第59話 最高の彼女!
「ぐすっ……忍、もう、いいよ」
「うん」
彼女の胸から離れ、最後の最後に残った涙をぐいっと拭い、立ち上がる。
あたりはもう、夕暮れの色が濃くなっていた。
眩しい
自分の中のありとあらゆるわだかまりが、涙と一緒に一切合切排出され、スッキリしすぎて逆に軽いめまいを感じるほどだった。
だが、目の前の天使は、どこか神妙な面持ちをしていた。
やはり、無様だっただろうか?
しかし、すべてを受け止めてくれたことには、礼を言わずにはいられない。
「……忍」
「……なに?」
「本当にありがとう。それしか言えない。少し、無様だったかも知れないが」
すべての想いを凝縮して、短く、天使に感謝を述べた。
「……ッ……! う、うえ、え、えぇ……」
すると、不意に彼女の目に、涙が溢れ出す。
「お、おい? ど、どうしたんだよ、急に?」
「えう、う、うああ、ひっく……『ありがとう』は、ウチのセリフやがな……」
「えっ? ど、どういう意味だ?」
まるっきり分からなくて、戸惑いながら聞いた。
忍は、ぼろぼろと泣きながら続ける。
「ぐすっ、ひううっ、えう、あ……センセは、ウチが言うた通り、なんにも全然、一ミリも飾らへん、ほんまの心をウチにぶつけてくれたんや」
「ああ。それができるのは、忍にだけだからな」
「ぐずっ、そこやん……。センセは、ウチにだけ、自分の心の一番根っこが、ほんまはズダボロやったんを全部見せてくれた! 無様とかそんなん、どうでもええねん! ほんまの意味でまるごと、ウチを頼ってくれた! それが……それが……う、うあぁ……」
「そ、それが?」
「う、うええ……それが、どんだけ……どんだけ、ウチにとって嬉しいことか……! センセは、自分の弱さも、脆さも、みっともなさも、何もかも、ウチにさらけ出してくれた! ひとかけらの嘘もなく! ありのままを、感じさせてくれた! 抱えてきた、傷の深さと痛さを教えてくれた! それは、ウチのことを信じてくれとるからやろ?」
「もちろんだとも。俺はお前を、心から信頼している」
それこそひとかけらの嘘もなく、彼女に言った。
すると、彼女の瞳からさらなる涙が溢れ出す。
「やっぱり? う、ううう……せやったら、それ、ほとんど反則やわ……。ウチ、センセに『ありがとう』て、一万回言うても足りひんて……」
しゃくり上げながら、忍は続ける。
「ひっく、考えてみいな……? 惚れた男が、傷だらけで血まみれの心を抱えて、一人で泣いとるんやで? そして、ウチを心底信頼して、必死で助けを求めてくれてるんやで? ウチは、どないしたらええん? なあ? どないすべきなん?」
「えっ? そ、そう言われても……」
少し戸惑っていると、忍は、いっぱいに涙をためた瞳で俺を見つめ、怒ったような、だが嬉しいような複雑な顔をして、振り絞るように強く、強く言った。
「う、うう、センセのアホ!! アホ!! ドアホ!! さっきも言うたやろ!? 何のためにウチがおるんよ!? そんなん、決まっとるわ!! ウチは、その傷を少しでも引き受けて、センセのことを全身全霊で、ううん、命がけで癒やしてあげるしかないやん!! 女としてこれ以上に嬉しいことなんか、他にウチは知らんわ!! 逆に、そんなことすらできひんかったら、ウチはセンセの彼女として失格や!!」
そこで忍は、とても、とても真剣な、そしてどこか不安げな眼差しで、俺を改めてじっと見つめた。
「センセ、ウチは……」
何を問いたいかは、過ぎるほどに分かった。
だから、そっと彼女の頭を撫で、笑顔で断言してやった。
「お前は、最高の彼女だよ。忍のおかげで、いや、お前だったからこそ、俺は真に癒やされた。大げさじゃなく、生まれ変われた気さえするんだぞ?」
その俺の言葉を聞いて、忍はまたぼろぼろと泣いた。
しかし、泣きながら微笑んだ。
「ぐすんっ……それやったらええけど……ほんま……ウチに、これ以上、どないせえ言うんよ……? ここまで真っ正直で、ウチを心底信頼して、真に愛してくれる人、センセ以外に絶対おらへんて……賭けてもええわ……。はぁっ……惚れ直すどころの騒ぎやあらへんがな……もう、何が何でも、一生添い遂げるしか、ないやん……」
「忍……」
「センセェ……」
泣き笑いの涙でくしゃくしゃの、忍の顔。
いつものように、彼女の涙を全部キスで拭ってやった。
そして、互いに抱擁しあう。
「大好きやで、東郷センセ」
「俺も大好きだよ、忍。でも、一ついいか?」
「え? なに?」
抱擁の姿勢のまま、俺は、片手の指でカリカリと頬をかきながら言った。
「あー、その、なんだ。いつまでも名字で呼ばれると、なんかよそよそしさが拭えないって言うか、だな? それに、忍の名字も、じきに変わるんだぞ?」
「あ、それもそやね。ほなら、龍一郎センセ?」
「呼びづらかったら、縮めてもいいぞ?」
「うん、じゃあそうする。龍センセ!」
「おう!」
「龍センセ♪」
「なんだ? 忍」
「んーん、なんにも。んふふっ♪」
互いの名前を呼び合いつつ、二人でクスクス笑いあった。
感慨深げに、忍が言う。
「始まりやね。今こそ、全ての」
「ああ、そうだな」
二人で、空を見上げた。見事な夕焼けだった。
眩しくこそあれ、もはや痛くはない。
ほんとうに、ただ、ただ、優しく沁みる朱だった。
再度、忍の声。
「あっ! 一番星、みっけた!」
彼女が指さす先を見る。確かに、黄昏の空に星が一つ煌めいていた。
「ほんまに、ウチらの、未来と希望の光やね」
「そうとしか、見えんよな」
しばし、二人で、その星を見やる。
黄昏の空はますますその朱を濃くし、徐々に薄紫のグラデーションを作っていく。
万感の思いで、言った。
「綺麗だな」
「うん。こんだけ夕焼けが綺麗やったら、明日も晴れるで! なあ、龍センセ!」
「ああ、そうに違いないさ」
明るい忍の声に、大きくうなずいた。
美しい夕暮れ。夕暮れよりも、炎よりももっと赤い血が、人には流れている。
これは、三穂先生が好きだと言っていたが、ブルーハーツの名曲、『夕暮れ』の中に歌われている表現だ。
夕暮れが、俺のドアをノックする頃に。つまり、まさに今。
「……忍」
「なに? あっ?」
その歌詞のまま、もう一度、彼女をぎゅっと抱きしめた。
忍が、少し驚いたように言う。
「ど、どないしたん?」
「いや、忍がいることが、心底幸せでな」
「……もうっ、いきなり何言うねんな、龍センセのアホ……」
そう言いながら、忍も、強く抱きしめ返した。
幻なんかじゃない。忍に出会えた俺の人生は、夢じゃない。
生きている。それが、ひたすらに、ただひたすらに嬉しかった。
ふと、流し尽くしたと思われた涙が一筋、つう、と頬を伝った。
その時、ふうわりとそよいだ風が、俺達の顔を撫でていった。
夜風と呼ぶには少しせっかちなその風は、やはり若干気の早い、初夏の匂いを乗せてきているようだった。
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