無題.7
俺たちは、お互いに言葉をひとつひとつ丁寧に選びながら話をした。ここまで言葉というものを繊細に脆く感じたことはないかもしれない。
伝えたいこと、感じたいこと、言葉では少しも表現をすることができない。思ったよりもずっと。ずっと。ずっと、言葉は不十分なような気がしてならない。
日々の流れるような、情報の通り道のような存在になっている現代人とは違う。確かに言葉を使い、君を見つめている。言葉という存在にもどかしさを覚えながらも、しっかりと向き合っている。己という存在に正面から向き合っているような気がしている……
言葉と君と。その有限でありながらも無限のように繊細な表情をみせる、側面としての君を。
俺は可能な限り、努めて感じようとする。君の心を。すべてを。
……
……
……
ゆったりとした時間が流れている。先ほどまでの張りつめた雰囲気は嘘みたいに消えてなくなっていた。
それはお互いに後ろめたい気持ちを感じて、向き合っているから。一方的に相手を責め立ててはいけないことを理解しているから。もしそのような無意味な向き合い方をしているというのであれば、もうそれは理解することを放棄している。
理解をするという態度は、相手の言葉をまずはそのままに受け止めること、立場を一元的にしないこと、要するに人として、という極めてアバウトな人徳をもってして初めて成立する困難な態度でもある。
しかし、それを得てして人間は獲得してしまう。いや、獲得するといってはいささか語弊がある。TPOにおいてその態度がその人間において具現化している、といったほうが、このどこまでも感情的である人間という生命の特性をよく表していると言える。
獲得した、などといえる存在は、それこそ聖人か、神様くらいしかいないのだろう。そこまで人という生き物は完全ではないことなど、子供から大人になった生き物であれば誰でも知っている。
大人という生き物は理想論を馬鹿にして恥じらいすら覚えるにも関わらず、平気でその理想論を子供に押し付ける矛盾した生き物だ。
しかし、だからこそ俺たちは正しくあろうと思えるのかもしれない。そんな矛盾した生き物であるからこそ、人を正しく見ようとし、人と正しく関わっていこうと思えるのかもしれない。そして、その過程で俺たちは自分自身を見つめざるを得ないのかもしれない。
全ては過程だ。過程にこそ、大切なものがあるような気がしてならない。完璧である、すなわち神様と呼ばれる存在には過程がない。過程など必要がない。あってはならないのではないか。
俺たちが元から完璧な存在として生まれてきているものならば、はなから神様などを存在させようとも思わないのだろう。
……
……
……
俺は君に心のままに、話し続けた。
本当は何をしに大学に行ったのかよく分かっていないということを。研究室で意欲的にテーマを見つけて先輩たちと切磋琢磨しながら、日々のなかで勉強をしつつ頑張っているということを。そしてそのなかで、実は自分がどこに向かっているのかさっぱりわからなくて、不安な気持ちでいっぱいになっているということを。夜も眠れず街中に繰り出すことがあるということを。何も目的がないのにもかかわらず。ずっとずっと、ただただ歩き続けているということを。ひたすらに、我武者羅に……
君も心のままに、話してくれているように見えた。
保育園の実習が大変なことを。将来の不安が大きくなって逃げ出したくなっていることを。でもどこへ逃げればいいのか分からないでいることを。だから時々、死ぬことを考えているということを。でも考えているだけで、少しも足は動こうとしないことを。そんなことをしているうちに、あなたがどんどん遠くへ行ってしまうような気がして、さらに不安になってしまうということを……
君と俺は、交互にそんなことを繰り返し、繰り返し、話した。言葉を時と空間のなかに置いた。ただそれだけ。相槌をうちながら、しゃべりたいだけお互いに喋った。泣きたいときは泣いて、瞳を見れるときは見て。そんな、たどたどしい会話ではあったが……
それが俺たちの初めての会話だった。通じ合っているような気がした会話だった。そこには完璧になれない俺たちの拙い対話があった。わかり合う、理解しようとするための過程があった。
……
……
公園から見える遠くの漁船。真夜中に浮かぶ一筋の光。月明りのない深夜の時分。それはかなりの存在感を示して、まるで俺たちをどこかへ誘っているかのように見えた。
俺はどこに向っているのだろう。大学へいって就職して結婚をして子供を産んで子育てをして……
その大衆的な流れのなかで、俺はどこに向っていくのだろう。ぼんやりとしている。とても、とても将来が不鮮明にうつる。
どうしてか。それはどうしてなんだろう。
……
……
……
そうだ。俺は無意識のうちに、君を手放していたんだ。俺の人生のレールの上から君を放り出していたんだ。知らず知らずのうちに。心のなかと現実とでちぐはぐになっていたんだ。
ちぐはぐ?
どうして、ちぐはぐになってしまうんだ。一緒にいたいという気持ちがあればそれでいいんじゃないか。どうしてだ。君を愛しているだけでは、どうして一緒にいることができないんだ。
……
……
そんなこと、もうとうに分かっている。人生が分散を始めたんだ。みんなの人生が狭い場所から広い場所へと、舞台を変えた。歴史的に見ても、それはごくごく最近のこと。
そして俺はそのお手本のように故郷から抜け出していった。まるで教科書に出てくる歴史の流れに従うように。自然と、するりと。生きる舞台を、価値観を時代に飲み込まれていった。
凄まじいスピードで、多様性という価値観をもちながら、それは分散を始め……。自然淘汰の産物であるペアとしての生命たちは、それに翻弄され……。
俺たちはその新たな環境下におかれ、自然ならぬ文化的淘汰にさらされ始めた。時代の流れ、激流のなかで。教育のなかで。価値観のなかで。自由という凄まじい強制力のなかで。
自由に生きられることを幸せと思いながら、みんなしてまた昔とは性質の異なる、新しい苦しみを感じるようになった。自由という環境のなかで生きることの問題に直面し始めている……。いやそうなってすでに久しいといったほうがいいのかもしれない。
だから俺は自分がどこに向っているのか、わからないんだ。何が正解で何が間違っていて、結局自分はどうありたいのか、どうあるべきなのか。
そんな自分という存在が、選択肢が広がるだけ広がった現代という、管理された自由という名目のなかで、どうしたら幸せに生きることができるのかという、月並すぎる悩みに翻弄されているんだ。
現代人は考えすぎているのかもしれない。忙しいと言っているわりには、そんな悠長なことを考えるだけの暇があるのかもしれない。しかし、それが今の文化だ。時代だ。そのなかで生きるしかない現代人の定めだ。
俺は。
俺は……
いま、どこにいるんだ。
何をしているんだ?
俺は、
なんだ?
……
……
……
目の前には生まれ故郷の自然が広がっている。
昔と少しも変わらないであろう、雄大な自然が広がっている。
そこに、ぽつんと二人。
二人……
自然のなかを彷徨うふたり。二人はどこに向っていくのだろうか。
STRAY SHEEP.
何かを、何かを求めて……
……
……
……
お互いにすれ違ってしまったことを果てには認め合った。
時が過ぎ去っていった。
【続く】
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