第53話 修行開始!

 翌朝。かなり早く、具体的には夜明け前に起きて、


「あの、ここはどこの旅館ですか?」


 と問いたくなるような、滝氏の作った一汁三菜の豪華な朝飯を食い、まずは学校へ向かった。


 いくら修行だからって、休みは取れない。


 加えて、稲垣の奴の勝負はプライベートだ。なおさらサボれない。


 本職をきっちり終えてから、大急ぎで山へ戻る。


 着く頃にはちょうど、他の門下生が、その日の修行を終えて帰った後ぐらいだろうって忍の話だった。


 行きも帰りも相当ハードだが、この程度で弱音は吐けない。


 いつもの鉄板入りの革靴だと、ただでさえきつい山道が、さらに辛くなるのは体験した。


 なので、別途自分の家から毎朝の走り込みに使っている軽いランニングシューズを持参して、学校での仕事が終わった後、履き替えてから山を登ることにした。


 なお、少し前から俺のLINEに殺到と言っていいほど来ている生徒達からの悩み相談の方だが、


「大事な用事が発生したから、終わり次第、また再開する」


 と、全員に説明して、小休止をもらった。悪いが、到底両方を並行できない。


 やがて、到着。


 客間でスーツを脱ぎ、用意されていた真新しい道着に着替える。


 白帯をギュッと締めると、気合いが入った。


 そして稽古場へ向かうと、既に滝氏が待っていた。まずは深く一礼する。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ。まず、先生の今の力を、少し見せてもらえますやろか? 忍が言うには、ボクシングの心得がおありと」

「はい。仰る通りです」

「遠間からの左ジャブが得意かつ、威力に自信がある、と聞いてます」


 そう言って滝氏が、すっと、そのごつい右の手のひらを顔の横に出す。


「これを的やとおもて、やってくれはりますか?」

「分かりました」


 いつもの間合いを取る。すると、滝氏が少し驚く。


「ほほう、かなりのリーチですな。それでも届きますんか?」

「ええ。この程度がいつもです」

「そしたら、来なはれ」

「はい」


 静かに、構える。


「しっ!」


 大きく踏み込み、左ジャブを的に当てる。バシン! といい音がした。


 滝氏の目が、キラリと光る。


「ほう、ほう、ほう、ほう。私も、ヘビー級のボクサーとは、何度か野試合をしたことはありますが、ジャブの威力に、やはり驚きましたわ。先生の一撃も、並の男の正拳中段逆突き程度はありますな。普通、それがこないな遠間、かつ、この速さで飛んできたら、大抵の相手なら、まず間違いのう一瞬かつ一撃でダウンしますやろ?」


 褒められているのは分かるが、同時に悔しい。稲垣の奴には、これが通じないからだ。


「まだ、一押し足りないんです」

「なるほど。それが、私を訪ねはった理由ですな?」

「はい、その通りです。これが通じない相手を倒すために、俺は、ここにいます」


 そして、稲垣の奴について軽く説明した。


 特に、忍を洗脳して手駒にしたくだりを話すと、さすがの滝氏も、とても険しい顔をした。


「ふむ、まごうことなき外道ですな。そないなことがあったとは。人の心を盗むなど、まさしく鬼畜の所業。さぞかし、お辛かったことかと。先生のお怒りは、よう分かりますわ。大丈夫です。その無念、必ずや晴れましょう」


 深くうなずいてくれて、かなり頼もしかった。やるのは自分なんだが。


 それから、本格的な修行が始まった。


 とは言え、そんなに派手じゃない。


 滝氏は、俺のジャブを受けた右手を満足げに見つめて、こう言った。


「先生が、もし何の武術の心得もなかったら、こちらもさすがに困りますが、ボクシングと空手の違いはあっても、先生は既に基礎がガッチリ固まっとります。伺った話からすると、目標は、得意技の左ジャブに《氣》をまとわすことですわな?」

「はい。それが俺の目的です」


 決意とともに、うなずく。滝氏が、順番を説明してくれた。


「まずはイメージを持つことです。《氣》の流れ、煌心流では《氣脈きみゃく》と称しておりますが、それを血の流れのように感じるようになること。そしてその自分の《氣脈》を、ヘソの下、臍下丹田せいかたんでんに集中して、文字通り練る行為を思うことですわ。その練った《氣》を、自分の宿したい場所に導くように意識し、繋がれば、光となって現れるでしょう」

「そのためには、具体的にはどうするんですか?」


 まだピンとこなかったので、聞いてみた。


「邪念を払って、静かに、ひたすらに集中するのが基本です。思念の力を研ぎ澄ますんですわ」


 つまりは、もっぱらイメージトレーニングだった。


 しんと静まりかえった稽古場で、一人正座し、邪念を払って集中する。


「私がおりましたら、まさしく《氣》が散りますやろ?」


 そう言われて、滝氏は、同じ場にはいない。


 はた目には地味極まりないが、やってるこっちは必死だった。


 なにせ、軽く言われたが、今まで全く意識してなかったことをやろうとしているんだ。たやすいはずがない。


 血の流れは感じる。ただ、まだ全く《氣脈》が感じられない。


「極端な話ですが、血の流れは忘れなはれ。最も簡単に言うなら、まさしく『やる氣』、あるいは『氣合い』ですわ。それを全身に巡らせるような感じですな」


 こう助言を受けたが、いかに頭で理解はできても、やはりそう簡単じゃなかった。


 もう、例外レベルだという話の俺自身の素質ってのを信じる他ない。


 聞いた話じゃ、他の門下生は、まず稽古場で一心不乱に突きや蹴りの練習、あるいは組手をやって、文字通り心を無にしてから、このイメトレに入るらしい。


 ただ、それは空手の場合だ。


 もし、この場にサンドバッグでもあれば、俺もひたすら一心にそいつを殴って、できるだけ無に近づく努力ができるんだが、あいにくそんなものはない。


 まさか、おやっさんからジムの備品を借りるわけにもいかないし。もし仮にできたとしても、あんな重いものを、ジムからここまで、どうやったって運べるはずがない。


 いや、ヘリコプターを使えばできるだろうが、それはあまりに現実味がない。


 そして、地味で地道な努力が奏功したのか、一週間ほど経った頃、自分の《氣脈》をはっきりと実感できるようになった。


 集中して、少し意識を切り替えれば、さながら砂金のような光る粒子が、全身を巡っているのが分かる。


 焦る気持ちを自分自身でいさめるのが大変だったが、地道な努力の結果、一歩は進めた。


「できるやろうとはおもとりましたが、やはり、ですな。先生、失礼ですが、もう一度お手を出してくださいますか?」

「あ、はい」


 滝氏にそう言われて、すっと自分の右手を出しだす。初対面の時と同様、彼がそのごつい手で、俺の手を握る。そして、数秒。


「ふむ、先生の今の《氣》の濃さも、もう十割ですわ。いやはや」


 率直に褒められたが、やっと第一段階だ。先は長い。

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