第58話 五年分の……!

 ――そして、忍が怒りの《真・仰光拳》をお見舞いし、俺が追加で奴の骨をめった折りにした。


 復讐は、クライマックスを迎えようとしていた。


「さあッ!! 薄汚え脳味噌ぶちまけてからッ!! 地獄で許しを請いやがれッ!!」


 校長の頭を粉砕すべく、足を掲げる。


 勢いのまま、全体重をかけようとした、刹那。


「……はっ!?」


 今までのことを思い出した結果、自分が背負ったものの大きさを改めて実感して、我に返った。


 そうだ。殺せば、コイツと同じだ。死は、何も生まない。


 真虎だって、きっと哀しむ。何より、忍が。


 それだけじゃない。三穂先生も、信頼してくれている生徒達も。


 危ういところで、その、


「放ったが最後、二度と後戻りできなくなる一撃」


 を止めた。あと一歩で、殺人犯になるところだった。


「はあ、はあ、はあ、はあ……!」


 息が、弾んでいた。


 ……やったんだ。ついに。真虎の仇が討てたんだ。


 悲願は、達成されたんだ。


 校長は、もはやうめき声すら上げない。虫の息だった。忍が、少し慌て気味に言う。


「はよう救急車を呼んだらな」

「わ、分かった」


 急いで、以前修羅をやった時と同じ病院に電話して、救急車を手配した。


 程なく、稲垣と校長が搬送され、その場からいなくなる。


 ついでに、続けて110番で警察に連絡し、校長の未成年買春と、五年前の真虎殺害、及びその証拠隠滅。そして、教頭の業務上横領の件を通報しておいた。


 かくして、全てが終わった。


 しん、と、あたりは静まり返っていた。


「終わりやね、全部」

「ああ、そうだな」


 俺は、どこともない遠くを見つめていた。


 感慨でいっぱいだった。


 だが、同時に感じる、この空疎感は何だ?


 長い間、この瞬間を待ち望んでいたんじゃないのか?


 なのに、この、「からっぽ」としか言えない気持ちは何なんだ?


