第29話 欲のない彼女と残念ピエロ!
「ぐずっ……すんっ……あと……一分……」
やがて、泣き止んだらしい忍が、そんな事を言った。
胸を貸すぐらい、全然構わない。むしろ嬉しい。その一分が、やけに長く感じた。
名残惜しげに、離れる。
「ええよ、もうええ。スッとしたわ」
いつもの調子に戻ったらしいどころか、忍の顔つきは、目こそ少し腫れてはいたが、明らかにサッパリしていた。
真剣にホッとした。忍が、ふう、と、軽く息を吐く。
「ところで、センセは何しに? ウチは、ちいと甘いもんが食いとなってな。それだけやねんけど」
まるで、さっきのことがなかったかのように聞いてくる。
いや、この点については、変に引きずられるよりもいい。もう一段ホッとした。
こっちも、普通に返す。
「奇遇だな。俺も、無性にケーキが食いたくて、なんだよ」
「ほな、一緒に行こうや!」
断る理由なんぞ、どこまで行ってもない。
路地裏を出て、メインストリートに戻った。
「行きたいカフェなんかは、あるか?」
軽く振ってみると、忍は、指を一本あごに当てて、上を向いた。
「んー、特に思いつかへんなあ。気分的には、ようかんと煎茶やねんけど、センセとおるのに、コンビニで買うんはもったいなさ過ぎるしなあ? うーん?」
「絶対にケーキは食いたくないか?」
「そういうわけでもあらへんよ? ウチも、洋菓子が嫌いなんとちゃうし。一つ確かなんは、あんまり高級すぎるカフェは落ち着かへんってぐらいで。せやね、あの辺やったらええかも?」
彼女が指さしたのは、恐らくこの界隈じゃ一番安いであろう、チェーン店のカフェだった。
欲がないな。らしいと言えばそうだが。
「逆に、センセ的に、こだわりとかある?」
「いや、俺もない。じゃあ、あそこにするか」
そんなわけで、その安いカフェに、二人で入った。
店内。ショーケースに、いろんなケーキがある。
直感で、ミルクレープを頼むことにした。飲み物は、ソイラテにしてみる。
忍は、レジ横のカゴにあった、バームクーヘンと、ストレートティーをオーダーした。
セルフ式なので、品物が乗ったトレイを手に、向かい合って席へ着く。
「……おやつ食うんに、いただきます、はいらんわな?」
「それは俺も、聞いたことがないな」
変なところを気にする、忍だった。
もしかして、普段は言ってるんだろうか。それならそれで、逆におかしい気がした。
「ほな、いただきます」
結局言いつつ、彼女がバームクーヘンの袋を開けた。結構勢いよくかぶりつく。
俺も、ケーキに手をつけ始めた。
能動的に甘いものを食うのは、ずいぶん久しぶりな気がして、やけに美味かった。ソイラテは、シロップを入れずに飲んだ。
少し、互いの様子を伺うような空気が流れた。
チラチラと感じる視線が、いやにくすぐったい。
変にさっきの路地裏での一幕があった分、この子を意識するなって方が酷な話だった。
いや、待て。教え子相手だぞ? それに、真虎への義理を忘れるな。
いくら真虎がもういないとは言え、そうそうたやすく「鞍替え」するのは、いかにも軽薄だろう。
……そうは言っても、今、俺がこの子のことをどう思っているか? を問われたなら、好きだ、とは言える。
しかし、それは「教え子として」だ。
そんな思いが顔に出たのか、なんだか不満そうな声がした。
「……意外とガンコやね、センセも。まあ、しゃあないところもあるけど」
「ど、どういう意味だ?」
「そんなん、センセ自身が、よう分かってるんとちゃうん?」
すっかりこっちの心境を読んだ風の、困ったような声が続く。
いかんな。別に今、この場を無理に盛り上げる必要はないにせよ、この子に対して失礼であることは、さすがに分かる。
しかし、どう話を転がせたものか? 考えていると、忍が言った。
「まあ、ウチも、不必要にセンセには踏み込めん。しゃあけど、これは覚えといたって? ウチは今、ごっつ気分がええねんよ?」
「そ、それならそれでいいんだが。えーっと……」
「いややわあ、そない難しゅう考えんでええやん? 普通に話しようや」
