるいは存在力とでもいうべきものを有しているのか。そして、その驚くほどの力は、現世へと影響を及ぼすことはないのか――

 遠藤の背筋を冷や汗が流れ落ちる。

 暖かいはずの周囲が、ひどく寒く感じた。何か、取り返しのつかないところに一歩を踏み込んでしまったような面持ちだった。

 アヤネもまた両腕で体を抱き、小さく震えていた。

 幽霊を見ることができるホムラ先生はこんな恐怖を抱いていたのだろうか――姿の見えない幽霊と言い争うホムラを見ながら、アヤネはホムラへの尊敬を一層強くした。


 少年が女の正体を知らないことなど、ホムラは薄々感づいていた。けれど、それを認めることはできなかった。

 ホムラにとって何よりの敵であり、追うべき相手――そんな女が、少年が指で文字を指し示すことによって現れたという事実に、ホムラは過剰に反応していた。

 これまでこっくりさんの紙を使って幽霊たちに情報提供を求めたことは数知れない。殺された被害者自身はもちろん、地縛霊のように長く一か所にとどまっている幽霊や、長い時を生きて半死半生となった知恵ある猫又なども見てきたホムラだが、こんな現象にはこれまで行き当たったことはなかった。

 それはあるいは、ホムラにとって霊能探偵を続ける意味そのものの進展でもあって。

 少しでもいいから前世を――生きていた当時の記憶を思い出せと、ホムラは少年に迫った。


 そうして改めて少年について考察するうちに、ホムラは少年の異常性に直面することになった。

 一般に、幽霊や亡霊、怨霊、あるいは生と死の境界があいまいになった化け猫などは、何らかの強い思いを抱いてこの世界に魂を存在させ続けている。その思いは、例えば自分を殺した相手への恨みだったり、どうしても死にきれない心残りだったり、はたまた死という先の見えない状況への恐怖であったりした。

 けれど、今ホムラの目の前にいる幽霊は、少年の姿をした幽霊には、そんな強い感情がなかった。幽霊によっては強い怒りは抱いているが記憶は失っており、その怒りの理由が何かわからないという個体も多く、生きていた当時の記憶がないこと自体はおかしくない。けれど、現世に魂をとどめておく鎖となる感情がないということは、もはや異常でしかなかった。

 男はわずかな願望とともに、女の出現とともに舞い上がっていた「こっくりさん」の紙を取りに行き、少年幽霊に質問を重ねた。

 どこまで――幽霊になった当時の記憶があるか、幽霊になってから何をしてきたのか、幽霊時代にどんなことを感じたのか、今何を思っているか、先ほどの女に何を感じたか、そもそもさっきの存在はお前にはどう見えたのか――


 重ねられる質問に、少年は目を白黒させながらも真剣に答えていった。何しろ、睨むようなまなざしを向けるホムラが、少年が適当な返事をするのを許さなかった。

 そうして少年はあらゆる質問に答えたが、それはホムラが望む結果には、あの女に関する追加の情報を手に入れるには至らなかった。


 クソ、と悔し紛れに告げたホムラが、少年との会話用に使っていた紙を握りしめる。くしゃりと音を立ててゆがんだ紙にはいくつものしわが寄る。少年は困ったように男を見て、小さく頭を下げた。

 そんな少年の態度が、ますますホムラをいらだたせた。

 けれどこれ以上八つ当たりをしたところで得るのは余計な疲労くらいで。ホムラは「あとは任せた」と遠藤とアヤネに言い捨てて、白衣のポケットに両手を突っ込んで背中を丸めて歩き出した。


 その寂しそうな背中に、アヤネはかける言葉を見つけられなかった。

 協力感謝する――そんな遠藤の言葉に、いつものホムラが返す「俺は依頼をしたんだ。報酬はしっかりと払ってもらうぞ」というセリフはなかった。

 遠藤たちとホムラを見比べて、少年は少しだけ悩んでから、ホムラについていくべくその場から飛び立った。






 ビルの建設工事現場で発生した事件の捜査は、ホムラと少年幽霊によってもたらされた情報をもとにした捜査によってあっさりと解決した。

 それから、数日後。

 ホムラの様子を確認しようとせっかくの休日に探偵事務所を訪れた遠藤だったが、彼がホムラに会うことは叶わなかった。

 ビルの一角に居室を構える探偵事務所の扉には、Closeの札が掲げられており、その中に人の気配はなかった。


 ホムラは、遠藤たちの前から姿を消した。

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