 風が、身体を吹き抜けていく。奇妙な寒さを感じた。


 誰か、誰か温めてくれ。凍えそうだ。


「センセ」

「えっ?」


 呆然としていると、忍に脇をつつかれて、改めて彼女の存在を認識した。


 そして、慈愛に満ちた顔と、優しい声で、彼女は言った。


「センセ、ちょい膝つける? ウチの顔の正面ぐらいまで」

「こ、こうか?」


 言われるまま、膝を折って、忍に目線を合わせる。


 すると、


「んーっ……」

「うむっ!?」


 彼女にそうっと顔を包まれ、唇を塞がれた。


 とろりと甘い感覚。何度となく味わったはずなのに、やけに新鮮な高揚感。


 そして、えも言えぬ多幸感がやってくる。


「んちゅ、ちゅむ、んんう、んぅううう~っ」


 長い、とても長いキスだった。


 だが、強引さは欠片もない。優しい、途方もなく優しい、真心のこもったキス。


 忍の愛を感じる。


 真っ直ぐな、どこまでも真っ直ぐな、彼女の心そのままの、深い愛。


 その愛が、キスを通してどんどんと流れ込んでくる。


 そして、空疎感が、瞬く間に埋められていく。温かく癒されるのが実感出来た。


「んぱあっ……」


 糸を引いて、唇が離れる。


 顔を包まれたまま、ほんとうに優しい瞳に見据えられ、苦笑いの声。


「センセも意外と、あかんたれなとこがあるな。何のためにウチがおるとおもてるん?」


 そうか。そうなんだ。彼女がいるんだ。


 誇れるほどに素晴らしい彼女が。


「……ッ……!!」


 感極まり、ただ、ぎゅっと忍を抱きしめた。


 しばらく、無言で抱き合う。


 空疎感は、埋められた。とても優しく、暖かく。忍のキスで。


 だが、もう一つの欠落があった。


 苦難の果てに本懐を遂げた末、空疎感を癒やされたことで、かえって凄まじいまでに、「あるもの」の津波が身体の奥から押し寄せてくる。


 それを吐き出せるのは、今しかないような気がする。


 だが、受け止めてもらえるだろうか? 少し不安だった。


 でも、彼女しかいない。


 思い切って、忍を抱きしめたまま、その肩越しに、言った。


「……あのな、忍」

「なに?」

「まず、軽く謝らせてくれ。男ってのは、女の子の涙を止めるのが生涯の使命だってのが、一般的に言われることだ」

「んー、まあ、ちょい古いけど、男らしさの一つとしてあるわな。それが、どないしたん?」

「今から俺が言うことは、その真逆だ。もしかしたら、俺はお前に、なんて女々しい奴だと思われるかも知れん」


 予防線的言い訳に、忍は、どこか呆れたような雰囲気で言った。


「悪いけど、センセ? それ、めっちゃしょうもないで? ウチとしては、やけど。そないなことでセンセに幻滅したりは、絶対せえへんて」

「そっか、ありがとな」

「逆にウチは、センセがウチにだけ、ぜーんぶぶちまけてくれた方が嬉しいわ」


 包容力に満ちた言葉だった。


 ああ、それなら安心できる。


「……なら、そうするよ。聞いてくれ、忍。男ってさ、基本的に、見栄っ張りの単純バカなんだよ。いったん意地になったら、そうそう簡単には変えられないもんなんだ」

「そうなん? センセ見とったら、あんまりそうは思われへんけど」


 意外そうな忍の声だったが、そこまで来ている衝動を堪えつつ、返した。


「そうなんだよ。俺も全く同じだ。例えばだ。俺は、復讐を決意した五年前から、泣くことを止めたんだ」

「ほんまに?」

「ああ。何が何でも泣くまい、って自分で固く決めて、一滴の涙も流さず、他人の十倍は努力した。強くなるために」

「つまり、他の人の十倍は、泣きたいんを我慢しとったん?」

「その通りだ。どれだけ辛くても、どれだけ悲しくても、それこそ意地と根性で耐えた。だが……、だが……」


 もう、ダメだった。


 声が震え、鼻の奥の酸っぱさが、いよいよ堪えきれない。


「……分かった。全部終わったんやし、そないな意地、もういらんやん?」


 すべてを許す声。


 しかし、まったくもってバカな男のプライドが、まだなお邪魔をした。


 なんて面倒くさい奴なんだろう、俺は。


「ああ……でも、すまん。俺は、自分の泣き顔を……お前に、見られたくない」

「そんなん、簡単やん。こないしたらええんや」

「あっ……?」


 すると、きゅっと優しく、彼女が、その胸に俺の頭を抱きしめてくれた。


 とっ、とっ、とっ、とっ……。


 柔らかなぬくもりと、規則正しい彼女の心音が感じられる。


 そして、天使のような声で、彼女が言った。


「さあ、これで……どない?」


 ――その彼女の声が、文字通りの引き金になった。


「う……あ、ああ……うわ、うわああああーーーーーーっっっ!!」


 そして俺は、泣いた。


 彼女の優しさに包まれながら、その胸の中で、思いっきり泣いた。


 五年間。他人の十倍流したかった、涙。


 しかし、断じて泣くまいと、己自身で固く封印した、涙。


 今が、その封を解く時だった。


 いや、違う。彼女が、その封を壊してくれた。


 文字通り、涙が、堰を切ったように溢れ出す。


 泣いても、泣いても、どんどん涙が出てくる。


 だが、泣けばそれだけ、今まで心に絡んでいた鎖が解けていくのを感じた。


 泣いて、泣いて。


 とことん泣いて。


 恥も外聞も、何もかもかなぐり捨てて。


 己の弱さも、脆さも、みっともなさも、全てをさらけ出して、泣いた。


 幼子のように泣きまくって、また泣いて。


 長い時間をかけて、五年分の涙を、全部流し尽くした。


 そしてようやく、五年の呪縛から解き放たれた。彼女の愛によって。

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