分かってはいるんだが、じゃあその「普通」って何なんだ? と思ってしまう。
「センセ」
「えっ?」
「センセのこと、ウチに教えたってぇな? 考えてみたら、ウチ、知っとるようで知らへんし。なんでもええんよ。例えば、好きな食いもんとかは?」
忍に気を遣わせてしまったことが、かなり申し訳ないが、思考が振り出しに戻る前に、話を合わせよう。
実際俺も、自分のことをこの子に教えていない。
「割と手軽だよ。肉と米があれば、だいたい事は済む。ありふれてるが、鶏の唐揚げは、無限に食えるな」
「クスッ、いかにも野郎やなあ。ガツガツ食う姿が、目に浮かぶわ」
面白そうに笑う、忍だった。
そうなんだよな。こんな些細なことも、教えてない。必要がなかったからだが、今は、この子に知ってもらいたい気分だった。
「忍は? スイーツの好みは聞いたが、普通のメシはどうなんだ?」
「ウチは、割と何でも食うなあ。特に、て言われたら、センセとは逆に、魚が好きや。サンマの塩焼きがあったら、なんぼでも食えるわ。あ、シイタケだけはどうも苦手やねんけど」
「お、俺と同じだな。シイタケって、不思議だよな。出汁でなら飲めるんだが、本体がダメなんだよ」
「それ、めっちゃ分かる!」
とまあ、実に当たり障りはないが、互いのことを知るという意味においては重要な雑談を、主に転がした。素直に、楽しかった。
「あ、せやセンセ? 連絡先、教えてくれへん? あかんかったらしゃあないけど」
「いいぜ。LINEで構わんか?」
「うーん、前に言うたやん? ウチ、スマホは苦手なんよ」
「おっと、そうだったな。悪い」
そんなわけで、忍と電話番号を交換した。
我ながら、真虎以外の女の子に連絡先を教えることになろうとは、思わなかった。
測ったわけじゃないんだが、小一時間程が経っていた。
ケーキもドリンクも、とうにない。揃って、カフェを出た。
「センセ、これからなんか用事あるん?」
期待している調子だった。なんだか、つれなくするのが申し訳ない。
実際、ケーキを食うという目標が達成されたら、その他に、これといった他の用事はない。
軽く遊ぶか、と思っていた時だった。
「あれ? あそこにおるん、稲垣センセちゃう?」
忍が、俺の服を引っ張った。
指さす先を見ると、確かにそうだ。だが、女連れだった。
向こうも、こっちに気づく。
「こんにちは、稲垣センセ」
「やあ、滝さんと、オマケ男」
ムカつく。誰がオマケ男だ、誰が。
しかし、奴の隣にいる女性。ものすごい美人だった。
浮世離れしているほど、もっと言えば、巨匠の絵画から抜け出して来たような美貌だった。まさか?
「稲垣先生、そちらの女性は?」
「フッ、決まってるさ。僕の妻だ」
ふぁさっと髪をかき上げ、自信と余裕たっぷりに言い放たれた。
嫉妬する以前で、ただ、あまりの神の気まぐれに、あ然とする他はなかった。
もう一つ、あ然としたことがある。それは、奴の私服姿だった。
ピエロだった。
どこをどう考えても、サーカスにいる、ピエロの服装だった。
しかも、ペアルック。
ファッションセンスが残念とか言うよりも、ギャグにしか思えなかった。
しかし、本人達は、何らの疑問も持っていない様子だ。つっこむ気さえ起きなかった。
「東郷先生は、滝さんと交際でもしているのか?」
「違いますよ。たまたま、そこで会っただけです」
いかに今、忍を憎からず思っているとは言え、正式に交際しているわけじゃない。現時点での事実を述べた。
「むー……」
だが、当の忍は、何やら憮然とした表情だった。
「ふっ、よく分かったよ」
何やら薄気味悪げに、口元を吊り上げる稲垣だった。何なんだ?
「さて、君の野蛮さを、妻に伝染させたくないのでね。失礼するよ」
明らかに小馬鹿にしくさった笑みを浮かべ、稲垣夫婦は、悠然と去って行った。
「ネタが服着て歩いとるんもせやけど、嫉妬すらさせへんレベルの美人さんって、おるんやねえ」
忍の意見には、心底同意したかった。悪い冗談のようだった。
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